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「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

プロレタリア文学・後継運動

2010-09-19 20:21:29 | 多喜二研究の手引き

「政治」と「文学」の新しい関係 (島村輝)


コップ第三回拡大中央協議会への報告書(草案)1934年

『上野壮夫・風の詩人―父上野壮夫とその時代』 堀江朋子 朝日書林 平成9年6月
※小林多喜二の死 ナウカ月報小林多喜二全集普及版に寄せて 昭和10年3月31日 多喜二のような死に方に疑
問を持った


『槇村浩・間島パルチザンの歌ー槇村浩詩集』 槇村浩 新日本出版社 昭和51年

『 座談会昭和文学史  』 井上ひさし・小森陽一(編) 集英社 平成15年9月10日
http://subaru.shueisha.co.jp/html/zadan/za_index.html
二つの世紀の変わり目にいる現在、六十余年間にわたる<昭和>とその文学を俯瞰する作業をしておくことが必要
だと、「すばる」編集部は考えた。 作品を通して近代日本を追及し続ける井上ひさし氏。斬新な視点で文学史を再構
築する小森陽一氏。両氏を主人(ホスト)役に、毎回、主題にふさわしい時代の知性(ゲスト)を招き、従来にない「読
んで面白い」文学史を示している。

日本浪曼派』とナルプ(伊豆利彦)


文学評論 創刊号 ナウカ社1934年3月号 
※小林多喜二の遺族を訪ふ(渡辺順三)

文学前衛 第1巻2号 1949年9月号 
※北海道農業の新動向(石井城夫)

日本プロレタリア文学集1 新日本出版社

日本プロレタリア文学評論集1 新日本出版社
日本プロレタリア文学集別巻新日本出版社

たたかいの作家同盟記 上 江口渙 新日本出版社1966年8月
たたかいの作家同盟記 下 江口渙 新日本出版社1968年5月

日本近代文学研究 伊豆利彦 新日本出版社1 979

プロレタリア文学の遺産と現代 津田孝

小林茂夫『プロレタリアの作家たち』(新日本出版社 1990)
1 作家研究(江口渙と大正文学;中西伊之助論;細井和喜蔵論;黒島伝治論;細田民樹論;貴司山治論)
2 近代文学史のなかから(プロレタリア文学運動の成立と発展;日本文学のなかの共産党;学芸自由同盟の名簿
について;宮本百合子と日本近代文学史―新しい読者への序章;若き日の多喜二の未発表論文―ストリンドベルク
研究について;小林多喜二と現代)  新日本出版社 (1988/10/25 出版)

 

宮本顕治文芸評論選集第1巻 宮本顕治 新日本出版社 

人民文庫

戦後
新日本文学
近代文学
首都復興
多喜二・百合子
現実と生活・民主文学
秋田文化
秋田民主文学
海風
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津田孝

『民主文学』誌11月号の「文学ニュース」 退会者欄に津田孝氏の名前を発見して驚いた。

津田氏といえば、

『文化評論』(1963年 昭和38年)1月号「小林多喜二没後35周年=徳永直没後5周年記念」に「「コップ」成立の評価の問題と小林多喜二
の理論活動」からスタートし(それ以前も執筆はあるものの)、新日本出版社の文学担当編集者として『小林多喜二全集』にかかわり、民
主文学、多喜二・百合子研究会の有力な論者の一人だった。

これまで、多喜二文学をとりあげた主な論としては、以下

●『小林多喜二読本』(啓隆閣 70年)=「小林多喜二の評論について」
●『文化評論』(78.2)=多喜二の文学と現代の座談会に、及川和男、中里喜昭らと出席。
●『文化評論』 (83.2)=小林多喜二の思想と文学 (小林多喜二没後50年) / 「現代文学に受けつぐもの―『小林多喜二全集』の新しい完
結に寄せて―」
●津田孝『小林多喜二の世界』(新日本出版社 85年)=1「蟹工船」から「工場細胞」へ/2「工場細胞」の人物像/3「工場細胞」と新し
い社会問題/4「オルグ」について
●『民主文学』 (88/2)「小林多喜二没後55年特集」=「婦人問題と小林多喜二 」
●『文化評論』(92/)=「多喜二の展望力と現代」

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『文芸ジャーナリズムの黄金時代』

コレクション・都市モダニズム詩誌 全15巻
すべてのモダニズム文化の発火点が、詩雑誌だった。代表的都市モダニズムの稀覯詩誌をテーマ別に集成。

当時のモダニズム詩人は、文学のみならず写真・美術・映画などの西洋文化の紹介の中心的存在であり、これらの
雑誌は、たんなる詩の雑誌ではなく、モダン都市文化の交通の網目の中心に存在するものとしてきわめて重要な役
割を果たした。
 
刊行のことば   和田博文

 一九二〇~三〇年代のアヴァンギャルドと都市モダニズムの詩は、一九世紀後半から始まる近代詩を大きく切断
し、現代詩のステージを作り出していった。ダダイズム・アナーキズム・短詩運動などの言語実験は、シュールレアリ
スム・新散文詩運動・新即物主義などの都市モダニズムの詩学へと展開していくのである。それらは、単に詩という
マイナーなジャンルだけを囲い込んだのではない。東京はもとより大連やパリも含めたモダン都市空間の感受性に培
われ、美術・映画・写真・演劇・音楽などの文化諸ジャンルと交流しながら、言語表現の新たな模索が続けられた。
 もちろんその行く手には、さまざまな困難も待ち構えていた。詩は検閲や弾圧に直面してその強度を試される。モ
ダニズムが不可避的に戦争に突入していったように、都市モダニズムの詩も、共同幻想や、国策協力に呑みこまれ
ていった。そして戦地や銃後で生死のドラマと向き合う苛酷な体験を経て、言語表現の試行錯誤は、戦後詩の新し
いステージに転化していくのである。
 今から四半世紀近く前に調査を始めた頃、都市モダニズムの詩人でお元気な方はまだたくさんいらっしゃった。そ
の頃が、都市モダニズム詩の体験を直接にお聞きする最後のチャンスだったように思う。詩人やご遺族のもとを訪
ね、古書店から貴重な資料を回していただき、図書館や美術館に便宜をはかっていただいた結果、私の手元には詩
誌が、原本・全頁写真・全頁コピーのかたちで残った。その間も詩誌の古書価は上がり、若い研究世代が今から全
体性を追いかけようとしても、もう不可能なように見える。資料の共有は、研究の活性化の必要条件である。コレクシ
ョンの刊行によって私は、今は亡き詩人たちから託されたバトンを、未来に手渡すことができたような気がしている。
【本書の特色】

●代表的な都市モダニズムの稀覯詩誌をテーマ別に復刻。
●欠号が発見されていない雑誌については、現存しているものを可能な限り収録。
●各巻末にエッセイ・関連年表・解題・人名別作品一覧・主要参考文献を付す。
【各巻に掲載】

◆最新書き下ろしエッセイ
◆詳細な解題
◆各テーマに関する関連年表
◆人名別作品一覧
◆主要参考文献
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戦前の労働運動史

2010-09-19 20:18:40 | 多喜二研究の手引き
労働運動
長 尾 文 庫
大原デジタルライブラリー社会・労働関係論文データベース検索画面

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『運動史研究』
 ある時代の手記 1930年代・日本共産党私史 宮内勇 河出書房新社 昭和48年9月
『運動史研究』目次(1978年2月(1号)~1986年2月(17号)、三一書房)
 
 
赤色労働組合
労働組合評議会
渡辺政之輔
全協
全協刷新同盟
労働新聞

国領五一郎・山本懸蔵著作集 日本共産党中央委員会 1963

無産政党
前衛政党
社会党
共産党
労農党
新労農党
改新立憲党
自由党
社会民衆党

労働報国会
争議
メーデー
解雇
失業
健康保険



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メディア・機関紙・ジャーナル・文壇
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マルクス・レーニン主義美学の基礎第1分冊 
ソ連科学アカデミー研究所編・蔵原惟人監修・山村房次訳 啓隆閣 昭和44年7月

民主革命期の文学論  蔵原惟人編 真理社 昭和23年7月

救援運動 赤色救援運動
嵐に抗して-救援会50年のあゆみ 日本国民救援会  昭和54年
日本赤色救援会史 瀧澤一郎日本評論社 平成5年4月
※第7章 小林多喜二労農葬と極東反戦会議支持闘争
第9章 モップル世界大会と白色テロルの強化
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青年運動
物語青年運動史 戦前編 日本民主青年同盟中央委員会出版事業部編 昭和43年
共産青年同盟の歴史 塚田大願 日本民主青年同盟 1972


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思想

白テロ・赤テロ
リンチ共産党事件の思い出 平野謙三一書房1976
転向
大東亜戦争肯定論林 房雄夏目書房 平成13年 
赤い故郷を捨てた人びと-証言記録 松本明重編 昭和50年
神山茂夫研究 No.4 神山茂夫研究会 1977.5

