慶喜

心意気
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蒙古襲来(文永・弘安の役)

2022年06月04日 | 歴史
🌸文永の役

 ☆臣従することを拒否して大帝国の元と戦う

鎌倉時代の文永の役
 ☆3代執権・北条泰時の頃、北条氏を中心の執権政治が確立した
 ☆国内は落ち着きを取り戻したが
 ☆モンゴルの皇帝フビライ=ハンの国書が届く
 *日本に恭順を促してくる
 *幕府はこれを拒否し、その後の使者も無視した
 ☆激怒したフビライは日本へ侵攻し、博多湾を攻撃
 ☆時宗は臨戦態勢を整えてこれを迎え撃った
 *日本軍は「てつはう」などや集岡戦法に苦しめられる
 ☆しかし元の大船団は突如姿を消した
 *元軍撤退の理由はいまだに謎だが日本はからくも勝利した

御家人以外も戦いに動員する
 ☆元軍襲来の知らせを受けた幕府
 ☆西国の守護たちに現地に赴いて防衛することを指示した
 ☆御家人以外の武士階級の動員又非御家人も戦いに参加させた

勝軍の将、北条時宗
 ☆大国の脅しに屈しなかった8代執権
 ☆元に対して終始強気に接した
 ☆一方南宋の僧・無学祖元を招聘した
 *忍性の慈善活動を支援するなど
 *仏教に深く帰依する一面もあった

🌸弘安の役

 ☆経験を生かした戦いで元軍を上陸させなかった

鎌倉時代の弘安の役
 ☆時宗が着々と国内の防備と権力拡大をしている間
 *元は南宋を滅ぼし、日本に使者を送り続けた
 *時宗は使者を斬り殺し、徹底抗戦の決意を示す
 ☆文永の役から7年後、元は再度日本に出兵
 *対馬、壱岐を蹂躙して博多、長門方面まで戦線を延ばした
 ☆日本軍は防塁上から矢の雨を降らせた
 *夜襲をかけて元の軍船に火を放ち、元軍の上陸を水際で防ぐ
 *元軍はいったん壱岐に退いて、援軍と合流する
 ☆その夜、大型台風が元軍を直撃
 ☆元軍の8割が沈没しやむなく元は撤退した

幕府軍の抵抗を崩せなかつた元軍
 ☆合浦を発した東路軍約4万は、日本に侵攻して博多を攻めた
 ☆幕府は襲撃に対する防備を固めていた
 *元軍は上陸を諦めて壱岐まで撤退する
 ☆東路軍、江南軍約10万と合流する
 ☆暴風雨により船団が壊滅的な被害を受け撤退した

博多湾沿岸に築いた防塁
 ☆元が再び侵攻してくることに備え
 *幕府は異国警固番役を強化し
 *上陸を防ぐための防塁を約20kmにわたり築いた
 *長門警固番役も設置する
 ☆外国への備えが、御家人たちの負担を増やす
 *これにより、貧困する御家人たちが急増
 ☆幕府は徳政令をだすなどしたが効果は薄く
 *御家人たちの不満が沸き上がる

敗軍の将、フビライ=ハン
 ☆ユーラシア大陸の大半を支配下に置いたモンゴル帝国5代皇帝
 ☆首都を中国の大都に移し
 *国号を元として初代皇帝となった
 *高麗を支配下に収めたのち、南宋を減ばした
 ☆日本へ2度にわたり侵攻
 *日本以外、ビルマやべトナムにも遠征し、周辺諸国を震感させた
                          (敬称略)                                     
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⛳出典、『日本の合戦』






蒙古襲来(文永・弘安の役)
『日本の合戦』記事より画像引用)

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