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MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『特集:日大映研・新映研の全貌+「首くくり栲象・方法序説」プレミア上映』 100点

2011-11-11 22:46:05 | goo映画レビュー

特集:日大映研・新映研の全貌+「首くくり栲象・方法序説」プレミア上映

-年/日本

ネタバレ

「日大映研・新映研の全貌」覚書

総合★★★★★ 100

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 鳥の死骸の映像から始まる『釘と靴下の対話』(1958年)は母親に言われて大学に授業料を納めるために出向いた主人公の男が、途中でタバコを吸うためにライターを借りたものの、返すことを忘れてしまい、授業料を入れたカバンを置いたままライターを借りた男を雑木林まで追いかけるのであるが、何故かその男はライターを受け取らずに捨ててしまい、そばにあった線路に立ち、自殺してしまう。主人公は隣の席から回ってくる書類に次々とハンコを押すだけの楽な仕事をしているが、前の席に座っている男は書類を一枚一枚めくりながら悩んでいる様子だった。給料を袋で直にもらった主人公は、気の毒そうなその男の背広のポケットに自分の給料袋を入れて立ち去るのであるが、やはり気が変わって取り戻そうとするとメガネをかけた見知らぬ男に制止されてしまう。メガネの男はある部屋に置いてあった瓶を持ち出すと、別の部屋で寝ている女性の側に置く。主人公はアメリカ人に「ギブ・アンド・テイク」の発音を学ぶ。何度も同じことを言っている内にアメリカ人は「テイク・アンド・テイク」と間違えて言い、主人公は「ギブ・アンド・ギブ」と間違えて言ってしまう。ラストは再び線路に横たわるライターの男のそばで主人公が正体を暴こうとしたメガネの男が自分自身だったことが明らかになる。このように粗筋を書いても、一体何の話なのか全く分らないが、本作のタイトルを内容に沿って記すならば「手と足の対話」となるだろう。足はところかまわず突き進んでいくのであるが、手の方は相手の手となかなかコミュニケーションが上手く取れずに、授業料の入ったカバンやライターを落としたり、給料袋を取り損ねたり、とにかく「ギブ・アンド・テイク」に失敗し続けてしまうのである。最後に主人公が正座をすることで足の動きが止まり、必然的に物語は終わる。
 『Nの記録』(1959年)は、1959年9月の伊勢湾台風の状況を収めたドキュメンタリー作品である。野外で筵で被っただけの遺体が並べられているような悲惨な状況の映像に、笑い声やジャズの音楽を被せている。劇中のナレーションによると、当時北朝鮮の支援を日赤は断ったようである。
 『沈む』(神原寛監督 1959年)もドキュメンタリー作品である。地盤沈下により江東区で起きた事故に遭って亡くなった人の葬儀から始まるが、事故の原因となった地下のガス管を鉄筋に変えることになる。しかし地盤沈下は東京だけの問題ではなく、新潟市でも天然ガスを海水と一緒に組み上げているために地盤沈下が起こり、尼崎市や大阪市でも工業用水の汲み上げで地盤沈下が起こっている。名古屋市や亀戸でも同様のことが起きており、伊勢湾台風でも堤防の高さが問題にされている。「私は貝になりたくない」という貼紙が印象的。
 『プープー』(1960年)の「プープー」とは口で空気を送ると音をさせながら丸まっている紙の筒が棒状に伸びるおもちゃである。卵のようなものを潰す映像から始まる本作は、最初は素っ裸の2人の男が隣り合って眠っている。女は早々に線路に飛び降りて自殺してしまうが、男は死んでいる(?)男を担いで、彷徨う。その男に石膏を塗ってマネキンのようにしようとするが、男を運んでいた男も死んで(?)しまい、多くの子供たちに運ばれて石膏を塗られる。イノセンスの喪失が描かれていると思う。
 『椀』(1961年)は主人公の男が畑で作物を収穫していた時に、母親を惨殺する事件から始まる。何故か主人公は刃物を持つと子供がするように振り回したくなる性格なのである。妹が喪主となって行われる葬儀に男は顔を出すが、たくさんのお椀に盛られたご飯から逃れるようにして出ていく男を子供たちが追いかけていく。妹を先頭にして後を男たちが付いて喪の行進が行われる。主人公の男の「汚れた手」はどんなに洗ってもきれいになることはなく、男たちに抱えられて連れていかれる。儀式の最中に主人公の男は喪主の妹を襲い、今度は主人公の男の後を男たちが付き従う。列の最後で妹が倒れたことに誰も気が付かないまま、行進は行われるが、先頭の主人公が行方をくらませると、列をなしていた男たちはバラバラに彷徨することになる。本作もイノセンスの喪失がテーマだと思う。
