「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

多喜二、東京を歩く。

2009-09-13 23:45:19 | 多喜二研究の手引き
秋、気持ちのいい季節となりました。
ぜひこの機会に多喜二ゆかりの東京を歩くことをおすすめします。

多喜二文学散歩の案内は、『ガイドブック 小林多喜二の東京』(学習の友社 2008)でごらんください。



(1)多喜二が小樽より上京して田口タキと暮らした地==中野区中央4丁目

(2)作家同盟大会など開催された帝大仏教会館跡==文京区本郷3-33-5

(3)犠牲となった平沢計七を敬愛し多喜二が訪ねた地・亀戸事件殉難碑==江東区亀戸4-17-11 赤門浄心寺内

(7)多喜二が囚われていた豊多摩刑務所==中野区野方3丁目 平和の森公園内

(9)多喜二が獄中の傷をいやし「オルグ」を執筆した七沢温泉・福元館==厚木市七沢2751

(10)恩師・大熊信行の入院先を見舞いに訪れた南湖院==茅ヶ崎市南湖7-12969

(11)多喜二らが文芸講演に訪れた神奈川会館跡==横浜市神奈川区栄町12 神奈川公園

(12)母セキ・弟三吾を呼び寄せ暮らした小林家跡==杉並区阿佐ヶ谷南2-22-2

(15)講演に訪れた多喜二らを逮捕した伊勢崎署==群馬県伊勢崎市緑町3番

(16)「3・15」「4・16」裁判を傍聴した東京地方裁判所==千代田区霞ヶ関1丁目

(17)遺作「党生活者」の舞台、藤倉工業==品川区西五反田2-11-20

(18)地下活動に入った多喜二をかくまった木崎喜代方跡==文京区白山5-295

(19)多喜二が伊藤ふじ子と住んだ称名寺==港区南麻布1-6

(20)地下活動のなかで母と再会したパーラーやまなか屋==港区麻布十番1-9

(22)多喜二最後のアジト、国井喜三郎の家跡 渋谷区広尾3-17

(23)地下活動のなかで多喜二と弟・三吾がシゲッティのコンサートを聴いた日比谷公会堂==千代田区日比谷公園1-3

(24)多喜二が逮捕された溜池==港区赤坂2丁目 料亭街通り

(25)多喜二が拷問を受けた築地警察署==中央区築地1-6-1

(26)多喜二が絶命した前田医院==中央区築地1-3-6

(28)多喜二追悼で「沼尻村」を公演した築地小劇場跡==中央区築地1-3-6







多喜二の東京――そのまなざし    


小林多喜二は1930年3月末、プロレタリア作家同盟の大会に出席するため小樽から上京した。以後の多喜二を概略すれば以下のようになる。大会出席後、作家同盟から他の幹部とともに関西での講演会に派遣される。その大阪で検挙・拷問され、いったん釈放後東京にもどったところを再び検挙。中野・豊多摩刑務所での半年の獄中生活ののち、1931年1月に出獄。その七月作家同盟書記長に選ばれたことにより、阿佐ヶ谷に一軒を借り、弟・三吾と母・セキを呼びよせて本格的な東京生活をスタートさせる。それもつかのま時代の暗雲は、満州事変から翌32年3月1日の「満州国建国」にいたる。同月末には左翼文化関係者への弾圧が下され、蔵原惟人、中野重治ら主要幹部が総検挙された。残された多喜二は麻布十番・渋谷を点々としながらの地下活動を余儀なくされた。その臨界ともいえる奮闘は、畢生の代表作「党生活者」を生み出すものの、10ヶ月後の1933年2月20日には築地警察署で凄惨な拷問による最期によって幕がひかれる。29歳だった。東京は、多喜二の文学活動が水を得た魚のような飛躍をみせはじめた地であり、それが無惨に断たれた地でもある。

