人骨

オートバイと自転車とか洋楽ロックとか

ファー・イースト・マン

2007年11月02日 | 日本史の雑談
ぼくは日本の歴史が好きだ。何故歴史が好きなのかと言うと、廃墟とかミイラといった残骸全般が好きなのと同じ理由からだ。今となってはその名残を留めるだけとなった、盛んであった過去へ、思いをはせるのが好きなのだ。平家物語でいう無常観にも似ている。盛者必衰。ライズ・アンド・フォール。そのあわれさが、どこか心をひき付ける。
歴史というのは、ある意味全部が過去の残骸だ。残骸というのは、決して残滓ではない。素晴らしき仲間たちの、価値ある命の営みの痕跡だ。残骸すなわち歴史の上に我々は乗っかって暮らしている。そして、今日この世に姿かたちをとどめている人の体、彼らの喜びや恨みや涙、手にした道具や、利用した物質、全てがいずれ歴史になる。今この世を生きるぼくたちのことは、いわば時間というタイトルの本の1ページに記されているに過ぎない。それがどんなにばかげていても構わない。とにかく手抜き無くページが埋めてあればそれで良い。1ページで出来ることは1ページ分だけであり、2007年は2007年以上でも以下でもない。繰り返すけど、歴史とは人間の営みそのものにほかならない。どういう時間が過ぎても、それがすなわち歴史なのだ。
歴史から「学ぶ」というのは、ぼくはおこがましい物言いだと思う。先人の歴史から教訓を得られるほど、ぼくたちは偉くも立派でもない。ぼくたちが歴史に対して出来るのは、ただ「知る」ことだけであると言いたい。「歴史は繰り返す」という諺こそなかなか的を得ていると思う。

※ ※

前置きが長くなったけど、日本の歴史を知ること。とりわけここ数年ぼくは古代史への興味が高い。
古代史は、日本人が文明らしいものを持った最初の時期であるから、古くて謎だらけだ。ぼくらのご先祖さまはどうやってこの国の大モトを作ったのか。そいつはジョジョ並みのロマンホラーであるッ!とりわけ古墳なんていう、城砦でもない住居でもない、宗教的・権威的・装飾的な巨大建築がワラワラと作られた不思議な時代に惹かれる憧れるゥ。
古代に関して色んな本を読んできた。読書(小説)はほぼ全くしないぼくだけれど、歴史関係の書籍の読書量は実はソコソコあったりする。史実として明らかなこともあれば、たまに発掘される残骸(歴史的価値があるとして出世魚のように「遺跡」という立派な名前になる)から新しい事実がわかったりもする。事実が分からない箇所については、学界の定説もあれば、さまざまな史料に基づいて自説を唱える在野の研究も多い。同じ出来事も時代によって意味あいが変わることもある。
個人的には、意味なんて後世の人間がとって付けただけで、本当は歴史に意味なんていらないと思う。

そんな中でも尽きない話題のひとつが、日本人のルーツの問題だ。古代史を紐解くうえで避けて通れないテーマである。考古学のほか人類学(形質・文化)や言語学等色々な方面から考証がなされている。詳細は割愛するが(というより、ぼく自身小難しいハナシは分からない)、支配者階級に関しても民衆に関しても、古代において、半島や大陸と大規模な混血やオキカエがあったであろうということは現在では学会でも通説なんだそうだ。
そういや、これまでも何度か紹介してきた故鈴木尚東京大学名誉教授(古人骨のエキスパートで、面白い著作が多い)は、明治維新以降の日本人の高身長化という形質変化を引き合いにしながら、縄文人と弥生人は同一の人種が変化したものと主張していたっけ。だけど晩年はこの考えを改めたと聞いている。
我々日本人の祖先は紀元前後に半島・大陸からやってきた人間と、従来から日本に住んでいた縄文人とのごちゃまぜらしいのだ。少なくとも今はそう思われている。

