「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

「党生活者」論の いろは をノーマ・フィールドに学ぶ

2012-06-22 00:02:23 | 「党生活者」論 序曲
多喜二はなぜ活動家群像のなかのハウスキーパー、スパイを描いたか



――ノーマ・フィールド「「党生活者」はなにを訴えてきたのだろうか」に寄せて――



                             佐藤 三郎



ノーマ・フィールドの問題提起に導かれて



「日本近代文学と戦争―「十五年戦争」期の文学を通じて」をテーマとしたシンポジウムが二〇一〇年十一月、愛知県立大学で開催された。この論文集『日本近代文学と戦争』(三弥井書店 二〇一二)が今春に刊行され、ノーマ・フィールド(米国・シカゴ大学教授)の「「党生活者」はなにを訴えてきたのだろうか」が収録された。



このシンポジウム論文集は豊富な成果を収めていて、さまざまに論ずる意味がある。また、この論文集には、それぞれの発表に続いての熱のこもった討論がおさめられている。ここで多喜二の「党生活者」についてのレポートが発表され、ノーマ・フィールドのリードによって他の発表とも連関して論議が深められたことは画期的なことだ。



特に私が注目するのは、「否定すべからざる悪――侵略戦争と労働搾取――に立ち向かい、人間の尊厳を回復するとき、闘う方の人間性はどうなるのか」の指摘だ。

ノーマは、この指摘に続けて、「ハウスキーパー論争は「党生活者」の語り手兼主人公の行動や言説を短絡的に多喜二その人のものと見なし、それらに対して多喜二が肯定的だったと判断し、さらに作品で描かれた、また史実として作品の背景にあった侵略戦争と労働搾取に対する闘いを無視し、また左翼運動に実際関わった女性の活動を狭め、歪曲してしまった」。「多喜二が問題提起として描いたものを、論者たちは(多喜二)に肯定された現象として捉えてしまった」、「結果として全く作品が読めておらず、おかげで、長い間、新しい読者も《ハウスキーパー問題》によって道がふさがれ、作品と出会うことが出来なかった。擁護する側、たとえば中野重治についても、ほぼ同じことがいえよう」と、これまでの「党生活者」への批評のほとんどが誤読と歪曲に基づくものでしかないことを明らかにしている。

擁護する側、たとえば中野重治についても、ほぼ同じことがいえよう」と、これまでの「党生活者」への批判的批評が根本的な誤読に基づくものであることを明らかにしている。



●最初の多喜二全集編纂者・貴司山治への注目



「党生活者」の誤読の歴史は、第一にこのテキスト生成をめっての大日本帝国の言弾圧と国禁処分によるものである(五分の一が伏字や削除された)。第二に、今日まで宮本顕治や党組織関係者らによって、「多喜二の入党から虐殺」前後の多喜二の党員としての活動内容が明らかにされてこなかったという、運動側の事情にもよっている。



前者は、(1)「党生活者」を担当した中央公論社の編集担当者名について、多喜二全集解題に表記されている「中村恵」は、「中村慧」ではないかとの疑念があり(『貴司山治 全日記DVD』不二出版 二〇一一にもとづく)。(2)また「党生活者」の本文テキストには二つの版がある。原稿を活字にするにあたっての経緯と手塚版「党生活者」テキストと貴司版の二つの版についての考証が正しく行われなくてはならない。この研究の成果の一つに、伊藤純「小林多喜二の死と貴司山治―貴司を出所とする「党生活者校正刷」(小樽文学館所蔵)をめぐって」(徳島県立文学書道館紀要『水脈』第9号(二〇一〇)、「小林多喜二全集の編纂過程」(『立命館言語文化研究』二三巻三号 二〇一二年二月)がある。これらを検討するにあたって確認しなくてはならないことは、多喜二全集解題にある「中央公論編集者中村恵談話」は、手塚が直接聞き取り調査したのではなく、貴司山治によるものだということである(貴司山治「全日記」に記載がある)。



ところで、民主文学第二十二回大会(二〇〇七年五月号)田島一幹事会報告では、「昨今、多喜二への関心の高まる傾向が見られ、『「文学」としての小林多喜二』(『国文学解釈と鑑賞』別冊・至文堂)なども発行された。多喜二論では、絶対主義的天皇制下ですすんで共産党員となった事実の文学的意義について、より深い研究が求められており、民主主義文学運動におけるこの点での役割は小さくない」とその深い研究意義について触れられている。とすれば後者の課題として、


