-06-15
三重吉らに認められる。社会主義に傾倒、戯曲に進出し「何が彼女をさうさせたか」(昭和 2)は流行語となる。昭和3
年ナップ初代委員長就任。戦後は社会運動に奔走。戯曲に「磔茂左衛門」(大正15)、小説に「渡辺崋山」(昭和10)
など。『争ふ二つのもの』昭和8年 日本プロレタリア作家同盟出版部ドイツで活動する赤木は日本から派遣された秦
をモスクワへ送り込むため奔走する。ドイツの同志と共に義憤に燃える赤木。ソヴィエトの躍進に目をみはる秦。労働
者の現状と希望を活写する一大絵巻。
了され帰国後、柳瀬正夢らと前衛芸術集団マヴォを結成、前衛美術運動を主導。次第に左翼演劇に傾倒し昭和3年
に左翼劇場を結成、プロレタリア演劇の中心人物として活躍。戯曲に「暴力団記」(昭和4)、「志村夏江」(昭和7)、そ
の他著書多数。
●江口渙 えぐち かん [本名 えぐち きよし]1887年7月20日-1975年1月18日 東京麹町生まれ。
作家、文芸評論家。「大正」の始まりと共に文壇登場、社会派としての作家活動に収まらず、古田、中浜たちの「テロリズム」にロシア・ナ
ロードニキや大逆罪で処刑された管野すがたちを想い、側面から支援する。しかし「昭和」になるとマルクス主義の立場をとり作家同盟の
中心で活躍、45年以降は栃木の烏山町に住み続け共産党に加盟、党の文化活動でも主流的立場をとり、作家としては自身の半生を執
筆、回想文学と位置づけた。
ロードニキや大逆罪で処刑された管野すがたちを想い、側面から支援する。しかし「昭和」になるとマルクス主義の立場をとり作家同盟の
中心で活躍、45年以降は栃木の烏山町に住み続け共産党に加盟、党の文化活動でも主流的立場をとり、作家としては自身の半生を執
筆、回想文学と位置づけた。
父親は軍医、渙の少年期には辞職して山田の赤十字社病院長となる。渙は父親の家父長的権威には反発する。四高を神経衰弱で退学
後に五高に入学、大逆事件に影響を受け、天皇制権力に否定的な気持ちを持つ。1912年、東京帝大文科に入学、『スバル』に小説を発
表、文壇に登場、社会性を持ったヒューマニズムの作品との評価
後に五高に入学、大逆事件に影響を受け、天皇制権力に否定的な気持ちを持つ。1912年、東京帝大文科に入学、『スバル』に小説を発
表、文壇に登場、社会性を持ったヒューマニズムの作品との評価
を受ける。1914年、漱石山房にも出入り、1916年には芥川龍之介との交友も始まる。「東京日日」の記者となる、東大は中退し作家、評
論活動を続ける。ロシア革命に影響を受け、社会主義的傾向が強まる。1920年、社会主義同盟結成に参加、加藤一夫に誘われ「自由人
連盟」に加わる。21年、鵠沼に移り当時逗子に住んでいた大杉栄と交流、独特の人間的魅力に引きつけられる。借家争議の応援を労働
運動社に依頼し、村木源次郎から中浜鉄と古田大二郎を紹介され居候させる。中浜たちから英国皇太子の暗殺計画があったこと、摂政
宮の暗殺計画を持っていることを打ち明けられ、グループに誘われるが文学の仕事を理由に断わる。彼らの行為を書き残す事、財政援
助は約束する。
論活動を続ける。ロシア革命に影響を受け、社会主義的傾向が強まる。1920年、社会主義同盟結成に参加、加藤一夫に誘われ「自由人
連盟」に加わる。21年、鵠沼に移り当時逗子に住んでいた大杉栄と交流、独特の人間的魅力に引きつけられる。借家争議の応援を労働
運動社に依頼し、村木源次郎から中浜鉄と古田大二郎を紹介され居候させる。中浜たちから英国皇太子の暗殺計画があったこと、摂政
宮の暗殺計画を持っていることを打ち明けられ、グループに誘われるが文学の仕事を理由に断わる。彼らの行為を書き残す事、財政援
助は約束する。
9月、少女小説作家北川千代と別れ、11月に那須温泉に行き、旅館小松屋で静養と執筆、左翼恋愛小説「恋と牢獄」を書き上げる。ギロ
チン社を結成した中浜は1月と5月に江口を訪問、活動資金の援助を依頼する。江口は有島武郎への紹介状を書き、中浜たちは有島か
ら援助を受ける。有島は間もなく心中する。2月始め労働運動社の和田久太郎も療養に訪れ、江口の世話で三ヶ月余り滞在、浅草から療
養に来ていた堀口直江と恋愛、後に江口は二人の出会いの経緯を書く。8月に江口は引き上げ、9月に那須郡烏山町屋敷町の父の家で
相馬孝と結婚。孝は元小学校教師、新潟の文芸講演会で知り合い数年前から恋愛関係にあった。
チン社を結成した中浜は1月と5月に江口を訪問、活動資金の援助を依頼する。江口は有島武郎への紹介状を書き、中浜たちは有島か
ら援助を受ける。有島は間もなく心中する。2月始め労働運動社の和田久太郎も療養に訪れ、江口の世話で三ヶ月余り滞在、浅草から療
養に来ていた堀口直江と恋愛、後に江口は二人の出会いの経緯を書く。8月に江口は引き上げ、9月に那須郡烏山町屋敷町の父の家で
相馬孝と結婚。孝は元小学校教師、新潟の文芸講演会で知り合い数年前から恋愛関係にあった。
23年10月、古田は小阪事件を起こし潜伏生活。中浜は烏山にも江口を訪ね、今後の
事を相談。江口は結婚のために借りていた、東京笹塚の府営住宅に引っ越す。24年1月、古田は朝鮮から戻り、江口の家に立ち寄る。中
浜や陸軍大将福田雅太郎を狙っていた和田、村木たちも出入りし、打ち合わせの場所にもなる。古田たちは逮捕され、直後に江口も警視
庁に検挙されるが10日間で保釈になる。江口は差し入れ、面会、手紙の発信を続けるが、彼らの行動の効果に疑いを持つようになる。
浜や陸軍大将福田雅太郎を狙っていた和田、村木たちも出入りし、打ち合わせの場所にもなる。古田たちは逮捕され、直後に江口も警視
庁に検挙されるが10日間で保釈になる。江口は差し入れ、面会、手紙の発信を続けるが、彼らの行動の効果に疑いを持つようになる。
12月30日に吉祥寺に家を新築し移る。前年に参加したフェビアン協会の事務局長、大宅壮一からマルクス主義の文献を借り読みふけ
る。1926年、古田の獄中での感想録が『死の懺悔』として春秋社から刊行され、江口の「古田君を憶う」が巻頭に掲載される。この頃から
マルクス主義系の作家を評価し始める。作家宮島資夫や一部のアナキストに裏切者として家に押しかけられアナキストたちとの交友は断
絶。
る。1926年、古田の獄中での感想録が『死の懺悔』として春秋社から刊行され、江口の「古田君を憶う」が巻頭に掲載される。この頃から
マルクス主義系の作家を評価し始める。作家宮島資夫や一部のアナキストに裏切者として家に押しかけられアナキストたちとの交友は断
絶。
1928年、中心で活動していた日本無産派文芸連盟は解散。1929年、日本プロレタリア作家同盟中央委員長となり非合法下共産党系の
大衆的な文化活動の中心を担う。山本宣治の暗殺、小林多喜二の虐殺直後、遺体と対面、死の前後と遺体の状況を記録文学として発
表。1937年1月から1938年11月まで治安維持法違反で投獄される。
大衆的な文化活動の中心を担う。山本宣治の暗殺、小林多喜二の虐殺直後、遺体と対面、死の前後と遺体の状況を記録文学として発
表。1937年1月から1938年11月まで治安維持法違反で投獄される。
1944年、吉祥寺を引き払い父親の死後貸家にしていた烏山の家に移る。45年7月娘
の朝江が死亡、47年には妻孝も死亡と続けて家族を失う。47年日本画家福子と結婚、55年に福子死亡後は近在の文学に関心が強かっ
た栄子と結婚。
た栄子と結婚。