※ ※

「あ、そう。」
で済めば良いのだけど、民族と国家の問題は複雑だ。とりわけ、最近の日本は中国・韓国に対して悪い感情を抱く人が多い。またその逆も然りと言える。かくいうぼくだって、外人から「おまえら日本人は最低だ」とか言われたら、同じことを言い返すだろう。そういう外人はキライだ。ぼく自身も、中国韓国については一般的な「日本敵視」という悪印象が拭い去れないので、大雑把にいって中国も韓国もキライである。
だけど実際に会う人間となると話は別だ。例えば妻の友人に中国人がいるが、ぼくはその人はむしろ好きだ。彼が親日家だからかも知れないけど、ケンカごしでない相手に対しては、こちらからもケンカする理由は全くない。難しいゴタクはおいておいて、単なる人と人なのだ。
それにぼくら日本人は中華料理を美味い美味いといって食うし、キムチも焼肉も美味しい。食文化については中国も韓国もとっても素敵だと思う(ぼくは犬は食わないけど)。個人レベルと、社会レベルの話とでは、やっぱり違うわけだ。頭ごなしに「嫌中嫌韓」叫ぶ前に、もうちょっと冷静になったほうが良いとは思う。
ということで、この「日本人のルーツ」という話題になると口をつぐむ人や、逆に声高に日本国民の純血性を叫ぶ人とに分かれるそうだ。天皇家の陵墓は宮内庁による管理で立ち入りはおろか学術調査も一切禁止…なんていうハナシも、憶測を呼ぶ原因だ。
俗な右っぽい言い方をすれば、「こともあろうか天皇陛下のご先祖が韓国人だなんて?!」というわけ。
同じく「天皇なんて韓国人なんだから廃止しろ」なんて話も聞く。
あなたはどう思いますか??

ぼくはというと、結論からすれば「どうでも良い」と思います。
どうでも良いというのは、投げやりに「そんなん興味ねーからどうであっても構わない」という意味ではなくって、ナチュラルにどうであっても別に良いのではないですか、ということである。
ぼくはもうちょっと無機質に、たとえば地球はどうやって誕生したのかみたいな視点から話した方が良いのではないかな、と思う。
もし本当に「日本人の祖先は半島や大陸からやってきて日本に国家を作った」のだったとしたら?

※ ※

古代から続く天皇家の歴史というのは、日本という国家の歴史そのものである。これは大変素晴らしいことだ。確かに武家政権下の朝廷の歴史は地味だけど、とりあえず千何百年も脈々と受け継がれてきた王統というもののは、日本国民の歴史のシンボルとして誇りに思ってよいのではないでしょうか?
2000年くらい前の半島と大陸と日本にどういう事情があったにしても、少なくとも8世紀以降は日本には日本固有の歴史がある。天皇家の血筋こそ、その生きた傍証ではないか。
それだけで良い。大王が百済出身だとか呉の末裔だとか、そういうことはどうでも良い。なんら我々のアイデンティティを損なうものではない。問題はルーツではなく、支配体制を軸として日本という国がどのように運営されてきたかなのだ。一般に歴史とはそのように認識されているはずだ。なぜルーツまでが固有のものであり、あるいは隣国に対して優位なものである必要があるのだろう?
ちなみに「アメリカの歴史」ってどうなってるんだろう?英国人入植以前とそれ以後でどう扱っているのか気になる(誰か知ってたらおしえてください)。
幸い日本には、我々のご先祖様がどうやってこの地に落ち着いたのか分からないくらい昔から、日本人が日本人として住んでいた。蝦夷の皆さんにはお気の毒ですけど。これが一般的な日本史の範囲だと思う。

こう考えれば、かつて根っこが繋がっていた日韓両国は、感情論を控えてもうちょっと友好的になれると思うんだけど、どうだろうか。朝鮮半島は、かつては今の韓国とは別の国家だった。「わが先祖は倭国を撃退した!」と胸を張るのだって、ちょっとヘンな話ではないか?日本人にとって嘆くべきことではないし、韓国人にとって喜ぶべきことでももちろん全くない。
日本も韓国も、とりあえず「どっちが先に謝れ」は辞めといて、もうちょっと建設的に研究を深める価値がお互いにあるのではないかな。

※ ※

しかしぼくに限って言えばもっとシンプルで、ルーツが何であっても、例えば縄文人は我々の先祖ではなかったにしても、そこに残骸があればそれだけで良いのだ。墓穴から出てくる人骨は、限りなくいとおしい存在だ。
もしぼくがアメリカ人ならば、ネイティブアメリカンが置いていった残骸も含めて等しく歴史と感じるだろうし、興味の対象とすることであろう。
言葉を変えて繰り返すけど、ぼくにとって歴史は人間の命の営みの証、たったそれだけだ。
歴史という言葉の定義を議論するとキリがないみたいだけど、ぼくは国家とか政治とかそういう歴史の一面を作った人間の「属性」については、あまり気にならない。それらはなべて等しく時間の流れの中の1ページに過ぎないのだから。これは今日現代の日韓関係・日中関係にも置き換えられる。

他方で憎しみあい貶めあうことも人間の性の一つであるからして、とりわけ嘆かわしいことでもないと思う。ただ、ぼくと同じようなことを考える韓国人・中国人がいるのならば、ぜひお友達になってみたいものだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする