もう8年ほど前に書いたものです。
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「風の詩人―上野壮夫展」を見て
佐藤三郎
●多喜二と壮夫
「風の詩人―上野壮夫展」が、十月二十日から十一月ニ十五日(2001年)まで古河文学館で開催されている。展示室のなかでひときわ眼をひくのは、小林多喜二の遺体を前に同志が枕元に集まっている写真である。そのほぼ中央に、上野壮夫の悲痛な表情の姿がある。
壮夫は、この夜の多喜二に
「なかまよ/きみを愛する誰がこの痛みを感じないか/血みどろの膝に、胸に、ひたいに!/どこでもいい 党の道をひとすじに生きてあれと希うおれらに ああ、いまはなきがらとなって横たわる同僚よ!」「誰がその血を歌い継がないものか!/だれが百万のきみとなってふるい起たないものか!」(「戦い継ぐもの―同志小林多喜二に」)
とよびかけたことは、その後の壮夫の歩みを考えるととりわけ印象深い。
●波乱の歩み
壮夫は一九〇五年、筑波郡作岡村(現筑波町)大字安食に生まれた。茨城県立下妻中学校友会誌『為桜』に詩・短歌・随筆を発表して早くに文才をあらわし、早稲田高等学院露文科に入学してからは『黒嵐時代』同人となって左翼運動にのめりこみ、二八年退学処分された。以後は、ナップ(全日本無産者芸術連盟)機関誌『戦旗』の編集に従事して多くの評論・詩を発表、三二年からはプロレタリア作家同盟の『プロレタリア文学』編集長を務めた。
三四年の作家同盟解散後も、大宅壮一と創刊の『人物評論』や『文学評論』、『現実』、『人民文庫』などの各誌で、侵略戦争に抵抗の姿勢を示した。壮夫が運動から離れた時期はよくわからないが、戦旗社責任者として治安維持法違反にとわれ、「転向声明」を書き出獄したことは知られている。体験にもとづいた「転向小説」などを発表したが、以後は筆を折った。
戦後はコピーライトに才能を発揮する一方で『詩の座』『文芸復興』で詩作などを再開し、終戦までの前半生を描いた長編叙事詩「黒の時代」、晩年は小説「冬の宴」の執筆に力を注いだが未完のまま、七九年六月に癌で死去した。
●心に吹く風
中央壁面には、晩年の壮夫の大きな写真がある。
その額には深い縦皺が刻まれている。彼の「墓標」と題した詩の一節「その黒い階段を下り/ばらばらの墓石をあつめてみたところで/夜と霧と あれら無数の死の意味を知ることはもうできやしない/きみらが流した血の赤土の上に/三三三メートルの鉄塔が立ち/電離層からくるかすかな散乱波は/あたかも死者の声に似て慄へているが/その意味を誰も解くことはできやしない」を思い浮かべた。「三三三メートルの鉄塔」は東京タワーであり、そこは多喜二がスパイの手引きで特高に捕らえられた地であった。わたしは、壮夫の心のなかに吹きつづけた風が、あの冬の時代のものであり、そこにはいつも風に身をかかめながらも前にすすむ多喜二たちの姿があったのだろうと思った。
今回展は、次女・堀江朋子が評伝『風の詩人―上野壮夫』を上梓、あわせて関係資料を古河市に寄贈して実現したもの。上野壮夫関係の展観としては初の開催。同展の問い合わせ等は、茨城県古河市中央町三丁目一○の二一 電話0280ー21ー1129の同館へ。
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「風の詩人―上野壮夫展」を見て
佐藤三郎
●多喜二と壮夫
「風の詩人―上野壮夫展」が、十月二十日から十一月ニ十五日(2001年)まで古河文学館で開催されている。展示室のなかでひときわ眼をひくのは、小林多喜二の遺体を前に同志が枕元に集まっている写真である。そのほぼ中央に、上野壮夫の悲痛な表情の姿がある。
壮夫は、この夜の多喜二に
