ケンのブログ

日々の雑感や日記

原典を読む以上に内容を理解できるマンガ&ピンクのサウスポー

2022年03月26日 | 日記歌入り
ここ何か月くらいか記憶にないけれど、ずいぶん継続した期間、新聞に載っている本の広告がある。

マンガ 日本の古典 全32巻の広告だ。

そこに、東大卒最強のクイズ王 という肩書の方の写真が出ている。

そして、その写真の顔の部分から吹き出しが出ていて、クイズ王の方がこんなことを語っておられる。

「このマンガ文庫は本当に凄い! 原典を読む以上に内容を理解できる。
楽しく読めて試験にも効く。画期的全集です」と。

第二センテンス 「楽しく読めて試験にも効く」 はその通りかなとは思う。

マンガを読んであらすじを知っている古典(古文)の文章は、それこそ問題文の内容を理解しやすく、試験の設問に答えるときに有利になるから、、、。

そういう方法を推奨していた受験指導者もいたし、、、。

これは、英字新聞などを読んでいても、日本でも話題になっているニュースだと、日本語からの情報でニュースのあらすじや流れがだいたいわかっているから、英語で読んでも内容を理解しやすいのと同じ理屈だ。

しかし、僕はクイズ王の人が語っている 「このマンガ文庫は本当に凄い、原典を読む以上に内容を理解できる」という第一センテンスの方は、何度読んでも首をかしげたくなってしまう。

一体、この世に、原典を読む以上にマンガを読んだ方が内容を理解できる本ってあるのだろうか。

例えば、夏目漱石の草枕をマンガで読んであらすじを知っている。

それで、「僕は草枕の内容を原典を読む以上に理解しています」 とその人が言ったら、ちょっとその人、何か勘違いしているのではなかろうか、ということになるだろう。

僕は、そのように想像する。

ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」の主要なテーマをエレキギターで演奏したようなCDを聴いて、「いやあ、このエレキギターの演奏は本当にすごい 原曲を聴く以上にベートーヴェンの交響曲を理解できる」というのと同じことであるように僕には思えてくる。

そんな、たわごとを東大卒 クイズ王の肩書で語ってもいいのだろうか?と素直にそう思ってしまう。思ったらあかんことかもしれないけれど、、、。

東大を出た頭のいい人だから、「ここで言う『内容』とは、あらすじを含む物語の背景知識のことです」とか「いやあ、僕は写真撮影に応じただけで、文章は広告代理店が作りました」とかいくらでも、相手を論破する引き出しはもっておられるのだろうけれど、ちょっと東大卒の肩書でこんなことするのはやめたほうがいいのではないかと思ってしまう。

まあ、僕も人のことをとやかく言えるような立場ではないけれど、若いときに、こんなことしてお金を儲けていると 一生分の運を 人生の早い時期に使い果たしてしまうような気がする。

まあ、そんな気がするという、なんの科学的根拠もない、単なる個人の感想でした、、、。

でも、最近、このクイズ王のようなタイプの方が増えたなと思う。

なんで、こんな時代になってしまったのだろう?

ちょっと、それはわからない。ネットの台頭で炎上商法などがはやっていることも原因のひとつとは思う。
 
■サウスポー ピンクレディ
ピンクレディの「サウスポー」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。

聴いていただけるとうれしいです。

高校野球やプロ野球の応援歌と言えば、僕の世代にとってピンクレディの「サウスポー」は最も慣れ親しんだものの一つです。

個人的に、都倉俊一さんの曲の中でこれが一番好きかも と思います。

甲子園の高校野球でブラスバンドもよく演奏します。曲がしっかりしていることもよく演奏されるひとつの要因だと思います。

「背番号1のすごい奴が相手 フラミンゴみたい ひょいと一本足で」という歌詞を見た瞬間に僕の世代は王貞治さんのこととわかります。

この歌ができた時代は日本中が王貞治さんのことで熱狂していました。

曲の出来が素晴らしいのは、王貞治さんのことをイメージして作ったということもあると思います。

思い入れは素晴らしい作品をうむ大切な要素と感じます。

あの頃はいい時代だったと思います。

これからもよい時代でありますように。

↓ピンクレディの「サウスポー」をカラオケDAMの音源で歌いました。







社会人とは 栄冠は君に輝く

2022年03月25日 | 日記歌入り
桜が咲きましたね と人に言われて、自動車に乗っているとあまり気づかないなと思って、歩いて散策してみたら、満開に近くなっている桜もありました。

