ケンのブログ

日々の雑感や日記

災害以上に怯えた人間が怖い

2020年07月18日 | 日記
芹沢光治良さんの「人間の運命」という小説を読んでいると、登場人物の言葉として、濃尾地震のときの印象が
「地震も火事もこわかったけれど、それ以上に、怯えた人間がこわくなったって、、、
だからこれからが心配ですわ」と書かれている。

これからというのは関東大震災のこれからを指している。

先日ある方に
「もうフェイスシールドがないと不安とかマイクは一人ひとりとりかえないと不安とか言うのは、確かに一理あるかもしれないけれど、合理的にコロナを恐れているというより、潔癖症の領域の人も多いと思うんですよ」と僕が言った。

するとその方は
「そうなんですよね。もう怖くて未だに出てこれない人も居るんですよ。やっぱりこれはメンタルの問題が大きいですね」とおっしゃった。

本当に心の問題が大きいと思う。

コロナそのものの怖さもさることながらコロナに対する恐れ方の違い、考え方の違いから生まれる人と人の不和もかなり大きなものになっているように思う。

そういうものをなんとか辛抱してときの流れにのっていきたいものだと思う。

コロナそしてマスクの風景 口呼吸と鼻呼吸

2020年07月17日 | 日記
だんだん暑くなってきてそれでもマスクというのはやはりきついものがあるとは思う。

僕も使い捨てマスクはなんかもったいないし環境のためにも良くないような気がしてガーゼマスクをするようにしていた。

まあ、ガーゼのマスクのほうがマスクが手に入りにくい時期は何度も洗って使えるし安心感があったし。

しかしこう蒸し暑い時期になるとガーゼのマスクはやはり余計蒸し暑くなってしまうようで装用感が悪い。

マスク着用を客にお願いしている場所に行ったときだけマスクをすればよいと思っていた時期はガーゼのマスクで事足りた。

しかし、最近、喉の保護のためにできるだけマスクの装用時間を長くしようというように気持ちが変化してきた。

そうなるとやはりガーゼマスクよりも使い捨てのいわゆるポリプロピレン、ポリエチレン製のマスクが圧倒的に装用感がよい。

ポリプロピレンって今、環境破壊で問題になっているレジ袋も確かポリプロピレン製のものがおおいはずだ。

同じポリプロピレンでもレジ袋は環境破壊を防ぐとかいう理由で有料化になる、使い捨てマスクはむしろそれを使用することが推奨されている、そのあたりのからくりはどうなっているのだろう。

僕は理科系の知識はほとんどないのでその点につっこんで言及はできないけれど、不思議といえば不思議だなと思う。

でもそこまで気にしてるともうきりがないと思っていまはとりあえずそういうポリプロピレンやポリエチレンでできたマスクを中心に使用している。

やはり装用感はガーゼマスクよりも圧倒的に良いと思う。

特に夏場で湿気の高い時はそれを感じる。

そう感じるのはきっと僕だけではないのだろう。使い捨て型のマスクをしている人の比率が圧倒的に多くなってきているように思う。

従来ならコンドルのくちばしのような形のおしゃれなマスクをしているような雰囲気の子も夏場になってきて使い捨てのマスクをしているケースが多くなっているように思う。

なぜそう僕が思うかというとコンドルのくちばしのようなおしゃれなマスクをした子のつれもまたコンドルのくちばしのようなおしゃれなマスクをしている場合が従来は圧倒的に多かったが、夏場になってきてコンドルのくちばしのようなおしゃれなマスクをした子のつれは普通の使い捨てマスクをしているというケースがとみに多くなってきたからだ。

とはいうもののそいいうおしゃれな子のつれは使い捨てもマスクでもバシッとおしゃれにつけているけれど、、、。(この点は多分、僕の主観によるところが大きいと思うのであしからず。)

それでもこれだけ暑いと口だけマスクをして鼻の穴は外に出している人、マスクをあごの下までずりさげて歩いている人の比率もずいぶん高くなったと思う。

そしてご多分にもれずそういういわばアンファッショナブルなマスクの仕方をする人は男のほうが多いけれど女性でも、しんどいわ、やってられるかという感じで駅のコンコースを歩くときなどはマスクを下げている人もちらほらみかける。

僕もいっときは鼻の穴はマスクの外に出すことが多かった。

ただ、のどの潤いということを考えるとやはり鼻の穴までしっかりマスクで覆ったほうが効果が高いことは一般的にも言われているし、自分自身の実感としても感じる。

それでこの時期マスクをなるべくずりさげないで鼻の穴まで覆うにはどうすればいいかということを試行錯誤してみた。

ちょっと試行錯誤してすぐにわかることは、マスクをして口呼吸をしているとすぐにマスクの中に湿気と熱がこもってマスクをはずしたりずりさげたくなってくる。

口で呼吸しないで鼻で呼吸すると、口で呼吸したときに比べてはるかにマスクに熱と湿気がこもりにくく、マスクをずりさげたいという衝動にかられる頻度が低くなる。

そして喉もなんとなく潤っているなと実感できる。(科学的にデータをとったわけではないので感覚的なものだけれど、、、)