45年11月、共産党に入党、烏山での執筆は記録・回想文学が軸となる。50年代、『わが文学半生記』では漱石、芥川、続編では大杉、和
田、村木、ギロチン社との交友を描く。また大杉の虐殺から古田たちの逮捕までを描いた「黒旗の下に」を執筆。事実に近い記録文学とい
うが、筆者の政治的立場に強く影響され、なおかつ伝聞、推測、記憶違いが混在した回想である。逮捕後の和田久太郎の描写に関して、
秋山清は強く批判している。1968年、春秋社から江口が編者となり『死の懺悔』を再刊、新たに序文を書き下ろす。秋山清は『続・わが文
学半生記』やこの序文に対して「テロリストと文学」「古田大次郎の生と死」「テロリズムとヒューマニズム」で批判を展開している。
田、村木、ギロチン社との交友を描く。また大杉の虐殺から古田たちの逮捕までを描いた「黒旗の下に」を執筆。事実に近い記録文学とい
うが、筆者の政治的立場に強く影響され、なおかつ伝聞、推測、記憶違いが混在した回想である。逮捕後の和田久太郎の描写に関して、
秋山清は強く批判している。1968年、春秋社から江口が編者となり『死の懺悔』を再刊、新たに序文を書き下ろす。秋山清は『続・わが文
学半生記』やこの序文に対して「テロリストと文学」「古田大次郎の生と死」「テロリズムとヒューマニズム」で批判を展開している。
作家としては活動的であったが、自らは天皇<制>と対決する文学を表現し得なかった。1961年、共産党中央委員に選出される。60年
代、各地で小林多喜二、宮本百合子に関して講演、60年代後半には「作家同盟」時代の活動を執筆、1970年党名誉中央委員となる。
代、各地で小林多喜二、宮本百合子に関して講演、60年代後半には「作家同盟」時代の活動を執筆、1970年党名誉中央委員となる。
1971年1月、中学入学までの自伝「少年時代」を執筆。江口は家筋にもこだわりつつ、封建制や明治の支配階級、軍人の家族生活を描
く。
く。
1975年1月18日死去、87歳6ヶ月。
参考書
『向日葵之書』楽浪書院、1936年。/『わが文学半生記』青木書店(青木文庫)/『三つの死』新評論社1955年5月。/『続・わが文学半生
記』春陽堂書店, 1958年。/『たたかいの作家同盟記わが文学半生記後編・上』新日本出版社, 1966年。/『たたかいの作家同盟記わが
文学半生記後編・下』新日本出版社, 1968年。/『江口渙自選作品集第3巻』新日本出版社 , 1973年。/『少年時代』光和堂1975年。
記』春陽堂書店, 1958年。/『たたかいの作家同盟記わが文学半生記後編・上』新日本出版社, 1966年。/『たたかいの作家同盟記わが
文学半生記後編・下』新日本出版社, 1968年。/『江口渙自選作品集第3巻』新日本出版社 , 1973年。/『少年時代』光和堂1975年。
江口栄子著『柊』1982年。/古田大次郎著『死の懺悔』1926年、68年刊、春秋社。/秋山清著『ニヒルとテロル』川島書店、1968年。
/反逆の心條』北冬書房、1972年。/『やさしき人々』大和書房、1980年。/主要著作 /『赤い矢帆』新潮社、『労働者誘拐』東京刊行
社、1919年。/『性格破産者 』新潮社,『悪霊』1920年。/『恋と牢獄』新潮社、1923年。/『最後の夜』新興出版社(新日本名作叢書),
1948年。/『わが文学論』青木書店, (青木新書)、/『花嫁と馬一匹』新評論社 1955年。/『封建性 を支配しているもの』講談社,
1958年。/『奇怪な七つの物語』三一書房(三一新書), 1959年。/『日本のプロレタリア文学名作案内』江口渙編著、青木書店(青木新
書), 1968年。/『わけしいのちの歌』新日本出版社, 1970年。/『江口渙自選作品集第1巻』『江口渙自選作品集第2巻』, 新日本出版社
1972年。/『わが文学半生記』日本図書センター(近代作家研究叢書 64), 1989年。/『わが文学半生記』講談社(講談社文芸文庫),
1995年。
社、1919年。/『性格破産者 』新潮社,『悪霊』1920年。/『恋と牢獄』新潮社、1923年。/『最後の夜』新興出版社(新日本名作叢書),
1948年。/『わが文学論』青木書店, (青木新書)、/『花嫁と馬一匹』新評論社 1955年。/『封建性 を支配しているもの』講談社,
1958年。/『奇怪な七つの物語』三一書房(三一新書), 1959年。/『日本のプロレタリア文学名作案内』江口渙編著、青木書店(青木新
書), 1968年。/『わけしいのちの歌』新日本出版社, 1970年。/『江口渙自選作品集第1巻』『江口渙自選作品集第2巻』, 新日本出版社
1972年。/『わが文学半生記』日本図書センター(近代作家研究叢書 64), 1989年。/『わが文学半生記』講談社(講談社文芸文庫),
1995年。
●蔵原 惟人 (くらはら・これひと 1902.1.26~1991.1.25) は、進歩的自由主義者で慶大教授や代議士を務めた蔵原惟郭
の第五子、次男として東京・麻布で生まれました。小林多喜二より1歳年長です。翻訳家・文芸評論家として知られます。
の第五子、次男として東京・麻布で生まれました。小林多喜二より1歳年長です。翻訳家・文芸評論家として知られます。
【学歴】・東京外国語学校本科ロシア語部卒
【別名】佐藤耕一、古川荘一郎、谷本清、野崎雄二、柴田和雄。
惟人は、東京府立第一中学校時代から、同級の浅野晃(獄死した伊藤千代子の元夫)、飯島正、村井康男らと回覧雑誌を出し、詩・小
説・評論を発表。また友人から”ロシア文学”とあだ名されるほどロシア文学に傾倒しました。
説・評論を発表。また友人から”ロシア文学”とあだ名されるほどロシア文学に傾倒しました。
東京外国語学校時代は、講師の馬場哲哉(別名 外村史郎=ショーロホフ『静かなドン』の翻訳者)と「ロシヤ文学研究会」を組織し、雑
誌『ロシヤ文学』(第3次)を創刊、編集を担当しました。
誌『ロシヤ文学』(第3次)を創刊、編集を担当しました。
東京外語大学を卒業した1923(大正12)年に一年間、志願兵として千葉県佐倉57連隊に入隊し、この時期から、軍当局の目をかすめて
『資本論』などマルクス主義の書物を読み始めました。
『資本論』などマルクス主義の書物を読み始めました。
24年に除隊して、義兄の関係で福島の炭鉱の事務を手伝った後、翌25年2月、ロシア語およびロシア文 学研究のため、『都新聞』特
派員の名目でソビエト連邦へ出発、ハルピン、モスクワなどに滞在中、同紙や『新潮』誌に通信を送り新進の文芸評論家として頭角をあら
わしました。
派員の名目でソビエト連邦へ出発、ハルピン、モスクワなどに滞在中、同紙や『新潮』誌に通信を送り新進の文芸評論家として頭角をあら
わしました。
◇
このソ連滞在を通して蔵原は確実にマルクス主義の立場に立つ文芸批評家に成長し、翌26年1月肺結核と診断され(誤診だった)で帰
国し、その年の12月にプロレタリア芸術連盟(プロ芸)に加入。ここから蔵原のプロレタリア文学運動とのかかわりが始まります。
国し、その年の12月にプロレタリア芸術連盟(プロ芸)に加入。ここから蔵原のプロレタリア文学運動とのかかわりが始まります。
1年半のソ連滞在とはいえ、じかに本場のプロレタリア文学の空気に接してきた惟人は、翌27年3月、ただちに『文芸戦線』編集同人に迎
えられ、「現代日本文学と無産階級」をはじめとした文学評論を発表して理論家として注目を浴びます。
えられ、「現代日本文学と無産階級」をはじめとした文学評論を発表して理論家として注目を浴びます。
