昨日の全国紙の夕刊に秋元議員に実刑判決が出たという見出しが出ていた。
その見出しを見て「秋元さん実刑判決やね」と僕が言うと
「そうや、これで秋元さんも牢屋に入るよ」と母が言った。
「いや、それは違う、まだ裁判は二審 三審まであるから、控訴すれば一審で判決が確定するわけやない」と僕は言った。
「そうか」と母が言う。
母が単に無知なのか ボケたのか そもそも何も考えていないのか 上の空で僕に相槌を打っていたのか。
まあそういういろんな複合的要素が重なっているとは思うけれど。
それで今日、地方紙の見出しを見ると 「秋元議員に実刑」と見出しが出ている。
確かに見出しだけ見ると、すぐにでも秋元議員が牢屋に入るように思えてくる。
刑務所を牢屋と呼ぶのも時代遅れな言い方だなと思うけれど、、、。
新聞の書き方や読み手の知識がどれだけあるかで、情報の受け止め方って違ってくるんだなと思う。
それにしても、昔に比べると一審の判決が出るのが早くなったなと思う。
昔と言ってもどのくらい昔かもわからないけれど、なんしか、昔は犯人が逮捕されというニュースが出て、そのニュースを忘れた頃に判決が出るというイメージだった。(僕の記憶によるイメージです)
最近は、裁判も早くなったなと思う。
まだ逮捕が記憶に新しいうちに判決が出るから、、、。
新聞に掲載された判決骨子の中に「証人買収は露骨な司法妨害で、公人としての倫理観や最低限の順法精神すら欠如している」と書いてある。
「最低限の遵法精神すら欠如している」 って厳しい言い方だけれど、司法妨害が事実とすれば本当に最低限の遵法精神すら欠如しているなと思う。
言い方を変えれば、確信犯的なワルということだと思うのだけれど、そういう確信犯的ワルって、やっているときは開き直った気持ちでやっていても、後々になって、自分が傷ついて、取り返しのつかないことだったと気づくという結果になりがちであるように思う。
間違いは誰でもするし、違法行為も誰でもする可能性はあると思う。そういう場合、そこに何らかの心の痛みをもっていると、痛みそのものはしんどいかも知れない。しかし、その痛みが長い目で見ると私達を不幸から救ってくれるということは信じるに値するように僕は思うし、そう信じたいとも考える。
痛いと感じることで身体の怪我に気づき、怪我が治るための大きなきっかけになるというのとしくみは似ていると思う。
それにしても国会議員が一審であっても裁判で「最低限の順法精神すら欠如している」と言われるなんて、、、
国会は立法機関で法律を作るのが国会議員の仕事なのに。
そして、法律って、僕、国民一人ひとりの権利を守ることがその大きな役割だと思う。
国会議員がしっかりと立法の仕事をしてくれて、その結果、国民一人ひとりの人権意識も高まる、そのようであってほしいと思う。
それはともかく、いちにち いちにち無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。