生誕100年の2003年に白樺文学館が初公開した銀行員時代の多喜二が小樽高商時代の恩師・大熊信行に宛てた書簡(1927年2月6日消印)は、「地方では刺戟も浅いし、銀行という生活も随分かけ離れたものであり、そんな色々な事を考へ、此頃すっかり参っています。それで昨年の暮頃から色々東京の知人に手紙を出して、雑誌社か新聞社のほうに口がないか、をたずねて貰いましたが、ありませんでした。それから奈良にいる志賀直哉氏とは小説を時々見てもらったり、手紙を貰ったりしている関係上頼んでみましたが、やはり思わしいところもないとのことでした。」と<東京>への思いの一端を述べている。ここには、作家・小林多喜二としての成功を、東京に出ることで果たしたいという熱を感じとることができるだろう。

しかし、多喜二の思いは、淡い”東京への憧れ”ではなかった。それは冒頭の貴司とともに亀戸を訪れ、1923年12月の平沢追悼集会に「平沢計七の霊に対して、遥るか、小樽の地から弔します」とメッセージを送ったことにも示されている。平沢計七は、9月1日の関東大震災後の亀戸事件―川合義虎、山岸実司、北島吉蔵、鈴木直一、近藤広造、加藤高寿、吉村光治、佐藤欣治、中筋宇八らとともに、亀戸署の演武場横の広場で習志野騎兵隊の兵士によって殺害された労働演劇家である。貴司に案内された多喜二は、「こゝか・・・・・・、こゝか!」と感激の声をあげたという。この時の亀戸行の体験は、二週間後の十七日、東京市電争議の一コマを描く小説「市民のために!」(『文芸春秋』1930年7月増刊・オール読物号) や、「壁にはられた写真」(『ナップ』1931年5月号)に生かされている。

以下に、多喜二が作品に描いた”東京”をたどる。

――蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。資本主義がきまりきった所だけの利潤では行き詰まり、金利が下がって、金がダブついてくると、「文字通り」どんな事でもするし、どんな所へでも、死物狂いで血路を求め出してくる。そこへもってきて、船一艘でマンマと何拾万円が手に入る蟹工船、――彼等の夢中になるのは無理がない。(「蟹工船」)

 小樽在住時代の多喜二が捉えた<東京>丸の内は、北限で働く労働者の姿とあいまって、その支配者の姿があざやかである。
さらに、東京時代の多喜二の作品、なかでも「党生活者」は、支配者としての<東京>と、五反田、新宿、銀座、麻布十番の地で、その支配に屈しない生き様を見せる人々の<東京>を描いている。なかでもっとも印象的なのは、麻布十番での、母との対面の場面だ。

――私はその小さい料理屋へ出掛けて行った。母親はテーブルの向う側に、その縁(ふち)から離れてチョコンと坐っていた。浮かない顔をしていた。見ると、母はよそ行きの一番いゝ着物を着ていた。それが何んだか私の胸にきた。
 そこには、<東京>の小料理屋でたたずむ、田舎者の母の弱さと強さが、作者の慈愛にみちた眼差しで活写されている。

また、多喜二が実体験した豊多摩刑務所の様子は、「独房」(『中央公論』1931年7月号・夏季特集号)などに描かれている。

最後に、築地との縁を指摘しておきたい。多喜二の「蟹工船」が最初に舞台に上ったのが築地小劇場であり、多喜二の葬儀(全国労農葬)もここで開催された。そして多喜二を裁判にかけることなく、凄惨な拷問の果てに死にいたらしめた築地警察署もその数百メートル先にある。いわば、多喜二の東京の〈光〉と〈影〉を象徴する場でもある。

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1 コメント

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行きました (よこ)
2009-09-14 17:45:18
(18)の白山に行きました
「1932年の春」を参考に多喜二が百合子・顕治の家に向かった可能性のある道を何本か歩いてみました。向こうから多喜二が歩いてくるような気がしました
(「刻々」の百合子が歩かされたであろう道を駒込警察に行きました。木造が立派な建物になっていました
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