山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

 柱にからみついて怒髪天となる鳴神上人

2024-07-03 22:39:25 | アート・文化

 武者絵と言えば江戸後期に活躍した「歌川国芳」だ。この浮世絵は、歌舞伎十八番の「鳴神上人(ナルカミ)」が柱に絡んで怒りが収まらず「見得」を切る有名な場面だ。皇子誕生に貢献した高僧鳴神上人は、朝廷が約束した戒壇設立を反故(ホゴ)にされたため、法力で龍神を滝壺に封じてしまう。そのため、雨が降らず日照りが続く。

 それに対して、朝廷から送り込まれた「雲の絶間(タエマ)姫」は色仕掛けで上人を破戒させ、滝の注連縄を切ると封印が解け、龍神が出現し雨が降る。騙されたとわかった上人は髪を逆立て炎となって荒れ狂い、柱に絡みついて見えを切るという山場だ。

  

 最後は絶間姫を追って、花道を「飛び六法」で盛りあげるという筋書きだ。嘉永4年(1851)に市村座で上演、八代目市川團十郎が演じる鳴神上人は、前半は気高い有髪の僧形。気品、威厳、生真面目さが表現される。後半は、一変して荒事により、裏切られた男の怒りを「柱巻きの見得」をはじめ、荒々しく立ち回るという変化が見ものだ。

  

 今までにない発想と画力で江戸の人々を魅了した一勇斎国芳は、1818~1860年(文政元年~万延元年)の間に用いていた画号のようだ。「年玉印」は「年」の草書体をデザイン化した物で、歌川派の絵師であることを示す家紋のような印。歌川国貞がこの年玉印をしばしば使用した一方、国芳は国貞が「2代目歌川豊国」を名乗り出して以後、この年玉印の落款の使用を避けて、「芳」の字を崩した「芳桐印」を押すようになる。

芳桐印

 国芳は、国貞とは別路線を歩むことを明確にしていったが、広重が間に入って平和共存路線に移行していったらしい。歌川派の分裂が避けられた形だろうか。それにしても、この落款から、「年」の字を草書体に崩し、丸型から瓢箪型に埋め込んでいくなどとはなかなかわからない。しかし、こんな小さな落款から、浮世絵師の振る舞い・センス・ユーモア・反骨精神などが見て取れるのが面白い。

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