ことばにならない風の声

今日もどこからか風はやってきてやがてまたどこかへいくだろう。
何に向かっているのか己でさえもわからずに、、。

AIとは、、

2019-03-15 20:58:28 | 日記

AIとは、、

ウィキペディアからの引用のもの

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人工知能(じんこうちのう、(英: artificial intelligence、AI)とは、「『計算(computation)』という概念と『コンピュータ(computer)』という道具を用いて『知能』を研究する計算機科学(computer science)の一分野」を指す語。「言語の理解や推論、問題解決などの知的行動を人間に代わってコンピューターに行わせる技術」、または、「計算機(コンピュータ)による知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野」ともされる。



誤解を恐れず平易にいいかえるならば、「これまで人間にしかできなかった知的な行為(認識、推論、言語運用、創造など)を、どのような手順(アルゴリズム)とどのようなデータ(事前情報や知識)を準備すれば、それを機械的に実行できるか」を研究する分野である。








いやー、夕飯終わってパッとつけたテレビのBS1でやってたものが、「衝撃の書 私たちの未来は ホモ・デウス」とかなんとかいう題で、題名は結構あやふやです。


驚いて驚いてびっくらこいちゃった。

というのか、今現在こんなんなんや、そしてこれから先ってほんま、わたっしゃには全くもって遠いように思うようなものだけど、これが現実にあってこれからはほんと未知やーと思いました。

こわいですよ、ほんと。



全部で20分も観ただろうか、つけた頃には番組の最後の方だった。

つけた瞬間流れてた話も話の途中で曖昧ながらも、驚いた。


研究している方でしょうが、頭の中にチップを埋め込むことによって、脳に学習させると、ある信号がチップから発信され送られることによって、例えばだけど、外出しながら、自宅にある機械の両手が勝手に家でお皿を洗ってくれている、というもの。

今だって、外出先からスマホでエアコンつけたり消したり操作できるんだもんね。


他にも、例えば、まだ線ありきで話してはいたけども、脳の神経とつなぐことによって、目が見えない人に、デジカメのレンズ越しの映像を直接脳の視覚神経につないで、そのカメラが目の代わりになったり、マイクが耳の代わりになったり、する。

これ、もう人で実際に実験してる。

ほんとにこんなことになるんだと、攻殻機動隊じゃないけど、ほんとなんだね。

本当にそんなんがあり得るから、ああいうSFは嘘から生まれないっていうか、現実的なのだ。


そういうのは、アニメの中のこと、空想のことって思ってた私ですが、いや、これはこの先そんなだね。



これもアニメだけど、 あるアニメで、SFですが、警察がなんか特殊な銃を持っててだっけ?これも曖昧、笑 その銃を人に向けると画面にその人の精神的なものを汲み取った犯罪しそうなパーセンテージみたいなものが表示されることによって、犯罪の前に逮捕できる?だったかな、、

なんかつまりだから、正常か異常(パーセンテージが標準値を超える)で人々は判断されるとかなんとかな、それも言えば、AIによって一人一人が支配されてる、社会全体の監視になってる、ようなもの。


そういうことが、今の番組で言えば、もう中国はそれに近いのかもしれない。

どこまでどうだかわかったもんじゃないが、都会の一部でしょうか、スマホを持つ人ならもうみんなそんなことなのだろうか。


中国のとある企業が、スマホで何でも人々は支払いやら交友関係やら、返済義務などの管理をしているから、AIにその人のそういったもろもろの履歴を読み込ませて、性格の信用度を判断してもらうアプリというのを開発した。

それはスコアで、点数で700とかで出るもんだから、それを若者はほとんど使ってるようで、というより就活にまでその数値を提示してて、雇う側はもちろんその信用度の高い方を選ぶ。

その数値も、公共料金の滞納があったり、公共の自転車の直してる場所が白線より出てたら減点とか、高級レストランで食べてたりしたらプラスとか、そんな判断がされるらしい。



今人手不足の中小企業は、AIを導入するとしたら、そりゃたくさんの人よりもそのAIさえ、プログラムさえあれば、それが大勢の人より断然早い計算能力で、この企業との連携は近い将来損か得か、ということまで計算してくれて、質と効率を高める存在となる。


またあるネットベンチャーの会社は、みんなバーチャルのあの3Dのでっかいメガネを装着することで、バーチャルの世界の中にある会社に出勤する。

そりゃネットだから、世界各国に会社の同僚はいて、けど、一応みんなそのバーチャルの中でアバターとしての自分がいて、その中で周りとコミュニケーションしながら仕事をしてる。

そのバーチャルの会社の中には、バーもあって、仕事終わりにそのバーで飲み食いしながら喋るんだとか。


3Dメガネをかけたら本当にちょっとリアルにその空間に入った感覚になるだろうよね。



今実際に人と出会うことが怖い人とかは、(それは3Dメガネはもちろんないけど、まだ高価なものでしょうし、一般的には普及してないよね、)インターネット上でアバターを持って、人とコミュニケーションできるし、家や服や髪や顔や小物から、なんでもいろいろ選んでアバターを作る。