<権力>
治安維持法

資本・産業・労働
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プロレタリア・女性運動

2010-09-19 20:12:40 | 多喜二研究の手引き
女性運動

ローザ・ルクセンブルク 孝橋正一 勁草書房 昭和49年8月25日

ローザ・ルクセンブルグ

女人芸術の人びと 尾形明子 ドメス出版 1981

九津見房子

望月百合子

松田解子「乳を売る」

宮本百合子「乳房」

ノーマ・フィールド

村山籌子「健康なおんなの子」

現代女性文化研究所

〈戦時下〉の女性文学 全18巻 
昭和一二年、日中戦争、開始。昭和一六年、太平洋戦争、勃発。急激に変化する国民生活のなか、戦争は女性に
何をもたらしたのか?
銃後の女たちの生を解きあかす、戦時下の女性文学の基本文献を集成。

【本書の特色】
●日中戦争から太平洋戦争期までの女性作家による主要な単行本を精選しました。
●戦時下における女性の生活や意識、男女の社会関係などを知る上の一級資料です。
●入手困難な貴重書を揃え、戦時下文学の研究に貢献する書目をラインナップしました。
●戦時下の状況をより正確に把握できるよう、小説・戯曲から従軍記・随筆までを広く収録いたしました。
●ジャンルを問わず時代順に配列し、戦時下の女性文学の全体像が俯瞰できるようにしました。
●中国・朝鮮・台湾・東南アジアなどの〈外地〉と日本との関係を主題とした作品も多数収録されています。
● 各巻の巻末に第一線の女性研究者による解説(作家紹介、作品の背景、歴史的価値など)を付します。
● 文学のみならず、女性学・近代史の研究にも多いに有益な資料です。

児童

開校百年記念誌 拓けゆく潮小

ピオニール

少年運動
綴り方運動
三浦綾子「銃口」

学校

映画

演劇

朗読
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プロレタリア文学・反貧困のキーワード

2010-09-19 20:11:06 | 多喜二研究の手引き
<病気・健康・生活>
健康診断

性病

労働災害


軍隊

アヘン

刑務所

病気

結核

梅毒

よろけ

細菌
細菌 吉村昭o2
記録小説細菌戦軍事裁判 山田清三郎 真樹社 昭和56年10月
感染列島

マスク
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<料理・食べ物・飲み物>

ゆでたまご

おはぎ

ステーキ

シャンペン

そば

茄子漬物

福吉町
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プロレタリア文学・反貧困のキーワード

2010-09-19 20:09:12 | 多喜二研究の手引き
交通
船 「三等客船」「浚渫船」
浚渫船 葉山嘉樹 昭和2年3
戦艦ポチョムキン 山田和夫 大月書店 1978年6月
電車
地下鉄争議
聳えるマスト
バラシュート
「ゴー・ストップ」
自動車
自転車
リヤカー
亡命
密航

<家・空間・建物>
監獄部屋
くそ壺
駄菓子屋
長屋
岩木ビル
賃貸
借家

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島崎藤村
太宰治
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衣類

手紙・通信
封緘はがき
エアーメール
アドレス


戦中日記 古在由重著作集 第六巻 勁草書房 昭和42年7月
※マルクス・ピッカートン

 獄中にて歌へる大田遼一郎 斉藤栄三 共生閣 昭和5年3月10日

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獄中闘争

独房

監獄随想

徴兵

戦争責任

無名


新曜社☆モダニティの想像力☆文学と視覚性☆著者/中川成美
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wikipediaで多喜二の経歴・歩みを読む

2010-09-18 14:48:04 | 多喜二研究の手引き
wikipediaで多喜二の経歴・歩みを読む
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多喜二が受けた教育

小樽市立潮見台小学校 wikipediaより
北海道小樽商業学校 (wikipediaより
小樽高等商業学校 (wikipediaより

投稿文芸誌「老いた体操教師」

小林多喜二:青年・多喜二の素顔 愛読書など、2006年3日から展示--小樽文学館 
 
『小樽高商の人々』小樽高商史研究会編 北海道大学図書刊行会 
※小樽商科大学戦前史

小樽商科大学新聞『緑丘』 全3巻

 記事・執筆者索引付き  B4判・上製・函入・総1、200頁  揃定価75、000円  ’92年3月刊〔復刻版〕
■推薦∥野口正二郎・藤井栄一・松本忠司
 
 


小樽高商軍教事件
荻野富士夫『多喜二の時代から見えてくるもの』(新日本出版社2009)が一番詳しく、最新情報が網羅さ
れている。

『小樽の反逆――小樽高商軍事教練事件』 夏堀正元/岩波書店 1993/11/18

                    軍事教練反対運動


大熊信行 (wikipediaより

『マルクスのロビンソン物語』(『論創叢書』2)、論創社、2003年7月
『社会思想家としてのラスキンとモリス』(『論創叢書』3)、論創社、2004年2月


 


小林多喜二と石川啄木(小樽商工会議所HP)

北海道・小樽
北海道拓殖銀行 (wikipediaより


フジクラ100年の歩み 藤倉電線社史編纂委員会藤倉電線 昭和62年12月25日

蟹工船』(wikipediaより
北洋出漁と映画「蟹工船」ロケ (函館市史通説編3)
帝劇 第61号  帝国劇場演劇部 昭和4年8月

「不在地主」(apediaより)
「寄生地主制」wikipediaより
磯野争議
未来プログで討論があった。

港湾争議
小樽の小作・港湾争議 (武島良成HP)
※琴坂守尚 編・解説 『磯野小作争議・小樽港湾争議 資料集』(B5判・上製・函入・282頁 定価8、000円 ’90年7月刊〔復刻版〕 )がある。 

小樽運河 (小樽運河ウェブページクラシックHP)

豊多摩刑務所 (wikipediaより
(投獄された人々の記録をみることができます。)

神奈川県・七沢温泉福元館

日本共産党 (wikipediaより


奈良の志賀直哉邸 (春日野奈良観光HP)
※『志賀直哉、上高畑の『サロン』をめぐる考察』 (呉谷 充利/創元社 2003/04) 

多喜二の死を報道した新聞記事集成 (ミスター労働運動HP)
小林多喜二の死とその前後 (未来プログ)
小林多喜二虐殺前後の人間群像 (貴司山治資料館HP)


 
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各国語ウィキペディアwikipediaで調べる多喜二。

2010-09-18 14:42:28 | 多喜二研究の手引き
各国語ウィキペディアwikipediaで調べる。
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日本語 小林多喜二
英語、Takiji Kobayashi
中国語、小林多喜二
ロシア語=Такидзи Кобаяси 
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プロキノ

2010-09-18 14:41:02 | 多喜二研究の手引き
演劇/「蟹工船」(俳優座)/リアル、圧倒的な迫力
 小林多喜二の「蟹工船」が、脚光を浴びている。俳優座が安川修一の脚本・演出でおこなっている舞台「蟹工船」
は、北緯五十度以北の海で、蟹漁に狩り出された季節労働者の集団的演技を創り出して、圧倒的な迫力だ。
 「蟹工船」は、いままでに数回劇化されている。最初は、小林多喜二が虐殺される前の一九二九年七月、新築地
劇団が高田保、北村小松の共同脚色によって上演。二回目は戦後の一九七〇年二月、大垣肇脚色・村山知義演
出で上演されている。新築地劇団の公演は改題させられ、検閲も厳しかったので、今回の俳優座公演と厳密に比較
しうるのは、東京芸術座の舞台だ。安川脚色の特徴は、第一に、この船に乗りこむことを「地獄」にたとえていること
である。幕明きのせりふが「地獄さ行くんだで!」ではじまる。大垣脚色では、第一場での人間関係の説明があっ
て、ようやく最後に、このせりふが語られる。
 安川脚色、したがって演出の第二の特徴は、一回はおさえつけられて、ストライキを断念せざるをえなかった労働
者が、再び闘いに立ち上がろうとする姿を、結末の場面で印象づけた点にある。もちろんその間に、労働者の生態
と、小林多喜二をおもわせる学生の姿がリアルに描かれているので、客席には緊迫した雰囲気がただよう。この雰
囲気は、劇場でなければ味わうことはできない。
 満員の客席に座っていてわたしは、労働者をいとおしく思って書き綴った小林多喜二の、類い稀な姿勢を、いまさら
のように感じざるをえなかったのである。
 (菅井幸雄・演劇評論家)
 24日まで、東京・俳優座劇場
( 2009年05月22日,「赤旗」)


芸能テレビ/俳優座「蟹工船」に挑む
 時代を超え人々の心をとらえる小林多喜二の「蟹(かに)工船」が舞台でよみがえります。劇団俳優座の創立65周
年記念作品です。脚本・演出の安川修一さんは、「世の中をひっくり返すような熱気を伝えたい」と話します。
 寺田忠生記者


高校の時、多喜二の母を訪ね/脚本・演出安川さん
 札幌生まれの安川さんは高校時代、小樽に住んでいた多喜二の母・セキさんに友人と会いに行ったことがありま
す。セキさんは当時、80歳を超えていましたが、突然の若者の訪問を快く受け入れてくれました。
 「『若い人が多喜二を訪ねて来ることはうれしい。これからの時代にとって、いいことじゃないか』と言ってくれまし
た。多喜二がノートに書いた構想やメモ、新聞の切り抜きも見せてくれて」
 その後も、セキさんのメッセージを心にとどめ、「いつか小林多喜二の作品の舞台化を」と考えていたと言います。
 物語の舞台は、海軍の保護のもと、オホーツク海で操業する蟹工船の船室です。〝国策〟の名のもとに、過酷な
労働を強いられる労働者たちは、ついに手を取り合い立ち上がりますが―。
 多喜二が「糞壷(くそつぼ)」と書いた蟹の缶詰を製造する工場・船室。けいこ場には2階建て構造の鉄骨が組ま
れ、最上部分は船のデッキになります。
 「閉鎖的な鉄の箱の中でもがいている労働者と、彼らを遠目で見ながら操り、搾り取っている資本家の構図を見せ
られたらと思いました」

