ケンのブログ

日々の雑感や日記

副作用と副反応

2021年09月20日 | 日記
本宅から離れに通じる扉をガラッと開けて母が言う。

「今日はちょっと虫の声元気がないね」

「昼間暑かったからやないやろうか」と僕が言う。

本当に昼間は暑かった。35℃位行ったのではないかと思う。正確なことはしらんけど、、、。

まあ、昆虫の生態に詳しいわけではないので勘で言っているけれど、昼暑かったから虫の声に元気がないのか。

思い当たるふしはそのくらいしかない。

確かに母がそう言った時刻は虫はやや元気がなかったように思う。

ちょっと夜が更けてきたら虫の声も元気になったような気がする。

夜になると秋の虫も元気だけれど、ゴキブリを見るとぞっとする。

とぶりっ子して書きたいところだけれど、子供の頃から割と見慣れているのでまあ、そうでもないとも言える。


まあ、ゴギブリがいないというか見ないに越したことはないけれど、、、。

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新聞に「ワクチンの2回目接種を終えた国民が53%に達する中、ワクチン証明書などによる行動制限緩和の実証実験が実施される」と出ている。

本当に行動制限緩和と言うけれど、ワクチン証明書というのは新たな制限にほかならないと思う。

接種を終えた人が5割を超えたタイミングでこういう話が出てくるというのもごく直感的に、ワクチン接種に対する同調圧力的な心理的負荷につけこんでいるのではと思ってしまう。(単なる直感による個人の思いです)

日本国憲法の大切な柱の一つに基本的人権の尊重というものがあり、その中に自由権は含まれると言うか大切な要素と思う。

その自由権も、なにか事があると簡単に制限を受けてしまうのだなと思う。

人権は、戦後75年にもなる今は普遍的に守られるものと思ったら大きな間違いで、一人ひとりが、自分、そして他者の人権を意識することで初めて守られるものなのだなとしみじみと思う。

戦争の時には、情報統制が行われたということは周知の事実と思う。

しかし、戦争でなくても、コロナのワクチンとか 太陽光発電とかいわば国策として行われていることには ちょっとわけのわからない言葉が出てくることも事実。

例えば 太陽光発電はデメリットとして景観を損なう と言われるけれど、はっきり言って景観というよりも環境が損なわれるという言い方が率直で的を射ていると思う。

コロナのワクチンも副反応 という言葉が出てきている。

普通、ワクチンも含め薬一般が生む、その薬本来の目的以外の作用は、副作用と呼ぶように思う。

副反応という言葉も微妙に論点をはぐらかすような言葉遣いでちょっと怖いなと思う。

ちなみに副反応と副作用とどう違うのか調べてみると、読売新聞のサイトに次のように出ている。

“”Q 副反応は、副作用とはどう違うのか。

 A 薬やワクチンの使用後に起きる、期待されたものと異なる有害な影響という意味では同じだ。治療に使う薬では「副作用」と呼び、ワクチンの場合は「副反応」と分けて呼ばれる。

英語では同じ「side effect」という言葉が使われるのが一般的だが、日本では薬害の歴史などもあり、より厳密な使い分けが進んだとみられる。“”

「日本では薬害の歴史などもありより厳密な使い分けが進んだとみられる」 とまあ、なんて曖昧な言い方。薬害の歴史などもあり使い分けが進んだって、やはり環境破壊を景観を損なうと言い換えるのと同じで、副作用を副反応と言い換えて微妙に人の意識をそらしているとも言えるように感じる。(個人の直感です)

ちなみに副反応の情報をどう集めるかについて、読売新聞のサイトには次のように書いてある。

 “”Q 副反応の情報は、どのように集めるのか。

 A はしかなど定期接種のワクチンの場合は、副反応が疑われる症状がわかった場合、医療機関から国への報告が予防接種法で義務付けられている。因果関係がわからないものも含めて幅広く集めるため、「副反応疑い」として報告される。その後、専門家の意見も踏まえて因果関係を調べ、安全対策に生かしている。“”

読売新聞のサイトにははしかなどの例として書いてあるけれど、今日、僕が見た厚生労働省のサイトには、コロナワクチンの副反応のことに関しても上記の読売のサイトの記述とほぼ同様の記述がなされていた。

つまり、「副反応疑い」というのはあくまでまだ疑いの段階で、ワクチンとの因果関係の結論が出ていない。

結論が出ていないものは「副反応」として発表されることはないと考えれば、「副反応疑い」も含めてワクチンによるよからぬ結果とカウントすると本当に、不都合なことは、国民の耳に届かない仕組みがここでもできあがっているように思えてくる。

