ケンのブログ

日々の雑感や日記

老境の世界

2020年10月24日 | 日記
今日の新聞にコロナの中で家にいてもどのように運動するかその工夫の仕方が書いてある。

ハンマー投げの室伏広治さんにインタビューしたのもを記事にまとめたものだ。

その中で室伏さんはこのように発言しておられる。

「体を動かすことは、日常生活の中の工夫で手軽にできるし、散歩や早歩きなどの中程度の肺活動でも効果がある。武道や踊りで老境の世界があるように、年齢によって楽しみ方をも変えられる」と。

武道や踊りの老境の世界というところに言及しておられるところがさすがだなと思う。

室伏さんはお父さんもハンマー投げの超一流の選手だったわけだけれど、そういう方って子供の頃から心がけがきっと違うのだと思う。

ただ、ハンマー投げの順位や記録だけを意識して努力していたら武道や踊りの老境の世界という点にはきっと思いが至らないと思う。

室伏広治さんまだ46歳だし。

なんか親子二代で同じ世界で長い間活躍できる人ってやはり精神的なことにも非凡なものがあるなと思う。

なるべくそういうのを見習うようにしたいなと思う。

日光を見ぬうちは結構と言うな

2020年10月23日 | 日記
昨日の新聞に華厳の滝と中禅寺湖一帯が紅葉の季節になったということで、中禅寺湖とそこから流れ落ちる華厳の滝、そして中禅寺湖一帯の紅葉を写したパノラマ写真が掲載されていた。

中禅寺湖といえば栃木県。栃木県って僕のように岐阜県出身の人間から見れば、北関東なのか東北なのかよくわからない。

ただ、大学時代によく話をした栃木県の出身の子はかなりズーズー弁を話していて、そのとき栃木県って東北なのかなと思ったことがある。

だから、もう紅葉なのかとも考えたけれど、中禅寺湖の標高を調べると1269メートルとなっている。

それは北関東だとしても東北南部だとしても、その地方でそれだけの標高があれば紅葉の見頃にもなるだろうと納得した。

それにしても写真で見るだけでも中禅寺湖、華厳の滝を含めた紅葉のシーンは絶景という言葉がまさにふさわしいほど美しい。

小学校の頃、日光を見ぬうちは結構と言うな という言葉を習ったことがある。

まあローマを見て死ね のような感じで、日光ほど美しいものはないという意味なのだろう。

狭義では日光を見ぬうちはの日光は日光東照宮だろうけれど、この中禅寺湖一帯の紅葉の写真を見ると日光を見ぬうちは結構と言うなという言葉における日光とは中禅寺湖なども含めての日光だと解釈したほうがよいように思えてくる。

本当に涼しいというかちょっと冷え込むなと感じることも多くなり秋も深まったと感じる。

月がだんだんふくらんできていて、今日は半月くらいになっている、月齢を調べてみたら6.3となっている。

秋は夜が長く月もまた目につく季節だなと思う。


そんな中、新聞には、アメリカが台湾に武器を売ることを決定したという記事も出ている。

僕が子供の頃はアメリカに追随して田中角栄内閣が日中国交を回復したことがずいぶん話題になりそれとともに台湾は国際社会の中でずいずん干されているという印象があったけれど米中の対立の中でアメリカの台湾への肩入れも強くなったものだなと思う。