同年6月、中野重治、鹿地亘ら”福本主義者”たちが実権を握っていたプロ芸は、惟人、青野季吉、葉山嘉樹ら『文芸戦線』同人16名を
「小ブル」的芸術主義者として除名。
「小ブル」的芸術主義者として除名。
除名された惟人らは、すぐさま労農芸術家連盟(労芸)を結成、『文芸戦線』を機関誌として文芸活動を展開したものの、労芸は、同年11
月の山川均の論文掲載をめぐって紛糾してしまいます。惟人は藤森成吉、村山知義、林房雄らとともに労芸を脱退、前衛芸術家同盟を創
立し、機関誌『前衛』を創刊します。
月の山川均の論文掲載をめぐって紛糾してしまいます。惟人は藤森成吉、村山知義、林房雄らとともに労芸を脱退、前衛芸術家同盟を創
立し、機関誌『前衛』を創刊します。
この分裂事件を経験して書かれたのが「無産階級芸術運動の新段階―芸術の大衆化と全左翼芸術家の統一戦線へ」(28年1月)で
す。
す。
同年3月、戦前最初にして最後の統一戦線(それはアナキストから社会民主主義者、マルキストまで結集した)である日本左翼文芸家
総連合を結成し、『戦争に対する戦争』を発刊するなどして小林多喜二ら青年文学者に大きな影響を与えたが、”3.15事件”で挫折、労
共をのぞく全日本無産者芸術連盟(ナップ)の成立となって実現し、惟人はナップ機関誌『戦旗』の編集委員になった。
総連合を結成し、『戦争に対する戦争』を発刊するなどして小林多喜二ら青年文学者に大きな影響を与えたが、”3.15事件”で挫折、労
共をのぞく全日本無産者芸術連盟(ナップ)の成立となって実現し、惟人はナップ機関誌『戦旗』の編集委員になった。
同誌創刊号に発表した惟人の「プロレタリア・レアリズムへの道」によって、多喜二ら実作者も創作方法など大いに啓発しました。
この年、小樽の小林多喜二が惟人を訪れ、その示唆によって小説「一九二八年三月一五日」を書き上げると、惟人はこれを推薦し『戦
旗』(1928年11、12月号)に掲載。
旗』(1928年11、12月号)に掲載。
また、海外のプロレタリア文化を研究・紹介する国際文化研究所設立に努力し、『国際文化』(のちの『プロレタリア科学』)編集局長、年
末改組したナップ及びナルプの中央委員に就任しました。
末改組したナップ及びナルプの中央委員に就任しました。
29年9月、それまで資金援助などで支援していた日本共産党に入党、翌30年4月、治安維持法によって逮捕状が出されて地下活動に入
ります。
ります。
6月、共産党中央委員会(田中清玄指導下の)の指示で青年労働者・紺野与次郎、飯島キミらとともにひそかにソ連に入り、プロフィンテ
ルン(国際赤色労働組合)第5回大会に参加しました。
ルン(国際赤色労働組合)第5回大会に参加しました。
同年末、田中清玄ら共産党中央部検挙の報に接し、帰国を準備し翌31年2月に秘密裡に帰国。
6月、宣伝煽動(アジプロ)部の文化団体指導責任者となり、非合法活動のかたわら、「古川荘一郎」ほかの筆名で「芸術的方法について
の感想」などの評論を『ナップ』などに発表、32年4月4日、東京・小石川のアジトで逮捕され、約3ヵ月間、各署を転々と留置されました。そ
の闘いの一端は、小林多喜二の代表作「党生活者」に描かれています。
の感想」などの評論を『ナップ』などに発表、32年4月4日、東京・小石川のアジトで逮捕され、約3ヵ月間、各署を転々と留置されました。そ
の闘いの一端は、小林多喜二の代表作「党生活者」に描かれています。
以後、刑務所に収監、35年5月治安維持法違反で懲役7年の判決を受けた。その後、肺結核が悪化、出所まで病監に収容され、憲法発
布50年記念の「恩赦」で40年10月11日、1年減刑で出所しました。非転向を貫いたものの、肺結核が悪化し、のち妻となる作家・中本たか
子の献身的看護などで、翌41年から快方に向かった。
布50年記念の「恩赦」で40年10月11日、1年減刑で出所しました。非転向を貫いたものの、肺結核が悪化し、のち妻となる作家・中本たか
子の献身的看護などで、翌41年から快方に向かった。
出所後は保護観察処分に付されたが、病気を理由に一度も出頭せず、自宅療養しながらロシア語の翻訳のかたわら、父の勧めもあり
渡辺崋山の研究に打ち込んだ。
渡辺崋山の研究に打ち込んだ。
戦後は、日本共産党再建、新日本文学会創立に参加、文化・芸術分野の幅広いジャンルでリーダーシップを発揮、徳田球一指導部と対
立し除名さされたばかりか、一時GHQから公職追放されたが、名誉回復後は『文化評論』『民主文学』の創刊にもかかわり、ほぼ一貫し
て共産党の文化面での指導者として活躍しました。
立し除名さされたばかりか、一時GHQから公職追放されたが、名誉回復後は『文化評論』『民主文学』の創刊にもかかわり、ほぼ一貫し
て共産党の文化面での指導者として活躍しました。
1991年1月死去。『文化評論』『民主文学』が追悼特集を組む。
◇
没後15周年を前に、伊豆利彦『戦争と文学』は久々に蔵原惟人の業績に光を当てるものとなりました。
【関連文献】「プロレタリア・レアリズムへの道」(『戦旗』創刊号 5月号)、「再びプロレタリア・レアリズムについて」(『東京朝日新聞』 29/8
/11-14)、「『一九二八年三月十五日』について」(『戦旗』(28年11月号)、「プロレタリア文芸の画期的作品―小林多喜二の『一九二八年
三月十五日』―」(『都新聞』28年12月17日付)、蔵原惟人「最近のプロレタリア文学と新作家」(『改造』 29年1月号)、蔵原惟人「『蟹工船』
について」(『東京朝日新聞』 29/617-21)、「注目される四作品」(『東京朝日新聞』 29/12/11-14)、「芸術的方法についての感想」(『ナッ
プ』9月号)、蔵原惟人/中野重治編『小林多喜二研究』(解放社 48年)、「小林多喜二の現代的意義」 (48年3月7日多喜二祭での講
演 『文学前衛』 48年11月)、「小林多喜二の現代的意義」『新日本文学』(51年6月号)、「小林多喜二と宮本百合子」(『多喜二と百合
子』 54年10月号)/
/11-14)、「『一九二八年三月十五日』について」(『戦旗』(28年11月号)、「プロレタリア文芸の画期的作品―小林多喜二の『一九二八年
三月十五日』―」(『都新聞』28年12月17日付)、蔵原惟人「最近のプロレタリア文学と新作家」(『改造』 29年1月号)、蔵原惟人「『蟹工船』
について」(『東京朝日新聞』 29/617-21)、「注目される四作品」(『東京朝日新聞』 29/12/11-14)、「芸術的方法についての感想」(『ナッ
プ』9月号)、蔵原惟人/中野重治編『小林多喜二研究』(解放社 48年)、「小林多喜二の現代的意義」 (48年3月7日多喜二祭での講
演 『文学前衛』 48年11月)、「小林多喜二の現代的意義」『新日本文学』(51年6月号)、「小林多喜二と宮本百合子」(『多喜二と百合
子』 54年10月号)/
蔵原惟人、竹内好、平野謙、野間宏、小田切進編『日本プロレタリア文学案内1 日本プロレタリア文学の再検討』(三一書房 55年6
月)/『小林多喜二と宮本百合子』(新日本文庫 75年)
月)/『小林多喜二と宮本百合子』(新日本文庫 75年)
蔵原惟人 手塚英孝解説監修 『小林多喜二初版復刻全集・小林多喜二文学館』(全16巻) (ほるぷ社 80年)
蔵原惟人・中野重治編※監修吉田精一 解説浦西和彦『小林多喜二研究 近代作家研究叢書 35』(日本図書センター 84年)
