慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

「土岐家乗っ取り」「息子との戦い」「家臣に殺される」

2024年01月31日 | 歴史
🌸斎藤道三(戦国時代)恩のある主君を追放した

『要旨』
 ☆斎藤道三は、恩をアダで返して「まむし」と呼ばれた
 ☆道三は、あくどいやり口で君主を減ぼし 一国一城の主へのし上がる
 *土岐家では兄と弟による跡目争いが繰り広げられていた
 *道三は弟の土岐頼芸に入れ知恵し、兄を追放させる
 *道三は、恩人を殺害し、主君頼芸を追放する
 ☆道三は、信長に娘を差し出す(濃姫を織田信長に嫁がせている)
 ☆道三、かっての家臣に殺される
 *親子の対立、家臣の心は道三から離れており、息子義龍に味方した
 *追い詰められた道三は、かっての家臣に斬り殺された



「土岐家乗っ取り」「息子との戦い」「家臣に殺される」
(『日本史の黒幕』記事他より画像引用)

斎藤道三は、恩をアダで返して「まむし」と呼ばれた
 ☆斎藤道三は、美濃(岐阜県の南部)を支配していた
 ☆彼は、あくどいやり口で君主を減ぼし、 一国一城の主へのし上がる
 *まむしとは、恩をアダで返すという意味
 ☆若き日の道三は一介の商人
 *路上で油を売りながら生計を立てていた
 *「美濃を制する者は天下を制す」といわれており道三は美濃に行った
 *道三は、首尾よく土岐家に仕えることになった
 ☆土岐家では兄と弟による跡目争いが繰り広げられていた
 *道三は弟の土岐頼芸に入れ知恵し、兄を追放させる
 *頼芸を美濃の守護大名、ナンバーワンの座に就かせ
 *権力者との太いパイプを築いた

三は、恩人を殺害し、主君を追放する
 ☆道三は、自分を取り立てた長井長弘を謀反の罪に陥れて殺害する
 ☆道三は、土岐頼芸とその子を共に美濃から追放した
 ☆みずからの野望の邪魔になるものは容赦なく払いのける
 ☆彼はすぐれた軍師で、常識を覆す戦術で数々の争いを勝ち抜いていった
 *そうしてまんまと美濃を手に入れた

道三は、信長に娘を差し出す
 ☆自分の娘である濃姫を若き日の織田信長に嫁がせている
 ☆信長の秘めた才能を、道三は見抜いていた
 ☆道三、信長と初めて会見したとき
 *信長が正装で現れ、その.言動には一分の隙もなかった
 *さすがのまむしもたいそう驚いたという
 ☆彼のまむしの血は父親譲りだった

⛳道三、かっての家臣に殺される
 ☆何度となく下剋上を繰り返してきた道三
 ☆彼は自分の子供から戦争をしかけられて討ち取られている
 ☆道三の長男斎藤義龍は才覚がないとして父から疎んじられていた
 *親子の対立は深まり、父と義龍は弟たちを手にかけことを決意する
 *多くの家臣の心は、道三から離れており、義龍に味方した

 *追い詰められた道三は、かっての家臣に斬り殺された
 ☆これを受けて信長は美濃を攻略、天下獲リヘと歩みを進めていく
 ☆道三と織田信長の関係を考えるうえ重要なのは
 *道三の娘濃姫は、信長に嫁ぐのは不本意だった
 *道三は信長の動きをつかむため、娘を信長に嫁がせた
 *信長のほうもまた、濃姫を嫁として迎えることにより
 *自分の勢力拡大に道三の力を利用しようという計算があった
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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「一条天皇」「彰子・定子」「式部・清少納言」「サロン」

2024年01月30日 | 歴史
🌸『源氏物語」の時代は恋愛至上主義(3)

『要旨』
 ☆紫式部の時代、藤原氏から定子と彰子が一条天皇に嫁いだ
 *どちらが一条天皇の子どもを産むかでバトルが繰り広げられた
 *彰子が産んだ子ども、が次の天皇になったので、道長の権力が確立された
 ☆藤原氏は、教養のある女性を娘の周囲に集めサロンを作った
 *長男藤原伊周がスカウトしてきたのが『枕草子』の清少納言
 *道長がスカウトしたのは、歌の名手である和泉式部や紫式部
 ☆『蜻蛉日記』
 *右大将道綱母が藤原道長の父藤原兼家への愛憎を綴っている
 *恨み節が赤裸々に描かれている
 ☆平安時代、貴族たちが優雅な生活を送る
 *平民たちは住む家・食べるものもなく、流行り病で死んでいる
 ☆平安時代の貴族社会は狭く、貴族たちは五百人もいなかった
 小さなコミュニティのなかで『源氏物語』の読者となった人々
 *平安時代では、ごく一部のスーパーエリートだけだった






