a letter from Nobidome Raum TEE-BLOG

東京演劇アンサンブルの制作者が、見る、聞く、感じたことを書いています。その他、旅公演や、東京公演情報、稽古場情報など。

大湊からの手紙。

2012-02-26 13:17:48 | 東京公演
大湊の浮島丸殉難者を追悼する会、
関係者の方から、
FAXが届きました。
非常に、今回の公演とリンクする部分があり、
ブログでご紹介します。




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東京演劇アンサンブルの皆様
そしてチョン・ボックン 様へ

2月25日、地吹雪の下北半島からの発信
「浮島丸生存者 張永道氏(当時大湊小5年)を招く会」
会長

舞鶴の方からチラシをいただき皆様の「荷」の公演を拝見したいと思いながら、
今日も、ここ「本州最北端の地」下北半島は陸の孤島と化しております。
今月初めの地吹雪による国道の渋滞状況は、全国的なニュースにもなりましたが、
以前、私も同じ経験があり、冬の旅行は二の足を踏みます。

さて、この度の「荷」に込められたテーマ、とても興昧深く受け止めております。
私と浮島丸事件を結び付けたもの、それは浮島丸とともに舞鶴湾に沈んだ叔父の蓄音です。
25歳で硫黄島で玉砕した叔父の持ち物なのですが、
当時、国内に百万台近く普及していたというラッパのついた蓄音機。
これを我が家の近くで高射砲陣地の壕を掘る作業をしていた朝鮮人の方(おそらく請負業の責任者、もしくは徴用工のリーダー)に、
浮島丸に乗って帰国する際「家族の土産にしたい」と請われ、
祖父がその申し出に応えたものらしいです。
事件の後、「浮島丸は沈み、その方は亡くなった」と報告に来た朝鮮の方二人が、
我が家(粗末な番屋でしたが)に泊まっていったことも母から聞かされました。
浮島丸事件について地元で「掘り起こし活動」に取り組もうとしていた矢先、
自分の足元にそれがあったことに驚き、
地元の『劇団未来半島』が我が家をモデルに『七軒番屋の人~浮島丸爆況前後』という演劇が作られ、
二日間にわたって公開されたことを思い起こしております。

その後、私自身の入退院の繰り返しや、
戦争未亡人の母の人生の最終章を濃密に過ごそうと介護に専念しておりましたので、
浮島丸事件の取り組みに長いブランクができてしまいましたが、
今また、生存者のお一人張永道氏夫妻を下北にお招きし、
それを機会に地域の皆さんの記憶を呼ぴ覚まそうと活動を再開したところです。
「浮島丸にたくさんの子供たちが乗っていた!!」
―それを知ったことは教師だった当時の私にとって、
大変な衝撃でした。
しかし、韓国のその方が、そしてその方と同世代の人々が地元にまだたくさんいることを足がかりに前に進める、
そんな気持ちで八月二十二日の浮島丸大湊出港の日に張永道氏(77歳〉をお招きし、イベントを行おうと計画しております。

皆様の公演の成功を、雪深い下北の地から祈っております。
私たちの取り組みも応獲してやってください。
最後に、チョン・ボックンさんに宣しくお伝えください。
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