『蔵原惟人評論集』(全10巻 新日本出版社 1966~79年)
伊豆利彦「小林多喜二と蔵原惟人――作家と評論家の問題
」『戦争と文学―いま小林多喜二を読む』(2005/07/15 本の泉社)

●鹿地 亘 (かじ・わたる1903~82)
プロレタリア作家・反戦運動家・評論家。
明治36年5月1日、大分県西国東郡香々地町の生まれ。
鹿児島の七高をへて東大国文科、東大大学院博士課程を昭和2年修了。
在学中、新人会に加入。
大正15年、「日本プロレタリア芸術連盟」に参加。マルクス主義芸術研究会を組織。
昭和2年、労働者農民党のオルグとなる。
昭和7年、日本共産党に入党。
昭和8年2月22日 特高に虐殺された小林多喜二の通夜に参加。
9年、治安維持法違反で検挙、昭和10年、転向により出所。
昭和11年、上海へ脱出。日中戦争勃発後、重慶で日本人民反戦同盟を結成。
昭和21年、帰国、新日本文学会に所属。
神奈川県藤沢で結核療養中の昭和26年11月、在日米軍諜報機関(キャノン機関)に拉致され、スパイ容疑で監禁されたが1年後に釈放
(=「鹿地事件」)。
(=「鹿地事件」)。
28年11月、米ソ二重スパイ容疑のため電波法違反で逮捕されたが、44年無罪確定。
昭和57年7月26日没。
〈著書〉『労働日記と靴』(改造社、昭5)『平和村記』(中央公論社、昭22)『脱出』(改造社、昭23)『自伝的な文学史』(三一書房、昭34)
『心の軌跡』全二巻(三一書房、昭35)『暗い航跡』(東邦出版、昭47)
『心の軌跡』全二巻(三一書房、昭35)『暗い航跡』(東邦出版、昭47)
鹿地 亘 (かじ・わたる1903~82)は、『改造』(1929年1月号)に 「最近のプロレタリア文学と新作家」と題して、「小林多喜二の小説『一九
二八年三月十五日』は極めて重大な意義をもっている。これはわが国プロレタリアートにとって最も近い問題―三月十五日のいわゆる共
産党事件を取り扱っている。これまでこの同じ事件を取り扱ったものには、左翼の若い作家の二、三の作品があったが、この事件を小さい
エピソードとしてではなしに、一つの大きい時代的なスケールの中に取り扱ったものは、この作が初めてである。この作には、北海道にお
ける共産党事件の検挙を中心として、闘士たちの種々なるタイプとその生活が描かれている。が、それがこれまでしばしばあったように概
念的ではなく、また英雄としてではなくして、その種々なる欠点と長所とをもった人間として描かれている、――この点においてもこの作は
この種の題材を取り扱った作品の一つの進展を示している」
二八年三月十五日』は極めて重大な意義をもっている。これはわが国プロレタリアートにとって最も近い問題―三月十五日のいわゆる共
産党事件を取り扱っている。これまでこの同じ事件を取り扱ったものには、左翼の若い作家の二、三の作品があったが、この事件を小さい
エピソードとしてではなしに、一つの大きい時代的なスケールの中に取り扱ったものは、この作が初めてである。この作には、北海道にお
ける共産党事件の検挙を中心として、闘士たちの種々なるタイプとその生活が描かれている。が、それがこれまでしばしばあったように概
念的ではなく、また英雄としてではなくして、その種々なる欠点と長所とをもった人間として描かれている、――この点においてもこの作は
この種の題材を取り扱った作品の一つの進展を示している」
と評し、多喜二が上京し、作家同盟でともに活動し、"親友"と称していた。
多喜二虐殺後、作家同盟の書記長となり、作家同盟解散までその責務を果たしたことで知られる。
その後、中国へわたり、抗日根拠地で捕虜となった者を再教育し、鹿地亘は1939年に日本人民反戦同盟を結成後、中国各地にその反戦
活動をひろげ、1940年に延安入りした野坂参三と結んで次第に日本再建のための活動と統合させていった。反戦同盟は、1944年1月、そ
の任務と活動の拡大に応じて名称を日本人民解放同盟とあらためた。
活動をひろげ、1940年に延安入りした野坂参三と結んで次第に日本再建のための活動と統合させていった。反戦同盟は、1944年1月、そ
の任務と活動の拡大に応じて名称を日本人民解放同盟とあらためた。
小林多喜二没後10周年前に、中国で発表された 鹿地亘の「死の日の記録-金沙社小林多喜二記念号に寄せる-」は、1942年2月に
執筆されたもので、副題から中国・金沙社刊行物の小林多喜二記念号に寄せたものとされる。
執筆されたもので、副題から中国・金沙社刊行物の小林多喜二記念号に寄せたものとされる。
鹿地亘は、『改造』(1929年1月号)に 「最近のプロレタリア文学と新作家」と題して、
「小林多喜二の小説『一九二八年三月十五日』は極めて重大な意義をもっている。これはわが国プロレタリアートにとって最も近い問題
―三月十五日のいわゆる共産党事件を取り扱っている。これまでこの同じ事件を取り扱ったものには、左翼の若い作家の二、三の作品
があったが、この事件を小さいエピソードとしてではなしに、一つの大きい時代的なスケールの中に取り扱ったものは、この作が初めてで
ある。この作には、北海道における共産党事件の検挙を中心として、闘士たちの種々なるタイプとその生活が描かれている。が、それがこ
れまでしばしばあったように概念的ではなく、また英雄としてではなくして、その種々なる欠点と長所とをもった人間として描かれている、―
―この点においてもこの作はこの種の題材を取り扱った作品の一つの進展を示している」
―三月十五日のいわゆる共産党事件を取り扱っている。これまでこの同じ事件を取り扱ったものには、左翼の若い作家の二、三の作品
があったが、この事件を小さいエピソードとしてではなしに、一つの大きい時代的なスケールの中に取り扱ったものは、この作が初めてで
ある。この作には、北海道における共産党事件の検挙を中心として、闘士たちの種々なるタイプとその生活が描かれている。が、それがこ
れまでしばしばあったように概念的ではなく、また英雄としてではなくして、その種々なる欠点と長所とをもった人間として描かれている、―
―この点においてもこの作はこの種の題材を取り扱った作品の一つの進展を示している」
と評し、多喜二が上京し、作家同盟でともに活動し、"親友"を称していた。
多喜二虐殺後、作家同盟の書記長となり、作家同盟解散までその責務を果たしたことで知られる。
その後、中国へわたり、抗日根拠地で捕虜となった者を再教育し、鹿地亘は1939年に日本人民反戦同盟を結成後、中国各地にその反戦
活動をひろげ、1940年に延安入りした野坂参三と結んで次第に日本再建のための活動と統合させていった。反戦同盟は、1944年1月、そ
の任務と活動の拡大に応じて名称を日本人民解放同盟とあらためた。
活動をひろげ、1940年に延安入りした野坂参三と結んで次第に日本再建のための活動と統合させていった。反戦同盟は、1944年1月、そ
の任務と活動の拡大に応じて名称を日本人民解放同盟とあらためた。
「死の日の記録-金沙社小林多喜二記念号に寄せる-」(所有者瀬口允子 立命館大学 国際平和ミュージアムに寄託)は、1942年2月
に執筆されたもので、副題から金沙社(平和ミュージアムの資料リストでの全沙社は誤記)刊行物の小林多喜二記念号に寄せたものとさ
れるが、印刷物の存在は確認できていない。
に執筆されたもので、副題から金沙社(平和ミュージアムの資料リストでの全沙社は誤記)刊行物の小林多喜二記念号に寄せたものとさ
れるが、印刷物の存在は確認できていない。

