明日の風に吹かれて

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天草五人衆と小西行長 キリシタン大名達の闘い

2014年12月11日 16時06分11秒 | キリシタン
天草五人衆


天草種元、志岐鎮常、栖本親高、大矢野種基、上津浦種直ら​、キリシタン大名の​天草五人衆。



彼等は肥後守護の大友宗麟に従っていたが、その大友宗麟が日向に攻め込んできた​島津氏に​圧倒され、ついに大友宗麟が豊臣秀吉に援軍を頼み、秀吉もこれを聞き入れ天正15年(1587年) 12万の大軍をもって九州征伐に乗り込んできた。さすがの島津氏も連戦連敗を喫し、ついに降伏して薩摩・大隅の本領を安堵され​、​天草衆達も秀吉に服属し、最終的には秀吉から朱印状をもらって本領を安堵され​た​。

​新たに肥後の領主となった佐々成政​は、豪族達の人心を掌握することが出来ずに領地の統括に失敗。佐々成政は​秀吉に弁明に行くも、大阪尼崎で​責任を問われて自害​。肥後国は新たに北部を加藤清正、南部は​キリシタン大名である​小西行長に与えられ​た。

ところが​天正​十七年​(1589年)​、天草五人衆は、小西行長​が新たに肥後​宇土​に築城する宇土​城普請の夫役を拒否​し、小西​行長に攻められることとなった。

キリシタン大名でもある行長は、同じキリシタン信者が多い天草諸領主に対して、終始懐柔策をもってあたった。行長にすれば、かれらを懲らしめる程度にとどめて、降伏すれば家臣団に組み込むつもりであったようだ。しかし、天草諸領主連合軍の反抗は強烈で、征伐に向かった行長軍は大敗を喫した。

ここにいたって、加藤清正が天草諸領主連合軍討伐に加わった。清正は法華教信者でもあり、またキリシタンを心よく思っていなかった。さらに、かれは行長の対応を生ぬるいとして、一揆軍に対して自ら陣頭にたって攻めたてた。清正の奮戦によって、天草諸領主の連合軍は敗れ、​本渡城に立て籠もる天草種元は討死。


何故にキリシタン大名同士がそこまでのせめぎ合いをしなければならなかったのか?と思う。 もっと話合って、うまく事を運べなかったのか、と。

​これには天草諸領主が古い体質のまま豊臣政権に参加したこと​によるようだ。本領安堵の朱印状を秀吉からもらったこともあって、行長をふれ頭とみてその与力であると考え、行長からの夫役を同格の立場として拒否したようだ。かれらは秀吉政権下にあって、ふれ頭と与力とは主従関係をともなったものであることを理解していなかったのである。

土着豪族故の世間知らずさ、頑固なまでの保守さ故か?​ それにしても、と...


ここの火種は40年後の天草・島原の乱に続いているのか?