本当にこういところではいくらでも言葉のトリックがまかり通っているなと感じる。

頭のいい人は、言葉のトリックを考えることばかりに頭を使わないで、もっと有効に頭を使ってほしいと思ってしまう。

まあ、それがなかなかむずかしい世の中なのだろうけれど。

ワクチンに関しては、本当に様子を見ながら考えていきたいなと思う。

どうしても打たなければということになったら、もう、ままよと思って、うつとは思うけれど、、、。

それは、ともかく いちにち いちにち 無事にすごせますように それを第一に願っていきたい。








今日もまたひとつ忘れ物

2021年09月18日 | 音楽
今日の朝日新聞に読者が選ぶ小椋佳さんの好きな歌ランキングが第10位まで出ている。

要するに好きな歌ベストテンということだ。


10曲中7曲くらいはメロディラインを全部口ずさめると思う。

残りの3曲も少なくとも部分的にはメロディラインを知っている。

なにしろ僕が若い頃に流行った歌ばかりだから、、


それで、僕が一番好きな小椋佳さんの歌は何かなあと考えてみる。

好きな歌はその時によってもちろん変わるけれど、今は「ただお前がいい」かなと思う。

これは、僕の記憶では中村雅俊さんが主演した「俺たちの旅」というテレビドラマの挿入歌だったと思う。

主題歌だった「俺たちの旅」はベストテンの4位に入っているけれど「ただお前がいい」はベストテンに入っていない。

挿入歌だから、主題歌ほどは目立たないのかも知れない。

その「ただお前がいい」という歌の歌詞にこんな一節がある。


“”ただお前がいい

落とすものなど何もないのに

伝言板の左の端に 今日もまたひとつ忘れ物をしたと

誰にともなく書く“”


「落とすものなど何にもない」のに 「忘れ物」をするってどういうことだろう?


「落とすものなど何もない」なら、「忘れ物」なんてないはずやろう と突っ込みたくなるところだ。


しかし、「落とすものなど何にもない」 というときの「落とし物」は きっと物質的なものなのだと思う。

物質的なもの 財布とか、ペンダントとか ハンドバッグとか トートバッグとか例をあげればきりがないけれど、、、。

そして「今日もまたひとつ忘れ物をした」というときの「忘れ物」はきっと目には見えない「忘れ物」、心のなかにだけある、「忘れ物」なのだとおもう。

それを「伝言板の左の端に 誰にともなく書く」

「誰にともなく書く」というのはきっと、心の「忘れ物」は、特定の相手に対する「忘れ物」ではなく、もっと普遍的に大切な「忘れ物」だからなのかもしれない。 そんなふうに考える。

「左の端」に書くのは、多分、この歌が流行った頃の伝言板は縦書きで、左の端は、一番、最後の端ということになる。

目に見えない「忘れ物」は「忘れ物」である以上、恥ずかしいからそんなに真ん中に書くものでない、端っこの方に書いておこう。でも左の端なら最後に思い出すかも知れない、そんな願いが込めれれているのではないだろか。

僕はそんなふうに思う。

そして、自分自身なにか忘れ物をしていないだろうかと考えてみる。

でも、詞を読んでいると小椋佳さんらしい思慮深い詩だなと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。





規制緩和か新たな規制か

2021年09月17日 | 日記
新聞に、コロナによる行動の規制緩和の一環として、コンサートホールでもワクチン、陰性証明書を提示する実験をすると出ている。

個人的に面倒なことになったなと思う。

規制緩和といいながら実質的には新たな規制になってしまっているようにも思う。

まだ、実験なのでどうなるかわからないけれど。

ワクチン2回接種証明書の提示を実験するという記事の傍らには3回目のワクチンの接種はいつ頃かという記事も出ているし、、、。

本当に、こればかりは、まだわからない。

けれど、特にクラシックのコンサートはそれでなくても、集客がしんどい場合が多いのに、こんなにハードルを高くしてしまって大丈夫かと心配になってくる。

僕自身もコロナになってコンサートが再開しても、やはり行く回数はコロナ前に比べるとかなり減ってしまった。

これで、また証明書の提示ということになったら、また、しばらくはコンサート見合わせようかという気持ちにもなってしまう。

とはいうものの、これは本当に流動的な要素が多すぎるので、自分がどういう行動をとるか、ありうるケースを考えながら、また、様子を見ながら判断していきたいと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。