それだけ台湾海峡の緊張が高まっているということだと思うけれど。

コロナに加え、国際社会の対立、今までは軍事の話といえば主に核兵器とミサイルだったけれど、いまはそれに加えてサイバー攻撃も随分話題に登るようになった。

本当に何かと不安な世の中だけれど、なんとか無事に乗り切っていけるようにと願っている。





民主主義への信頼もゆらぎ

2020年10月21日 | 日記


新聞の国際欄を読んでいるとロンドン発ロイターの記事に、世界の傾向として民主主義に対する若者の信頼が世界的に見て総じて低くなっているということが書いてあった。

特に、アメリカ、ブラジル、メキシコ 南アフリカ フランス オーストラリア 英国でその傾向は顕著であると書いてある。

逆に旧共産圏の国では民主主義に対する信頼は上がっているという。

旧共産圏の人はそれに苦しめられた経験があるからやはり民主主義と思うのかなと想像する。

逆にアメリカ フランス 英国など民主主義を率先して牽引してきた国で若者の民主主義に対する信頼が揺らいでいることは、やはりそうなのかなと思う側面もある。

最近のアメリカからでてくる政治関係のニュースを見ていると、僕が見る限りではポピュリズム的な政治が席巻していて、今の大統領選挙でも、日本で報道を見る限りでは、政策論争というよりも、いかに候補者のイメージを作るかということの方に多くの力が注がれているように思う。

それでは民主主義に対する信頼は揺らぐはずだし、逆に民主主義に対する信頼が揺らいでいるからこをポピュリズムが席巻するのだとも思う。

何も米国だけの話ではなく僕にとって身近な大阪の例を上げても、大阪都構想の投票にしたところで、それが投票で決まるという限りでは民主主義の体裁をなしているけれど、もう賛成、反対どちらに決めるかは、最後はなんとなく一人ひとりのイメージとか直感とかそういうもので決まってしまうような気がする。

うまくその因果関係を説明してわかるように書くことは僕にはできないのだけれど、インターネットの普及でいろんな情報が飛び交い、その中には質の高い、低いも含め本当に一人ひとりの頭では処理しきれないほどの情報が流れているように思う。

そんな中で、投票するにしてもどんな基準で投票したら良いのかもわかりにくい時代になっていると思う。

ところで民主主義というと、漢字で書くと民主、つまり民が主となるという語感になるけれど、民主主義のもとになっているdemocracyの語義ををロングマン英英辞典で調べると、政府の構成員を全員の投票で決める政府のしくみ というような語義が書いてある。

民主主義という漢字の語感から想像される意味よりも英英辞典で調べたほうがはるかに現実に即した語義が書いてあるなと思う。

また、新聞の社会欄には事実関係もろくに検証しないでまとめサイトにいろんな情報が書き込まれていてフェイクも多いということが社会問題にもなっているという主旨のことが書いてある。

こういう時代背景のためか、ネット、紙媒体を問わず、よく内容を検証しているとはとてもおもえないような誇大広告、即席で作られた新書とか、そういう本のたぐいも多くなったなと思う。

本当に、私達が生きていくうえで何が大切なのか、改めて考え直さなければならない時代になっているなと思う。

パウロはコリント人への第一の手紙の中で次のように書いている

「愛は忍耐強い。 愛は情深い。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理をともに喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない

こんな理想通りに生きることは無理かも知れないけれど、安易に即席の方法論に傾倒するのではなく、こういう古来私達に伝わる理想というか、価値観があるのだということを心のどこかにおいて生きていくべきではないかと思う。