「一条天皇」「彰子・定子」「式部・清少納言」「サロン」
(NHKテレビ「英雄たちの選択」「ザ・プロファイラー」より画像引用)

紫式部や清少納言は、妻たちの恋愛を演出する存在だった
 ☆紫式部の時代、藤原氏から嫁いだ定子か彰子
 *どちらが一条天皇の子どもを産むかでバトルが繰り広げられた
 *彰子が産んだ子どもが次の天皇になったので、道長の権力が確立された
 *平安時代では、恋愛関係が政治や権力にそのまま影響していた
 ☆結婚しても、天皇が娘の元に通つてくれなければ子どもはできない
 *天皇の気を引くためにどうしたらよいかを、貴族たちは必死に考えた
 ☆藤原氏をはじめとする貴族たちが行ったのが
 *教養のある女性を娘の周囲に集め、文化的なサロンを作ること
 *自分の娘のサロンが、華やかで賑やかで知的に洗練されてれば
 *天皇もその評判を聞きつけて、娘のもとに通う傾向があった
 ☆定子の兄である藤原伊周も、彰子の父である藤原道長も
 *天皇が思わず立ち寄るサロンを一生懸命整えた
 *伊周がスカウトしてきたのが『枕草子』の清少納言でした
 *道長がスカウトしたのは歌の名手である和泉式部や紫式部
 ☆清少納言や紫式部たちは
 *天皇に通ってもらえるような良い空間を演出する役割を担っていた
 ☆平安時代のは、後官のような藤原氏の強い貴族の権力に守られながら
 *安全と平和が保証された空間であったからこそ
 *才能ある知的な女性たちが自らのオ能を開花させた

⛳『蜻蛉日記』に描かれた赤裸々な恨み節

 ☆平安時代の女流文学で主題となるテーマは恋愛
 ☆日記文学『蜻蛉日記』の著者として有名な、藤原右大将道綱母
 *彼女は、道長の兄弟である右大将道綱の母親
 ☆『蜻蛉日記』
 *右大将道綱母が藤原道長の父藤原兼家への愛憎を綴っている
 *恨み節が赤裸々に描かれている
 ☆彼女の人間臭い表現にあふれた日記
 *どんなに身分が高くても、時代が変わっても
 *男女の間柄というのは変わらないのだなと思う

『源氏物語』では触れられない名もなき庶民の苦しい日常
 ☆平安時代の平和は、あくまで一部の貴族たちだけのもの
 *庶民まで平和の恩恵を受けていたとは、到底言えない
 ☆平安時代をイメージする上でわかりやすいのが
 *芥川龍之介が書いた『羅生門』という短編です
 *羅生門に中には死体がゴロゴロ転がっている状況
 ☆平安時代、貴族たちが優雅な生活を送る一方で
 *平民たちは住む家・食べるものもなく、流行り病で死んでいる
 ☆『源氏物語』が日本文学の最高峰の作品であるには異論はないが
 *『源氏物語』が平安時代を代表する文学には、疑問がある
 ☆平安時代の貴族社会は狭く、貴族たちは五百人もいなかった
 *小さなコミュニティのなかで『源氏物語』の読者となった人々
 *ごく一部のスーパーエリートだけ
 *朝廷内でも『源氏物語』の名前を知っている人はいたかも  
 *しかし、実際に読む機会を持てた人というのはほとんどいなかった
 ☆『源氏物語』が貴族の教養として定着するのは
 *室町時代以降で、一般的にこの作品が読まれることはなかった
 ☆鎌倉時代に入って、貴族の成勢は失われた
 *暴力で物事を解決する武士の時代へと移行
 *以降、貴族は財産もなければ権力もない形骸化した存在
 *かって「セレブ」だった貴族たちが「源氏特語」を愛好した
 ☆大河ドラマでも『源氏物語』が取り上げられているが
 *華やかな王朝絵巻の世界は存在したが、限定的な世界であった
 *裏には名もなき庶民の苦しい日常があった
                       (敬称略)
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「稀代の悪女日野富子」「応仁の乱」