出生数の減少

2021年09月16日 | 日記
新聞に2020年の出生数が84万人程度 2021年生まれは70万人台になることが確実視されていると出ている。

コロナの影響と考えられるという。

僕が予備校に就職した頃、1972年生まれくらいの生徒が来ていたけれど、その年代の出生数は200万人を超えていたと思う。

本当にいろんな予備校があって、校舎に生徒が溢れかえっていた。

今から思うと、その当時の生徒がいわゆる団塊ジュニアと言われる世代なんだなと思う。

やがてときがたち、団塊ジュニアの世代の人とも一緒に働くようになった。

その世代の社員の人が僕に言った言葉が忘れられない。

「僕達は出生数の多い世代なので、受験でも苦労したけれど、同じ世代の人口が多いというのは受験だけでなく一生ついてまわるんです」と。

そのとき言われてみればそのとおりだなと思った。

そして、その世代の人ももう順番に50歳代に突入していく。

もう若くないどころか、会社では、そろそろ、若い人たちから、影で(そして日向で?)からかわれたりする年齢になっている。

年金をもらうということになっても、きっと同年代の人口が多いということは影響するだろう。

しかし、出生数70万人台って、団塊ジュニア世代の3分の1程度と思うと、この世代の人は、同年代の人口が少ないということがやはり一生ついてまわるのかと思う。

もちろん、出生数が少ないということはその世代の人だけの問題ではなく、社会全体の問題だけれど、、、。

最近の大学入試の広告を見ると、出生数が落ちてきて、もう、大学も生徒集めに苦労していることを隠そうともしないような広告になっていると感じる。

予備校に勤めていたから、やはり、大学入試関係の広告は、電車の中でも、そして新聞でもどうしても目につくから。

そして、特に私立大学を出た人に大学の名前を聞いて、たとえそれが有名大学であっても、もう大学の名前はそんなに気にならなくなってしまっている自分がいることに気づく。

有名大学でさえ、いろんな種類の入試があり、大学の偏差値などというものは、それほどあてにならないということをいろいろ経験しているから。

大学の名前よりも、むしろ高校のほうが気になってしまうことがある。

なぜなら、高校は今でも基本は5教科の入試だから、、、。

そういうことが気になるのは僕の職業病かもしれないけれど、、、。

出生数が70万人台という記事を見た上で新聞のページをめくっていくと、60歳以上で増えているという皮膚が乾燥する症状を緩和する皮膚薬の全面広告が出ている。

本当に、最近は、新聞の全面広告といえば、シニア向けの健康食品、シニア向けの保険、そんなのばかりだなと思う。

それは、60歳を超えると皮膚が乾燥して、かゆくなると新聞の全面広告に出ていると、急に気になってかゆくなってくるという人もでてくると思う。

それがあらたな皮膚の症状の患者を生み出したりすることもあるだろう。

僕もその新聞広告を見た瞬間、思わず頭がかゆくなってきて、かいてしまったから。

間寛平のように心のなかで「かいーの」と思いながら、、、。

でも、今さら、健康食品、保険と言っても、なんか、ピンとこない。

歳だと諦める前に というキャッチフレーズの健康食品の広告を見ても、歳だと諦めたほうがよいことも多いと感じるし、保険とギャンブルは確率計算上は必ず胴元が勝つ。

支払った保険料よりも、支払われる保険金のほうが全体では少ないから、保険会社に利潤が出る。

植木等の歌にも
“”馬で金儲けしたやつはないよ わかっちゃいるけどやめられない“”というフレーズがあった。

つまり、確率的な期待値では保険とギャンブルは入ると(やると)損をするようにできている。

この歳になって、なにもわざわざ確率計算上損をするとわかっているお金の使い方はできれば避けたいなと思うし、、、。

今は、IT化がすさまじい時代だけれど、一般にこういう技術って、年配の人は習得するのが精一杯で、うまく使いこなすところまで知恵が回らないという事が多い。

若い人が少ないということは、ITなどでも、本当に有益な使い方はなにかというアイディアが生まれてこないのではないかと危惧してしまう。

事実、アプリの会員証とか、お店のポイント制度とか、本当に逆に非効率なのではないかと思ってしまうことが多い。

きっと、こういうところにも若い人の人数がすくないということが大きな影響を与えているのではないかとなんとなくそう思ってしまう。

そんなこと、思っていてもなるようにしかならないのだけれど、、、。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。






豊橋名産ヤマサのちくわ

2021年09月15日 | 日記
母と県庁所在地の百貨店へ。

入口のドアをくぐり抜け、母がエスカレーターに乗ろうとするとピピピピーとおまわりさんのような笛が鳴った。

というわけではないけれど、

女性の職員が母の方に歩み寄ってなにか声をかけている。

小声なので何を話しているのかわからないけれど、振り返った母を見るとマスクをしていない。

ああ、マスクをするように注意されてるんやと思った。

母も耳が悪いのか、よく話が飲み込めないのか、わからないけれど、ちょっと、女性の職員と母が向き合って、膠着状態になっている。

僕はたぶんコワモテではないとおもうけれど、頭が丸刈りで目がでかいので職員を威圧してはいけないと思って、そばには行かず、ドアの脇のアルコールスプレーのあたりでそれを見ていた。