① 多喜二入党の時期(新日本出版社全集では「一九三一年十月」、『小林多喜二書簡集』ナウカ社 一九三五年(追加) 貴司作成年譜では、一九三一年七月の作家同盟「臨時大会前後に日本共産青年同盟、日本共産党に入党」、『小林多喜二研究』(解放社 一九四八年手塚「生涯」では「五月の作家同盟大会で…入党」、同(追加)小田切進「年譜」では「七月の臨時大会の頃…入党」)と異なる認識となっていることが確認できる。
②入党推薦者は誰か、
③入党の翌年「アジプロ部員として赤旗編集局に参加」(多喜二虐殺直後の全集シリーズの一冊である『小林多喜二書簡集』に貴司山治作成未定稿年譜として収録。手塚英孝編纂「多喜二全集版」では削除)など検討を加える時期を迎えているのでないか。その意味でいえば、この分野の成果の一つとして神村和美の「小林多喜二の反戦思想と二十一世紀の〈反戦〉〈平和〉」(『多喜二奪還事件80周年記念論文集』二〇一一)に注目したい。

加えて今年の秋田・「秋田県多喜二祭50周年記念小林多喜二展」では多喜二の誕生日について、親族(多喜二のいとこの孫にあたる小林信義氏)による過去帳や除籍謄本などによって、改めて「十二月一日」が正しいと確認された。が貴司山治作成年譜ですでに「戸籍では十二月一日」と記載されていたもの。後に手塚版で「十月十三日」と改められ、以降現在に至っていた。新暦・旧暦の表記問題もからんでいるが、基礎研究の検証が求められている。




●「党生活者」続篇の布石を読む


ノーマは、島村輝「「党生活者」序論」(『「文学」としての小林多喜二』所収)での、前篇で多喜二は時の権力によってその生命を絶たれ、作品は中絶させられたが、もし多喜二が生きて「党生活者」の中篇、後篇を書くことができたら、《笠原に対する扱いや感覚が、やがて根本的に批判》されたのではないかとの指摘に共感を示している。ここにこそ多喜二が、「党生活者」への改題を編集者に宛てた手紙のなかで、「この作品で私は『カニ工船』や『工場細胞』などのような私の今迄の行き方とちがった冒険的試み(傍線引用者)をやってみました。」(八月二日付)、「今までのプロレタリア小説の型から抜け出ようと、努力してみた作品です。今迄の私の一系列の作品から見ても、私はこの作品の成果を特に注目しています。単なる失敗をおそれずに書いた(傍線引用者)ものです」(八月下旬)とその「冒険」の狙いがあることを明らかにした。



ノーマは、この前の節で、平野謙VS中野重治などの「ハウスキーパー論争」を概括し、「論争は《ハウスキーパー問題》の核心に迫ることはできなかった。簡単にいってしまえば、……彼らは笠原の扱いを評する際、多喜二の作品群はおろか、「党生活者」の全体を考慮しようとしなかった。擁護する側、中野重治についても、ほぼ同じことがいえよう」としたうえで、「ハウスキーパー論争からは戦争(丶 丶)がぬけていた。もともと一つの作品の両面であったものが切り離されてしまったのであれば、それをつなぎあわせる努力なしには、「党生活者」が私たちに向けた問いかけに応えることはできない」。多喜二が「生命をかけた運動についての根本的問いかけ」であり、「そこには当面の闘いだけでなく、党の未来、平和が勝ち取られたときの党のありかたも延長線にあったのではないか」と、これまでの歪んだ読みを修正する、目からウロコが落ちるような貴重な指摘をしてくれている。



この視点から、「党生活者」での「笠原」「伊藤ヨシ」を描いた二つの場面を読み直してみると、蔵原惟人が「小林多喜二の現代的意義」で、「小林多喜二は共産主義作家として、これらたたかう共産主義者の英雄的行為を描くとともに、当時前衛がもっていたさまざまの弱点や欠陥を批判し、『一九二八年三月十五日』『工場細胞』、『党生活者』などで、当時の最も先進的な、最も理想的な革命家の典型を造形したのである。しかしそのさい彼は当時の共産主義者のおかれていた過酷な現実や非合法運動の当面の必要からくるさまざまの歪みや誤りをも無批判に肯定し、かえってそれを理想化しているようなところがないわけではない。現在、彼の描いた前衛的な人物にたいするさまざまな批評があって、それは、部分的には正しいのであるが、しかしそれは現在の観点からの批評であって、当時としてはやむをえなかったのである」(『文学前衛』一九四八 傍線引用者)とするのも、批判者・平野謙と同じ誤読に基づく認定だといえる。