2024年01月30日 | 歴史
🌸日野富子(室町時代)応仁の乱を引き起こした

『要旨』
 ☆「稀代の悪女」と呼ばれる将軍の妻
 *応仁の乱の一因をつくった人物、将軍の妻日野富子
 ☆富子が男児の義尚を産んだ
 *我が子を次の将軍に立てようとする富子
 * 一度は約束された将軍の座を白紙にされまいとする義視は対立
 *富子は実力者山名宗全に、 義視は後見人細川勝元に助けを求めた
 ☆応仁の乱が終わると、最愛息子義尚も病に倒れて死んでしまった
 *晩年の富子は一人寂しく過ごしたという






「稀代の悪女日野富子」「応仁の乱」
(『日本史の黒幕』記事他より画像引用)

「稀代の悪女」と呼ばれる将軍の妻
 ☆京の都が30万人もの兵で溢れたという応仁の乱が起きた
 *多くの家屋や寺院が失われ、京都を壊減状態へと追い込んだ戦乱
 ☆応仁の乱の一因をつくった人物、将軍の妻日野富子
 *富子は、室町幕府の第8代将軍である足利義政に正室
 ☆富子は結婚し4年後に念願の第1子を出産したが、その子は死んだ
 *「今参局(いまいりのつぼね)が呪い殺した」噂が流された
 *義政はこの噂を真に受け、今参局を将軍家から追放した
 *彼女は都落ちする道中で無念のうちに自害した
 ☆目ざわりな存在を葬り去った富子
 *将軍の正室として君臨すると権力を振るっていく

日野富子自分の子供を将軍にしようと画策する
 ☆彼女はなかなか世継ぎを産むことができなかったので
 *夫の義政は弟の義視を跡継ぎに指名した
 ☆富子が男児の義尚を産んだ
 *我が子を次の将軍に立てようとする富子
 * 一度は約束された将軍の座を白紙にされまいとする義視は対立
 ☆富子は実力者山名宗全に、 義視は後見人細川勝元に助けを求めた
 *この争いに便乗するように大名たちが次々と山名派と細川派に分かれ
 *山名氏率いる西軍と細川氏の東軍の二大勢力での応仁の乱

日野富子の子供は死に、自分は一人になる
 ☆応仁の乱は京の街を焼き尽くした
 *戦火の下でも富子は我が子のために裏工作を続けた
 *彼女は敵味方かまわず息子を支持してくれる者に金を貸しつけていた
 *我が子の味方の数を増やそうと奔走した
 *富子は米相場で諸けたりして金の亡者となった
 ☆戦乱の中、義政は将軍の座を義尚に譲り引退した
 *義政ま隠居して富子とは別居
 ☆応仁の乱が終わると最愛息子義尚も病に倒れて死んでしまった
 *晩年の富子は一人寂しく過ごしたという
 ☆長年、日本史上稀代の悪女といわれた日野富子
                       (敬称略)
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「血統」「宦官」「万世一系の天皇家?」「妻の身分」

2024年01月29日 | 歴史
🌸『源氏物語」の時代は恋愛至上主義(2)

『要旨』
 ☆日本と中国に見る「血統」に対するこだわりの違い
 *皇室の典侍をはじめとする女官
 *簡単に天皇以外の男たちと、関係を持っていた
 *「万世一系の天皇家?」との疑問もでてくる
 *中国の皇帝の場合とにかく血筋を大切にした
 *美女3千人がいる後宮は男子禁制
 *勤務する男子の場合、生殖器を切られた宦官として仕えた
 ☆日本の場合は血統のこだわりは中国ほど強くなかった
 *『源氏物語』では一般人である光源氏と中宮である藤壺の官
 *密通してできた子、後の天皇・冷泉帝になる様子が描かれている
 ☆「源氏物語」での天皇の妻の身分
 *皇后⇔中宮→女御→更衣
 ☆『源氏物語』その主たる題材は「愛憎」
 *男性と女性の間での恋愛や憎しみや悲しみが、赤裸々に描かれた作品
 *平安時代は、男女関係が政治関係を大きく左右した
 ☆一条天皇時代「天皇の子どもを誰が生むかで」権力構造決まった時代
 *摂関政治の特徴
 *どんな人が天皇であっても構わないし、お飾りでも構わない
 ☆それを体現したのが、江戸時代の徳川幕府
 *徳川家康は「将軍はバカで良い」と割り切り
 *三代将軍の家光以降は、無才で問題のある人間でも
 *長子が跡を継ぐと決めてしまった