 『恐山』(川島啓志監督 1962年)は、馬と娘の婚姻の話を語る老婆を中心に青森県恐山を丁寧に取材しているのであるが、実は恐山は‘恐れ’を利用した‘商業地域’と化しているという皮肉が込められているように感じる。
 『鎖陰』(1963年)に関する文章を引用しておきたい。「これ(『鎖陰』)は『白日夢』とパターンがそっくりの映画であった。夢魔のような心理状況を、残酷とエロティシズムの断片的なイメージで点綴し、しかも、そこに奇妙なノスタルジックな抒情を生んでいるのである。もっとも、『白日夢』の方がはるかに通俗的であり、『鎖陰』の方がはるかに斬新で、日本の風土に根ざした死や欲望の暗さを、はるかに見事に定着していたと思う(P.158)」(『スクリーンの夢魔』 澁澤龍彦著 河出文庫 1988.2.4)。何かが縦に切られるシーンから始まる『鎖陰』の主人公の女性は膣欠損症に悩んでいる。犬のような性交を嫌がる女性に対して、何故か相手の男はそれ程悩んでいる様子はない。ある日男性の母親が死んで葬儀が執り行われた。口や鼻の穴に綿を詰めて、焼かれた後の骨を箸で拾って骨壷に入れる様子まで克明に描かれる。海岸で、女性は細長く割れている貝殻を拾ってきて男性に渡すが、男性は興味を示さずに捨ててしまう。別の日、男性と女性が原っぱを訪れると、3人組の男たちに囲まれて、女性は襲われるが、男性は女性が膣欠損症であるために助けようとしない。しかし襲うことを諦めた3人の男の内、2人を男性は刺し殺してしまう。その間に女性は2人の男たちに小屋に連れていかれてお尻の穴でセックスをしてしまう。安産祈願に寺を訪れたカップルの女性のお腹を主人公の女性が羨ましそうに抱え込む。他方、男性の方は首を吊って自殺して鼻の穴や口から体液を流している男を見つめていた。主人公の女性は膣欠損症の治療のために手術を受けるのであるが、失敗して絶命してしまう。手術室の前では殺された2人の仇をとるために男たちが主人公の男と対峙していた。主人公の男は刀で斬られた後に、2度刺されて死んでしまう。それを見た女性が病院の螺旋階段を降っていく映像に、眼球が重なって物語は終わる。このように『鎖陰』は細長い膣の形と丸い穴の‘攻防’の連なりが描かれており、最後はその2つの形を合わせた眼球で終わらせている。まさに「いま一つの眼球譚」なのである。
 『首くくり栲象・方法序説』(小笠原隆夫監督 2011年 約42分)はデュルケムやノヴァーリスやカミュの自殺に関する言葉の引用から始まり、自身が所有する「庭劇場」などで首吊り自殺のパフォーマンスをしている首くくり栲象を撮影するのであるが、やがてフィルムは自殺に関する考察を離れて、ルオーの油絵『人は人にとって狼』のイメージを取り入れ、いかにして首吊りから死を払拭するかに心血が注がれるようになる。隣家の夫婦と子供の楽しい会話が聞こえる隣の家では、孤独な老人が首くくりで楽しくすごしているというシュールなシーンが秀逸である。


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どうなる「朝霞住宅」

2011-11-11 00:06:48 | Weblog

「国会版仕分け」に4事業 スパコンも対象(産経新聞) - goo ニュース

 2011年11月7日の毎日新聞夕刊の「どうなる『朝霞住宅』」という記事を引用して

おきたい。「朝霞住宅の施工業者、大林組には、05年7月に財務省関東財務局の東京

財務事務所次長が不動産開発部参与として天下り、その3ヶ月後に公務員宿舎清水町

住宅(東京都板橋区)を受注している。大林組は再就職と受注との関係について『当社は

正式な手続きにのっとり入札し、厳格な審査を経て落札者として決定されています』と

コメントする。/改革派官僚として知られ、9月に経済産業省を退職した古賀茂明氏は

『財務省理財局は、いわば日本政府の不動産会社。重要な仕事が公務員宿舎の建設と

管理です。彼らからみると、宿舎削減は死活問題。天下り先の確保ももちろん大きいが、

その前に公務員宿舎がなくなると現役の理財局職員が不要になってしまう。だから何を

言われようと建てる』と解説する。」朝霞住宅(埼玉県朝霞市)の建設は注視しておきたい。


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