東京オアシス
2011年/日本
オアシス的な小さな憩い
総合
80点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
本作の紹介文の引用から始めてみる。「そんな東京のどこかから、そして何かから逃げてきた女優・トウコ(小林聡美)。彼女がゆく先で出会うのは、やはりどこか別の風景を探してさすらう、迷いの人びとでした。深夜の高速を車で走るナガノ(加瀬亮)、映画館で働くキクチ(原田知世)、動物園にアルバイトの面接を受けに来たヤスコ(黒木華)。彼らとのそれぞれの時間が、トウコに忘れかけていた風景をよみがえらせ、ふたたび歩き出した彼女の中には、新しい日常が光りはじめます。」
この文章はミスリードだと思う。主人公はトウコと出逢った、ナガノやキクチやヤスコであり、トウコは決して内面を表に出さない狂言回しを演じているだけだからである。
真夜中に喪服を着たトウコがヒッチハイクを目的にトラックに向かった様子を見て、飛び込み自殺だと勘違いしたナガノはそれだけで良い人なのであるが、「レタスのダンボールを運んでいる人に悪い人はいない」とトウコに言われて車に乗せることになる。ラジオから流れてきた結婚詐欺師の話に戸惑い、思わずスイッチを切り替えたのであるが、恐らくいつも聴いている井伏鱒二の『山椒魚』の朗読テープをトウコに聞かれてしまう。二年間で体が大きくなってしまったことに気がつかず、棲家である岩屋から外に出られなくなった山椒魚をナガノが自分自身に重ねていることは容易に察することができる。ナガノが実際に結婚詐欺師であるかどうかは分らないが、バレーボールという共通の話題をきっかけに、トウコの回転レシーブの‘古さ’の指摘は、現状を打開する‘王道’の存在を打ち消し、海岸で練習する「Aクイック」や「Bクイック」で男女間の‘基礎訓練’をナガノに促すことになるであろう。
映画館で働くキクチは、脚本家として以前トウコと一緒に働いていた。一旦、自分自身を見つめ直すために脚本を書くことを止めてしまったキクチは、トウコと会話をしているうちにもう一度脚本を書いてみたいという思いを抱くようになる。
大学受験に失敗して5浪しているヤスコは動物園にアルバイトの面接を受けに来ていた。トルソーを描くことは得意でも、生身の人物を描くことは苦手だというヤスコであるが、動物園で生き物たちに囲まれているということ自体がヤスコにとって新たな一歩になるだろう。
このようにトウコとの出逢いを通して3人はそれぞれ人生を見つめ直す。それはまるでラストでカメラがほんの少し空に向かって動くような視線の獲得なのである。
キクチが働く名画座でかかっていた作品は『過去のない男』(2002年)と『街のあかり』(2007年)で、両作品ともにアキ・カウリスマキ監督作品であり、『東京オアシス』の作風は正にアキ・カウリスマキ監督作品を踏襲しているために、理解されにくいかもしれないが、個人的には嫌いではない。『西暦二千年』というタイトルの映画はないと思うけれど。
本作とは全く関係ないのであるが、2011年10月31日の毎日新聞夕刊の小林聡美のインタビューに驚いた。「東京砂漠」って歌がありましたね、という記者の問いに対する小林の答えである。「『東京砂漠』って言える時代って、なんて贅沢だったのかと思う。平和だから出てきたんですよね。そんな歌が」
「東京砂漠」とは1976年に内山田洋とクール・ファイブがリリースした曲である。当時は光化学スモッグなど公害が酷くて、福祉サービスなども今ほど充実していなかったことは1965年生まれで東京出身の小林ならば知っておくべきであろう。『東京オアシス』って言える時代の方がまだ贅沢で平和なのである。
「当然すべき取材」VS「違反したので注意」(読売新聞) - goo ニュース
2011年10月20日の自由報道協会の主催による小沢一郎の記者会見において
読売新聞の恒次徹の質問に関して読売新聞社会部の渡辺晋は「当然すべき取材だったと
言える。虚偽記入が国民の判断を誤らせることになるため、実質的犯罪と言えるのでは
ないか、とただす恒次記者に対し、元代表はきちんと答えようとしなかった。そのことを
さらに追及しようとした時、司会者に制止されたのだ。これを振り切らないと、元代表の見解
は引き出せない」とフォローしているが、全くフォローになっていない。小沢一郎が
「きちんと答えようとしなかった」と言っているが、犯罪を犯したかどうか決めるのは
“犯罪者”ではなくて小沢の言う通りに「法律学者でも誰でも聞いて下さい」ということであり、
裁判所が決めることなのだから、そもそも恒次徹の質問はとんちんかんなものである。
恒次徹も「会見者が質問をはぐらかした場合に、そのことを指摘できなければ、追及に
ならない。司会の指示を振り切らなければならない事はある。ルール違反と過剰に騒ぐ事
は、会見者を追及から守ることにしかならない。ジャーナリストがなぜ、そのようなことをする
のか理解に苦しむ」とコメントしている。理解に苦しむのは読売新聞記者たちの言動である。