やはり一般に言われているように鼻呼吸をすることはいろいろなメリットがあるのだなとしみじみと思う。

それにガーゼのマスクをつけて鼻呼吸を続けることは体力的にしんどいけれど使い捨てのマスクは一般に通気性がいいのでそれが可能になる。

まだ梅雨があけていないから僕もこんなこと言っていられるかもしれないけれど、いざ梅雨があけて本当に一年で一番暑い時期が到来したら僕もどうなっているかわからない。

マスクなんてお店に入ったときだけだとなっているかもしれない。

本当にいろんな情勢をみているとコロナがそんなに月単位の時間で収まるとは思いにくくなってきて、コロナをことさらに避けるというよりも、なるべく気をつけながら共存していくというふうに考えを切り替えるべきときなのだろうなと思う。

その使い捨てマスクなのだけれどドラッグストアで見ると7枚入りで300円位がだいたい相場になっているように思う。

それで100円ショップに行くとたしかに100円だけれど3枚入りだったりする。コロナになる前は100円ショップに行くと30枚入り100円というボックスもあったように記憶しているけれど、今の状態だとドラッグストアでも100円ショップでも大して値段は変わらないという状況になっている。

ドラッグストアのほうが単価はやや割高だけれどそれでも品質は安心できるものが多いようにも思う。

100円ショップのほうが圧倒的に安いというときなら迷わず100円ショップだけれどそういう構図もコロナで変わってしまったなと思う。

緊急事態宣言のときにもほぼ必ずマスクが店頭に置いてあったドンキホーテはどうかというとこちらも値段の方は7枚で300円程度でドラッグストアとほぼ横ばいという感じになっている。

本当にコロナはマスク一つとっても経済の流れを変えてしまったなと思う。


コロナの夏

2020年07月15日 | 日記
本当に国内のニュースを読んでいてもまた新聞の国際欄を見ていてもニュースはコロナを中心にまわっているという感じでいつまで続くのだろうと思ってしまう。

終わりが見えない状況に対峙していくというのはやはり忍耐のいることだなと思う。

今年困ることの一つは電車の冷房が効きすぎる場合が多いということだ。
僕は冷房のメカニズムを知らないけれどきっと冷房の機械は今年のようにコロナのために換気が必要な場合を想定して設計されてないのではないかと思う。

そのため今年のように冷房と換気を両立させなければならないというときになるとつい効き過ぎてしまったりという事態が起きるのではないか。

僕は暑がりだけれどそれでも下手に冷房と換気を両立させようとするくらいならいっそのこと窓を開け放して走ってくれたらと思ったりする。

そうすると今度はきっと暑いとか言う人がでてくるだろうし、今の状況では鉄道会社には冷房が寒いという苦情はきっと入っているような気がする。

本当に大変なことだなと思う。

京都の商店街でコンチキチンのお囃子がスピーカーから聴こえてくるとなんか郡上節が恋しくなってきた。

それで歌詞を見てみると三百の歌詞にこんなのがある

越前歩荷(ぽっか)の荷ならそこに下ろすな
鯖くさい

歌詞だけ書くとなんのことはないかもしれないけれど
三百はサビのところで
鯖くさい 鯖くさい ノー鯖くさい
と何度も繰り返すからそこに面白みがあると思う。

越前といえば海の国(今の福井県が越前国にあたる)。そこから来た荷物に鯖が積んであれば確かに郡上の山奥の人は臭いと感じるだろう。

そこに下ろすなと正直に歌うところにも面白みがある。

また、越前国(福井県)と奥美濃は意外と地理的にも近く古くから交流があったこともしのばれてやはり郡上節はいいなと思う。

七両三部の春駒 春駒
という春駒のお囃子の掛け声も
能登半島から鯖を売りに来ていた商人が七部五厘の焼き鯖 焼き鯖と言って鯖を売っていて
郡上は山国で鯖はないから鯖が春駒になったという説もあるという。

なるほどと興味がつきない。



久々の催し

2020年07月14日 | 音楽
隣の街の公共の施設で催されていた歌声サロンが何ヶ月ぶりかで再開されたので参加した。

決まりでフェイスシールドをして歌うということだった。

フェイスシールドは先生がみんなのものをまとめて代金建て替えで購入してくださったのだけれど僕は自分で軽いのを買って行った。

本当に20グラム程度のシールドをつけるだけで身体感覚ってずいぶん違うものだなとしみじみと感じた。

いつもと同じ構えで声を出しているつもりなのになんか全然声が出ていないように思えてくる。

お腹から声を出そうと自分に言い聞かせてもフェイスシールドをかぶっているせいか顔の方にばかり意識が行ってつい喉だけで声を出しているような気持ちになってくる。

なんかいつもと感覚が違うなとしみじみと思った。

歌をみんなで歌う前に発声練習をする。発声練習の時は歌の先生がピアノで決まった音階を半音ずつあげけていってあるところまでくると逆に半音ずつ下げていって、それに従って低い音から高い音までまんべんなく発生できるしくみになっている。