実は私も〝派遣切り〟された/浅川役川井さん
 資本家の手先となって労働者を徹底的に虐待する監督・浅川を演じるのは、入団20年目の川井康弘さんです。
 けいこ場では、労働者役の若手俳優たちとは言葉を交わさず、一人で黙々と役をとらえます。「演出家からも『孤独
になれ』と言われました」
 川井さんは、出演が決まってから小林多喜二全集を読破。多喜二が浅川をとおして何を表現しようとしたのかを、つ
かもうとしました。
 「単純な〝悪〟の浅川を演じるだけでは足らないと思うんです。彼なりに一生懸命仕事に打ち込むなかで、一人の
人間が〝悪〟に変わってゆく、その悲しさ、おかしさ。彼をとおして、資本家が底辺の労働者を虐げている構図が見
えてくればと思うんです」
 実は、川井さん自身、俳優のかたわら、派遣労働者として働いていたものの、3月末で突然、〝派遣切り〟されまし
た。部署全部がなくなる大規模なものでした。
 「同じ部署の仲間で、再就職が決まったのはまだ1割だけです。みんなで舞台を見にきてくれます。いま僕らになに
ができるか、この舞台をとおして社会に提示できればと思います」
 *15~24日=東京・俳優座劇場。℡03(3405)4743
(2009年05月03日,「赤旗」)



ズッコケ蟹工船

  


東京芸術座「蟹工船」

  

東京芸術座「蟹工船」 

会場/東京芸術劇場 中ホール  期間/2010/3/26~2010/3/30 


●『民主文学』(70.03) に「「蟹工船」脚色の問題点」/大垣 肇 がある。


帝国劇場

左翼劇場




「」

原泉

杉本良吉


佐々木孝丸

本田延三郎
 宅昌一

松本克平
(日本新劇史 日本社会主義演劇史 八月に乾杯 松本克平新劇自伝
克平交友記 )
---------------------------------------------
村山知義

古書でたどる村山知義
---------------------------------------------


「プロキノ」全史 並木晋作合同出版 1986
回想のプロレタリア演劇 宅昌一 未来社 1983年9月30日
プロレタリア文化の青春像 山田清三郎 新日本出版社 1983


世田谷文学館
早稲田・演劇博物館



キネマ週報
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満州グラフ

2010-09-18 14:35:49 | 多喜二研究の手引き
満州グラフ
1933年(昭和8年)に満鉄から創刊された写真グラフ誌。生活・風俗・工業・農業・民族美術・各民族の特集などの多
彩な内容で構成され、まさに写真で見る「満洲国」百科。また、左から右への文字組、表紙の芸術的な写真、海外
の読者を意識した英語との表記など、時代の最先端を行く斬新な編集で、当時のグラフ誌の先駆的存在。

目次

■第1巻第1号(1号)
秋!/農業国満洲/国都建設/日満最短交通路の完成へ/熱河離宮と寺廟/満洲大博覧会/満洲風俗
■第1巻第2号(2号)
晩秋/耀く凱旋建設途上の羅津/蒙古の風貌/国境に近く/ガルモンカを弾く~/鋪道に拾ふ/秋季孔子祭
■第2巻第1号(3号)
冬来りなば/寒中素描/開発の前線/日鮮満直通幹線成る/拓けゆく沿線/満洲の近情
■第2巻第2号(4号) 「満洲国大典特集号」
満洲国皇帝陛下/皇上即位/泰運重光/国基永奠/乾元正位/普天同慶/萬寿無彊/山河増色/四民和楽
■第2巻第3号(5号)
春/娘々祭と娘々市/満洲野の五月/楽土に殺到する移民群/満鉄 生まれて二十七年/満洲国近事
■第2巻第4号(6号)
秩父御名代宮殿下の御声明/秩父御名代宮殿下と満洲国皇帝陛下/栄光燦たり!!/輝く帝都/風薫る/満支
を貫く/直通旅客スケッチ/奉山沿線風景/直通線上に躍る山海関/林間生活
■第2巻第5号(7号)
東満洲を衝く図寧新線/老松嶺の原始林/風物諸相/建設は進む/沿道拾遺/国道建設/四庫全書
■第2巻第6号(8号)
満鉄の超特急・あじあ/発車前・大連駅フォーム/“慰安線”の松花江巡航/曠野を行く/陸軍大演習/満洲国の
新行政区画/満洲国皇帝・初の御巡狩
■第3巻第1号(9号)
シベリヤを突く北黒新線/小興安嶺の原生林/黒龍江流域の砂金と民俗/蘇領ブラゴエを望む/結氷近き黒龍江
/満洲国江防艦隊/松花江氷上の先礼祭クリスチエーニエ/氷原に沸く法悦/満洲近事
■第3巻第2号(10号)
北鉄譲渡交渉成る/北鉄接収!!/東部国境/ポグラニーチナヤ/濱綏沿線/マンチユリー/国境の人と自然/
濱洲沿線/京濱沿線/北鉄スナップ/駅頭小景/北鉄の中心点ハルビン/ハルビンとエミグラントたち/御訪日
の満洲国皇帝陛下
■第3巻第3号(11号)
伸びゆく奉天/郊外に膨張する大奉天/繁昌する奉天駅頭/満鉄経営の奉天鉄道附属地/外人の居留する奉天
商埠地/奉天城内/歴史の奉天/奉天満人商売往来/短い春から明朗な初夏へ
■第3巻第4号(12号)
左様なら満洲/退職金を受取る人々/国境を越えて赤い祖国へ/安泰沿線の景観/伝説の平頂山/鉄と鋼の
“鞍山”/鉄鋼一貫作業開始!!/奉天の国立博物館/満洲近事
■第3巻第5号(13号)
興安の山ふところ/霊泉たぎる聖地ハロン・アルシヤン/“詩の国”蒙古/蒙古の風俗/鄂博の祭/世界的豪華版
 御製“盛京賦”/満鉄のローカル流線型 デーゼル列車/満洲国近事
■第3巻第6号(14号)
国境線“萬里長城”/満・支の関門“古北口”/多倫の喇嘛廟/喇嘛の跳鬼/ドロンノール(多倫)/“木蘭秋彌”の
あと 囲場/熱河風景 囲場近郊/満洲の鵜飼/満洲近事 ほか
「満洲グラフ」とは

1933年(昭和8年)に南満洲鉄道株式会社(満鉄)から隔月刊のグラフPR誌(1935年4月より月刊)として創刊され
た。創刊の時点で、日本国内におけるグラフ雑誌は1923 年創刊の「アサヒグラフ」のみであり、さらに言うならば、グ
ラフ誌という媒体に決定的な影響を及ぼすことになる「LIFE」より3年先んじている。
 左から右への文字組、表紙の芸術的な写真、大胆なタイポグラフィ、海外の読者を意識した英語との併記、見開き
に華麗に展開されるフォトモンタージュなど、時代の最先端を行く斬新な編集がなされた。
 雑誌の性格を決定づけた、これら編集・デザインの中枢を担ったのは、「満洲写真作家協会」(1932年結成)の結成
メンバーである淵上白陽(1889-1960)である。淵上は1920年代より、日本の近代写真をリードし続けた存在であり
『満洲グラフ』の編集にその卓越した感性は遺憾なく発揮されている(淵上は1928年に渡満、満鉄嘱託となり、1941
年離満)。
 だが『満洲グラフ』の特徴はこれら芸術的側面にとどまるものではない。「満洲国」を広くPRするための誌面は、満
洲における生活・風俗・工業・農業・漁業・民族美術・各民族の特集……など極めて多岐の内容で構成されている。
それら現在は失われてしまった各民族の生活や風俗などを、一級の写真資料で眺め、確認できる。まさに写真で見
る「満洲国」百科ともいうべき内容であり、これこそが、『満洲グラフ』の最大の特徴である。
【本書の特色】

●先駆的グラフ雑誌
 「LIFE」より先んじること3年、南満洲鉄道株式会社(満鉄)のグラフPR誌。
●斬新なレイアウト
 左から右への文字組、表紙の芸術的な写真、大胆なタイポグラフィ、海外の読者を意識した英語との併記、見開き
に華麗に展開されるフォトモンタージュなど、時代の最先端を行く斬新な編集。
●「満洲国」のすべてを一級の写真資料で
 生活・風俗・工業・農業・漁業・民族美術・各民族の特集等々、極めて多彩な内容で構成されており、まさに写真で
見る「満洲国」百科とも言うべき貴重資料。
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日本資本主義発達史と北海道・東北