(昭和4)は学歴の無い労働者による最初の小説として注目を集めた。ナップに参加し、以降作家生活に入る。戦後
は新日本文学会に参加、一貫して労働する庶民の姿を描き出した。著書に『八年制』(昭和14)、『妻よねむれ』(昭
和23)など多数。
12-25

中退。大正9年から小林多喜二虐殺までの「青春物語」(「小説新潮」(昭和36・4~12)に連載、
「文芸」(昭和26頃)に掲載を併合)と戦後の再婚問題の時の「徳永直」(「別冊小説新潮」(昭
和35・8))を収める。山田清三郎『プロレタリア文学風土記』がかなり使用される。


●今村恒夫は筑豊の出身のプロレタリア詩人であり、多喜二とともに特高にとらえられ、築地警察署での多喜二への拷問がいか
に残虐なものだったかを証言した一人である。
に残虐なものだったかを証言した一人である。
彼もまた拷問を受けた。直後に亡くなったわけではないが、それが主因となって1935年12月郷里で永眠する。
今年はその没後70年の節目にあたる。
◇
今村の生まれた福岡県東北部はかつて筑豊炭田として知られていた。南西隅にうる嘉穂盆地に、飯塚炭鉱の巨大な「巻き上げ機台座」
が残っている。坑内から石炭を搬出した設備だが、今日では赤錆びたそのレンガの建物を見てもそれが、炭鉱の遺物だと気がつく人も少
ないだろう。
が残っている。坑内から石炭を搬出した設備だが、今日では赤錆びたそのレンガの建物を見てもそれが、炭鉱の遺物だと気がつく人も少
ないだろう。
この炭鉱で朝鮮人や中国人が強制労働をさせられ、多くの犠牲者をだしたことも記録にも、記憶からも消えてしまっていることだろう。
中島鉱業は飯塚炭鉱を1924年に三菱鉱山に経営を移した。1929年に三菱鉱山は株式の全部を買い取って経営権を取得したものの、社
名は「飯塚鉱山」として別経営で運営した。太平洋戦争に入ると政府からの命令出炭量は増加の一途となり、1944年には58万300トンに
達したものの、1945年には33万2000㌧となってしまった。鉱夫が軍隊にとられ人員が不足したためで、その穴を朝鮮人約1600人を強制
的に連行し働かせた。それでも足りず中国人労働者を移入することを計画し、華北労工協会に依頼し塘沽収容所から189人の中国人を
受け取り、「日華寮」の監獄部屋で監視し、1日12時間、1日2交代で働かせたという。
名は「飯塚鉱山」として別経営で運営した。太平洋戦争に入ると政府からの命令出炭量は増加の一途となり、1944年には58万300トンに
達したものの、1945年には33万2000㌧となってしまった。鉱夫が軍隊にとられ人員が不足したためで、その穴を朝鮮人約1600人を強制
的に連行し働かせた。それでも足りず中国人労働者を移入することを計画し、華北労工協会に依頼し塘沽収容所から189人の中国人を
受け取り、「日華寮」の監獄部屋で監視し、1日12時間、1日2交代で働かせたという。
1944年10月に日本に着て(船中で一人が死亡)、翌年11に帰国するまでに19人が亡くなった。
今村恒夫はこういう風土から立ちあがっちたのである。
今村恒夫の文学碑には[俺たちの手を見てくれ給え、ごつごつで無細工で荒れて頽れて・・・」の『手』という詩の前6行が刻まれている。
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●秋田雨雀 あきた・うじゃく 明治16(1883)・1・30~昭和37(1962)・5・12
劇作家。青森生れ。本名徳三。明治40年早稲田大学英文科卒。同年、島村抱月の推挙により『早稲田文学』に小説「同性の恋」を発表。
自由劇場・芸術座に参加後、美術劇場を結成し「埋れた春」を上演(大正 3)。演劇活動の傍らエスペラント研究、社会主義運動に努め、
戦後共産党に入党。戯曲に「国境の夜」(大正9)、「骸骨の舞踏」(大正13)など。
自由劇場・芸術座に参加後、美術劇場を結成し「埋れた春」を上演(大正 3)。演劇活動の傍らエスペラント研究、社会主義運動に努め、
戦後共産党に入党。戯曲に「国境の夜」(大正9)、「骸骨の舞踏」(大正13)など。
名著復刻 秋田雨雀著/太陽と花園
新劇No.59秋田雨雀戸板康二追悼阪中正夫小夜福子ゴーリキ

川鶴次郎
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壷井繁治

壷井繁治全集 1988年8月第1刷。壷井繁治全集刊行委員会編集。青磁社発行
回想の詩人たち 壺井繁治 新日本新書
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壷井栄

昭和47年版★壺井栄★あしたの風 角川文庫
ビデオ「二十四の瞳■高峰秀子 月丘夢路」壺井栄 木下惠介
歴争◆二十四の瞳◆壷井栄
小坂しげる/壺井栄 柿の木のある家 あかね書房
妻の座・暦 壺井栄 角川文庫
前田河広一郎 徳永直 伊藤永之介 壺井栄 現代日本文学大系】
壷井栄【草の実】角川文庫/昭和38年■表紙脇田和■映画化
雨夜の星 壺井栄 《初版本》
現代日本の文学22 宮本百合子 壺井栄集
筑摩書房 現代日本文学大系(39)網野菊 壺井榮 幸田文
極楽横丁/壺井栄
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千田是也
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黒島伝治
黒島 伝治(青空文庫へ):くろしま でんじ▽:Kuroshima, Denji生年:1898-12-12~:1943-10-
17
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林房雄

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葉山嘉樹
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金子洋文、

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伊藤貞助
伊藤貞助一幕劇集 未来一幕劇シリーズ1 芝居 戯曲
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古賀孝之
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鶴彬


17


類書中でも、最も最近のもので、又従って、最も全面的に組織的に系統的に”まとめられた著
作だという。緒言、序論、『十月』の前夜、プロレタリア文学、同伴者文学、の全4章。
の「第一部プロレタリア文学のヘゲモニイのために」は1931年全連邦プロレタリア作家団体統
一同盟総会における報告と結語を、「第二部プロレタリア文学の主線」は同じ年に行われた他
団体での報告や『文学新聞』などに発表された論文、声明などから選抜したものに加え、ロシ
ヤ・プロレタリア作家同盟書記長名によって発表された声明「スターリンの演説とラップの任
務」を併せて収める。第一部=文化反動と文化革命、人種論の実践、重大な危険性を持つ大ロ
シヤ愛国主義について、「文学戦線」派とは如何なるものであったか他 第二部=ラップの日記
から、新しい段階にたつラップ他。
て編成された詩、戯曲、小説及び論文であり、単に勢揃ひのためのアンソロジーではない”(編