今日のように暖かいと一気に開花しますね。

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新聞の人生案内を見ていたら

20歳代でまだ入社3年目で役職になってしまった。自分の倍くらいの年の人もいるのにとてもプレッシャーを感じてしまい逃げ出したくなることもある。

みんな頑張っているのにこんなことでは“”社会人“”として恥ずかしい という主旨の相談がある。

“”社会人“”として恥ずかしい という言葉を聴くたびに社会人っていったいどういう意味だろうと思ってしまう。

それで調べると、日本語以外の言語では社会人に相当する言葉はほとんど見当たらないと書いてある。

そして、社会人の定義もあいまいなものであることがわかる。

例えば、社会人=社会を構成する個人。

とすれば、要するに、すべての人は社会を構成しているわけで、誰でも社会人ということになってしまう。

実際には、例えば、高校にはいると 「諸君はもう義務教育は終わって高校生なんだからしっかりしなさい」と校長先生に言われるのと同じように
「君たちはもう学生ではない “”社会人“”なんだからしっかりやりなさい」と会社の上司に言われるのだなと感じる。

あるサイトを見ていたら、「学生はお金を払って授業を受けるお客さん、
社会人は お金を稼ぐわけだからもうお客さんではない、 責任をもってやらなければ。

そして学生は単位をおとしても 個人の問題ですむけれど、社会人は失敗したら会社のみんなに迷惑がかかってしまう。」という主旨のことが書いてあった。
社会人という言葉って、このように、人に同調圧力や抑圧感を与える言葉だなと僕は感じる。

「お前、社会人なんだからしっかりやってもらわないと困るよ」と言ってきた人に
「社会人ってどういう意味ですか?」と言い返したら、会話のやりとりが凍りついてしまう可能性はとても高いと思う。

社会人はいっそのこと会社人と言い換えてもいいではないか と若い人のサイトに書いてあったけれど、本当にそんなものだと思う。

バトミントンの協会職員が、お金を不正に使い込んだけれど、東京オリンピックが終わるまでは迷惑をかけられないということで、周りの人が使い込んだお金を私費で補填したという主旨のニュースが新聞に載っていた。

こういうのも、個人の不正が“”社会“”の迷惑になってはいけない という理屈で、不正に流用された資金を、私費で補填してしまうという思考回路を生んでいる可能性はかなりあると思う。

社会人 などという意味があいまいな言葉はもうやめたらいいのにと思うことがある。


■栄冠は君に輝く
「栄冠は君に輝く」をカラオケDAMの音源で歌い、ICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。

聴いていただけるとうれしいです。

今年の春のセンバツ高校野球から 50人までという人数制限はあるものの ブラスバンドの応援も復活したそうですね。

うれしいことだと思います。

「栄冠は君に輝く」は 春の選抜大会ではなく 夏の全国高校野球大会の大会歌ですが、そんなことはあまり関係なく甲子園、そして高校野球と聞くとこの歌が心に浮かんでしまいます。

この歌も、日本の歌の中で名曲中の名曲と言ってもいいのではないでしょうか。

今年の春の選抜に出場した学校の中で、金光大阪は、僕の知っている子も通っていたし、僕が住んでいるところからも近かったので、感慨深いです。

金光大阪と同じ学区に大冠という公立の高校があって、ここも、夏の大阪大会で何年か前に決勝まで勝ち進んだことがあります。

いつか、この学校に勤めていた予備校の宣伝物の手配りに行ったら、生徒がよく挨拶する学校でした。

やはり、大阪大会の決勝までいくような学校はどこか違うなと思いました。


何日か前の僕のブログに、1990年代は藤井寺球場によく野球を見に行ったと書きました。

その当時は、高校野球の大阪大会のベストエイトくらいからは、藤井寺球場で試合をしていました。

大阪大会のベストエイトを藤井寺球場で見たとき、いやあ、大阪大会のベストエイトは田舎の県同士の 全国大会一回戦よりもあるいはレベルが高いかもと思いました。

当時の大阪は ベストエイトくらいには 上宮 上宮太子 近大付属 PL学園などがひしめいていて、履正社や 大阪桐蔭は まだ、新興勢力として出てきているという感じでした。