2010-09-18 14:34:50 | 多喜二研究の手引き
日本資本主義発達史と北海道・東北



〈内国植民地〉としての北海道--有島武郎と小林多喜二

著者 尾西 康充(オニシ ヤスミツ) 請求記号 Z13-314

近代文学試論 広島大学近代文学研究会 巻号・年月日 (46) [2008.12]

ページ 1~11   ISSN 0910-9765





北方資料データベース





北方資料高精彩画像電子展示

以下工事中



地域・空間



開拓、拓殖、侵略、占領



北海道開拓殉難者調査報告書 社団法人北海道総合文化開発機構  平成3年3月





北海道と朝鮮人労働者



北海道百年 上 北海道新聞社



北海製罐70年のあゆみ 



秋田県労農運動史 今野賢三同史刊行 昭和29年



小樽市防護団業務 小樽市



小樽商科大学創立90周年記念 図書館所蔵貴重図書

階級



搾取



労働

評伝 平澤計七-亀戸事件で犠牲になった労働演劇・生協・労金の先駆者

藤田富士男 大和田茂 恒文社 平成8年7月

青柳瑞穂の生涯





農業



地主



小作



不在地主制



秋田・下川沿

北海道・小樽

北前の記憶(桂書房)



「日本軍の毒ガス虐殺を受けた北担村を訪ねて」         毒ガス島歴史研究所会員・ 山内正之



 私たちは、8月18日、日本軍の毒ガス攻撃でたくさんの住民が虐殺された村、河北省定県北担村に向かった。定州市で李徳祥さんの
息子、李洪金さんの出迎えを受け定州市から車で2時間、まわり一面は畑でところどころに赤レンガづくりの民家が建つ平野を行くと北担
村に着いた。華北平原に位置するこの農村はまわりには全く山や丘は見られない。「まわりが平原のこのあたりの村では日本軍からの攻
撃を防ぐには地下に隠れるしかなかったのです。



 案内してくださった河北省教育委員会の王成馬さんが説明してくれた。村ごとに地下道を作り、村と村とも地下道で結ばれていた。 北担
村に来る前、私たちは北担村から北へ約100㎞にある河北省清苑縣再荘村の地道戦遺跡で実際に地道の中を見学させてもらた。北担
村の地道はほとんど埋まってしまって中に入ることはできないが、再荘村では今もその地道の一部が戦争遺跡として残されていて、青少
年の教育に利用されている。戦争中は家と家、村と村をつないだ全長16㎞の地道が作られていた。地下道とはいっても中に入ってみる
と、それは地下の要塞とも言えるほど精巧に作られていた。地下道の通路は高さ120㎝から170㎝、 幅約100㎝。場所によって直立し
て歩けないほど低い通路や直立して歩けるところがあり、真っ暗な地道の中は方向を見失うようなところもあって迷路のようになってい
た。敵が地道に進入してくることも想定して落とし穴を造るなど、いろんな工夫がされていた。中には司令室、休息室、厨房、トイレ、爆薬製
造室、なども作られていた。案内の王さんの説明によると、地下道は2つのねらいを持って作られていたそうだ、一つは敵と戦うため、一つ
は自分たちを守るためである。大平原の中にある華北平原の村々はこのような地下道で戦うしかなく、あちこちに地道の要塞が作られ、
日本軍との戦いに効果を発揮した。 北担村は定州県の抗日の根拠地で、県の政府や、公安局、など役所が集まっていた。1942年5月
27日 日本軍は北担村を包囲し総攻撃をかけてきた。遊撃隊が手製の銃や地雷で日本軍とよく戦ったが武器がなくなり、みんな地下道に
逃げた。村に入ってきた日本兵は最初、村に誰もいないことに驚いて、村をあちこち探した。そして、ついに地下道の入口を見つけた。中に
入るのは危ないと見た日本兵は、地下道の入口に毒ガス弾を投げ込んだ。これでもかこれでもかと投げ込んだ。ガスが外にでないように
布団で入口をふさいだりした。地下道には大勢の村人が避難していた。2日間で約1000人が殺された。 この時のことについては、198
9年の5月14日三原市でおこなわれた北担村の数少ない幸存者の一人、李徳祥さんの証言集会で詳しくその時の日本軍の毒ガス使用
と虐殺のようすを聞かせてもらった。日本兵は苦しくなって地道からでた村人を次々に射殺したり、斬り殺した。女・子ども・老人だれかれ
なく殺害した。



これだけ残虐なことをしておりながら日本政府は、この北担村で日本軍が毒ガス弾を使用し、住民を虐殺したことを認めていない。「日本
軍が中国で使用したのは、くしゃみ性ガスであり、致死性のガスではない。従って日本軍が中国で毒ガスによる虐殺をおこなったことは確
認できない。」と責任逃れをしている。北担村のことを調べれば毒ガスを使用し住民を大量に虐殺したことは確かである。国際法に違反し
ていた毒ガスの使用を認めると後が面倒だと闇から闇へ葬ろうとする日本政府の姿勢がありありと見える。これではいつまで経っても侵
略戦争で日本が迷惑をかけたアジアの国々から信頼は得られない。 北担村で日本軍が使用した「あか一号」は大久野島で製造されたも
のと思われる。大久野島では5種類の毒ガス弾を製造していた。5種類なかで最も大量に中国に持ち込まれ、最も多く実戦使用されたジ
ェフェニ-ル・シアンアルシン(あか一号)は大久野島で265万発も製造されたと言われている。大久野島で製造された毒ガスは大半は
中国大陸に運ばれ使用された。日本政府も日中戦争において日本軍がこの「あか一号」は使用したことを認めている。しかし、「あか一
号」は「非致死性のガス」つまり人を死なせるだけの毒性のないガスであると主張し、虐殺には使用できないという見解をとっている。しか
し、大久野島で働いていた元工員は「あか一号はくしゃみ性ということで比較的、軽いように思われるが、とんでもない、「あか一号」は毒ガ
スの中でも一番恐ろしいもので吸えば狂い死にする。」と証言している。ましてや、北担村で使用したように、たくさんの人が入っている地
下道に大量に投げ込めば、その殺傷力は莫大なものと予想できる。ましてや、苦しくて地下道から逃げ出してきた者を次々に殺害してい
る日本軍の残虐行為を、使用はしても「あか一号」には「人を死なせる力はない」、従って虐殺にはならない、とする日本政府の見解はま
るで真実からかけ離れている。



 大久野島の毒ガスについて、毒ガス島歴史研究所の仲間と、いろいろ、学習し、調査している私は、今回の旅で北担村で毒ガスがどの
ように使用されたのかなどについて知りたいという願いをもっていた。今回の旅に出る前、李徳祥さんの証言を聞いたり、北担村の毒ガス
による大量虐殺について書かれた文献を読んだりした。そして、北担村の毒ガス虐殺のことについて知れば知るほど、その残虐さに心が
重たく沈んでいった。と同時に、今回の旅で北担村の人達と交流を持つことになっているが、村の人たちは、加害者である日本人の私をど
のように北担村の人迎えるのだろうと、考えるようになった。村民の皆殺しとも言える虐殺おこなうめに日本軍が使った毒ガスを製造した
町からやって来た日本人(私)をどんな気持ちで迎えるだろうか。きっと憎んでも憎み切れない気持ちだろう、という思いが私の心のどこ
かにあった。



 しかし、北担村に到着した私たちを、村の人々は大歓迎で迎えてくれた。熱心に霊園の中を案内し、「日本軍の毒ガス攻撃で犠牲になっ
た人々がこの霊園の地中に眠っている」と説明してくださった。私は、まず毒ガス虐殺の犠牲になった村民に心から冥福を祈る、とともに
北担村の人々が、自分たちの村の毒ガスによる悲惨な歴史を日本人に伝えることによって二度とこのような悲劇を繰り返してはならない
と願っているということが痛いほど伝わって来た。われわれが霊園に来たことを知った村の人たちが続々と私たちのまわりに集まって来
た。日本人が来たということで複雑な気持ちで私たちを見ていた老人もいたことだろう。北担村の人たちに、私が謝罪する気持ちを表すた
めの今できる方法は、北担村における日本軍の毒ガスによる大量虐殺の事実を多くの日本人に伝えていくことだと心の中で強く思った。



 北担村に着いたのは予定が遙かに遅れて夕方6時過ぎだった。そのため予定していた北担村の人たちとの交流はできなかった。李徳
祥さんも体調を崩されているとのことでお会いできなかったのは大変残念だった。しかし、北担村と私とのつながりはまだ始まったばかり、
来年は、北担村に記念館を建てようという取り組みも始まるとのこと、自分のできることは協力していきたい。そして、これからも子々孫々
未来永劫にわたって日中友好が続くよう、微力ながら自分も努力しようと思う。



 