脆弱な世の中

2020年10月20日 | 日記
ユーチューブを見ていたら偶然、野村克也さんがなくなったときに、落合博満さんにテレビ局が取材した映像が出てきた。

その映像の最初で野村さんが落合さんに語る場面がある。
野村さんが言う
「おれはまぐれで三冠王、落合は実力で三冠王。落合は俺の価値下げた人だから」と。

野村さんってジョークがうまいなと思う。

落合さんは三回、三冠王をとっているけれど、プロ野球の歴史で戦後初めて三冠王をとったのは僕の記憶では野村さんだと思う。

初めてというのはやはりすごい。

別に価値が落ちるわけではないのに。

落合さんへのインタビューの最後に落合さんがしみじみという。

「(野村さんは)本当に野球が好きだったんだろうね」と。

結局、その落合さんの言葉が全てなのだと思う。

もう、野球が好きで好きでしょうがない。

それが才能だし、そこに一生打ち込めるということなのだと思う。



新聞に先日、東証の取引が終日停止になったことに関して
システムのバックアップをとっていなかったことが原因の一つであったという主旨のことが書いてある。

自分は歳をとってきて、若いときにしていなかったことは歳をとってから始めても進歩に限界があると感じるようになった。

いま、社会で特に大きな組織のリーダーになるような年齢の人は若い頃からITのシステムというものを学んでいたわけではない。

そういうのを若い頃から学んでいるのは若い人に限られる。

若い人はシステムには強いかも知れなけれど、総合的な人生やビジネスに関する経験値は一般に低い。

昔と違って、年配のリーダーが知らない部分で若い人が動いている可能性が高いように思う。

そういうことが、今、社会のいろんなシステムに脆弱な面が現れやすい原因の一つなのではないかと思う。



受け取りの印鑑のいる郵便物が自宅に配達されて不在票が入っていた。

そこに書いてある電話番号に電話してオペレーターの方に隣の街の駅前郵便局に郵便物を転送してもらってそこで受け取ることにした。

自宅に特定の時間にいなければならないのは僕にとっては結構しんどいことなのでこちらから郵便局まで取りに言ったほうが気楽だと思ったから。

2日後に郵便局から電話がありオペレーターの方が僕の郵便物のID番号のみ記録して郵便物の受取人を記録していなかったので郵便の転送が2日ほど遅れると言ってきた。

2日ほどというのは少し曖昧で心配なので3日後なら確実ですかと僕が郵便局の人に尋ねたら
郵便局のネットを開いてID番号を入力したら確実にわかりますよ とおっしゃった。

それは、若い人とかいつもネットでそういう手続きをしている人にとってはそれは便利で迅速
確実な方法かもしれないけれど、そんなこと普段ネットでしない僕にとっては何をお気楽にネットで調べろなどど無責任なことを言っているんだとなってしまう。

それで、まあ心配だったら郵便局に電話で確認してから取りに行きます、と言ったら それでもいいですねとおしゃった。

ネットでの取引になれている人は電話は第二の手段なのだと思う。

しかし、ネットでの手続きをパソコンやスマホ、タブレットの画面上でしなければならない限り、若い人も50歳になるくらいの頃には自分自身もそういうことがおっくうになっていることに気づくのではないだろうか。

歳をとると確実に目は衰えるし、目が衰えるとそういうネットでの操作は、煩わしくなってくるのが必然のように思うから。

ある会社にある手続きを申し込んだら、手続きはメールとネットを使ってするようにとのことだった。(メールもネットの一部だけれど)