集責任者・前田河廣一郎による序文より)。青野季吉「プロレタリア文学理論の展開」、葉山嘉
樹「人間肥料」、伊藤永之介「平地蕃人」、小牧近江「新あらびあんないと」、金子洋文「蒼ざめ
た大統領」、前田河「アトランテツク号」他、里村欣三、鶴田知也等による20篇を所収。
表題作「狼へ!」に、「余言」、「細井和喜蔵君」、「婦人と労働」、「評論と思索」に分類された
“労働に関係ある感想、或は一般労働問題についての評論随筆等を合わせ”て所収。また、
巻末には「附録」として「新潮記者と作者の一問一答録」を収める。石鹸工場、牧畜その他、豚
飼い、鉄工場、製糸工場、本所深川、細井君、大正娘の足・不足、国民性への疑い他
ランを主人公とする長編小説。“小牧が滞仏中、クラルテ出版記念会の席上、作家バルビュス
から翻訳を委任されて直接手渡された1918年の初版本をテキストとし、そのうち抹消されてあ
る所は1921年の第80版本を以て補い、且つ傍ら、奥田嘉治氏が英訳より重訳されたものを参
考にした。”“私達は、この私達民衆の聖典を、今君の前に捧げ得たことを、心の底から悦
ぶ。”(読者に)。
八月号)
日本における左翼思想、プロレタリア芸術運動の始点の一つに雑誌『種蒔く人』がある。『種蒔く人』はアンリ・バルビュスが提唱した反戦運動「グループ・クラルテ」に大きな影響を受けた小
牧近江がその日本への移植を構想し、故郷である土崎港で小学校時代の同級生、今野賢三、金子洋文とともに1920(大正10)年に創刊、3号までを発行したが休刊していた雑誌であ
った。そしてこの『種蒔く人』東京版には、小牧も属していた「フランス同好会」を通じて村松正
俊と佐々木孝丸が参加することになる。そして、新宿・中村屋主人の相馬愛蔵、黒光夫妻も東
京版の発行に関わっている。
牧近江がその日本への移植を構想し、故郷である土崎港で小学校時代の同級生、今野賢三、金子洋文とともに1920(大正10)年に創刊、3号までを発行したが休刊していた雑誌であ
った。そしてこの『種蒔く人』東京版には、小牧も属していた「フランス同好会」を通じて村松正
俊と佐々木孝丸が参加することになる。そして、新宿・中村屋主人の相馬愛蔵、黒光夫妻も東
京版の発行に関わっている。
1920(大正9)年、関西で開催された秋田雨雀の脚本朗読会の話に触発されて佐々木たち
は自分たちも脚本朗読会をやろうということになる。相馬黒光の好意により中村屋の二階に集
まることにし、会の名前を秋田の代表作「土」三部作にちなんで「土の会」としたのだった。会に
は秋田、佐々木、佐藤青夜、能島武文、黒光、娘の千賀子、神近市子などが参加し、創作戯
曲を朗読した。会の聞き手は相馬愛蔵、盲目の詩人エロシェンコであった。ときには日本最初
の映画女優である花柳はるみが朗読指導に来たりもした。『種蒔く人』の同人である小牧、金
子は東京で雑誌を再刊することを企てていたのだが、政府に納める保証金がないためにでき
ないでいた。しかし、着々と準備を進め、1921(大正10)年9月ついに『種蒔く人』創刊号を出
すまでにこぎつけた。同人は前記5人のほかに松本弘二、山川亮、柳瀬正夢の合計8人。名を
つらねた寄稿家には秋田雨雀、有島武郎、アンリ・バルビュス、ワシリー・エロシェンコ、江口
渙、藤森成吉、平林初之輔、神近市子、白鳥省吾、山川菊栄、吉江喬松などがいる。印刷・製
本が出来上がったはいいが、この期に及んで印刷屋に払う金がない。発売前日、佐々木が中
村屋に駆け込んで愛蔵に借金を申し込んだのだった。愛蔵は翌日社員に支払う給料となるは
ずの現金から二百円を融通してくれたという。創刊号の表紙は柳瀬正夢によるもの。表紙の
上に、赤い紙に「世界主義文芸雑誌」と印刷してまいた。愛蔵の支援があったればこそ創刊号
の発行ができたのだった。同人もその後、平林初之輔、津田光造、松本淳三、青野季吉、上
野虎雄、前田河広一郎、中西伊之助、佐野袈裟美、武藤直治、山田清三郎と号を重ねるごと
に増加した。創刊号からさっそく発売禁止になったにも関わらず『種蒔く人』は20号まで継続
し、関東大震災の被災によって廃刊となるが、その同人や影響を受けた周囲、読者などが、そ
の後のプロレタリア芸術運動の一つの核となっていった。また脚本朗読会は相馬が買った麹
町平河町の大名屋敷の土蔵を小劇場とする「土蔵劇場」で上演する「先駆座」という劇団にま
で発展、実際に観客をいれて演劇を上演するまでになった。
は自分たちも脚本朗読会をやろうということになる。相馬黒光の好意により中村屋の二階に集
まることにし、会の名前を秋田の代表作「土」三部作にちなんで「土の会」としたのだった。会に
は秋田、佐々木、佐藤青夜、能島武文、黒光、娘の千賀子、神近市子などが参加し、創作戯
曲を朗読した。会の聞き手は相馬愛蔵、盲目の詩人エロシェンコであった。ときには日本最初
の映画女優である花柳はるみが朗読指導に来たりもした。『種蒔く人』の同人である小牧、金
子は東京で雑誌を再刊することを企てていたのだが、政府に納める保証金がないためにでき
ないでいた。しかし、着々と準備を進め、1921(大正10)年9月ついに『種蒔く人』創刊号を出
すまでにこぎつけた。同人は前記5人のほかに松本弘二、山川亮、柳瀬正夢の合計8人。名を
つらねた寄稿家には秋田雨雀、有島武郎、アンリ・バルビュス、ワシリー・エロシェンコ、江口
渙、藤森成吉、平林初之輔、神近市子、白鳥省吾、山川菊栄、吉江喬松などがいる。印刷・製
本が出来上がったはいいが、この期に及んで印刷屋に払う金がない。発売前日、佐々木が中
村屋に駆け込んで愛蔵に借金を申し込んだのだった。愛蔵は翌日社員に支払う給料となるは
ずの現金から二百円を融通してくれたという。創刊号の表紙は柳瀬正夢によるもの。表紙の
上に、赤い紙に「世界主義文芸雑誌」と印刷してまいた。愛蔵の支援があったればこそ創刊号
の発行ができたのだった。同人もその後、平林初之輔、津田光造、松本淳三、青野季吉、上
野虎雄、前田河広一郎、中西伊之助、佐野袈裟美、武藤直治、山田清三郎と号を重ねるごと
に増加した。創刊号からさっそく発売禁止になったにも関わらず『種蒔く人』は20号まで継続
し、関東大震災の被災によって廃刊となるが、その同人や影響を受けた周囲、読者などが、そ
の後のプロレタリア芸術運動の一つの核となっていった。また脚本朗読会は相馬が買った麹
町平河町の大名屋敷の土蔵を小劇場とする「土蔵劇場」で上演する「先駆座」という劇団にま
で発展、実際に観客をいれて演劇を上演するまでになった。
ところで佐々木孝丸であるが、ネットで検索すると「仮面ライダー俳優名鑑」の中に登場す
る。1974年「仮面ライダーX」の堂本博士の役である。だが佐々木はバルビュスの著作『クラ
ルテ』の翻訳者(小牧との共訳)であり、『種蒔く人』東京版の創刊時の同人であり、1925(大
正14)年に創立された「日本プロレタリア文芸聯盟」の初代議長であったのだ。佐々木の出生
地は北海道の標茶町。1898年に生まれ1986年に88歳で没している。
る。1974年「仮面ライダーX」の堂本博士の役である。だが佐々木はバルビュスの著作『クラ
ルテ』の翻訳者(小牧との共訳)であり、『種蒔く人』東京版の創刊時の同人であり、1925(大
正14)年に創立された「日本プロレタリア文芸聯盟」の初代議長であったのだ。佐々木の出生
地は北海道の標茶町。1898年に生まれ1986年に88歳で没している。