●活動家群像のなかのハウスキーパーとスパイを描くことの「冒険」



私たちは、ノーマ・フィールドに導かれて、戦時下にたたかう男女の活動家の群像を改めて新鮮なまなざしで見ることができる。そして、その眼で冒頭で転落していった活動家である「太田」という活動家に注目する必要がある。



太田は「雑談」をすると云っては、好色な目で工場の色々な女工さんの品さだめする男として設定されている。その太田が工場から検挙され、佐々木は身に危険を覚える。太田は――何より佐々木のアジトを知っていたからだ! 太田は前に、事があったら「三日間」だけは頑張るといっていた。多喜二は、佐々木が「太田が捕まったと聞いたとき、私(佐々木)の頭にきた第一のことはこの事だった」と、その危険性を描いている。これは、おそらく布石だろう。「太田」は、特高の犬・スパイとなって中篇・後篇に登場させられる予定だったのだろう。



「党生活者」は、多喜二が小樽時代に執筆した「工場細胞」・「オルグ」に続く系譜の作品である。実は、多喜二はすでに「工場細胞」で、活動家が転落してスパイになるエピソードを描いている。その創作意図を述べた『改造』編集者の佐藤績にあてた一九三〇年一月三十日付の手紙に、「今迄の作品になかった「スパイ(丶丶丶)(党員のうちのスパイ)……決して度外視することの出来ない問題を大胆にとり入れた最初(丶丶)の(丶)作品(丶丶)」としている。



「工場細胞」では、スパイはどう描かれたかをみてみよう。



女性工場細胞であるお君に夢中になっていた主人公森本に対し、同志でもありながら同じくお君に恋をし、無理に迫っていた鈴木。しかし鈴木は、特高にスパイとして買収されており、やぶれかぶれになった彼は、合同組合の工場細胞・河田とお君の仲を噂し、森本の河田への不信を植えつける。集会後、森本はお君に愛の告白をし、お君はそれを受けいれる。鈴木の裏切りで森本と河田は逮捕された後、鈴木は留置場内で自殺する。発表時は「スパイ」を描いたことは、理解されがたいものがあったようである。土井大助も、「「工場細胞」と「オルグ」」(多喜二・百合子研究会編『小林多喜二読本』啓隆閣 一九七〇年)で、「堕落分子の鈴木が、唐突におなじ留置場で自殺するところなど、党内に潜入したスパイの問題をも描こうとした作者自身の自負にもかかわらず、また鈴木の裏切りについては人物像としての伏線には一定の暗示が与えられているにもかかわらず、展開の必然的な成り行きの描写が不足している」と批判している。多喜二自身も「工場細胞」ノート稿に、「訂正の時、河田、森本、お君、三人の、前生、履歴、性格、癖を入れること。……スパイになる動機(・思想的ギャップ、労農派的、・個人的性格、・生活難)……を描くこと」など作者の覚書きを残していることから察するに、この課題はさらに継続的に取り組むことが予定されていたにちがいな。



一九八〇年にいたって、多喜二の党活動期の党中央部の指導的位置にあり、戦後党書記長、委員長、議長を歴任した宮本顕治は、当時のプロレタリア文学運動の作品を読み直し総括した歴史的評論を発表。『宮本顕治文芸評論選集第一巻』(新日本出版社)の「あとがき」で、その評価を、「小林多喜二の「工場細胞」(「改造」一九三〇年四、五、六月号)は、日本の革命運動でしばしばみられたスパイによる細胞破壊が描かれていることも、この作品の先駆的意義を高めている」と積極的なものへと転じた。



これは、戦後第二の反動攻勢期の一九七〇年代に、春日一幸民社党委員長が、衆議院で宮本顕治日本共産党委員長のスパイ調査事件をとりあげ、宮本委員長の復権の取り消しを不当に求めるなどしたことを踏まえ、改めて多喜二の「「スパイ(丶丶丶)(党員のうちのスパイ)……決して度外視することの出来ない問題を大胆にとり入れた最初(丶丶)の(丶)作品(丶丶)」である「工場細胞」を評価したものと思う。