     中国抗日戦争における地道戦 文:山内正之                               



 1998年8月18日私たちは日中戦争の時地下道戦のおこなわれた河北省保定市の「冉荘地道戦遺跡」を訪れた。この地方では唯一
ここにだけ「地道の跡」が保存されている。1942年から1944年の数年間、日本侵略軍は河北の平原で「大掃蕩作戦」を行なった。この
時、日本軍は河北の中国軍を封鎖するため、5キロ毎にトーチカ、4キロごとに要塞を築き、溝を作りバリケードをめぐらした。日本軍の「大
掃蕩作戦」を粉砕するため、河北の中国軍は新しい闘争方式を開拓した。これがすなわち地下道戦である。地下道戦というのは、地下に
隠れ場所を作り、敵と戦う戦術である。まわりが広い平原で隠れる場所のない華北平原で考え出された戦術であった。地下道戦は敵から
身を守るために隠れるという目的と、敵を攻撃するための要塞という二つのねらいをもって作られた。広い平原の地底に四方八方、まっす
ぐ伸ばしたものや、湾曲させたものなどいろいろな地下道を掘り、家々をつなぎ、村々に通じさせた。日本軍が来たら、人々はすぐ地下道
の中に潜り込み、そして日本軍が行ってしまうと、また地下道から出てきて、いつも通りの生活や農作業をする。また時によっては、敵に
奇襲を加えたりもするのだ。この地下道という堅固な要塞によって、華北平原の人民は後方から日本軍に攻撃を加える遊撃戦を堅持した
のである。



 地下道の形式は百数種類もあった。例えば、村と村の連絡の地下道を通りの真下に掘り、他村と通じる地下道を畑の下に堀ったものも
あった。地下道は高さが1メートル30センチ以上あるので、背の高い人でも前屈みになれば通れるし、地面から1メートル以上も深く掘って
いるので、地上の作物に何の影響もない。地下道には一定の距離ごとに木材で天井を支えた大きな洞窟があり、それは大変堅固にでき
ていた。大洞宮の四壁にはたくさんの小さな洞宮が掘られて、それぞれ宿泊用、家畜用、物置き、そして便所というふうに用途別に使われ
ていた。そして火薬や武器製造の部屋もつくられていた。洞窟の中にはいつも飲料水、乾燥食料、布団、灯火が用意されていて、中で四、
五日は十分生活できた。またここには地面に通じる空気孔が開けられており、この穴から太陽の光も差し込むようにできていた。地面の
空気孔の口は大変巧妙に隠されていて、敵はほとんどこれを発見することができなかった。ここに隠れていれば、息が詰まることも暗闇
に困ることもなかった。







北海道社会運動家名簿 堅田精司編 昭和48年5月



東京・港区ゆかりの人物ー小林多喜二

東京・港区ゆかりの人物ー志賀直哉

志賀直哉
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日本プロレタリア文化運動の国際性

2010-09-18 14:32:26 | 多喜二研究の手引き
日本プロレタリア文化運動の国際性

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wikipediaで多喜二の経歴・歩みを読む
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各国語ウィキペディアwikipediaで調べる。
日本語 小林多喜二
英語、Takiji Kobayashi
中国語、小林多喜二
ロシア語=Такидзи Кобаяси 
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この年の4月、多喜二は自宅をクラルテ社とし、同人誌『クラルテ』を創刊。
『クラルテ』第一集には「暴風雨もよい」を掲載。
巻頭にはアンリ・バルビュスの「クラルテ(光)」から
「さうだ、此の世の中には一つの神が存在する。吾々の広大な内的生命を導引くためには、また、全人類の生命のう
ちに含まれてゐる分担を導引くためには決してそれから眼を外らしてはならない神が存在する。真理といふ神だ。」
を掲げ、意気盛んに作家への道を歩もうとしている多喜二に父の死が襲ったのです。
 
 『クラルテ』は、フランスに留学し1920年に10数年ぶりに帰国した小牧近江が、反戦平和の運動の種を蒔く決意
で郷里の秋田で金子洋文、今野賢三とともに発行した『種蒔く人』の革命的伝統を引き継いで発行したものでした。
 編集後記にあたる「同人雑記」に多喜二は、「三等客船の前河広一郎氏や燃ゆる反抗の新井紀一氏、クラルテの
訳者小牧近江氏に原稿を依頼したら、第2集から出して下さることをおゆるしくださつた。」とその船出の勢いを語って
います。
つづいて、多喜二は、7月3日に『クラルテ』第2集を刊行。
「駄菓子屋」「修身とソウシアリスム」を掲載しています。

同号の「仲間雑記」に多喜二は、
「前号の拙作「駄菓子屋」について志賀直哉氏が、「日本の小説の型に小さくまとまっている」と評したことに不満を
述べています。

また、同年8月は、多喜二には知りよう名ないことではありますが、2年前の1922年7月15日に非合法に結党されて
いた日本共産党が、ビューローを残置して解党を決定した年でもあり、大正デモクラシー時代の自由な空気が失わ
れ始る難しい時代でした。

父を喪った多喜二は、「私の月給には6人の親子がブラ下がってい」る銀行勤めの他方で、ゲーテ、モーパッサン、セ
ザンヌに学んで創作に打ち込もうと必死に努力したものの、その成果をあげることができず、自信を失いはじめます。

 多喜二はそんな自分を励ますように、自身の日記に「自分はこれではだめだ」「自分は、あせり出した。毎日のグダ
グダした生活が恐ろしくなった。それにますます機械的になってゆく銀行の生活が、ややもすれば、自分の本当の仕
事の上に、イージィな、だるな陰影をなげかけていくのも恐ろしく思われてきた。」と自問し、自ら「反抗が必要」だと応
えています。

生活に追われ、生活の奴隷となることで作家ーの道を諦めないためには、「反抗が必要」だったのです。

わたしにも、そうした「反抗が必要」になりそうです。


黒島伝治のアンリ・バルビュス論

アンリ・バルビュスの「クラルテ」も欧洲大戦から生れた、反軍国主義文学である。この小説は、はじめの方はだらだらしていて読みづら
い。バルビュスは、戦争の惨禍を呪咀するばかりでなく、戦争の責任者に対して嫌悪を投げつけ、インタナショナルの精神を高揚してい
る。「そこで君達は、祖国の武装を解かせねばならないのだ。そして、祖国観念を極度に収縮放棄して、重大なる社会観念を持たなけれ
ばならないのだ。君達は、軍閥的国境を湮滅《いんめつ》しそれよりもっと悪い経済的商業的障碍を取り除かねばならないのだ。保護貿易
主義は、労働の発達の中へ暴力を導引《みちび》き入れるものであり致命的な軍国主義の狂態を齎らすものなのだ。君達は、各国家の
間では正当なことゝ云われ、各個人の間では『殺人』『窃盗』『不正競争』と呼ばれているところのものを廃滅しなければならないのだ。こ
れ等のものを取除くのは、特[#「特」は底本では「持」と誤植]に君達でなければならないのだ。何故なら、それらのことをやるのは君達だ
からだ。何処へ行っても君達だけが不滅な力と、私心を交えない朗らかな良心とを持った君達だけがこれをやり得るのだ。君達は、君達
自身のために戦争をやるようなことはないのだ。
 君達は、大昔の魔法や、神の殿堂などを怖れてはならない。君達の巨然たる理性は、信者達の富の根を止める偶像を破壊しなければ
ならない。」
「世界的共和は、この人生に於て、万人の権利を平等たらしめるための避くべからざる結果なのだ。平等の観念に立脚して進むならば人
民のインタナショナルに到達するであろう。若しも其処へ到達しないならば、それは正しい道理に立脚していないからなのだ。」
 こういう風に、バルビュスはインタナショナルを叫んでいる。
 プロレタリアートは、帝国主義的、侵略的××に対して絶対に反対する。従って、プロレタリアートの反戦文学には、それが表現されなけ
ればならない。ブルジョアは、戦争の真の原因を民衆の眼から隠蔽する。「彼等は、人民に向って云う、――一旦、お前達の上にいる
人々の思う通りの勝利が得られた暁には、あらゆる暴政は魔術にかかったように影を消してしまって、地上に平和が来るのだ。――と、そ
れは、ほんとではない。××による支配が来るまでは、地上に平和は来ないのだ。」それから彼は、他の箇所で全世界の兵卒に向って云
う。「人間の群の中から出鱈目に掴まえられた男よ、記憶するがいい。――君が君自身であったことは片時もなかったのだということを!
 『ねばならん! ねばならん!』という冷酷な絶対命令の下に君が屈服しないですんだことは断じてなかったのだ。平時には、商工業の
機械工場で、不断の労働の規則に取り囲まれ、道具の奴隷となり、ペンの奴隷となり、才能の奴隷となり、又は、何か他の物の奴隷となっ
て、朝から晩まで休息することもなく日々の労役に曳きずられる君よ。それによって、君はやっと生活を凌いで夢の裡に安息することだけ
は出来た。
 君が決して欲しなかったこの戦争が来ると――君の国や名は問う要がない――君をしかと握っていた怖しい運命は、きっぱりその仮面
を脱ぎ捨てゝ、喧嘩好きな複雑な正体を現わしたのだ。宣告の風が起ったのだ。
 君の身体は徴発される。刑法上の逮捕と同じような威嚇の方法で君を捕える。如何に貧窮なものも、誰一人としてこの逮捕から逃げる
ことは出来ない。君は営舎の中に××される、虫の如く裸[#「裸」は底本では「裡」と誤植]に剥がれて今度は誰彼の差別を無くする××
を着せられる。
 君は悲惨と屈辱と、日々に陥って行く萎縮との生活を生活する。粗食を与えられ、虐待され、身体中こづき廻され、番兵の命令によって
こき使われる。一瞬毎に、君は萎縮した自己の内へ激しく投げ返される。君は極めて些細な行為のために罰せられる。又、主人の命令で
生命を棄てる。」
 こういう不愉快な、恐ろしい戦争が、而も××××制度が存在する限り、一遍すんでも又「起るであろう。戦争が戦闘する者以外の人間
によって決定せられ得る限り、それは繰りかえし起されるであろう。銃剣を鍛えそれを振り廻したりする魯鈍な大衆以外の人間によって戦
争が決定せられ得る限り、それは何遍も繰りかえし起されるであろう。」そうして××××制度が存続する限り、「この地上には、戦争の
準備以外に何物も無くなるであろう。あらゆる人間の力は、そのために吸収され、あらゆる発見、あらゆる科学、あらゆる想像はそれによ
って独占されるだろう。」――「クラルテ」にはこういうことが叫ばれている。そして、「クラルテ」が発表されて十年を経過した今日、世界の
帝国主義国家は××の準備以外、何物をもしていない状勢になっているのである。(黒島伝治「反戦文学論」より)
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日本プロレタリア文化運動の反戦活動