震災後に廃刊となった「種蒔く人」の後継雑誌『文芸戦線』が青野季吉、小牧近江、武藤直治
らによって1924(大正13)年5月に創刊されている。そして、『戦闘文芸』『解放』『文芸市場』
東京帝国大学社会文芸研究会などによって翌年10月4日に日本プロレタリア文芸聯盟の発
起人総会が実施され、12月6日には佐々木孝丸を議長に、『戦闘文芸』の岩崎一、山田清三
郎、佐々木孝丸を大会委員に創立大会を80余名の参加のもとに行なった。第二回大会は19
26(大正15)年11月14日に牛込神楽坂倶楽部で開催され、委員長を山田清三郎、文学部
委員に中野重治、林房雄、演劇部委員に佐々木孝丸、久板栄二郎、美術部委員に柳瀬正
夢、小林源太郎、音楽部委員に小野宮吉、書記長に小堀甚二を選出している。「東京熊本人
村」に竹中らが集まっていた時期はまさに日本プロレタリア文芸聯盟の発起人総会から第二
回大会の期間にあたる。文学部委員である林房雄は熊本の五高社研で竹中と関わりがあっ
たはずであるが、この時期の東京での関わりはわからない。
らによって1924(大正13)年5月に創刊されている。そして、『戦闘文芸』『解放』『文芸市場』
東京帝国大学社会文芸研究会などによって翌年10月4日に日本プロレタリア文芸聯盟の発
起人総会が実施され、12月6日には佐々木孝丸を議長に、『戦闘文芸』の岩崎一、山田清三
郎、佐々木孝丸を大会委員に創立大会を80余名の参加のもとに行なった。第二回大会は19
26(大正15)年11月14日に牛込神楽坂倶楽部で開催され、委員長を山田清三郎、文学部
委員に中野重治、林房雄、演劇部委員に佐々木孝丸、久板栄二郎、美術部委員に柳瀬正
夢、小林源太郎、音楽部委員に小野宮吉、書記長に小堀甚二を選出している。「東京熊本人
村」に竹中らが集まっていた時期はまさに日本プロレタリア文芸聯盟の発起人総会から第二
回大会の期間にあたる。文学部委員である林房雄は熊本の五高社研で竹中と関わりがあっ
たはずであるが、この時期の東京での関わりはわからない。
経緯は不明であるが、プロレタリア文芸関連諸氏が落合に移ってきだすのは1927(昭和2)
年頃以降のことである。現在の西武新宿線が下落合駅を始発駅として開通したのが昭和2年
である。藤森成吉が『何が彼女をそうさせたか』を発表したのが同年1月。この本の装幀は村
山知義である。11月には「前衛劇場」が小野宮吉、久板栄二郎、関鑑子、村山知義、小川信
一、辻恒彦、柳瀬正夢、仲島淇三、佐藤誠也、野村康、村雲毅一、山田清三郎、青野季吉、
林房雄、前田河広一郎、葉山嘉樹、佐野碩、千田是也、佐々木孝丸を同人として結成されて
いる。さて、1927(昭和2)年当時、落合に移住していたのは、片岡鐵兵、山田清三郎、佐々
木孝丸、小川信一。それ以前から村山知義は上落合に住んでいた。1928(昭和3)年1月、
雑誌『前衛』を創刊するが発行所は上落合215番地の佐々木孝丸の自宅であった。上落合<
前芸>派と呼ばれたのは、川口浩、山田清三郎、村山知義、小川信一、佐々木孝丸、橋本英
吉、立野信之、本庄睦男、中村雅男、蔵原惟人であった。
年頃以降のことである。現在の西武新宿線が下落合駅を始発駅として開通したのが昭和2年
である。藤森成吉が『何が彼女をそうさせたか』を発表したのが同年1月。この本の装幀は村
山知義である。11月には「前衛劇場」が小野宮吉、久板栄二郎、関鑑子、村山知義、小川信
一、辻恒彦、柳瀬正夢、仲島淇三、佐藤誠也、野村康、村雲毅一、山田清三郎、青野季吉、
林房雄、前田河広一郎、葉山嘉樹、佐野碩、千田是也、佐々木孝丸を同人として結成されて
いる。さて、1927(昭和2)年当時、落合に移住していたのは、片岡鐵兵、山田清三郎、佐々
木孝丸、小川信一。それ以前から村山知義は上落合に住んでいた。1928(昭和3)年1月、
雑誌『前衛』を創刊するが発行所は上落合215番地の佐々木孝丸の自宅であった。上落合<
前芸>派と呼ばれたのは、川口浩、山田清三郎、村山知義、小川信一、佐々木孝丸、橋本英
吉、立野信之、本庄睦男、中村雅男、蔵原惟人であった。
1928(昭和3)年10月28日国際文化研究所を発行元、大河内信威を編集人として雑誌『国
際文化』が創刊された。ちなみに、大河内信威は子爵にして理化学研究所の3代目所長であ
る大河内正敏の長男、ペンネーム小川信一のことである。
際文化』が創刊された。ちなみに、大河内信威は子爵にして理化学研究所の3代目所長であ
る大河内正敏の長男、ペンネーム小川信一のことである。
そして、それまで分裂を繰り返していた団体を一つにまとめる動きが出始める。1927(昭和
2)年12月21日、無産者新聞編集局の肝煎りで、本郷・赤門前の一白荘という喫茶店で合同
促進第一回協議会が開かれた。これには、日本プロレタリア芸術連盟から中野重治、谷一、
鹿地亘、森山啓、佐藤武夫、佐野碩、久板栄二郎が、前衛芸術家同盟からは蔵原惟人、林房
雄、川口浩、村山知義、永田一修、山田清三郎、佐々木孝丸が参加。中立な立場の無産者新
聞の門田博が議長を務め、労農党本部から代表がオブザーバーとして出席した。第二回の協
議会は1928(昭和3)年1月10日に上落合の前芸本部つまり佐々木孝丸の自宅を会場に開
かれた。合同の機運はこうして徐々に高まったのである。
2)年12月21日、無産者新聞編集局の肝煎りで、本郷・赤門前の一白荘という喫茶店で合同
促進第一回協議会が開かれた。これには、日本プロレタリア芸術連盟から中野重治、谷一、
鹿地亘、森山啓、佐藤武夫、佐野碩、久板栄二郎が、前衛芸術家同盟からは蔵原惟人、林房
雄、川口浩、村山知義、永田一修、山田清三郎、佐々木孝丸が参加。中立な立場の無産者新
聞の門田博が議長を務め、労農党本部から代表がオブザーバーとして出席した。第二回の協
議会は1928(昭和3)年1月10日に上落合の前芸本部つまり佐々木孝丸の自宅を会場に開
かれた。合同の機運はこうして徐々に高まったのである。
一方、1928(昭和3)年には初の普通選挙が行われた。2月20日のことである。労農党候
補は二人の当選者以外は全て落選だった。そして3月15日、共産党に対する大検挙が行わ
れた。後に小林多喜二が『一九二八年三月十五日』に描いた弾圧である。この3・15事件が
一つの契機となり、3月25日「全日本無産者芸術連盟」として合同されることが声明された。略
して「ナップ」の誕生である。そして合同声明発表から4月28日の創立大会までの間に小規模
な左翼芸術団体が一斉に新組織になだれ込んできた。その中の一つに「左翼芸術聯盟」があ
ったのである。本稿の冒頭で竹中が参加したと記述した機関誌『左翼芸術』の壺井繁治、三好
十郎、高見順、上田進らのメンバーである。竹中とナップとの関わりは『左翼芸術』への関わり
以外には見出せないようである。この合同によって、プロ芸の機関誌『プロレタリア芸術』は10
号をもって、また前芸の機関誌『前衛』は4号をもって廃刊し、新たにナップの機関誌『戦旗』が
刊行されることになった。『戦旗』創刊号は山田清三郎を責任編集として1928(昭和3)年5月
5日に創刊された。『左翼芸術』の壺井繁治は山田清三郎のあとを受けて1930(昭和5)年9
月号より責任編集を担当する。
補は二人の当選者以外は全て落選だった。そして3月15日、共産党に対する大検挙が行わ
れた。後に小林多喜二が『一九二八年三月十五日』に描いた弾圧である。この3・15事件が