⛳日本と中国に見る「血統」に対するこだわりの違い
 ☆典侍をはじめとする女官
 *簡単に天皇以外の男たちと、関係を持っていた
 *子どもが生まれた場合は、その子は誰の子なのか?
 *「万世一系の天皇家?」との疑問もでてくる
 *平安時代の日本、野暮なことを言わないのが原則だった
 ☆中国の皇帝の場合とにかく血筋を大切にした
 *美女3千人がいる後宮は男子禁制です
 *勤務する男子の場合、生殖器を切られた宦官として仕えた
 *「史記」を記載した司馬遷も、男性根を宮刑で切り落とされている
 *司馬遷も男性根を切り落とされた事をバネに
 *『史記』という大作を書き残したと言われている
 *明の鄭和、七つの海を渡り歩いた提督でが、彼も宦官でした
 *自ら男根を切り、皇帝に忠誠を誓い出世を目指す人もいた

日本の場合は血統のこだわりは中国ほど強くなかった
 ☆宦官制度のようなものはなく
 *天皇の周囲に侍る女性たちはかなリオープンなもの
 ☆『源氏物語』では一般人である光源氏と中宮である藤壺の官
 *密通してできた子、後の天皇・冷泉帝になる様子が描かれている
 ☆光源氏は、天皇には非常に愛された息子であるが
 *源氏という姓を与えられ、臣籍降下している
 *一般人であり、源頼朝や平清盛と立場は同じです
 ☆一般人の子が天皇になるなどという話
 *本来ならば不敬であると文句を言われてもおかしくない
 ☆当時の人々は「万世一系」などという考え方
 *あまり重視していなかったのかもしれない

「源氏物語」での天皇の妻の身分
 ☆天皇の妻には序列がある
 *正妻となるのが皇后、もしくは中官
 (なぜ、二つも呼び方があるのか?)
 *中官を復活させたのが、藤原道長

 ☆当時の天皇である一条天皇には、藤原定子という皇后がいた
 *藤原道長は自分の娘の彰子を一条天皇の元に入内させた
 *その際、天皇の正妻を表す身分として使い始めた
 ☆皇后、中官の次に高い身分
 *摂政関白や太政大臣の娘から選ばれるのが女御
 *実家の身分が大納言以下の女性たち、更衣という身分が与えらた
 ☆『源氏物語』の光源氏の母である桐壺の官は、更衣でした
 *更衣はあまり身分が高くはなかったので
 *彼女は天皇の籠愛を受けたせいで周囲のいじめに遭い、死んでしまう
 ☆源氏の君は、父の天皇に愛されながらも
 *母の身分が低かったがゆえに皇族から外れ、臣籍降下された
 ☆成長した源氏が、母の面影を追って出会ったのが藤壷の宮
 *彼女は先帝の娘という非常に身分の高い女性
 *女御という立場で後官に入り、桐壺帝の妃になる
 ☆天皇の正妻である皇后が子どもを産み
 *その子が天皇になると皇太后となる
 *祖母になると大皇太后と呼ばれる
 ☆今上上皇の奥様であられる美聟子様も
 *本来は皇太后と呼ばれるべきなのだが
 *現代、皇太后の名称を使わないので、上皇后と呼ばれる

『源氏物語』の時代に、恋愛が重視され
 ☆『源氏物語』その主たる題材は、「愛憎」
 *男性と女性の間での恋愛や憎しみや悲しみが、赤裸々に描かれた作品
 ☆平安時代にこの物語が生まれたのは
 *男女の恋愛が大きく政治に影響を与える時代だったから
 ☆政治は、基本的にはシステムで動くもの
 *「ドロドロとした人間関係が影響するわけがない」
 *「恋愛で政治が変わるわけがない」などと言われているが
 ☆平安時代は男女関係が政治関係を大きく左右した

『源氏物語』が生まれた一条天皇の時代
 ☆藤原氏の内部で大きな権力闘争が起こっていた
 *対立は、藤原定子の兄藤原伊周と藤原彰子の父藤原道長
 *決め手は、どちらの女性が天皇により多く愛してもらい
 *早く子をなすことができるのかだった
 ☆「天皇の子どもを誰が生むかで」権力構造決まった時代
 *摂関政治の特徴
 *どんな人が天皇であっても本来は構わないし、お飾りでも構わない
 ☆それを体現したのが、江戸時代の徳川幕府
 *徳川家康は「将軍はバカで良い」と割り切り
 *三代将軍の家光以降は、無才で問題のある人間であっても
 *長子が跡を継ぐと決めてしまった
 ☆実際、徳川家の家臣たちがしっかりとトップを支えていたので
 *将軍はお飾りでも全く構いませんでした
 ☆藤原氏の摂関政治においては
 *誰が天皇の寵愛を受けるか、そして誰が天皇の子どもを先に産むか
 *男女の交わりが、政治の行方を決める最大の比重を占めていた
 ☆藤原氏で「自分がナンバーワンになりたい」権力欲が強い人
 *天皇の妻にするにする年ごろの娘がいることが、最大の武器
 *その家に娘が生まれると、息子より、一族は喜んだ
                       (敬称略)
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「北条高時」「東勝寺」「足利尊氏」「新田義貞」

