MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

文学としての「透明人間」

2023-06-26 00:57:56 | Weblog

 江戸川乱歩はG・K・チェスタトンの短編集『ブラウン神父の童心/ブラウン神父の無心(The Innocence of Father Brown)』に収録されている「透明人間(The Invisible Man)」(1911年)に関して「おそらくポーのこの作品(「盗まれた手紙」)から着想を得たのだろう」としているが、チェスタトンの「透明人間」は、アーサー・コナン・ドイルの「ボヘミアの醜聞(A Scandal in Bohemia)」(1892年)やモーリス・ルブランの『金三角(Le triangle d'or)』(1917年)とはレベルが違うと思う。それはチェスタトンの「透明人間」はH・G・ウェルズの『透明人間』(1897年)とはレベルが違うという意味でもある。
 ドイルやルブランやウェルズは場面を「再現」することでストーリーを紡いでいるのだが、チェスタトンは叙述トリックを駆使し、敢えて書かないことで人物を「透明」にしており、これは修辞技法によるものだからである。
 「透明人間」に限らず、「サラディン公の罪(The Sins Of Prince Saradine)」においても叙述トリックが使われていると言ってもいいように思う。例えば、「アントネッリの眠そうな鳶色の目は、アントニー夫人の眠そうな鳶色の目であり、神父にはたちまちにして事情が半分見えて来たのである。」(『ブラウン神父の無心』 ちくま文庫 p.239)と、サラディン公爵の女中頭と、突然船に乗って6人の従者たちと現れた赤いチョッキを着た褐色の顔の若者との血縁関係を見破っておきながら、サラディン公爵本人に関する詳細は最後まで明かさない著述の仕方も「後出しじゃんけん」であろう。

 以上の観点から三人の作風を一言で表しておくと

  モーリス・ルブラン ー エンタメ
  コナン・ドイル   ー 私小説
  G・K・チェスタトン  ー 文学

 似たような作品として筒井康隆の『ロートレック荘事件』(1990年)を挙げておきたい。
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/rodo/nation/rodo-143220


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