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敗者の日本史(大名真田父子、宇喜多秀家他)

2016年08月10日 | 新聞記事
関ヶ原合戦で流された大名たち

信濃国上田城で徳川秀忠の軍勢を抑えた真田父子、高野山麓の蟄居を命じられた
東軍についた真田昌幸・信繁、長男信之の助命嘆願によリ命が救われた
宇喜多秀家は、合戦後薩摩国に匿われその後八丈島に流された
興味ある本でしたので、購入しノートとしてブログに記載してます
本には、綺麗な絵画が記載されています
 ☆本『敗者の日本史(歴史REAL)』記事参考&引用
 ☆詳細本で確認ください














流された大名(ネットより画像引用)

真田親子の蟄居生活
講談では、昌幸が打倒家康を果たすべく再起を期したと言われている
実際は、赦免を待ち望み、国許から経済的援助を得ていた
真田昌幸は病死したが、真田信繁(幸村)は大坂の陣で活躍することとなる

宇喜多秀家は八丈島へ流される
合戦後に島津氏の領国である薩摩国に匿われた
秀家は二年薩摩国で過ごし、その後八丈島へ配流されることとなった
秀家は、八丈島で五十年の余生を過ごし八十四歳で没した
宇喜多家は、八丈島において浮田などを名乗り、のちに二十家に分かれた
秀家正室(豪姫)の実家である加賀藩前田家より、明治維新に至るまで援助がつづいた
明治3年浮田氏七家が八丈島を離れ、前田家より東京板橋に土地を与えられて移転した
宇喜多秀家の墓、幕末に五輪塔の形式で建て直された墓が八丈島に残る

明石掃部(秀家の重臣のひとりであった)
関ヶ原合戦の敗戦後、三千人のキリシタンとともに、黒田長政の領地筑前国に移った
明石掃部は、関ヶ原合戦以前にキリシタンに改宗していた
黒田長政もキリシタンであった


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