2024年01月29日 | 歴史
🌸北条高時(鎌倉時代)激動の時代に生まれた愚将

北条一族の滅亡
 ☆鎌倉幕府第14代の執権となった北条高時、北条一族と共に自害した

 ☆高時、鎌倉に攻め込んできた新田義貞に追い詰められ
 *高時が命を絶ち、鎌倉幕府の歴史にも終止符が打たれた
 *幕府において、強大な権力を誇つてきた北条氏は滅亡した
 ☆高時は、名門一族の最後を飾るには、ふがいない人物だった

高時、現実に逃避して遊びにふける
 ☆彼が執権になったのはわずか14歳
 *高時に代わり、北条家の執事だった長崎高綱が実権を握る
 *長崎高綱がクセ者だった
 ☆高綱とその跡を継いだ子の高資は
 *若くて病弱だった、高時の足もとをみて
 *汚職や賄賂など悪政の限りを尽くした
 ☆高時の祖父北条時宗が執権の座にあった頃
 *日本は、元から三度にわたつて攻め込まれている
 *幕府は撃退したが、多大な犠牲を払って戦った
 *全国の御家人に十分な恩賞を与えることができなかった.
 ☆鎌倉幕府は、元寇以降その求心力を急速に失っていった
 *高時は、幕府の屋台骨が傾いた不運な時代を任された
 *権力を掌握した長崎親子が好き勝手な振る舞いをした
 ☆高時も一度は高資の暗殺を謀ったことがあるが、計画は失敗した
 *高時は現実から目をそむけるように政治そっちのけで遊びにふける

高時追いつめられて自害に追い込まれる
 ☆隠岐島に流されていた後醍醐天皇が島を脱出し再び挙兵した
 *高時は、討伐すべく足利尊氏を差し向ける
 *幕府に見切りをつけた尊氏は北条氏を裏切り
 *京都における幕府の出先機関である六波羅探題を攻めた

 ☆関東で兵を挙げた新田義貞が鎌倉に攻め込んだ
 *義貞率いる反幕府勢の猛攻により幕府側の武将倒れていつた
 *高時は、 一族と共に屋敷の裏手にあった東勝寺に立てこもる.
 *高時に残された道は、自害することしかなかった.
 *鎌倉は北条一族の血に染まり、高時の代で終焉を迎えた
 ☆鎌倉の東勝寺跡に残る「北条高時腹切りやぐら」
 *北条氏の減亡の地として、今もよく知られている
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「内侍」「内侍所」「源典侍」「吾妻鏡」

2024年01月28日 | 歴史
🌸『源氏物語」の時代は恋愛至上主義(1)

『要旨』
 ☆神聖なものだと考えられていた「女性の力」
 *「内侍所」は、三種の神器八咫鏡を安置する場所
 *当時、女性たちの神秘の力が、男性を霊的に守ると考えられていた
 ☆平安時代の女官にはさまざまな役職があった
 *内侍(ないし)天皇の側に仕える女性たち
 ☆天皇の子どもをなすこともあった内侍たち
 *その子が天皇になる事もあった
 ☆有名な典侍『源氏物語』に出てくる源典侍
 *彼女は非常に恋愛上手な女性で、光源氏と恋仲になる
 *当時、女性年上で男性が年下でも問題ない認識(約40歳差)
 *源内侍は、夫がいるにもかかわらず、光源氏と恋愛を楽しんでいた
 *『源氏物語』が書かれた、平安時代は、性におおらかだった







「内侍」「内侍所」「源典侍」「吾妻鏡」
(ネットより画像引用)

神聖なものだと考えられていた「女性の力」
 ☆『源氏物語』の世界、華やかな貴族社会が描かれている
 ☆平安時代の女官にはさまざまな役職があった
 *内侍(ないし)天皇の側に仕える女性たち
 *侍(さむらい)武士は、元々は天皇に侍る存在
 ☆内侍たちが所属「内侍所」
 *「内侍所」は、三種の神器八咫鏡を安置する場所
 *鏡は、内侍たちによって大切に護持されていた
 *女性たちの神秘の力が、男性を霊的に守ると考えられていた
 ☆『吾妻鏡』には、平家が壇ノ浦で滅亡する様子が描かれている
 *平家が擁立していた安徳天皇が海中深く沈む描写がある
 *天皇と共に三種の神器も海の中に沈んでしまう
 *八咫鏡と勾玉がその後出てきたが、天叢雲剣は紛失したと記載

