前回に続く路上観察。浜松駅に近い大通りをちょいとそれた所に、「金山神社」が静かにたたずんでいた。信玄を滅亡させた(1582,天正10年)家康は、浜松の城づくりに甲斐から鍛冶衆を呼び寄せたという。城づくりに必要な釘・くさび・蝶番・飾り鋲などを作る職人だ。その集団が周辺に住み始め、神社を建立し鉱山の神・金物の神を崇める。関係商工業者や地域からの支援もあり、明治36年9月に建てられた石の鳥居に扁額が掲げられているが、それは金属製である。なるほど。
敷地を囲む石の「玉垣」の入り口には、左右に小さな狛犬が鎮座していた。普通は拝殿前で迫力を競う狛犬だが、子犬とはいえ顔はいかつい表情で神域を防禦している。遊び心も心意気も伝わる。
「吽形」の顔の口からは犬歯が鋭く出ているが、「阿形」のほうは不鮮明な顔立ちだ。しかし、こうした狛犬の配置といい、形態(背中がまっすぐ)といいなかなか珍しい狛犬と思うが、意外に見過ごされているようだ。
拝殿に向かって突き進むと、左側に「洗心」と刻まれたどでかい手水鉢があった。よく見るとフツーの神社のそれの2~3倍はあるような大きさだ。この辺にも関係者のパワーが感じられる。
また、玉垣の先には小さな灯篭が左右に構えていた。ふつう灯篭は丸い「柱」「竿」で構成されるが、それは「火袋」も一緒に四角い。また、火袋の下には、「受け」という皿のようなものがあるはずだが、あえて省略されて、真っ直ぐな四角にこだわっている。明治38年4月、乗松さんが寄進している銘がある。
いっぽう、隅っこには、春日灯篭に似た「寛永寺」型ともいうべき立派な灯篭もあった。てっぺんの「宝珠」から「受け」までがずっしりとして、長いはずの「柱」・「竿」が短いのでずんぐりしている。装飾の手が込んでいて傘の「蕨手」もなかなか素晴らしい。「受け」・「中台」に武田家の家紋が刻まれているのが気になる。
拝殿の左右には、背の高いオーソドックスな灯篭があった。街道筋にもときどきみられる「常夜灯」だ。昭和20年の空襲で全焼した神社だったが、それぞれの灯篭や石造物は無事に生き残ったのだろうか。
拝殿前には、狛犬の「阿吽像」が左右に鎮座していた。「吽像」の顔が欠けているので表情が読み取れない。こちらが戦火をくぐった古い像なのだろうか。両者とも怒りの表情に迫力がある。石工の心意気のようなものがよく表現されている。