2010-09-18 14:31:28 | 多喜二研究の手引き
反戦・平和・国際活動・反帝運動


勝本清一郎(一八九九ー一九六七)二九年一〇月ー三三年一二月在独、当時文芸評論家・三〇年一一月ハリコ
フ世界革命作家同盟大会日本代表、慶応大院卒、三田文学同人、三五年日本ペンクラブ初代主事、三八年大岩誠
事件で検挙、五一年日本ユネスコ協会連盟理事長(『赤色戦線を行く』新潮社、三〇年、『前衛の文学』新潮社、三
〇年、『こころの遠近』朝日新聞社、六五年、『近代文学ノート』全四巻、みすず書房、七九・八〇年)

佐野  碩(一九〇五ー六六)三一年九月ー三二年一〇月在独、演出家、浦和高・東大卒・新人会出身、三
三年モスクワ亡命・メイエルホルド師事、三七年ソ連国外追放、パリ・米国経由三九年メキシコ亡命・演劇活動(後藤
新平孫・佐野学甥、「メキシコ演劇の父」、藤田富士男『ビバ・テアトロ』オリジン、八九年)



千田 是也(一九〇四ー九四、本名伊藤圀夫)二七年五月ー三一年一一月在独。当時俳優・演劇研究。ベルリン
社会科学研究会に属す。二七・二九年国際反帝同盟評議会出席、二九年七月ドイツ共産党入党、ATBT(ドイツ労
働者演劇同盟)・IATB(国際労働者演劇同盟)日本代表。 、早大中退・築地小劇場俳優、三三ー三五年検挙・獄
中、三六年新築地劇団、四四年俳優座創設・代表、新劇団協議会代表(『傍白』早川書房、五三年、『もうひとつの
新劇史』筑摩書房、七五年、藤田富士男『劇白 千田是也』オリジン、九五年)

● 文化運動・政治運動を目的とした渡航(千田是也のもとへの村山知義義弟岡内順三や島
崎藤村三男蓊助・勝本清一郎・藤森成吉・山口文象らの渡航)、


その他

土方 與志(一八九八ー一九五九)三三年五月パリからベルリン経由モスクワ亡命(梅子夫人同行)、二二ー二
三年独留学、築地小劇場創設・演出家、三三年モスクワ亡命・爵位剥奪、三七年国外追放でパリ経由四一年帰国
逮捕、新演劇人協会(『演出者の道』未来社、六九年、『土方梅子自伝』早川書房、七六年、尾崎宏次・茨木憲『土
方与志 ある先駆者の生涯』筑摩書房、六一年)
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日本反帝同盟資料

2010-09-18 14:26:55 | 多喜二研究の手引き
日本反帝同盟資料社会問題資料叢書第1輯 東洋文化社 1980年5月



1932年7月8日、日本反帝同盟の中央執行委員会が開催され、4月の文化分野への大弾圧以来、地下活動を余儀なくされていた小林多喜二が文化連盟から派遣された執行委員として加わった。



同執行委員会で検討された課題は、以下の



①八・一国際反戦デーの準備と宣言の発表、



②ゼネヴァ反戦大会への代表派遣とともに、



③日本帝国主義の満洲侵略に反対する諸活動に取り組む



という3項だった。







 この時期の多喜二について手塚英孝『小林多喜二』の年譜は、「七月、麻布区新網町にうつる。日本反帝同盟の執行委員になる」と記している。







 これは、『定本小林多喜二全集』第15巻の年譜での「八月」を訂正してのことであろう。



 手塚は反帝同盟とは何を目的にした団体であり、多喜二の作品世界と具体的にはどのような関係にあるかは、解明しなかった。



 しかし、多喜二の反戦活動の展望とその主体的な関わりをとらえるには、多喜二の反帝同盟での活動を明することが重要な意味をもつのである。







 このころの多喜二の反帝同盟での活動について、日本反帝同盟委員長・谷川巌は『アカハタ』(63年2月19日付)の特集に寄せた小文で、「(32年から33年にかけて)日本反帝同盟のしごとをしていたわたしは、加盟団体の一つであった文化連盟選出の反帝同盟執行委員
であり、同時に共産党グループであったある同志(小林多喜二のこと―引用者)と、かなりながいあいだ、いっしょに会合に参加したり、毎週定期的に街頭での連絡をとりながら、当時中心的な課題であった上海でひらかれる極東反戦会議の運動に熱中していた」(「不屈の反戦反帝の戦士」33年3月4日付『赤旗』)というほど多喜二が意欲的に活動していたことを証言している。







 その一文の冒頭で



 「熱河では、すでに、日本の帝国主義の侵略行動が拡大し、爆撃機と毒ガスに幾十万の日本、朝鮮、台湾、中国の勤労大衆が殺りくされている時、去る二月二十日日本プロレタリア文化運動の輝ける指導者、ボルシェビィキ作家、同志小林多喜二は鬼畜に等しい天皇制テロルによって虐殺された。」「同志小林を虐殺した天皇制帝国主義は、戦争遂行のため日本の勤労大衆を飢餓と失業と政治的無権利につきおとし、朝鮮、台湾を惨忍比類ない抑圧下におき、土地と文化と自由を踏みにじり、最近にも五・三○間島事件の同志十二名を虐殺し、台湾霧社蕃事件の同志三十六名をことごとく虐使と自由はく奪と野蛮な台湾のろう獄の設備によって餓死せしめた。同志小林は死を
もって組織を防衛したすぐれた共産党員、ボルシェビィキ作家であったとともに、わが日本反帝同盟の加盟団体である文化連盟の反帝執行委員として、かれの全生活と全作品を一貫して、朝鮮、台湾の完全な独立、中国分割反対、中国ソビエト支持、ソビエト同盟擁護のために身をもって闘争した反帝戦士であった」







 と多喜二が「文化連盟選出の反帝執行委員」を務めたことを明らかにし、その具体的活動として「逮捕された直前まで、きたるべき上海反戦大会の積極的支持者として、上海大会支持の大衆的運動のため東奔西走していた」ことを述べていることは貴重な証言だと思う。







 ここで谷川が「台湾霧社蕃事件の同志三六名をことごとく虐使と自由はく奪と野蛮な台湾のろう獄の設備によって餓死せしめた」と指摘している「台湾・霧社事件」は、日本軍が他国民に対してガス兵器を実戦使用した事件として知られ、「党生活者」の世界との関係性も重要である。







 陸軍はすでに27年に瀬戸内海の西方、広島・忠海町の大久野島に「東京第二陸軍造兵廠忠海製作所」の看板を掲げる日本最大の毒ガス生産基地を建設するなど、毒ガスの研究に本格的に取り組んでいた。そして30年に日本帝国主義支配下の台湾で少数民族高砂族が反乱に立ち上がると、その鎮圧に有毒ガス兵器を使用したのである。







 この「霧社事件」のころ、多喜二は共産党への資金提供の罪で多摩刑務所に投獄されていたので、リアルタイムでこの事件報道には接することはできなかったが、出獄後すぐに知ることになっただろうと思われる。



 なぜなら、多喜二の「東倶知安行」掲載の『改造』誌巻頭に霧社事件関連の記事が掲載されているからである(『改造』31年3月号に、川上丈太郎と河野密の対談「霧社事件の真相を語る」が掲載されている)。







 自分の作品が掲載された雑誌を読まないはずはない。そして、多喜二は非合法生活に追い込まれて数ヶ月後には、この日本帝国主義の支配からの解放を進める日本反帝同盟の執行委員の大任を負う執行委員となるわけであるから当然この抗日蜂起事件は知るところとなったはずである。







 (※同反帝同盟は、第1回全国大会を31年11月初旬に開催。加盟団体は全国農民組合、日本労働組合全国協議会などで、メンバーは在日朝鮮人および中国の留学生・台湾出身の中国人も重要な構成部分として含んでいた。そもそも「日本反帝同盟」は、はじめ「対支干
渉同盟」から出発した日本の反帝反戦運動が、29年8月のドイツ・フランクフルトでの「国際反帝大会」を契機として結成されもので、反帝国主義・民族独立支持同盟に正式に加盟した組織である。) 



