典顧堂日月鈔 on blog

日記というか雑記というか…… 人様にお見せすることを前提とはしておりません。

微妙に眠い件

2007年05月01日 22時28分28秒 | Weblog
5月3日と5月4日の宿の予約を完了した。
東海道踏破で、初めて宿泊を交えた行程となる。
天気"予報"はよいらしいが、あまり暑くなりすぎても困るし。
往路は夜行バスの予定だったのだが、あいにく一杯だったため、始発の新幹線を予定。東京-静岡間自由席で5670円もするのであるが、先日、那覇のというところのステーキ屋で、どうしても沖縄の和牛を食べたくなって、オーダーしたのが沖縄県産和牛ロース3等級 250g 5,800円だから、あの高い(割には、あんまりおいしいとは思えなかった)牛肉よりも安いと思えば……
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2日間だけ会社行くのがかったるい件

2007年05月01日 00時00分07秒 | Weblog
羽田から、意図的に乗る電車を間違えて、京急川崎に行ったのであるが、目的を果たさずに帰宅。千葉ロッテ-西武戦に大嶺が登板していたのをNHKで見ながら、そのまま寝て、起きたのは20時過ぎ。夕飯喰って今に至る。

そんな流れとは関係なく、ふと思い出したので記しておくが、「沖縄戦」というと、沖縄本島全体が戦火に包まれたというイメージだったのであるが、北部、とくに山岳地帯は当時マラリアの発生地帯で、ほとんど日本軍はいなくて、中南部の住民の疎開先となっていたそうだ。4月1日にアメリカ軍が読谷~嘉手納に上陸してから、半月ほどで北部は占領されて、5月7日には収容所で学校が開設、早くも「戦後教育」が行われたそうだ。まだ中部では激戦が続いていた頃である。日本軍が南部に逃げていったのは、南部には天然の洞窟が数多くあって、そこに隠れてゲリラ戦を展開するためだったそうだ。ひめゆりの悲劇のひとつも、洞窟だったわけだが。
で、その「ひめゆりの塔」の洞窟は、戦後、が売れて、映画化されて、有名になりすぎたために、洞窟にはしごをおろして入場料を取るような不逞な連中が現れたりしたそうだ。だいたい、本の作者の石野径一郎は、直接取材したわけではなく(そう簡単に沖縄に行ける時代ではなかったわけであるが)、ほとんどフィクションで書いたそうで、そういった諸々のイメージ先行状態をなんとかして、事実を伝えていきたい、ということで、資料館が造られたわけである。やっぱり、人間だったら、ここは絶対に訪れるべきだと思う。今だったら、生存者の生の声を聞くことができるのだから。
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