天皇の子どもをなすこともあった内侍たち
 ☆内侍所の女官は、全部で三十人ほど
 *中国の後官に美女三千人がいたことに比べると
 *天皇のおそば近くに仕える女性の人数としては、案外少ない
 *日本の朝廷の天皇の周りは、意外と質素だった
 ☆内侍では「長官」「次官」「判官」「主典」
 *四つのランクを用いる四等官制が用いられていた
 *一番偉い長官は尚侍⇒典侍⇒掌侍⇒内侍司と呼ばれる役職があり
 *その下に俗に言う「ヒラ」として、普通の内侍たちが置かれた
 ☆『源氏物語』が書かれるた頃、長官である尚侍がいた
 *事実上は彼女たちの役目は、天皇の身の回りの世話や
 *政治的業務のサポートが中心だった
 ☆常に天皇と一番近い距離にいる尚侍や典侍を筆頭に
 *女官たちが天皇と男女の関係になることもあった
 *天皇の子どもを産む女官いて、その子が天皇になる事もあった

『源氏物語』の光源氏と典侍(ないしのすけ)の年の差恋愛
 ☆有名な典侍といえば、『源氏物語』に出てくる源典侍
 *彼女は非常に恋愛上手な女性で、光源氏と恋仲になる
 *光源氏はまだ十七歳ですが、お相手の源典侍はもう五十七歳でした
 *当時としてはこの年齢差はさほど大きな問題にはならなかった
 ☆光源氏が彼女と恋愛関係にあることを知った悪友・頭中将
 *鞘当てのようにこの女性と関係を持っている
 ☆『源氏物語』は、女性目線で描かれた物語であるとはいえ
 *当時、女性年上で男性が年下でも問題ないという認識だった
 *源典侍は独身ではなく、修理大夫という夫も存在した
 ☆当時は婚姻届があるわけではない
 *一般的には二人は夫婦だとして認められている状態でした
 ☆源内侍は、夫がいるにもかかわらず、光源氏と恋愛を楽しんでいた
 *『源氏物語』が書かれた、平安時代は、性におおらかだった
                       (敬称略)
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「平清盛」「保元の乱」「平治の乱」「後白河上皇出閉」

2024年01月28日 | 歴史
🌸平清盛(平安時代)武力と知力で権力を掴んだ

『要旨』
 ☆平清盛、2つの戦争で勝利し出世街道を歩む
 *平清盛、平氏全盛となった平安時代の後期の主役
 *保元の乱と平治の乱の戦いで、出世の階段を上り始める
 ☆清盛はクーデターを起こし、後白河上皇を出閉した
 *上皇派を一掃して平氏一門を重職に就けた
 *平家全盛の時代をつくりだす
 ☆平清盛、各地の反乱軍の対応に追われる
 *清盛のクーデター打倒平氏の機運を高めてしまった
 *清盛、奈良地方で僧兵の反乱が起きると
 *興福寺や東大寺をはじめとして、寺院を焼き払う




「平清盛」「保元の乱」「平治の乱」「後白河上皇出閉」
(『日本史の黒幕』記事より画像引用)

平清盛、クーデターで独裁政権を樹立
 ☆平清盛、平氏全盛となった平安時代の後期の主役
 *共に戦った武将を数年後には敵として討ち
 *長年仕えた皇族を相手にクーデターを起こして
 *独裁政権を樹立した冷酷非道な人物である
 ☆清盛は、貴族に仕える立場でしかなかった武士
 *初めて、中央の政治を動かした人物である
 *清盛はその武力と明敏な頭脳と政治力も兼ね備えていた

清盛は、源氏を圧倒し太政大臣になる
 ☆伊勢の有力な武士、平忠盛の嫡男として生まれた清盛
 *保元の乱と平治の乱の戦いで、出世の階段を上り始める.
 ☆保元の乱、後白河天皇と崇徳上皇が皇位継承問題で対立
 *その争いに武士が巻き込まれた戦
 *清盛は源義朝らと共に天皇側について戦い、勝利を収めた
 ☆平治の乱で、清盛は保元の乱で義朝と刃を交えている
 *義朝は、藤原信頼らと共に清盛が京の都を離れたスキを突いて
 *御所を襲事し、天皇と上皇を手中に収めた
 *引き返してきた清盛軍に惨敗、義朝は敗走中に殺されてしまった
 *この敗戦で平氏の時代が始まった
 ☆2つ大乱を乗り越えて後白河上皇から全幅の信頼を得た清盛
 *武士としては初めて太政大臣まで出世した
 *親族を皇室に嫁がせ、宋との貿易を盛んに行い経済的な基盤を築いた