一九三一年の満州事変後の反戦闘争の盛り上がりを恐れた権力は、翌一九三二年春に文化分野に壊滅的打撃を与える大検挙を行う一方で、指導的幹部党員が不在となった党内部にスパイMを送り込んで「赤色ギャング事件」を偽装し、「熱海党全国代表者会議」の開催のために集まった党活動家たちを一網打尽に検挙した。さらに共産青年同盟に巣食うスパイ三船留吉によって小林多喜二を検挙・虐殺、再建されたばかりの党の山本正美委員長を売りわたし、つづいて大泉兼蔵を使って野呂栄太郎を獄死させるなど、日本の革命運動を壊滅に追い込んだだけに、多喜二が「スパイになる動機……を描くこと」に、取り組んだことの意味を再評価するものとなったのは、自然なことだ。





●一人の寝がえりものが、三百人の命を殺す



ひるがえってみると、多喜二は「疵」(『帝国大学新聞』一九三一年十一月二十三日発行)、「救援ニュース№18.附録」(『戦旗』一九三〇年二月号)などで、スパイを作品に描いている。

女性同志・同伴者を道具として扱うような弱点をもった党員が、やがては特高に工作されてスパイに転落し、「否定すべからざる悪」(ノーマ・フィールド)から、「否定されるべき悪」に転じていくことをどう防ぐのか、どう対処すべきなのかを描くことが、「党生活者」の中篇、後篇のテーマだったといっていいだろう。この仕掛けである「笠原」への佐々木の態度を誤読しては、「党生活者」の物語の意義を半減するどころか、台なしだろう。多喜二は「一九二八・三・一五」の冒頭でも、虐殺されたドイツの女性活動家ローザ・ルクセンブルグに触れているように、また「党生活者」の一場面に「わが男の同志たちは結婚すると、三千年来の潜在意識から、マルキストにも拘らず、ヨシ公を奴隷にしてしまう(傍線引用者)からだと!」と叫ばせている。女性党員・伊藤ヨシを「奴隷」にする一方、伊藤ヨシが、自身の母親を活動の理解者に獲得したことを踏まえ、「自分の母親ぐらいを同じ側に引きつけることが出来ないで、どうして工場の中で種々雑多な沢山の仲間を組織することが出来るものか」(傍線引用者)といわしめている。



多喜二にとって、女性が自覚的に立ち上がることなくしては、全労働者階級の団結を獲得することも、労働者と農民の同盟を図ることも(「不在地主」の労農同盟の先頭にも女性たちがいた)ないことは、多喜二の作品を少しでも読むものにとっては理解されることだろう。平野謙のような「党生活者」の「笠原」への佐々木の態度だけで、「『党生活者』に描かれた「笠原」という女性の取り扱いを見よ。目的のためには手段を選ばぬ人間蔑視が「伊藤」という女性とのみよがしの対比のもとに、運動の名において平然と肯定されている。そこには作者のひとかけらの苦悶さえ泛んでいない」(「ひとつの反措定」」『新生活』 一九四六年四、五月合併号)という批判は、誤読というだけではなく、多喜二とその作品を誹謗・中傷する目的で意図的に書かれたとしか思えない。



多喜二虐殺を手引きしたスパイ挑発者・三船留吉 (一九〇九~一九八三 秋田生)やスパイM(本名飯塚盈延、一九〇二~一九六五 愛媛生)のような人間像(その思想的ギャップ、労農派的、・個人的性格、・生活難)を追求し、その正体を暴くことこそが、多喜二が「党生活者」中篇・後篇でいどんだ「冒険」のひとつだったろう。





二〇〇八年に世界でブームとなった「蟹工船」で闘争のクライマックスで演説に立ち上がった吃りの漁夫は「諸君、とうとう来た! 長い間、長い間俺達は待っていた。俺達は半殺しにされながらも、待っていた。今に見ろ、と。しかし、とうとう来た。」「諸君、まず第一に、俺達は力を合わせることだ。俺達は何があろうと、仲間を裏切らないことだ。これだけさえ、しっかりつかんでいれば、彼奴等如きをモミつぶすは、虫ケラより容易(たやす)いことだ。――そんならば、第二には何か。諸君、第二にも力を合わせることだ。落伍者を一人も出さないということだ。一人の裏切者、一人の寝がえり者を出さないということだ。たった一人の寝がえりものは、三百人の命を殺すということを知らなければならない」、と叫んだ。

多喜二が「党生活者」でスパイの運動かく乱や、転向者工作という支配権力の団結破壊を暴くことの大事さとそこに生きる人間たちの群像をとらえることは、運動からの「落伍者」」「たった一人の寝返り」を生まない団結への、多喜二の強い思いが込められてのことだと、しっかり受け止めたい 。



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