
☆伊勢神宮は、当初、天皇以外が奉幣を捧げることができなかった
*伊勢神宮の特権的な地位が示されている
☆時代を経るにつれて、奉幣を捧げることのできる範囲が広がる
*公家や武家がそこに加わった
☆伊勢神宮式年遷宮が途絶えていた時代、伊勢神宮も荒廃してしていた
*建て直すことに貢献したのが、御師たちだった
*彼らは、神宮大麻や神官暦を各地で頒布し、伊勢神宮への参拝者を募る
☆江戸時代
*庶民の間に伊勢詣が広がる
*江戸時代に、集団で伊勢神官に詣でる「お蔭参り」が流行した
☆明治時代
*伊勢神宮は皇祖神を祀る最高の神社として改めて位置づけられた
*御師は神職の地位を奪われ、神宮大麻や神宮暦の頒布も神宮教院が担う
*その体制も、日本が戦争に敗れることで大きく変わる
☆神社本庁の発足
*伊勢神宮など皇室の神社を宮内省の所管に移そうとする試みが頓挫した
☆伊勢神宮を本宗として位置づけるという新しい方向性を打ち出した
*神社界で、十分に議論が尽くされたわけではない
*いつの間にか伊勢神官を本宗とする神社本庁の組織が誕生した

☆22社は、朝廷から奉幣が捧げられた神社
☆22社は、上7社・中7社・下8社に分けられていた
☆伊勢神宮は、上七社の筆頭に位置づけられていた
*朝廷では、伊勢神宮が最重視されていた
☆上7社のなかに、朝廷が重視する神社が他にもあった
*石清水八幡宮、上賀茂・下鳴神社、松尾大社、平野神社、伏見稲荷大社、春日大社
☆石清水八幡宮
*伊勢神宮に次ぐ第二位にあげられ重視されていた
*平安京にとり、南西の裏鬼門の方角に位置するのが石清水八幡宮
*石清水八幡宮は都に近いという利点をもっていた
*神仏習合は、八幡神のあり方にまで影響を与えた
*八幡神は、「八幡大菩薩」と呼ばれる
*神であるとともに、仏教の菩薩と位置づけられた

☆「南妙法蓮華経」の題目を大書した本尊・法華曼陀羅を数多く書いている
*仏の名とともに、天照大神と八幡大菩薩の名が必ず記されていた
☆二つの神が他の神々に抜きん出て重要な存在であったことが示されている
☆石清水八幡宮は伊勢神宮と並ぶ「二所宗廟」
*宗廟は、皇祖神を祀る神社のこと

☆天照大神から離れ、八幡神や賀茂氏の神に移ってしまっていた
*石清水八幡官には、天皇や上皇の行幸啓が250回余りあった
*伊勢神官には、明治になるまで代々の天皇が行幸したことはない
☆日蓮は、朝廷の信仰が伊勢から八幡や加茂に移ったととらえていた
☆応神天皇は、八幡神と習合した
*自らの父の命を奪った天照大神に復讐をとげ、皇祖神の地位を纂奪した
*そこには、神々の相克のドラマが潜んでいる
☆伊勢神宮の式年遷宮
*応仁の乱をはさんで、百年以上にわたって途絶えていた時代がある
*その間、内宮には、社殿がない時期が続いた
☆伊勢神宮に対する信仰が薄れていたとも言える

☆神の立場から、それを受け入れることができる神と、できない神がある
☆出雲大社の大国主命
*『古事記』や『日本書紀』では、国譲りをしたとしている
*『出雲国風土記』では、そうした話は出てこない
☆大国主命は、「天の下造らしし大神」
*出雲国に限らず、世界全体を造り上げた神とされている
☆天照大神でなく、大国主命こそが本宗であるという考え方も成り立つ
☆出雲大社では、大国主命は天照大神と同格だという意識があった
☆伊勢神宮を本宗とする
*神社本庁創設の時点で生まれた新しいとらえ方
*包括宗教法人の神社本庁は、新しい一つの宗教、「新宗教」
☆神社本庁はその発足以来、さまざまな政治的な動きを見せていく
☆その動きは、伊勢神宮を本宗とするという考え方と密接に連動する


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神々の相克3「伊勢神宮の歴史(いつの間にか最高の神社に)」
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