青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

長野電鉄、名車のアルバム。

2023年02月04日 10時00分00秒 | 長野電鉄

(栗の街 静かに眠る リンゴっ子@長電2000系)

久し振りに、小布施駅の「ながでん電車のひろば」に置かれている長電2000系D編成を見に行ってみました。平成24年3月の引退以降、この場所へ安置されて早や10年。あの2000系のシンボルとも言える鹿ピョンヘッドマークがないのでどうにも締まりがない顔なのですが、いたずらや盗難のリスクを考えると仕方がないのだろうか。おへそを取られた表情の中、何も飾られる事のないヘッドマークステーだけが寂しげ。

D編成は長野側の2008号車だけは中に入る事が出来るようになっています。そう言えば、末期の頃は2000系も満身創痍で、車輪は擦り減って走るのにギリギリの状態でフラットが酷かったし、座席の接合部は何だかガタガタしてたし、モケットはへたり切っていてガッサガサだったなあというのを思い出した。当然その状態のまま10年以上が経過しているので、あの時以上に椅子のガタつきは目立つし、モケットのガサガサ感は増していたのだが、座席に掛けられた白いヘッドカバーだけが日車ロマンスカーらしいプライドを保っている。お世辞にもいい保存状態とは言えないが、こうやって屋根掛けの場所で静かに余生を送れているだけ幸せな電車なのかもしれない。

そう言えば、最後まで同僚として走っていた2000系のA編成は、信濃川田の駅で「(保存車両を含めて)鉄道公園として整備する」という話だったのだけれども、何の計画も進まないまま放置されていたなあ。これは「どうせ解体になっちゃうんだろうし、バラされる前に一回は見ておかないと・・・」って思って飯山線帰りにA編成の最後を見届けに行った際の姿。塗装は剥がれ放題だわ、ガラスは割れるわで大変に惨めな姿になっていたのを思い出す。一部の電車と機関車には引き取り先が見つかったものの、結局A編成は引き取り手もなく解体処分となったのだが、あの姿を見るとむしろとっとと解体されて良かったのではとさえ思える哀れな状態ではありました。

時は夕方近く、ひんやりとした善光寺平の冬の空気が車内を支配していました。運転台の窓から夕陽が車内に差し込んで来て、少しホコリの積もったリノリウムの床を照らす。黄昏時の光は、何となく往時の思い出が車内から蘇ってくるようなシチュエーションで、目を閉じれば、湯田中や渋に向かう温泉客や志賀高原へ向かうキャンパーやスキーヤーの楽しそうな声が聞こえてきそう。湯田中駅到着時のメロディ「美わしの志賀高原」の世界だ。

名古屋・日本車輛・昭和39年。長電の2000系は、1957年に同じ日車で製造された名鉄5000系の影響を大きく受けているとされます。確かに湘南二枚窓、車体四隅のカーブの付け方なんかは良く似ていて、兄弟車と言っても遜色ないほど。長野電鉄は戦後は一貫して自社車両の製造を日本車輛製造(東京支店・名古屋支店)に委託していたのですが、1980年の10系OSカーの新造を最後に自社発注を行っていません。厳しい時代なのは重々承知の上で、令和の時代に長電がプロデュースする自社発注車を見てみたいのですがねえ。

栄光の「特急・湯田中」の文字。この文字と鹿ピョンヘッドマークを追って、雪の長野に2000系を追った日々が蘇って来る。個人的には、ゆけむり=A特急、リンゴ塗装・マルーンの2000系=B特急の平成18年~22年頃の体制が一番好きだったかな。ゆけむりが来る前の旧塗装時代の2000系って、湯田中駅にある「楓の湯」とかの車体広告とかが入っちゃっててちょっと撮るには難ありだった記憶があるんで。

新装なった村山橋を通過するD編成。平成22年1月。前年の秋に新橋に架け替えられたんだったっけかね。いつも撮り鉄はないものねだりなので、ああ撮っておけばよかったこう撮っておけばよかったとなりがちなのだけど、長電2000系に関しては、末期とは言えその魅力に気付いて間に合って良かったなあと思うくらいには付き合えた被写体であったと思う。まごうかたなき信州の、いや地方私鉄の名車であったことに疑いない車両です。


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