ちなみに同じ時期、作家同盟に所属した日本共産党員の宮本百合子(当時中條姓)の「刻々」にも、この「霧社事件」についての記述がある。この記述は度々引用される個所ではあるが未だ、「霧社事件」との関連では論議されてきたことがないだけに重要な事項であるだろ
う。



 それは



 ―帝国主義文明というものの野蛮さ、欺瞞、抑圧がかくもまざまざとした絵で自分を打ったことはない。自分は覚えず心にインド!印度だ、と叫んだ。インドでも、裸で裸足の人民の上に、やはり飛行機がとんでいる。人民の無権利の上に、こうやって飛行機だけはとんでい
るのだ。革命的な労働者、農民、朝鮮、台湾人にとって、飛行機は何をやったか?(台湾霧社の土人は飛行機から陸軍最新製造の爆弾と毒ガスを撒かれて殺戮された。(傍線引用者)猶も高く低く爆音の尾を引っぱって飛んでいるわれわれのものでない飛行機―。







 とあり、百合子は明確に毒ガス戦の視角から「霧社事件」をとらえているのである。

小林多喜二も当然、これらの把握の上に立って、この時期の小説「党生活者」をはじめとした創作や、評論に自らを鼓舞し、取り組んだことだったろう。









岡田嘉子とその時代



コミンテルン (wikipediaより)



プロフィンテルン大会 (wikipediaより)

ベルリン反帝グループ (加藤哲郎のネチズン・カレッジ情報収集センター HP)



国崎定洞 (加藤哲郎のネチズン・カレッジ情報収集センター HP)

『流離の革命家 国崎定洞の生涯』(川上武/著、勁草書房、1976年 )

■目次:1 社会医学の先駆者/2 流離の生涯/3 川越中学・一高・東大医学部/ 伝染病研究所入所と軍隊生活/5 医学研究の成/6 東
大助教授に就任/7 ”斎藤とも”との結婚/8 河上肇の影響とレーニンの翻訳/9 『社会衛生学講座』/10 ドイツ留学時代/11 国崎定洞の
手紙?ベルリン時代の記録?/12 革命家への道/13 在独日本人左翼グループ/14 フリーダ夫人/15 片山潜との関係/16 スターリン粛清
/17 その後のフリーダとタツ子/18 名誉回復



国崎 定洞(一八九四ー一九三七)二六年一〇月ー三二年九月在独、当時東大医助教授(社会衛生学)、旧制一
高、東大卒、二九年五月免官、三二年九月モスクワ亡命、三三年クートベ、三七年八月四日逮捕、一二月一〇銃殺
(川上武・加藤哲郎『人間 国崎定洞』勁草書房、九五年)   国崎 定洞 1894・10・5ー1937・12・10 一高、19東大・
24助教授 26・10ー32・9   東大医助教授 32・9モスクワ亡命、33クートベ、37・8・4逮捕・12・10銃殺       川上武『流離
の革命家』勁草76 有千川岡





島崎 蓊助 1908・12・17ー92・3・11 明治学院、川端画学校  29・10ー32末  プロレタリア美術 藤村3男、画家、勝本
に同行、『嵐』三郎モデル 「在独日本青年素描」『改造』36・2 千川岩義陽八野喜岡





藤森 成吉 1892・8・28ー1977・5・26  16東大、文芸戦線  30・1ー32・5 ナルプ委員長  作家、32ソヴェート友の会、49
入党、72日本国民救援会会長   「転換時代」『改造』31・10  山千川陽野岡



土方 與志 1898・4・16ー1959・6・4  22-23独留、築地小劇場  33・5パリベルリン訪 演出家 33モスクワ亡命・爵位剥奪、
37パリ、41帰国逮捕、新演劇人協会  『演出者の道』未来社



徳川 義寛 1906・10・11ー96・2・2 尾張徳川家・男爵、1931東大美学卒、32・5ー34・12ベルリン大学在学、パリ経
由帰国、ベルリンで喜多村・八木・井上らと同級生、竹久夢二の絵を持ち帰る、帝室博物館勤務、36ー昭和天皇侍
従、69侍従次長、85ー88侍従長、『独墺の美術史家』『侍従長の遺言』



片山  潜 1859・12・26ー1933・11・5 1884ー95渡米エール大、97セツルメント、労働組合期成会、01社会民主党、04第2イン
ター大会、14再渡米・米共産党創立、22コミンテルン幹部会員、国際反帝同盟 『片山潜著作集』東経

島崎 藤村 1872・3・25ー1943・8・22 1891明治学院、『文学界』創刊、1906『破戒』、11『家』、13ー15渡仏、19『新生』、
32ー35『夜明け前』、日本ペンクラブ初代会長 『藤村全集』



河上  肇 1879・10・20ー1946ー1。30 山口高・1902東大、03東大農講師、無我苑、08京大09助教授、13ー15留
学、16貧乏物語・19社会問題研究、26京大学連事件、28京大辞職、29新労農党、32テーゼ翻訳・共産党入党、33ー
37入獄、43ー自叙伝 『全集』岩波



野坂 参三 1892・3・30-1993・11・14 17慶応、友愛会、19英共産党・22日本共産党、産労所長・無産者新聞、28検
挙・30保釈、31訪ソ、34ー38渡米、40ー45中国、戦後共産党国会議員・議長・名誉議長、92除名



福本 和夫 1894・7・4ー1983・11・16 20東大法、松江高教授 22ー24独仏留学、コルシュら、帰国後日本共産党福本イ
ズー、28検挙・42保釈、戦後ルネサンス研究



井上  勇 1901・4・30ー85・12・17  23東外仏語・東大仏文中退、報知米特派員、35外務省嘱託日本ペンクラブ事務、
36同盟パリ支局長で高田・淡徳三郎・安達ら、外報部長、46時事通信取締役、R・ギラン親友



村山 知義 1901・1・18ー77・3・22  21東大哲学中退独留学、前衛美術、築地小劇場、28左翼劇場、32ー34検挙獄
中、35新協劇団、40再検挙、戦後東京芸術座、岡内順三義兄 『演劇的自叙伝』東邦





村山 籌子 1903・11・7ー46・8・4   岡内順三姉、23自由学園高等科、『婦人之友』『子供之友』に童話、24村山知義
と結婚、29ナップに加わり『少年戦旗』など、31ー34蔵原との交友





古在 由重 1901・5・17ー90・3・6   25東大哲学、古在由直の子、唯物論研究会、33・38検挙、マクス・ビカートン友人、59ー
65名大教授、平和運動 『古在由重著作集』勁草



蔵原 惟人 1902・1・26ー91・1・25  23東外露、ソ連留学、28ナップ結成、29入党、30ー31訪露、31コップ結成、32検挙、
戦後日本共産党文化部長・副委員長 『蔵原惟人評論集』新日



岡田 嘉子 1902・4・21-92・2・10  18女子美、舞台協会女優、映画進出、38・1杉本良吉と樺太越境・入ソ逮捕、39ー
48ラーゲリ、54ー59モスクワ演劇大、72初里帰り、日ソ文化交流
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中國左翼作家聯盟

2010-09-18 14:21:23 | 多喜二研究の手引き
中國左翼作家聯盟



囚われた文学者たち―毛沢東と胡風事件 李輝 岩波書店 1996年10月3

魯迅与胡風 黄喬生 河北人民出版社 2003年12月中文



中国語で残された日本文学 呂元明著・西田勝訳 法政大学出版局 2001年2月

魯迅の思い出 内山完造著 社会思想社 1979年9月

胡風論 陳思和ほか 編慶西 教育出版社 2000年6月 中文



巴金

巴氏は1904年11月に四川省・成都(せいと)市に生まれ。小林多喜二の一歳年下。

学生時代の1919年の五・四運動の影響を受けるとともに、アナキズム思想に傾倒して上海の労働運動に参加。1927年、フランスに留
学。



 フランスで執筆した「滅亡」が帰国後の1929年に中国で発表され高い評価を得た。特に1931年から連載を開始した「家」は、当時の広
範な青年知識人に強い影響を与えたとされる。

34年の来日の際には、横浜高商(現・横浜国立大学)中国語助教授・武田武雄宅にホームステイし、武田一家との交流を小説やエッセー
に残した。

 日中戦争開戦後は、日本の侵略に立ち向かう中国市民の姿を描き、各地を転々としながら作家活動を継続。中華人民共和国成立後は
1960年、全国文連副主席に就任、雑誌『文芸月報』『収穫』の編集長を務めるなど、文藝界に強い影響をもち続けた。

しかし、この巴金も党による文化人粛清への協力を余儀なくされ、文化大革命中は他の著名作家とともに強制労働を強いられ、その果て
に妻を失った。

 文化大革命終結とともに1977年に復活。自らを文革の"加害者"と告白した。1983年からは全国政治協商会議副主席も務めている。89
年民主化運動の際には、学生市民への支持を表明、同年6月の「血の日曜日」事件以後も上海で、文芸誌『収穫』を主宰しつづけ、多くの
若い作家を守った。



