ケンのブログ

日々の雑感や日記

春の一日

2022年03月31日 | 日記
桜並木のある川辺を歩く。

近年、桜はもっぱら神社で見ていたので、川辺の桜を見るというのもいいものだと感じる。

自動車で走ると、やはり田舎なので、お寺や 神社の境内、山のふもとや中腹、公園の中、様々な場所に咲く桜が見える。

日本の原風景の中にいるような気分になる。

しかし、満開の桜を見ると毎年のように、もう、この桜はすぐに散っていって、瞬く間に葉桜に変わっていくということを思う。

満開の桜が、散っていくのを惜しむ気持ちになる。

そして、桜が散るのを惜しいと思うとき いつも僕はこの句を思い出す。

“”行く春を近江の人と惜しみけり“” 松尾芭蕉

ここで、なぜ、行く春を近江の人と惜しむのか。

別に丹波の人と惜しんでもいいではないか。

なぜ、近江なの?

という、議論が、去来抄という書物の中に出てくるそうだ。

しかし、その書物の中で、松尾芭蕉と 去来という人物の間では、やっぱり春を惜しむのは近江だよな ということで、話がまとまる。

近江 というのは僕にとっては通り過ぎていく場所だった。

父が船員だったので、父の船が神戸に入港すると、在来線の急行「比叡」に乗って大阪で下車 それから、各駅停車に乗り換えて、神戸の住吉という駅で降りると、父がつとめていた会社の船員寮があった。


近江(滋賀県)の急行停車駅は今でも心に浮かぶ。

米原 彦根 近江八幡 草津 石山 大津

懐かしいな?

駅名を見ると懐かしいけれど、これらの駅で僕は長年一度も下車したことがなかった。

米原だけは乗換で下車したけれど、駅の外には出ていない。

つまり、僕にとって近江というのは通り過ぎる場所。

もちろん、今は、宅地開発がなされて、近江にはおしゃれな街もいっぱいある。

南草津なんかも駅の近くの雰囲気よかったなとか思ったりして、、、。

だから、近江に住んでいる人には失礼というか偏見を招きかねない言い方になるけれど、多くの旅人にとっては 西の目的地は京都 大阪 神戸になることはあっても、近江になることはそれほど多くはない。

その意味でも、近江は通り過ぎる場所。

そういう意味でも 行く春を 近江の人と惜しむのは やはり、的をいているような気がする。

春を惜しむなら近江でなけりゃ という感じでね。

近江ならではの思い出が僕には一つある。

近江のある駅の売店で、真ん中で手をあわせながら、ポテチを買おうかカールを買おうか迷っていたら、若い男の人が僕の方に寄ってきて

「あなたは仏教を信じておられますね。僕にはわかります」と言った。

僕が丸刈りで、真ん中で手を合わせていたからそう言いたくなってしまったのだと思う。

僕が手を合わせるのは、必ずしも、神仏を念ずるということではなく、身体のバランス感覚的に僕の場合、真ん中で手を合わせるとなんとなく落ち着くということが大きい。

頭が丸刈りなのは 直毛の頭髪が 前に 前にと生えてくるので、伸ばすとヘアスタイルを整えるのが面倒ということになっている。

でも いきなり「あなたは 仏教を信じおられますね。僕にはわかります」と話しかけてこられるのもなんとなく いかにも近江という気がした。

ちょっと、気持ちが悪かったのも申し訳ないけれど事実だったので、その若い人には軽く会釈して、その場を立ち去ってしまったけれど。

結局、カールも ポテチも買わなかったから、電車の中で妙におなかがすいてしまった。