特集:アモス・ギタイ監督特集 越えて行く映画
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『ラシュミア谷の人々 この20年』について
総合
100点
ストーリー
0点
キャスト
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演出
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ビジュアル
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音楽
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「『ラシュミア谷の人々』は文句なしの傑作ですね」という土本典昭氏の惹句を信じて観に行った甲斐があり、上映時間3時間の本作は確かに文句なしの傑作だった。
ハイファ郊外の‘ワディ(Wadi)’周辺で暮らすパレスチナ人とユダヤ人を1981年、1991年、2001年と10年置きに訪れて同一人物の取材を試みている。メインとなる人物はアラブ系の男性と近隣に住んでいる、同じアラブ系のエミリアという名前の女性である。1981年当時は仕事もなく経済的に逼迫している男性の、国に対する不満を述べながらも懸命に生きている姿が印象的なのだが、インタビューに答えていたポーランドから移住してきた兄弟が死んだ(殺された?)ことなどがさり気なく言及されており、経済だけではない危機感がひしひしと伝わってくる。
撮影機材が良くなったようで作品後半の2001年のシーンは映像がクリアになる。20年間、同じ区域に住んでいる男性のもとを、既にそこを引き払っていたエミリアが訪ねてくる。親戚たちを呼び寄せて一緒に暮らしている男性は年金生活をしている。
男性とエミリアの‘岐路’を象徴する印象的なシーンがあった。エミリアが男性のもとを去る時に鬱蒼とした森の中を画面の左前から右奥へ歩いて去っていくのであるが、その後暫くして、対照的に男性が近所に建てられた新築の建造物に向かって、画面の右前から左奥へ向かって歩いていく。この奇跡的なコントラストが美しい。
その後、男性は出来たばかりの車道をずっと見つめ、残された未開地を訪れて、目的も無いまま木の幹を運んだり、枯れ草を集めたりしている。男性にできることといえば親戚の子供が壊した扉を釘で打ち付けて修理するくらいである。男性がエミリアに歯を治すように言われた時に男性が何の彼の言って歯を治しに病院へ行かない理由は、まるで1981年頃の‘不自由さ’の中で生き生きとしていた自分自身を、治っていない歯とダブらせて愛おしんでいるのではないだろうか?
パレスチナ問題を扱いながら、いつの間にか人間そのものを浮かび上がらせてしまうところが、アモス・ギタイの天才性であり、おそらく作家本人も予想していなかったものを映し出しているものこそ良質のドキュメンタリー作品なのであろう。
首相退陣要求に反論=玄葉氏(時事通信) - goo ニュース
「非小沢」はくだらない分類=前原外相(時事通信) - goo ニュース
「1年に1回、総理大臣が代わって何ができるか。じっくり2年3年やっていかないと本物
の仕事はできない」と玄葉光一郎国家戦略担当相は述べているが、問題なのは元々
総理大臣としての器の無い人間を首相にかつぎ上げてしまうことなのであるから、
国民に首相を選ぶ権限がない以上、首相としての能力が備わっている人物を最初から
トップに立たせるべきなのだ。、「『親小沢』『非小沢』は非常にくだらない分け方だ。党は
そんな小さな話で割れていない」と述べる前原誠司の認識は2011年1月12日に
開かれた民主党の両院議員総会における岡田克也の「内紛の認識はない」という発言
と同様に頓珍漢なものであって、実際に内紛があるかどうかではなく“非常にくだらない
分け方”であろうがどうが国民にはそのように見えてしまっているという現実を認識する
べきなのである。前原誠司の発言にはいつも端から国民を見下している気がある。