ゲームも段々とインターネットをつなげるから、そんな感じでアバターを作って、ってなってる。





人というのは、意識という主観的な、感情的な喜怒哀楽と、知能という問題解決する能力の2つを持つが、AIは、もちろん、知能にだけ特化されたもの。

そうなると、人間至上主義でやってきてAIが問題解決のための手助けとなるぐらいで済んでいたものが、いつかは、その人間至上主義がデータ至上主義に変わる時代が来るだろう、という。

そうした過程には、人は構築者からチップへと、ゆくゆくは、はてしない膨大なデータの中に溶け消えていくだろうと。


それを言うのは、その、サピエンス全史とかいう本を書いた、ユヴァル・ノア・ハラリさん。

ホモ・デウスとかいう本を書いたらしく、その番組だったわけだが。


ホモ・デウス 神の人、ということらしい。


こういったAIを駆使したり、遺伝子工学を取り入れた人類をホモ・デウスと呼べば、それに乗り遅れた人類を無用者階級と呼ぶ。

つまり、そのハラリさん言ってたけど、今の人類が石器時代の人類と出会ってもお互いさして違いはない、身体も精神もそう違わないらしいが、もしこれから、そういったホモ・デウスが進めば、そりゃ全く違う人と言うしかないだろう、と。


言えば、頭の中でイメージするだけでああいった戦闘機を自由自在に操縦して攻撃することも可能ということらしいから。

相当の破壊力と計算力、データ把握力を持つ人が存在することになる、ということらしい。


いつかは、脳に人工知能が組み込まれたマイクロチップを埋め込んで、それはもちろんインターネットが通じてて、そんな人類が出てくるのかもしれない。

今だって体の中にペースメーカー入れたりもしてる。


そのマイクロチップのこと、アメリカのDARPAとかいうところが、研究してるらしい。

というかもうできてはいる。

近い将来記憶がなくなるおじいちゃんおばあちゃんとかはいなくなる、かもね。



いや、本、どちらも読んでないし、パッと番組の終わりを見ただけども、なんかすごい時代に突入してきているってことだけは言えるのだろうと思った。


ハラリさんもこれから先の子どもたちが生きる未来は、全く予想もつかない、どんな職業に就いてどんな人々の絆が存在してるのかわからない時代だと言ってた。

そう言われたらこわくなってしまった。



彼は、どうしたら良いんでしょうかっていう質問に、ありきたりかもしれないけど、最も大切なことは、自分自身を知ることだと言ってた。

今は、AIが自分以上に自分を知ってる存在として認知されつつあるけれど、自分以上に自分を知る者はいない、自分の頭の中は誰にも見れないのだから、自分の心はどんな声を発しているのか、それに耳を傾けて、自分で深く考えていくことが大切だって。


人工生命体を作ってる人も、まだ十分に人間が何たるかを理解できていないから、自分が人間であることを大切に、情報を重視しすぎず、自分で感じ考えることが大切と言ってた。



この間人と話してて、面白かったのが、その人最近新車に変えたんだとか。

すると、以前のボロ車、我らのと似たり寄ったりだけど、CDのもついたり消えたり、とか、うちのなんて、右の窓、開いたり開かなかったり、つまりは、閉じなかったり、する。笑

そのボロ車の方が全然よかったと、言う。

今の人たちは鍵もいらないで車乗ってるなんて知らなかった!と。

その新車らもう鍵とかじゃなくて、押すボタンのやつだし、ドアも手の指紋?か何かピッと触れたらロック解除される。

今家の玄関もそうらしい。

しかも、助手席に荷物置いたらピーピー鳴るんだと、助手席にもシートベルトしてくださいって。

やったら、うるさくて、走れたらいいんですけど、って思ったって。

洗濯機とかも洗えたらいいんですけど、って、
炊飯器もそんなかためとか柔らかめとか、いらないし、ふつうに炊けたらいいんですけどって。

なんか笑っちゃった。

そうですね、って言いながら、考えたら、本当に選択できること、自分好みにカスタマイズできること、それは当然みんなやってるし、効率良くだったり、質良くだったり、選り好みしたいしする、のだけれど、それができるからじゃー最高なんかって、それが素敵なことなんかって言ったら、そうとも言えないと思う。


そりゃー、私だって、良い感じの素敵なものと、なーんかどうでも良さそうなてんで魅力のないものだったら、自分にとって素敵なものを選ぶ。

けど、なんかね、そうさせてくれないっていう状況を受け入れてる人って強いなぁというかたくましい、ある種のすがすがしさを感じる。

懐が広いというのかな、自由なものを本人が心の中に持ってる気がする。

と、言っても、選んだ上での諦めた上での不自由さとはじめからどうしようもないほどの不自由さってのもあるけど。


いやー、、なんだろ、ごちゃごちゃです。

とにかく、私あほでおっていい場所にいてよかったなぁと思った。

だし、もっとあほでおっていいよーって言いたい。

あほの取り方もそれぞれだろね。

のほほんと、自分で自分に自由を持たせてあげたいというか、

それが人にもそうであれたらいいけど、難しいことだなぁ、

のほほんと言っても、ぼーっとしとりゃええとかじゃなく。

心の話。

そうありたいなってことだね。

つまりは。

努めないとなりませぬ、多分。