大阪でも随分、強い学校の勢力は変わったと思います。

↓栄冠は君に輝く をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音しました。


電力需給のひっ迫 誕生

2022年03月23日 | 日記歌入り
新聞に、東京電力管内で電力の需給がひっ迫していると出ている。

原因として、厳しい寒さ、そして福島県沖の地震による火力発電の停止があげられている。

2011年の東北大震災の時、あれだけ原発に被害が出ても、意外と停電が少なくて済んだのは、火力発電が稼働していたからという話はよく聞いた。

そして、今回は火力発電が稼働しないから電力の需給がひっ迫。

要するに、原発は安全性の問題から、非常時だからと言って稼働率をあげることはできないし、風力発電や太陽光発電は天候に発電量が左右されるからもともと火力発電のバックアップなしには機能しない。

ましてや非常時だから稼働率を上げるなど不可能と思う。

結局、何か災害などがおきると、電力が不足するかどうかの決定的要因は火力発電の稼働率ということになってしまう。

そう考えると、社会的インフラストラクチャーという意味では、科学技術というのは私たちが思うほど進歩していないのだと感じる。

なぜなら、災害時など決定的な場面では、私たちが新しい発電方式と思っている方法(太陽光、風力、原発)はそれほど役にたたないから、、、。

もう、科学技術の進歩に明るい未来を予想するのはどうやら幻想かもしれないと思い始めている人は、僕も含めて意外と多いのではないかと感じる。

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新聞の広告欄に 怒らないこと という本の宣伝が出ている。

キャッチコピーにこんな文章が出ている。

「人類史上もっとも賢明な、ブッダは『怒り』を全面否定しました。その真意を平易に解き明かします」と。

確かにブッダの言葉には次のように書いてある
「怒らないことによって怒りにうち勝て」と。
※岩波文庫「ブッダ感興のことば」中村元訳より引用。

しかし、ブッダの考えは同時に 無とか空とかそういうものをとても大切にしている。

執着を離れるということも大切にしている。

そういう観点から見ればものごとをことさら否定するのも 無とか空とか 執着を離れるという考え方とは相いれない。

つまり、「ブッダは怒りを全面否定しました」と決めつけてしまうのも、また、それはブッダの考え方、全般から考えればとても不自然なことと思った。

ブッダはただ、「怒らないことによって怒りにうち勝て」と言っているだけで、怒りを私は否定します などどは言っていないわけだから、、、。

まあ、「ブッダは怒りを全面否定しました」というのは本の宣伝のコピーだから、そういう、目立つ書き方がしてあるだけとは思うけれど、最近、こういう安易な決めつけの文章が増えたなと思う。

先日も、(私の)夫は愛情が薄い環境で育ち、自己肯定感が低く承認欲求が高い という感じで、これまた本のキャッチコピーに頻繁に使われるような自己肯定感とか 承認欲求とか そういう言葉だけで夫のことを抽象的にまとめてしまっていた人もいたし、、、。

奥さんも夫のことでは深く悩んでおられるとは思うけれど、抽象的な言葉で安易にまとめられてしまう夫も息が詰まりそう と思ってしまう、、、。

もう少し言葉を考えるべきとも思うし、逆に、言葉で認識できる事柄は、そして、言葉で説明できる事柄は、ごくわずかなのだということをわたしたちはもっと意識すべきだと思う。

安易にものごとを決めつける表現が横行するのは、目立つ書き方をしてクリックしたもらった方が勝ち というネット上の表現の影響が多分にあると思う。


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■誕生 
中島みゆきさんの「誕生」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。

聴いていただければうれしいです。

「呼んでも呼んでも届かぬ恋でも むなしい恋なんてないと言ってよ
待っても待っても戻らぬ恋でも無駄な月日なんてないと言ってよ」
と歌詞にあります。

「むなしい恋なんてない 無駄な月日なんてない」 と決めつけずに 「ないと言ってよ」 と問いかけるところが奥ゆかしくて幅があると思います。

中島みゆきさんは 「ないと言ってよ」 という問いかけを誰に向けているのでしょうか。

目に見えないものに 「ないと言ってよ」 と問いかけているのかもしれません。

歌を聴いているみんなに 「ないと言ってよ」 と問いかけているのかもしれません。

中島みゆきさんが誰に問いかけているにしても 「ない」と断定しないで「ないと言ってよ」と謙虚に問いかけているからこそ、私たちは逆に 中島みゆきさんは 「むなしい恋なんてない 無駄な月日なんてない」ときっと信じておられるはずだ、と感じることができます。