一つの契機となり、3月25日「全日本無産者芸術連盟」として合同されることが声明された。略
して「ナップ」の誕生である。そして合同声明発表から4月28日の創立大会までの間に小規模
な左翼芸術団体が一斉に新組織になだれ込んできた。その中の一つに「左翼芸術聯盟」があ
ったのである。本稿の冒頭で竹中が参加したと記述した機関誌『左翼芸術』の壺井繁治、三好
十郎、高見順、上田進らのメンバーである。竹中とナップとの関わりは『左翼芸術』への関わり
以外には見出せないようである。この合同によって、プロ芸の機関誌『プロレタリア芸術』は10
号をもって、また前芸の機関誌『前衛』は4号をもって廃刊し、新たにナップの機関誌『戦旗』が
刊行されることになった。『戦旗』創刊号は山田清三郎を責任編集として1928(昭和3)年5月
5日に創刊された。『左翼芸術』の壺井繁治は山田清三郎のあとを受けて1930(昭和5)年9
月号より責任編集を担当する。
1928(昭和3年)、ナップ作家同盟や国際文化研究所は上落合の月見岡八幡神社のそば
におかれた。また『戦旗』発行所は一時、中井駅から下落合駅に向かう妙正寺川沿いにおか
れた。蔵原惟人、永田一修、立野信之なども上落合に移住、この頃、上落合地域は「落合ソビ
エト」と呼ばれた。獄中の村山知義にあてた妻・籌子の手紙の中には息子の亜土が「ピオニー
ル」活動に夢中であるとの記述がある。ソビエト連邦にならって、落合ソビエトにもピオニール
が組織されていたのだ。『戦旗』11月号、12月号には前述した小林多喜二の「一九二八年三
月十五日」が掲載された。翌4年3月、戦旗発行所に小樽の小林多喜二から「蟹工船」の原稿
が届き、5月号から掲載が始まった。1930(昭和5)年11月27日ソビエトから帰国した中條
百合子がナップに加盟した。1931(昭和6)年には中野重治、壺井繁治・栄夫妻、井汲卓一、
野川隆、今野大力、中條百合子などが上落合の住人となった。だが、時代は大きなうねりの中
にあった。関東大震災後の混乱がふたたびないようにとの名目で、政府は治安維持法を192
5(大正14)年4月22日に成立させていた。治安維持法は「国体変革・私有財産制否定を目
的とした結社運動の取締り」を主たる目的とする法律である。しかも、普通選挙法とセットに同
時に可決された法案であった。1928(昭和3)年2月20日の選挙は普通選挙法下で行われ
る最初の選挙だった。この選挙直後に大規模な検挙を始めたのであった。そして6月29日に
は勅令129号によって治安維持法は大幅に改定、強化された。7月、全国の府県警察に特高
警察が設置された。本格的な思想弾圧の始まりである。蔵原や小林は地下に潜ることを余儀
なくされる。1933(昭和8)年2月、地下にもぐっていた小林多喜二が密告により築地署に連
行され、拷問によって殺された。多喜二30歳のことであった。思想弾圧を激しくするのに並行
するように日本は泥沼のような日中戦争から太平洋戦争、第二次世界大戦という全面戦争へ
と突き進んでしまう。その前夜のことであった
におかれた。また『戦旗』発行所は一時、中井駅から下落合駅に向かう妙正寺川沿いにおか
れた。蔵原惟人、永田一修、立野信之なども上落合に移住、この頃、上落合地域は「落合ソビ
エト」と呼ばれた。獄中の村山知義にあてた妻・籌子の手紙の中には息子の亜土が「ピオニー
ル」活動に夢中であるとの記述がある。ソビエト連邦にならって、落合ソビエトにもピオニール
が組織されていたのだ。『戦旗』11月号、12月号には前述した小林多喜二の「一九二八年三
月十五日」が掲載された。翌4年3月、戦旗発行所に小樽の小林多喜二から「蟹工船」の原稿
が届き、5月号から掲載が始まった。1930(昭和5)年11月27日ソビエトから帰国した中條
百合子がナップに加盟した。1931(昭和6)年には中野重治、壺井繁治・栄夫妻、井汲卓一、
野川隆、今野大力、中條百合子などが上落合の住人となった。だが、時代は大きなうねりの中
にあった。関東大震災後の混乱がふたたびないようにとの名目で、政府は治安維持法を192
5(大正14)年4月22日に成立させていた。治安維持法は「国体変革・私有財産制否定を目
的とした結社運動の取締り」を主たる目的とする法律である。しかも、普通選挙法とセットに同
時に可決された法案であった。1928(昭和3)年2月20日の選挙は普通選挙法下で行われ
る最初の選挙だった。この選挙直後に大規模な検挙を始めたのであった。そして6月29日に
は勅令129号によって治安維持法は大幅に改定、強化された。7月、全国の府県警察に特高
警察が設置された。本格的な思想弾圧の始まりである。蔵原や小林は地下に潜ることを余儀
なくされる。1933(昭和8)年2月、地下にもぐっていた小林多喜二が密告により築地署に連
行され、拷問によって殺された。多喜二30歳のことであった。思想弾圧を激しくするのに並行
するように日本は泥沼のような日中戦争から太平洋戦争、第二次世界大戦という全面戦争へ
と突き進んでしまう。その前夜のことであった
No .+ 書名 著者名 刊行年 冊数 価格
『プロレタリア文化・コップ 復刻版』 揃 (昭6/12~昭8/3) 戦旗刊行会 28冊 50,000円
日本におけるプロレタリア文化・科学運動と教育運動 : 「コップ・プロ科=科同」と「新教」
『日本のプロレタリア文学』 窪川鶴次郎・平野謙・小田切秀雄編 昭31 3,000円
『プロレタリア文学史 』 上下 増補改訂版 山田清三郎 昭42 2冊 2,000円
『プロレタリア文学 』 復刻版(合本) 揃 日本近代文学館 合本 4冊 15,000円
『プロレタリア文学の理論と実際 』 山内房吉 昭5 8,000円
『プロレタリア文学 』 (日本文学研究資料叢書) 日本文学研究資料叢書 昭46 4,000円
『プロレタリア文学 復刻版』 揃 (昭7/1~昭8/10) 日本近代文学館 19冊 18,000円
『プロレタリア文学運動 その理想と現実』 湯地朝雄 平3 4,800円
『差異の近代 透谷・啄木・プロレタリア文学 』 中山和子 平16 4,500円
『プロレタリア文学とその時代 』 栗原幸夫 昭46 1,500円
『プロレタリア詩 復刻版』 揃 (昭6/1~昭7/2) 戦記刊行会 12冊 18,000円
『プロレタリア文学資料集・年表 文学集別巻』 昭63 2,800円
『プロレタリア詩人鈴木泰治 作品と生涯』 尾西康充・岡村洋子編 平14 2,800円
『特集 プロレタリア文学雑誌 「本の手帖」』 「本の手帖」 昭42 2,000円
『プロレタリア詩雑誌集成 (復刻版)』 揃 戦旗復刻刊行会 67冊 120,000円
『日本プロレタリア文学の研究 』 浦西和彦 昭60 4,800円
『プロレタリア文化運動に就ての研究(復刻) 』 司法研究 昭40 6,000円
『プロレタリア文学 創刊』 (昭7/1)~終刊(昭8/10) 19冊 300,000円
『日本プロレタリア文学史論 』 飛鳥井雅道 昭57 2,500円
際共産党に対する“ 批判的研究の入門書”(緒言)。社会思想史(古代~19世紀中葉)、現代社
会主義思想概論、共産主義論、ロシア革命概史、労農ロシアのマルキシズムの実験、国際労
働者会議の変遷、国際共産党の政治的組織、国際共産党崩壊論、対共産主義攻勢戦略論
訳 IPC 1989年)初・函・日本語解説編付完本 B4版288図+日本語解説64P
黙を破った愛人たちへの徹底取材をもとに”