●日本学研究センター(中国北京市西三環北路2号 北京外国語大学 東院)1985年9月に正
式発足し、中国の国家教育部と日本の国際交流基金が両国の教育・文化交流の促進のため
に共同で設立されたもの。同センターは中日両国政府間の文化・教育交流の協力事業とし
て、これまで3つの5カ年計画を成功させ、現在は第4次5カ年計画(2000年9月――05年8月)を
実施している。第4次5カ年計画の実施プロセスにおいて、日本政府の無償援助の形で同セン
ターに新たに作られた「教学 科研ビル」は順調に完成し、03年9月から使われ始めている。新
しいビルの完成は、同センターの学科指導と科学研究、図書情報、管理に良好な職場環境を
提供し、新ビルの完成は中日両国の友好関係のシンボルとなっている。



●中国現代文学館(北京市朝陽区芍薬居安苑東路45号 tel:0086-10-84619055 9:00~16:
30 参観料:10元)中国現代文学館・新館は、中央政府による関心と支持を受けて設立された
文化プロジェクト。江沢民総書記は新館の建設をかなり重視しており、直接に取り組んだ。中
国作家協会主席の巴金は1993年、江沢民総書記に書簡を送り、中国現代文学館・新館の建
設を打診した。江沢民総書記は巴金氏に返信を送り、相次いで6回に渡り重要な指示を与え
た他、新館の館名を記し、「中国現代文学館をしっかりと運営し、中国の文学事業の発展を促
進するために積極的な役割を果たして欲しい」と述べた。



●人民抗日戦争記念館(北京市郊外の盧溝橋付近)日中戦争の発端となった1937年の盧溝
橋事件跡地にある歴史展示施設。



/7付『毎日新聞』はもう一つの記念館が新装オープンしたことを伝えている。北京支局・大谷麻由美レポートである。これも貴重な情報で
ある。



  日中戦争の発端となった1937年の盧溝橋事件から68年を迎えた7日、北京市郊外の盧溝橋 付近にある歴史展示施設「中国人民
抗日戦争記念館」が改修を終えてオープンした。「抗日戦争・ 世界反ファシスト戦争勝利60周年」を記念した大型展覧会「偉大な勝利」
も同日から始まり、中 国各地で記念イベントが本格化する中、反日感情の再燃も懸念されている。



  同記念館は今年3月から休館し、5000万元(約6億5000万円)をかけて改修を行った。

 新たに未発表資料約140点が加わり、旧日本軍の武器や化学兵器のほか文献や写真を展示。中国 で細菌兵器開発の人体実験を
行った旧日本軍の731部隊(関東軍防疫給水部)の実験道具なども 展示された。





●文化大革命博物館(北京市澄海区の塔山にある三階建。04年3月に着工、12月に完成)民
間有志が中心となって開館にこぎつけた。博物館は建設の音頭をとったのは、元スワトー市副
市長の彭啓安(ポンチーアン 72歳)。



●北京魯迅博物館(北京市西城区阜城門内大街宮門口二条19号  tel:010-6616-4168 解放
時間 9:00~15:30/月曜休み/入場料 大人5元、学生3元) 1956年に魯迅逝去20周年を記
念し建てられた。また、1980年には生誕百周年を記念して拡張された。魯迅が所蔵していた
13000冊余りの書物が展示されている。

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プロレタリア美術2

2010-09-18 14:14:47 | 多喜二研究の手引き
岡本唐貴
尖端に立つ男 岡本唐貴展

前衛と反骨のダイナミズム

大正アバンギャルドの旗手 その知られざる青春 柳瀬正夢展 1986

大月源二「安子」

画家 大月源二の世界 (カナリヤHP)

橋浦康雄

斎藤次郎

板垣鷹穂宛獄中書簡

帝展

ネヴオの記-1930年代・札幌―文化運動の回想佐藤八郎 私家本 昭和51年
佐藤八郎

津田青楓 犠牲者 二科展
ある老画家の一生 津田青楓 中央公論美術出版 昭和38年8月


1. 畫家の生活日記. 津田青楓著. 弘文堂書房, 1924. 東近美術図閉架B
2. 自撰年譜.津田青楓編. 津田青楓, 1940. 東近美術図閉架B
3. 春秋九十五年, 限定版. 津田青楓著. 求龍堂, 1974.東近美術図閉架B
4. 青楓随筆. 津田青楓著. 弘文堂書房, 1924. 東近美術図閉架B
5. 青楓美術館図録. 美術館, 1983. 東近美術図閉架I
6. 漱石と十弟子.津田青楓著. 朋文堂新社, 1967. 東近美術図閉架B
7. 津田青楓書簡コレクション目録. 日本近代文学館編. 日本近代文学館, 1982 (日本近代文学館所蔵資料目録:7).
東近美術図閉架E
8. 津田青楓の図案 : 芸術とデザイン. 津田青楓著. 芸艸堂, 2008 (近代図案コレクション). 東近美術図閉架B
9. 盲亀半生記. 津田青楓著. 南画廊, 1956. 東近美術図閉架B
10. 懶畫房草筆. 津田青楓著. 中央公論社, 1941. 東近美術図閉架B
 
展覧会カタログ : 1-5 (5件)
 1. 画文交響 : 明治末期から大正中期へ. 山梨県立文学館編集. 山梨県立文学館, 2000. 東近美術図閉架A
2. 津田青楓喜寿祝賀展覧会目録. [出版者不明], 1956. 東近美術図閉架A
3. 津田青楓書画展.[三越], 1970. 東近美術図閉架A
4. 津田青楓団扇水墨画展. [高島屋美術部], 1961. 東近美術図閉架A
5. 津田青楓展. フジヰ画廊, 1973. 東近美術図閉架A
 
雑誌巻号 : 1-8 (8件)
 1. 近代画説 : 明治美術学会誌. 1号, 1992年11月. 目次あり 明治美術学会 [編集]. 明治美術学会/三好企画 (発
売). 東近美術図閉架D , 工芸館雑誌
2. 津田青楓 : 九十翁の書 III. 墨美. 223号, 1972年8月.墨美社.東近美術図閉架D
3. 特集: 「巨匠の20代」. 現代の眼. 8号, 1955年7月. 目次あり 国立近代美術館. 近代美術協会. 東近美術図開架
4. 特集: 世界現代工芸展 スカンディナヴィアの工芸--その2. 現代の眼. 287号, 1978年10月. 目次あり 国立近代美
術館. 近代美術協会. 東近美術図開架1 , 工芸館雑誌Museum News
5. 特集: 安井曾太郎遺作展. 現代の眼. 17号, 1956年4月. 目次あり国立近代美術館. 近代美術協会. 東近美術図
開架1
6. 画家の日記 (8) : 津田青楓 / 酒井忠康. 日本古書通信 : the Nippon kosyo tsushin. 67巻8号 通巻877号, 2002
年8月15日. 日本古書通信社. 日本古書通信社. 東近美術図閉架D
7. 第5回安井賞の選考経過/津田青楓先生を訪ねて/美術の国際交流/日本画の絵具について. 現代の眼. 85号,
1961年12月. 目次あり 国立近代美術館. 近代美術協会. 東近美術図開架1
8. 近代日本美術における1914年. 現代の眼. 106号, 1963年9月. 目次あり
国立近代美術館. 近代美術協会. 東近美術図開架1
1. [訃報] 津田青楓氏. 特集: 世界現代工芸展 スカンディナヴィアの工芸--その2. 現代の眼. 287号, 1978年10月,
p.8 国立近代美術館. 近代美術協会.
2. フランス時代 (安井曾太郎 作品解説 (<特集> 安井曾太郎遺作展)) / 津田,青楓. 特集: 安井曾太郎遺作展.
現代の眼. 17号, 1956年4月, p.2-3 国立近代美術館. 近代美術協会.
3. 二科会創立の頃 (一九一四年頃のこと) / 津田,青楓. 近代日本美術における1914年. 現代の眼. 106号, 1963
年9月, p.4-5 国立近代美術館. 近代美術協会.
4. 安井曾太郎-辛気くさい安井- / 津田,青楓. 特集: 「巨匠の20代」. 現代の眼. 8号, 1955年7月, p.5 国立近代
美術館. 近代美術協会.
5. 津田青楓先生を訪ねて / 富山,秀男. 第5回安井賞の選考経過/津田青楓先生を訪ねて/美術の国際交流/日本
画の絵具について. 現代の眼. 85号, 1961年12月, p.3 国立近代美術館. 近代美術協会.
6. <資料紹介>資料1 津田青楓「黙語先生を訪ふ」(『小美術』第1巻3号 [1~4頁] 明治37年6月1日 芸艸堂 杉林家
蔵 資料提供:佐藤敬二/クリストフ・マルケ). 近代画説 : 明治美術学会誌. 1号, 1992年11月, p.46-50 明治美術学
会 [編集]. 明治美術学会/三好企画 (発売).

岡本唐貴 造形美術

森熊猛・森熊ふじ子 政治マンガ、似顔絵

柳瀬正夢研究会 通信第37号

中村善作・中村善策とその人脈(市立小樽美術館  1998年 美術

小熊秀雄・小熊秀雄評伝 佐藤喜一ありえす書房 昭53年伝記

ビジュアル 北海道の美術100年 奥岡茂雄・鈴木正實 道銀文化財団 平成5年9月

釧路双書 第20巻 釧路の美術・演劇米坂ヒデノリ釧路市 昭和54年10月



戦後15年の美術史


戦後日本のリアリズム展
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