そこが 素晴らしいですね。僕はそう思います。

↓中島みゆきさんの「誕生」をカラオケDAMの音源で歌いました。








驚いたニュース 守ってあげたい

2022年03月22日 | 日記歌入り
僕はテレビを持っていないうえに、何日か新聞も読まない日があったので、昨日、読まずに積んであった新聞を見ていてびっくりした。

東北新幹線のかなりの車両が脱線した写真が新聞に載っていた。

仙台の伊達政宗の像は傾いていた。

東北に地震があったことはネットのニュースの見出しだけ見て知っていたけれど、新幹線が脱線し伊達政宗の像が傾くほどの被害だったのか。知らなかった。

本当に、いろいろと大変なことが起きてくるなと思う。

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僕は30歳くらいの頃から55歳くらいまで、ベートーヴェンの交響曲の次にショスタコーヴィチの交響曲を聴く頻度が高い時代が続いた。

ところが、ここ一年くらい、ベートーヴェンの交響曲の次によく聞く交響曲の作曲家がショスタコーヴィチからブルックナーに変わってしまった。

こういうのも一つの気持ちの変化なのだなと思う。

会社に勤めていたころは、社会的抑圧のようなものを感じることも多く、そんな時、ショスタコーヴィチの交響曲を聴くと、同質の原理で、心が落ち着くことが多かった。

※同質の原理=その時の心の状態と同質の音楽を聴くと心が落ち着くことがあるという原理。

最近は、ブルックナーの大きさに惹かれるようになったのだと思う。

僕は長い間、ブルックナーの交響曲第9番は 未完成の曲、しかもブルックナーがいろいろ書いた曲の改定などでもたもたしている間に未完成になってしまった、という思い込みもあって、聴く頻度が高くはなかった。

ところがここ一年くらいに限って言えば、ブルックナーの交響曲の中で9番を聴く頻度が最も高くなっている。

やはり、深遠な世界が心にグッとくるということなのだろうか。

そんな気がする。

ここ数日は、本当に何年かぶりでバッハのロ短調ミサ曲も、何度か聴いた。

最初は音の響きの良いものと思ってカラヤン ベルリンフィルを聴き、やっぱりもっと敬虔なものがいいと思いなおして トンコープマン指揮 アムステルダムバロックオーケストラのものに切り替えた。

特にコープマンの演奏は 聴いていると祈りの音楽だということが伝わってくる。

日本とヨーロッパでは宗教の感覚も随分違うのに、それが祈りの音楽ということは感じることができるから、その意味で祈りというのは文化の相違を超えて普遍的なものなのだなと思う。


でも、ロ短調ミサ曲はすごい曲だなと思う。

この曲のCDを僕が買うきっかけになったのは、ずいぶん以前に延原武春さん指揮 テレマン室内管弦楽団の 「第九deクリスマス」というタイトルのコンサートに行き 第九が演奏された後の第二部でバッハのロ短調ミサ曲の グロリアが演奏され、気に入ってしまったからだ。