しかしその手続きはちょっと専門的な知識も必要なもので僕にはちょっとできそうもない。

いつもは電話でやりかたを教えてもらってネットの操作をするのだけれど、今はコロナで、コールセンターでネットのやり方を教える人が在宅勤務になってしまっている。

つまり実質的にコールセンターは休眠状態ということだ。

なので、こちらから何日の、何時に電話してくださいと言った時間に先方から電話してくれるシステムになっている。

そういうのって僕、大の苦手。

思い立ったときにこちらから電話してやり方を教えてもらうほうが遥かに気分が楽。

かかってくる電話をじっと待つのはつらい。

時間通りにかかってこないこともあるし。

もう仕方ないのでネットの手続きの得意な人に手続きを代行してもらうことにした。

しかし、コロナと言って安易にコールセンターを休眠させてしまって、その会社は大丈夫なのだろうかと顧客の立場としては不安になる。

本社の代表番号に電話して、そこで「今は電話は受け付けておりません」という自動音声が流れるとやはり、僕はなにかの無責任さを感じてしまう。

きっと若い人がITのシステムを最大限利用して、コストダウンをはかり、低価格で勝負しようという発想で始めた会社なのだろうと思う。

たぶん、コロナのようなリスクは考慮されていなかった可能性が高いと想像する。

本当に今は、基盤のもろい世の中になったものだなと思う。

その中でもなんとか無事にやっていけるようにと願っている

一切皆苦

2020年10月18日 | 日記
昨日は雨 、ちょっと寒いくらいだった。ブルゾンを着ていこうと思ったけれど、実は僕、今春以来ブルゾンをクリーニングに出してない。

ブルゾンといってもユニクロのダウンジャケットだけれど。

とにかく洗濯をしなければと自宅の洗濯機の手洗いモードで選択して洗い、陰干しした。

かわくとまあそれなりにきれいになっている。

しかし、昨日の段階ではまだ、乾いていなかったのでブルゾンの代わりにネックウォーマーを持っていった。

ちょっと寒いと感じたときにネックウォーマーをつけたけれど結構温かい。昨日の段階では十分それでしのげた。

今日は一転して晴れ。

これならブルゾンは必要なしと家においてでかけた。

ところが電車の窓が開いていて寒いときがあった。

ネックウォーマーを探したら持って出かけるのを忘れている。

まあ、間の悪いこと。学生の頃よく友達に「お前は本当に間の悪いやつだなあ」と言われていたけれど。

電車の中でちょっとピーナッツを食べようとしたらピーナッツが一粒、床に落ちてしまった。

「しまった」と小声で言ってその一粒のピーナッツを目で追った瞬間によだれが床にたれてしまった。

しまった、と言って口を開けたのが原因だった。

それを見て、近くに座っていた女性がサッと席を立ってどこかへ行ってしまった。

まあピーナッツを床に落としておまけによだれをたらすほうが悪いとは思うけれど、それでサッと席を立っていかれると、正直言って「感じワル!」と思う。

不潔なのもまわりに悪い感じを与えると思うけれど、潔癖症的な行動も、それと同等に感じの悪い印象を与えるように僕はごく個人的に思う。

とくに今のようにコロナという状況になると何がきれいで何が汚いのか、なにしろ菌やウイルスは目に見えないので明晰、判明に判断することは不可能だ。

最後は個人の感覚にかかってくるように思う。

よくコロナは飛沫感染と、接触感染が話題になるけれど、お店などでビニールの仕切りなどを作れば作るほど、飛沫感染は防げるかもしれないけれど、接触感染の起こりうる面積はビニールの面積の分だけどんどん増大していくことは普通に想像すればなんとなくわかるような気がする。

すき家のカウンターに仕切りがいっぱい作ってあって、そのしきりごしに生姜に手を伸ばしたときに手がその仕切りに触れたときそう思った。

ああ、もしこの仕切りにウイルスが付着していたらこれで接触感染だと。

新聞には新型コロナウイルスのワクチン接種に向けた準備が進んでいると書いてある。

これを見てなんか不安になってきた。

ワクチンには副作用がある。実験段階で副作用が報告されているけれどその詳細は一般には公表されていなというようなことが新聞に書いてあった。

へたにそれを公表するとワクチンの接種率が下がってしまうからではないかと密かに思ってしまう。

僕はもともと、ワクチンは副作用が怖くて摂取しないタイプ。

しかし、きっと世の中にはワクチンを接種して安心するというタイプの人のほうが多いのだと思う。

いつか、幼稚園などで子供にインフルエンザの予防注射を打たない親はまわりのママからきらわれることもあるとどこかに書いてあったように思うし、、、。

ワクチンを接種した人から、あの人はワクチンを接種していない、危ない、近くによるな、などということになったら、それは逆に怖いし不安だなと思う。

ワクチンがあれば、コロナもこんなに恐れられることはないと思ったこともあったけれど、今はむしろ、ワクチンひとつとってもコロナという目に見えないものに対する人の感じ方で対立が起きることが心配になっている。

ワクチンができれば、安心な面、不安な面、両方ある。

仏教の重要な考え方の一つに一切皆苦(すべてはくるしみである)というものがあるけれど、本当にそのとおりだなと思う。

それを心にとめておいて苦しいのがあたりまえと思っていたほうがきっと精神衛生の上ではいいのだと思う。