秋分の日。
暑さ寒さも彼岸までとよく言うし、それはきっと本当だとずっと思ってきた。
でも、今日は特に昼間、暑かった。夜も結構暑いけれど、、、。
自動車で川にかかった橋を渡る。
川岸に彼岸花がかなりたくさん咲いていた。
歩いていたら立ち止まって眺めるところだけれど、自動車に乗っていて、いきなり止まって彼岸花を見るわけにも行かない。
自動車で行動するようになると、思い立ったときに立ち止まって、花を眺めたりとかそういう機会は減るなと思う。
花を見るためには、基本的には、その目的に沿う形で、自動車をどこか安全な場所に止めなければならない。
歩きには 歩きの良さ 自動車には自動車のよさがあると思うけれど。
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割と繁華な交差点の一角にパチンコ コロナ という名前のパチンコ店があった。
営業中という登りがいっぱいはためいている。
この時期にコロナという名前のパチンコ店 どうなのだろう。人が入っているだろうかと思って眺めてみた。
あまり、人が入っていない感じだ。
この時期にそれこそ名前が禍(わざわい)しているのだろうか?何しろコロナ禍だから、、、。
そんな話を母にすると
「コロナに便乗して コロナって名前にしたけど、あかんかったんやろうか」と言った。
「いや、違う、パチンコ コロナ という電光掲示板の文字が古ぼけていたから、コロナになるずっと以前からコロナという名前やったと思う」と僕は言った。
「そんなふざけた名前のパチンコ屋あるの?なんか、おちょくってるんやないの」と母が言った。
「いや、コロナという名前は昔からいろんなところに使われてる。トヨペットコロナという自動車の名前もあったくらいやから」と僕は言った。
母の言うことが微妙にピンぼけなのは、そもそもパチンコと無縁の人生を送っているのでパチンコ店の名前に関する予備知識がないためか、それとも歳のせいか、忙しいからか。
いろんな要因があると思う。
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大阪にもコロナという名前のホテルがある。
駅に近いビジネスホテルで、案外お値打ちな価格で宿泊できる。
そのことを僕はずっと以前から知っていた。
大阪から、岐阜に移る過程で、ちょっとホテルで宿泊しようと思ったときに、そのコロナという名前のホテルも心に浮かんだ。
しかし、やっぱり、今はコロナという名前のホテルはなあ、と思ってやめた。
どちらかというと極めて主観的にコロナよりもワクチンにビビっている僕だけれど(注射が苦手というのもあるし)やはりコロナという名前のホテルは避けてしまった。
きっと、そういうところは、名前を気にしているのだとおもう。
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芹沢光治良の「人間の運命」という小説の次のような記述が目に止まった。
それは、主人公の次郎が友人の石田に対して思いを巡らせるこんな記述だ。
“”(石田は)読書しても、その著者に向き合って対談しないで、ただ、著者から話を聞いて気持ちよくなっていたのだ。その結果、外国に何年暮らそうが、東西の書物をどれだけ読もうが、石田孝一は大学を出た頃とさして変わらない石田孝一だろう。“”
書物に限らず、芸術作品に接する時、それを作った人と対談する気持ちになるって、大切なことだろうと思う。
人とのおしゃべりということがなくても、こういうことを通じて私達は、人と対談できる、そして、それは、単なるおしゃべりよりもあるいは有益なことかもしれない。そのように考えると、孤独ということは、案外さびしいことではないかもしれない。もちろん、誰も一人では生きていけないけれど。
それはともかく、いちにち いちにち、無事にすごせますように、それを第一に願っていきたい。