青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

西毛に、独立独歩で生きて来た。

2024年02月09日 23時00分00秒 | 上信電鉄

(こちらも貴重な自社発注車@上信6000系)

単行運転が可能なデハ250系列に次いで、自社発注車の6000系がやって来ました。昭和50年代中期、まだまだ地方私鉄に元気があって、投資意欲も相応にあった頃に、新潟鐵工所で肝入りで製造された新型通勤電車です。その頃の上信電鉄は、世の中がクルマ社会へと変貌して行く中で群馬県の補助金を利用した近代化を進めていて、下仁田~高崎間に準急・急行を設定したり、2ヶ所の信号所(新屋・赤津)を整備して交換設備を増設したりと、スピードアップとフリークエンシーを高めて利用者の回復を懸命に図っていました。上信電鉄で一番輸送人員が多かった時代は昭和40年代前半の頃で、その当時は年間800万人を輸送していたのだから驚く。この6000系が出た頃くらいに上信電鉄は年間輸送人員が500万人を切りつつあり、経営陣にもかなり危機感があったのだろうな、ということが伺い知れます。まあ、現在が約220万人だからピークの4分の1になってしまっているのだけど・・・

馬庭から上州福島の駅へ移動。駅からぽてぽてと畑道を歩き、見晴らしの良い田園地帯に出る。コロナ以降、日中が一時間に一本に間引かれてしまって電車で移動しながら撮るのがやりづらくなってしまった。それこそ「孤独のグルメ」では、下仁田駅で帰りの電車を乗り逃してしまった五郎さんが、正名僕造扮する駅員さんに、何度も「次は、30分後ですね」と電車の時間を念押しされるシーンがあるのだが、そう思うと、まだその時は上信電鉄は日中でも30分ヘッドだったんだよなあ・・・この日は終日運用のコーラルレッド。かつての150形や200形が塗られた、この絶妙なダサ感のある塗色は、なんでも経費節減のための一色塗りだったのだとか。

下仁田から折り返して、デハ251+クハ1301のコンビが戻って来ました。冬枯れの田園、色のない時期にひときわ冴える上信ストライプ。このストライプというには正確に言えばホチキス型、いや、ありていに言ってしまえば毛抜きのカタチであるのだが、何にせよ「ディス・イズ・個性」という感じがする。トレーラー役のクハ1301を押しながら、西上州の風景の中をガッタンゴトンと走り抜けて行くその姿。奇しくも6000形とこのデハ250形は1981年製造の同期の桜。地鉄の14760形や、長電の新OSカー(OS10系)などと同世代で、ちょうど、大手私鉄からの中古車両の大量購入で地方私鉄の在籍車両が一斉に塗り替えられる少し前の・・・地方私鉄における自社発注車の最終世代の生き残りでもあります。

上信電鉄に関しても、この6000形とデハ250形の導入以降は、西武鉄道からの譲渡車による車両補充が設備投資の中心になりました。西武451系を改造して導入した150形の廃止以降は、現在の主力車であるJR107系の導入を実施するなど、引き続き譲渡車による車両更新を進めています。それでも、富岡製糸場の世界遺産登録を機に、群馬県からの補助金を受けて輸送力増強のため2013年に7000系が製造されており、自社発注車の灯を消さぬ!と頑張り続けているのがポイント高い。上信電鉄は、特に特定の大手私鉄の系列になったこともなく、そういう会社が株主にも名を連ねないという独立独歩の経営体制を敷いており、古く120年の歴史をさかのぼる上野鉄道の時代から今に至ります。筆頭株主が群馬日野自動車ってのが面白いですよね。鉄道会社なのに。

ここ30年程度は、どこの地方私鉄も大手からの中古車導入で車両のラインナップを賄ってきました。しかしながら、大手私鉄の西武鉄道が小田急8000系や東急の9000系の導入を決めるなど、今後の鉄道事業の相対的な費用対効果を見据えて大手私鉄ですら大胆な車両の設備投資には及び腰となっている側面もあります。そんな中、今後は地方私鉄に譲渡可能なまとまった中古車の出モノも少なくなることが予想され、地方私鉄の車両調達と設備投資は新たな曲がり角を迎えているのも事実でしょう。地方私鉄にやむにやまれぬ自社発注車の時代が再び来るような、そんな気がしています。


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