夏目漱石は、良寛の書を愛したことで知られる。
大正5年(1916)10月28日も、漱石は良寛の手蹟を集めた切張り帖を嬉々とした様子で眺めていた。
新潟県の直江津から上京した木浦正という蒐集家が持参したものであった。
漱石は半年ほど前、この人物から、良寛の書(和歌)を代価15円で譲ってもらったことがあった。
このとき、仲介役として医師の森成麟造が入ってくれていた。
森成は長与胃腸病院で漱石の主治医をつとめ、修善寺の大患の折も漱石に付き添った。
その後、郷里の新潟県高田市に帰り森成胃腸病院を開設していたのである。
森成はそれ以前、自身の手もとにあった良寛の七言絶句の書も、漱石に譲り渡していた。
新潟柏崎の旧家から出たものを、森成が入手していたらしい。
漱石の良寛への愛着は、森成宛てに綴った次のような手紙にもよく現れている。
《良寛は世間にても珍重致し候が小生のはただ書家ならという意味にてはなく寧(むし)ろ良寛ならではという執心故(ゆえ)、菘翁(すうおう)だの山陽だのを珍重する意味で良寛を壁間に挂(か)けて置くものを見ると有(も)つまじき人が良寛を有っているような気がして少々不愉快になる位に候》(大正5年3月16日付)
漱石にとって、良寛の書は別格中の別格。一般に書家として人気が高い菘翁(貫名海屋)や山陽(頼山陽)などと一緒にしてもらっては困る。そういう人は、良寛の書を持つべきではないとまで言っている。
漱石はじっくりと切張り帖を堪能したあと、木浦に乞われるままに、中村不折に宛てた紹介状をしたためた。
木浦は、中村不折が所有していると聞く古法帖などを、この機会にぜひとも見せてもらっていきたいと考えていた。
不折は『吾輩は猫である』の挿絵などで有名だが、書道にも関心が深く、自ら書をよくし、さまざまな資料も蒐集していた。
東京・根岸のその旧家跡が、現在、台東区立書道博物館となっている所以である。
木浦を送り出した漱石先生、きっと自身の愛蔵する二幅の書をも取り出し、なおしばらく、良寛の面影にひたったことだろう。
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