明日の風に吹かれて

日々の感じることを感じるままを綴っていきます。 明日が佳き日になりますように。

「二十歳の原点 」   ジャズ喫茶 「しゃんくれーる」がなくなっていた

2014年09月07日 18時06分33秒 | つれづれ
「二十歳の原点」by 高野悦子

先日京都の荒神橋を通ったら、角地の馴染みのジャズ喫茶「しあんくれーる」の建物がなくなり更地に。びっくりしたし寂しかった。

「しあんくれーる」と言えば何故か「二十歳の原点」を思い出し再読。

独りであること
未熟であること
これが私の二十歳の原点である

これで始まる高野悦子の日記。
希望に燃え関東から京都の大学に入学した彼女。その昭和45年、46年は大学紛争の真っ只中。機動隊が侵入し学園自治も吹っ飛ぶ環境。

日々聞こえてくるシュプレヒコールの声に知らず知らず自問し、自分を問い詰める、そしていつのまにかバリケードで座り込、そしてバイト先での淡い想いと未練...

「独りであると あらためて書くまでもなく、私は独りである」と自分の周りをぐるぐる回った彼女、最後に6月24日未明鉄道自殺。

甘い日記と言えば甘いものだ。でも当時皆似たような感覚は抱えていたんじゃないやないやろか?

何かの価値観が崩れていく中、逃げるのは簡単。逃げきれない者は自分や何かを傷つけながら新しいものを掴むしかなかったのでは...



秀吉の伴天連追放令と黒田官兵衛

2014年09月07日 13時54分13秒 | つれづれ
秀吉の伴天連追放令と黒田官兵衛

天正15年6月19日(1587年7月24日) 秀吉が福岡箱崎にて突然伴天連追放令を公布した理由は諸説ありよく分からん。

曰く、キリスト教司祭が当時世界最強のスペイン、ポルトガルの手先として恐れた、
曰く、キリシタン大名の結束力の強さを九州で目の当たりにし将来の抵抗勢力と恐れた、
曰く、天下人として号令をかける上で天上のゼウスを唯一と崇める思想、宗教が目障り
etc まあ分からない。


で、それを決めた時期だが、その前日にはポルトガル船に乗って大はしゃぎしていたというので、秀吉特有の気まぐれでその日に決めたともいわれるがそんなことはあるまい。


当時秀吉は天下統一の最後の仕上げとして九州平定に乗り出し、5月22日の島津降伏によりその事業が仕上がった。

そこでその論功行賞を福岡箱崎にて6月7日から行った。

そこで注目されたのが九州平定の総大将の黒田官兵衛への国分け。

この論功行賞で、豊臣秀吉は豊前(福岡県東部)8郡のうち6郡12万石を黒田官兵衛に与え、残り2郡を毛利吉成(毛利勝信)に与えた。

しかも黒田官兵衛が与えられた豊前(福岡県東部)6郡のうち、妙見岳城と竜王城の2城は黒田官兵衛の領地から除外された。

これで黒田官兵衛は12万石の大名にまでなったのだが、総大将としては余りにも少な過ぎる論功と言われている。

この折、秀吉がキリシタン大名である官兵衛に「前々から棄教せよというのに聞かぬからじゃ。まだ分からんか」と言ったとか。

この論功行賞、国分けが終わり、いよいよ6月19日に伴天連追放令が出された考えるのが自然。秀吉は九州に乗り込む前からしっかり考えていたのだろう。

官兵衛は秀吉の自分を疎む思いに気付き、家督を息子長政に譲り、以後「如水」と称し表舞台から去るポーズをとる。