🌸千利休(茶道の他「利休箸・鼠・焼・棚」にも名を残す)
☆戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人
☆わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる
☆千利休は豊臣秀吉の側近で、多くの大名にも影響力をもった
☆秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた
*切腹の真相については諸説あり定まっていない
☆千利休名前の由来
*利休の名は、正親町天皇から与えられた居士号
*「利心、休せよ」(才能におぼれずに、老古錐の境地を目指せ)
⛳千利休の茶の湯での業績
☆「わび茶」の完成者としての利休像
*『南方録』等の後世の資料により演出されてきた面もある
☆茶道具を前もって飾っておかない茶道
*すべて茶室に運び入れるところから点前を始める
*「運び点前」を広めたことが、利休の茶の湯への最大の貢献
☆利休は茶の湯で名物を尊ぶ既成の価値観を否定
*一面では禁欲主義ともいえる
☆利休が、創作した楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具
*造形的には装飾性の否定が特徴
*利休道具は決して高価なものではなかった
☆利休は茶室の普請の変革
*4畳半を最小としていた茶室に、3畳・2畳の茶室を採りいれた
(庶民の間でしか行われていた茶室)
☆特筆されるべきは「窓」の採用
*茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らす
*逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になる
*現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた
☆「露地」も利休の業績
*それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を利用した
*茶の湯は初めて「総合芸術」として完成された
☆利休は、茶道以外にも日本の伝統に大きな足跡を刻んでいる
*「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、
⛳千利休の生涯
☆和泉国・堺の商家の生まれ、17歳より茶の湯を習う
☆商人としては、堺の実質的支配者であった三好氏の御用商人となる
☆堺の南宗寺に参禅し、その本山大徳寺とも親しく交わった
☆信長に茶堂として召し抱えられ、信長死後豊臣秀吉に仕えた
☆利休は、秀吉に茶室を作るように命じられた
*現存する利休作の唯一の茶室である待庵を完成させた
*秀吉が築城した大坂城内の庭園空間に2畳の茶室を作っている
*黄金の茶室を設計
☆秀吉の政事にも大きく関わっていた
☆利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる
*京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる
☆利休の首は賜死の一因ともされる
*大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされた
⛳利休死の原因の詳細は不明
☆安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした疑いを持たれた説
☆秀吉と茶道に対する考え方で対立した説
☆秀吉が利休の娘を妾にと望んだが拒否した説
☆秀吉の朝鮮出兵を批判したという説
☆秀吉と芸術家である利休の自負心の対決の結果という説
☆茶室で秀吉を暗殺しようとしたという説
(敬称略)
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⛳出典、『WIKIPEDIA』『中田敦彦YouTube』
千利休(茶道の他「利休箸・鼠・焼・棚」にも名を残す)
(『WIKIPEDIA』より画像引用)
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