平家全盛の時代をつくりだす
 ☆権力を独占したい清盛と後白河上皇は衝突する
 *清盛の子供たちが相次いで亡くなると
 *上皇は、彼らの土地を取り上げるなど、清盛を挑発した
 ☆清盛はクーデターを起こし、後白河上皇を出閉した
 *上皇派を一掃して平氏一門を重職に就けた

 ☆「治承三年の政変」で全盛期を迎えた平氏
 *日本の土地の半分近くを所有するまでになった

平清盛、各地の反乱軍の対応に追われる
 ☆清盛のクーデター打倒平氏の機運を高めてしまった
 ☆源氏をはじめとする武士団
 *独裁者であるかのように君臨した平氏一門の横暴に怒りを爆発させた
 *各地で兵を挙げ、その中に、頼朝の姿もあった
 ☆清盛は全国に飛び火した反対勢力を力で押さえにかかった.
 ☆奈良地方で僧兵の反乱が起きると
 *興福寺や東大寺をはじめとして、寺院を焼き払う

清盛、熱病で苦しんで死ぬ
 ☆各地で騒乱の中、謎の熱病にかかつて清盛は死んだ
 *清盛の栄華はあまりにも短かった
 ☆清盛を失った平氏は各地で源氏に敗北
 *清盛が起こしたクーデターの6年後に壇ノ浦の戦いで減ぼされる
                       (敬称略)
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
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「藤原高子」「藤原氏の摂関政治の土台」

2024年01月27日 | 歴史
🌸 天皇家の「愛」と「憎しみ」5

『要旨』
 ☆藤原氏政権の立役者となった『伊勢物語』のヒロイン高子
 *彼女は、皇族出身者ではないが、関白となった藤原基経の妹
 *後の藤原道長などが活躍する藤原氏全盛時代の土台を作った人物
 *伊勢物語、男女(高子・業平)が駆け落ちをするシーンが描かれている
 ☆母は強し、若き日の恋を捨てた藤原高子
 *高子は、清和天皇との間に息子を生む
 *息子は陽成天皇として7歳で即位する
 *兄・基経は、日本初の関白の地位を得て、政治を大きく動かす
 *夫に輪をかけて大変な人物だったのが、息子の陽成天皇
 *高子は「女は弱し、されど母は強し」の生き方を体現した女性
 ☆藤原高子の名前は「こうし」と読む

                    (藤原高子イメージ画像)




「藤原高子」「藤原氏の摂関政治の土台」
(ネットより画像引用)

藤原氏政権の立役者となった『伊勢物語』のヒロイン
 ☆平安時代、頭に浮かぶのは、摂関政治を行った藤原家の栄華である
 ☆基盤を作るきっかけは、高子(こうし)
 *彼女は、皇族出身者ではないが、関白となった藤原基経の妹
 *後の藤原道長などが活躍する藤原氏全盛時代の土台を作った人物
 ☆皇族出身者ない藤原基経が権力を持ったのは
 *非常に重要な役割を担ったのが高子の存在
 ☆高子、十代の頃に一つの恋愛沙汰を起こしている
 *平安時代きってのモテ男と言われる在原業平と
 ☆『伊勢物語』は、在原業平をモデルにした
 *男女(高子・業平)が駆け落ちをするシーンが描かれている
 *高子は親元へと取り戻されてしまった
 ☆在原業平も天皇の血をひく貴族
 *藤原氏の大切なお姫様・高子には不釣り合いな身分だった
 *高貴な女性に手を出してしまったがゆえに
 *業平は都にもいられず、関東へと旅し歌を詠んだとされる橋
 *現在の言問橋の名前がつけられた