「なかまよ/きみを愛する誰がこの痛みを感じないか/血みどろの膝に、胸に、ひたいに!/どこでもいい 党の道をひとすじに生きてあれと希うおれらに ああ、いまはなきがらとなって横たわる同僚よ!」「誰がその血を歌い継がないものか!/だれが百万のきみとなってふるい起たないものか!」(「戦い継ぐもの―同志小林多喜二に」)
とよびかけたことは、その後の壮夫の歩みを考えるととりわけ印象深い。
●波乱の歩み
壮夫は一九〇五年、筑波郡作岡村(現筑波町)大字安食に生まれた。茨城県立下妻中学校友会誌『為桜』に詩・短歌・随筆を発表して早くに文才をあらわし、早稲田高等学院露文科に入学してからは『黒嵐時代』同人となって左翼運動にのめりこみ、二八年退学処分された。以後は、ナップ(全日本無産者芸術連盟)機関誌『戦旗』の編集に従事して多くの評論・詩を発表、三二年からはプロレタリア作家同盟の『プロレタリア文学』編集長を務めた。
三四年の作家同盟解散後も、大宅壮一と創刊の『人物評論』や『文学評論』、『現実』、『人民文庫』などの各誌で、侵略戦争に抵抗の姿勢を示した。壮夫が運動から離れた時期はよくわからないが、戦旗社責任者として治安維持法違反にとわれ、「転向声明」を書き出獄したことは知られている。体験にもとづいた「転向小説」などを発表したが、以後は筆を折った。
戦後はコピーライトに才能を発揮する一方で『詩の座』『文芸復興』で詩作などを再開し、終戦までの前半生を描いた長編叙事詩「黒の時代」、晩年は小説「冬の宴」の執筆に力を注いだが未完のまま、七九年六月に癌で死去した。
●心に吹く風
中央壁面には、晩年の壮夫の大きな写真がある。
その額には深い縦皺が刻まれている。彼の「墓標」と題した詩の一節「その黒い階段を下り/ばらばらの墓石をあつめてみたところで/夜と霧と あれら無数の死の意味を知ることはもうできやしない/きみらが流した血の赤土の上に/三三三メートルの鉄塔が立ち/電離層からくるかすかな散乱波は/あたかも死者の声に似て慄へているが/その意味を誰も解くことはできやしない」を思い浮かべた。「三三三メートルの鉄塔」は東京タワーであり、そこは多喜二がスパイの手引きで特高に捕らえられた地であった。わたしは、壮夫の心のなかに吹きつづけた風が、あの冬の時代のものであり、そこにはいつも風に身をかかめながらも前にすすむ多喜二たちの姿があったのだろうと思った。
今回展は、次女・堀江朋子が評伝『風の詩人―上野壮夫』を上梓、あわせて関係資料を古河市に寄贈して実現したもの。上野壮夫関係の展観としては初の開催。同展の問い合わせ等は、茨城県古河市中央町三丁目一○の二一 電話0280ー21ー1129の同館へ。
東京にひとつも多喜二を記念するモニュメントがないのがいつも残念で、麻布十番時代に文学散歩をガイドするときには、この上野の詩を紹介していました。
※めいさんには、紹介しなかったかもしれませんね。
わたしは、上野の詩が「多喜二」ではなく、「きみら」が意味深いと思っています。
この麻布界隈を闊歩していた今村、梶井基次郎、伊藤整、島崎藤村ばかりか、ゾルゲも想い浮かべてしまいまい。
ここに彼らの青春―その生と死が刻まれている。
「その黒い階段を下り/ばらばらの墓石をあつめてみたところで/夜と霧と あれら無数の死の意味を知ることはもうできやしない/きみらが流した血の赤土の上に/三三三メートルの鉄塔が立ち/電離層からくるかすかな散乱波は/あたかも死者の声に似て慄へているが/その意味を誰も解くことはできやしない」
詩に感動しました。
多喜二達の流した血の上に、333メートルの鉄塔が建っている。。。
東京の、日本の歴史の傷跡が、このように隠されていくけど、多喜二たちの精神はこういうものをかいくぐっていまに生きていることを思うと、とても気持ちが鼓舞されるように感じます^^。