本当に、第九deクリスマス のようなファミリーコンサート的な催しもいろんな音楽に対するきっかけを与えてくれるものなのだなとつくづく思う。

延原武春さん自身は、話を始めると、本当に関西のおじさん という感じの人です。

■守ってあげたい
松任谷由実さんの「守ってあげたい」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。

聴いていただければうれしいです。


「初めて言葉を交わした日の その瞳を忘れないで いいかげんだった私のこと
包むように輝いてた」
歌詞のこの部分が一番好きです。

新約聖書のヨハネによる福音書が「初めに言葉があった」という書き出しで始まります。

結局、人は心にあることを言葉にするので、その意味で言葉は大切と思います。

初めて言葉を交わした日 と松任谷由実さんが歌っているのは、最初の頃の気持ちを大切にして という意味で歌っていると思います。

なにごとも初心が大切ということだと思います。

↓松任谷由実さんの「守ってあげたい」をカラオケDAMの音源で歌いました。



春のお彼岸 花

2022年03月21日 | 日記歌入り
■春のお彼岸
暑さ寒さも彼岸までとよく言います。

立春と言ってもまだ寒いけれど、本当に春のお彼岸になると随分あたたかくなったなと感じます。

お店に行ったら、お彼岸のおはぎがでていました。

衣服のコーナーに行くとなんとなくもう初夏の衣服が目立つところに展示してあるという感じに見えました。

五月人形も展示されてますし、人形を作る会社が作成した鯉のぼりのぬいぐるみも展示されています。

五月人形は、兜のたぶん金メッキがちょっとキラキラすぎかなと思ったりして見ていましたが、たぶん、そこにもっとくすんだ色合いを求めようと思うと、素人ではわからなくらい値段も上がってしまうような気もします。

ほどほどのところで、買うときは判断しなくてはと思いました。

五月人形もいいですが鯉のぼりのぬいぐるみも 好きです。鯉のぼりの上に金太郎さんが乗っているものもあり、いろいろ趣向をこらしているんだなと思いました。

■安易にまとめすぎかもしれない

新聞を見ると、人生案内の欄にこんな文章が出ている。

「40代のパート女性。夫は幼いころから愛情不足で育ち、自己肯定感が低く承認欲求が強いです。結婚して15年、もう疲れました」と。

文章は、この第一段落で、愛情不足 自己肯定感の低さ などの抽象語を使って、全体を概略的にまとめ、第二段落以下で、夫の具体的な問題をあげつらうという構成になっている。

なので、第一段落だけを引用して、何かを語るのは書き手に失礼かもしれない。

しかし、第一段落を読んだときに、愛情不足で育ったゆえに自己肯定感が低い、なので承認欲求が強いという具合に、最近、よく用いられる、抽象用語をもちいて、また、最近よく用いられる、論理展開もそのまま用いて、安易にものごとをまとめすぎと思った。

論理学の世界で三段論法というのがある。

三段論法の具体例はこんなものだ。

人間は死ぬ ソクラテスは人間である なのでソクラテスは死ぬ。

とまあこんな具合だ。

これが数学の世界だと三段論法はより論理構成が堅固なものになる。

たとえばこんな具合だ

2で割り切れる整数は偶数である。 6は2で割り切れる。 なので6は偶数である。と

まあ、これらの三段論法に誤りはないことは普通の感覚で考えればわかってもらえると思う。

そして、人生案内の文章の書き出しをみていると

夫は愛情不足 ゆえに自己肯定感が低い ゆえに承認欲求が高い

と三つの要素がまるで自明の三段論法のように疑いをさしはさむ余地がないものとして用いられているように思えてきてしまう。

こういう考え方が、他人に対する決めつけを生んで、そこからまた新たな問題が起きてくるということが往々にしてあるから、抽象的な言葉を用いて物事を安易に決めつけることに対して、私たちはもう少し用心深くならなければならないと思う。

自己肯定感をちょっと調べてみると、必ずしも伝統的な心理学用語でもなく、また、専門家の間でも定義にばらつきがあり、類似概念との相違も明確ではないという主旨のことも書かれていたし、、、。

最近 機能性表示食品の広告でも 科学的根拠あり とか もう本当に抽象的な言葉を、意味をよく吟味もしないであんいに使う例があまりに多いように思えてくる。

あまり、このような傾向がつづくと、これまでのように科学という言葉が信頼を勝ち得るものではなく、逆にあまり科学的と言っていると怪しまれてしまう可能性も出てくるのではないかと危惧している。

もちろん あらゆるものの価値観は時代とともに変わってくるので、科学という言葉がいつの時代でも同じ価値をもつものではないことは、自明のことだとは思うけれど。

■滝廉太郎 花
滝廉太郎の「花」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。

聴いていただければうれしいです。

春の季節になると聴きたくなる歌です。個人的には日本の歌の中で最も美しいものの一つと思っています。

大阪の歌声教室で、ピアノの先生の伴奏にあわせてみんなで歌ったときには途中で泣きそうになりました。

いい歌だなと思います。

↓滝廉太郎の「花」をカラオケDAMの音源で歌いました。