そのピアノの音を聴いていて伴奏の先生が「やっぱりしばらく使ってないからピアノの音がね」と歌の先生におっしゃった。

しばらく使わないことによるピアノの音の変化というのに僕はまったく気づかない。

やはり、普段そういう感覚で過ごしておられる方は気づくポイントが違うなと感心してしまう。

普段は歌の先生が途中で一曲何か歌ってくださるのだけれど、今はとても歌うような状況ではないということで(それはそうだろう)ピアノの先生が独奏をしてくださった。

夏は来ぬ という唱歌を先生が即興でアレンジされたような感じのものを演奏してくださった。

ジャズというのとは違う感覚の演奏で僕の知らない範疇のアレンジだけれど、ホテルのラウンジで演奏されるようなムーディーな音楽といったらいいのだろうか。

自由に和声やメロディが展開される中で随所に夏は来ぬ、の旋律が明確に出てくる。

いろいろに音が変化する中で夏は来ぬの旋律が出てくると、道を歩いていて知っている風景を眺めたときのようなホッとした気持ちになる。

先生のピアノは僕が感じるごく直感的な印象として、音感、リズム感がちょっと独特、それに和声の感覚が美しい。そして、リズム、和声などからなる曲想を変化させるのがとても巧みだなと思う。

変化のさせかたは基本的になめらかなのだけれどそのなめらかな中に時々ドキッとするような瞬間がある。それは、和声の鳴り方であったりちょとしたリズムの変化であったりその組み合わせであったりするように思う。

そういういわば瞬間美というものは一瞬ごとに音が変化していく音楽ではとても大切なことであるように思う。

ピアノを職業にする人なら誰にでもできることでは決してないと思う。

隣の芝は青く見えると言うけれど、自分にできないことができる人はやはり素敵だなと思う。

演奏を終えたあと先生は夏の歌ではこれが一番好きとおっしゃった。

まあ、夏の唱歌などのたぐいではこれが一番お好きという意味とは思うけれど。


その歌声サロンだけれど再び無期延期になるとのこと。

ソーシャルディスタンス、フェイスシールド、出席者の把握(これは僕の想像では、もしもの場合に感染経路を明らかにするためと思われる)、公共の施設を借りていても出席者の数が読めないという不安定な状況などを勘案したらやむを得ないことと思う。

それにこういうときに公共の施設で催しを行う場合の気遣いはそれをする人にしかわからないことだと思うし、、、。

本当にいまはなるようにしかならない時期だなとしみじみと思う。

どうかこういう時期をなんとか乗り切れますようにと願っている。



マスクの風景

2020年07月13日 | 日記
僕はコロナに感染した人の数などそれほどまめにチェックしているわけではない。

なのでニュースの記事をよんだイメージでしかないのかもしれないけれど、アメリカでもそして日本でもコロナは必ずしも収束しているわけではないのに経済は再開という動きになっているように思う。

コロナの感染があってももう一度ロックダウン、あるいは外出などの自粛ということをすれば経済がもたないし、家にずっといるみんなの気持ちも持たない。教育などのサービスも機能をはたさなくなってしまう。などが大きな理由なのではないかと思う。

特に日本のような国ではみんな規則はよく守るし気をつけてはいるのだろうけれどコロナはそれでも私達にとってかなりアンコントローラブル(制御不可能)なものであるように思える。

なるべく気をつけてあとは流れをみていくしかないのだとおもう。

本当はコロナのときに限らず私達の人生はいつもそうなのだろうけれど、このコロナということを機会にそういうことをよりいっそう顕著に感じさせられる思いだ。

街でマスクをしている人の様も変わってきた。緊急事態宣言の時はマスクが手に入りにくかったせいもあるだろうけれどみんな個性的なマスクをしていたように思う。

それが今ではドラッグストアーに普通に売っているような使い捨て型のマスクをしている人が圧倒的に多くなったように思う。

僕が理由として思うのは、もちろんドラッグストアーで売っているマスクの供給が追いついてきたというのがまず第一だ。

それ以外に考えられることとしてやはりドラッグストアで売っている使い捨てマスクは装用感がいいように感じる。

これだけ長丁場でマスクをする覚悟を固めなければならないとなると個性とかおしゃれよりもまず装用感がいいものという考えになるのではないかと今日ふと思った。

それにドラッグストアで普通に売っているマスクは見栄えも決して悪くなように思う。

たぶん石油化学製品と思われる使い捨てマスクが大量に消費されていくのもそれはそれで考えものかもしれないけれど、マスクを手に入れるのにそんなに苦労を感じなくなったことはありがたいなと思う。