どうも、話が進展しないようなので、母を手招きで、僕の方に呼んだ。

話を聞いてみると、マスクはトートバッグの中にあるという。

ところが、そう簡単に見つかりそうにない。

椅子に座って落ち着いて探したらと促したけれど、コロナで椅子も少ない上に硬い椅子しかおいてない。

もう探しているよりも百貨店の隣のスギ薬局で買ったほうが早いと思った。

職員の人は、よかったらマスクをお出ししましょうかと言いたげだったけれど、それもちょっとシャクというか恥ずかしいと言うか、なんとなく買いに行った方がいいと思った。

母にこの硬い椅子に座って待っているようにと言ってダッシュしてマスクを買って戻ると母はいない。

あれ、と思っていると先程の職員の方が「お連れ様が5階エレベーター前のソファでお待ちです」と言った。

何?マスク無しで強行突破して5階まで行ったんか?と思いつつ、職員の人に「それは おおきに わかりました」と言って5階へ。

ソファのところで待っていると母がトイレから出てきた。

見ると、マスクをしている。

「結局、職員の人にマスクもらったの?」と問えば「カバンの中からマスク出てきた」と母は言う。

まあ、それはよかったけれど、なんか息のしにくそうな分厚いマスクをしている。

職員の人に5階で待つと伝言してから5階に行けるのも人生経験かと思ったりする。


地下の食品売り場へ。

「ちょっと、きゅうりの奈良漬けないか見てよ」と母が言う。

僕は人に聞くよりもパッケージの説明を読んで商品内容を知るタイプなのでパッケージを見ても、瓜そして大根 というのはあるけれど、きゅうり というのはない。

なにかの間違いやないかと思って「本当にきゅうりの奈良漬けってあるの」と問えば「ある」と自信を持って母は言う。

店員の人にも「きゅうりの奈良漬けないかね」と聞いている。

「ちょっと、きゅうりの扱いはございません」と店員の方は答えている。

僕は瓜という字をみながら、亡くなった義理の叔父が
「瓜に爪あり、爪に爪なし」(うりにつめあり つめにつめなし)と漢字の覚え方を語呂で教えてくれたことを思い出す。

本当に、旧制教育を受けた人に教えてもらったことって七七の語呂で耳に入りやすく記憶に残りやすいなとおじのことを思い出す。

きゅうりの奈良漬けはあきらめて魚肉練り製品のコーナーへ
「母がこのちくわどう?」と問うのでパッケージを見ると裏に小さくサマサと書いてある。

「これ、ヤマサってなってるよ。そういえば昔よくラジオで『豊橋名産ヤマサのちくわ』って言ってたな」と僕。

「豊橋名産ヤマサのちくわ ここにある」と母が自分の真下のあたりを指さして言う。

見るとパッケージに、そのまんま 大きいロゴで「豊橋名産ヤマサのちくわ」と書いてある。

それで、母は、豊橋名産ヤマサのちくわ をかごに入れた。
そのまんま 買うことになってしまった。

いやに耳に残っているサウンドロゴだなと思って 豊橋名産ヤマサのちくわ と指を折って数えてみると
七七ではないけれど八七で、まあ言えば七七の字余りの形になっている。

これだったら、そのまま大相撲の懸賞で「この取組には豊橋名産ヤマサのちくわより懸賞があります」とアナウンスしても違和感がないどころかキレイに収まりすぎと心のなかで考えたりする。

買ったのもを袋詰することになって、氷が必要になった。

「氷いくついる?3×3で9つくらいか」というと母は「そうやね」という
それで9つ氷の袋(甲子園のかちわりのような袋)を持っていくと、母は「こんなにいらん3つで十分」という。

本当に話が通じているのかどうかわからないと思いつつ、余った氷を冷蔵庫に返しに行く。

返した瞬間、今はコロナだから「一度取り出したものを戻すな」 と言われたらどうしようと思って、ちょっと周りを見たら、誰もいない。ホッとした。

次からは、ちゃんと余らないように氷を取るか、戻すときにはアルコールスプレーをしてから戻すか真剣に考える。

でもアルコールスプレーのアルコールは飲めないはずだから、それもまずいかと思ったりして、、、。

まあ、今日は結果オーライでよかったけれど、、、
気をつけないと こういうご時世だから。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。