慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

千利休(茶道の他「利休箸・鼠・焼・棚」にも名を残す)

2021年10月28日 | 歴史上の人物
🌸千利休(茶道の他「利休箸・鼠・焼・棚」にも名を残す)

 ☆戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人
 ☆わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる
 ☆千利休は豊臣秀吉の側近で、多くの大名にも影響力をもった
 ☆秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた
 *切腹の真相については諸説あり定まっていない
 ☆千利休名前の由来
 *利休の名は、正親町天皇から与えられた居士号
 *「利心、休せよ」(才能におぼれずに、老古錐の境地を目指せ)

⛳千利休の茶の湯での業績
 ☆「わび茶」の完成者としての利休像
 *『南方録』等の後世の資料により演出されてきた面もある
 ☆茶道具を前もって飾っておかない茶道
 *すべて茶室に運び入れるところから点前を始める
 *「運び点前」を広めたことが、利休の茶の湯への最大の貢献
 ☆利休は茶の湯で名物を尊ぶ既成の価値観を否定
 *一面では禁欲主義ともいえる
 ☆利休が、創作した楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具
 *造形的には装飾性の否定が特徴
 *利休道具は決して高価なものではなかった
 ☆利休は茶室の普請の変革
 *4畳半を最小としていた茶室に、3畳・2畳の茶室を採りいれた
 (庶民の間でしか行われていた茶室)
 ☆特筆されるべきは「窓」の採用
 *茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らす
 *逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になる
 *現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた
 ☆「露地」も利休の業績
 *それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を利用した
 *茶の湯は初めて「総合芸術」として完成された
 ☆利休は、茶道以外にも日本の伝統に大きな足跡を刻んでいる
 *「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、

千利休の生涯
 ☆和泉国・堺の商家の生まれ、17歳より茶の湯を習う
 ☆商人としては、堺の実質的支配者であった三好氏の御用商人となる
 ☆堺の南宗寺に参禅し、その本山大徳寺とも親しく交わった
 ☆信長に茶堂として召し抱えられ、信長死後豊臣秀吉に仕えた
 ☆利休は、秀吉に茶室を作るように命じられた
 *現存する利休作の唯一の茶室である待庵を完成させた
 *秀吉が築城した大坂城内の庭園空間に2畳の茶室を作っている
 *黄金の茶室を設計
 ☆秀吉の政事にも大きく関わっていた
 ☆利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる
 *京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる
 ☆利休の首は賜死の一因ともされる
 *大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされた

⛳利休死の原因の詳細は不明
 ☆安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした疑いを持たれた説
 ☆秀吉と茶道に対する考え方で対立した説
 ☆秀吉が利休の娘を妾にと望んだが拒否した説
 ☆秀吉の朝鮮出兵を批判したという説
 ☆秀吉と芸術家である利休の自負心の対決の結果という説 
 ☆茶室で秀吉を暗殺しようとしたという説
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『WIKIPEDIA』『中田敦彦YouTube』





千利休(茶道の他「利休箸・鼠・焼・棚」にも名を残す)
『WIKIPEDIA』より画像引用)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 47歳のFIRE者が保有す... | トップ | 「光認知症療法」がアルツハ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史上の人物」カテゴリの最新記事