母は強し、若き日の恋を捨てた藤原高子
 ☆高子は、天皇の元へと嫁ぐことが決められた
 *相手は当時16歳の清和天皇
 ☆高子は、清和天皇との間に息子を生む
 *息子は陽成天皇として7歳で即位する
 *兄・基経は、日本初の関白の地位を得て、政治を大きく動かす
 *高子の義父である藤原良房も、摂政となる
 *藤原氏政権の基礎が固まるほどの絶大な権力を持つ
 ☆繁栄の裏には、藤原高子の尋常ではない頑張りがあった
 ☆夫の清和天皇も一筋縄で行く男ではなかった
 *源氏の血統を「清和源氏」と呼ぶが、人柄はかなり破天荒
 *為政者としても人としても良い話は残っていない
 ☆夫に輪をかけて大変な人物だったのが、息子の陽成天皇
 *陽成天皇は、非常に乱暴なふるまいが多い人物だった
 *基経も「これはまずい」と思ったのか
 *病気を理由にわずか八年で退位させ、以降の皇統が変わる
 *天皇として指名されたのが光孝天皇、55歳で天皇で中継ぎの存在
 ☆光孝天皇の息子、宇多天皇として即位した
 ☆高子は「女は弱し、されど母は強し」の生き方を体現した女性

高子は「こうし」と読む
 ☆藤原高子議論になる名前の読み方
 ☆藤原氏の身分の高い女性は、みんな音読みで表記される
 *「〇〇こ」の呼び名は、鳥羽天皇以降の時代ごろから
 ☆紫式部や和泉式部が仕えた彰子は「しょうし」と読む
 ☆藤原道長の時代くらいまで、音読みで呼ぶのが主流
                       (敬称略)
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「入鹿の首塚」「乙巳の変」

2024年01月27日 | 歴史
🌸蘇我入鹿(飛鳥時代)帝の目の前で殺された

『要旨』
 ☆蘇我入鹿は宮中、帝の御前で斬り殺された
 *中大兄皇子と中臣鎌足らにより
 ☆蘇我入鹿は、自分を「みかど」と呼ばせた
 ☆蘇我入鹿、聖徳太子の子を殺す
 ☆乙巳の変後に始まった一連の政変で
 *日本は連合統治の形から、天皇中心の中央集権国家へ変わる



 「入鹿の首塚」「乙巳の変」
(『日本史の黒幕』記事より画像引用)

前代未聞の宮中でのクーデター
 ☆飛鳥寺の外れにあるひとつの石塔、石塔は首塚
 *クーデターで殺された蘇我入鹿の首が飛んできた場所
 ☆政変は神聖な儀式の最中に起こった
 *入鹿は宮中、帝の御前で斬り殺された

入鹿は、自分を「みかど」と呼ばせた
 ☆6世紀の終わり、日本に、帝中心の統一国家が樹立された
 *国家は、推古天皇・聖徳太子らが建立した
 ☆推古天皇・聖徳太子らが亡くなると
 *豪族蘇我蝦夷・入鹿の親子が力をつけ、朝廷の権力を掌握した
 ☆朝廷に君臨した2人は、帝を軽んじるような振る舞いをし始めた
 *人鹿は周囲の者に自分のことを「みかど」と呼ばせていた


蘇我入鹿、聖徳太子の子を殺す
 ☆蘇我入鹿は、聖徳太子の子供、山背大兄皇子を自殺に追い込んだ
 ☆次期帝候補で人々からも支持されていた山背大兄皇子
 *言いなりになる帝を立てようとしていた入鹿にとり、邪魔な存在
 *入鹿は、皇子の殺害に及んだ
 ☆聖徳太子が築いた斑鳩官で暮らす皇子に
 *入鹿の命を受けた兵が突然襲いかかる
 *皇子は、仏教に深く帰依していたため、武器を手にしなかった
 *周囲の住民に迷惑をかけまいと一族そろって自害した
 ☆殺害後、立場を悪くした蘇我氏は朝廷内で孤立していく
 *入鹿を倒すべく策を練っていた中大兄皇子と中臣鎌足
 *逆賊を成敗するという大義名分を得た彼らは行動に出た

入鹿は首をはねられ親は自害する
 ☆帝も出席する神聖な儀式の最中、物陰に潜んでいた中大兄皇子
 *刺客たちと共に突如として入鹿に斬りかかった
 *完全に不意をつかれた入鹿、血まみれになり死んでいく
 ☆息子の死を知った入鹿の父親
 *事故の翌日自宅に火を放ち自害し、蘇我親子は無念の最期を遂げた
 ☆乙巳の変で、政治の中心人物になった中大兄皇子
 *軽皇子を即位させて孝徳天皇とし、政治体制を一新した
 *孝徳太子が考え出した、天皇を中心とする律令国家
 ☆乙巳の変後に始まった一連の政変で
 *日本は連合統治の形から、天皇中心の中央集権国家へ変わる
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「藤原薬子の乱」「平城天皇」「嵯峨天皇」

2024年01月26日 | 歴史
🌸 天皇家の「愛」と「憎しみ」4

『要旨』
 ☆道鏡の影響で、女性天皇は姿を消し、日本の都は京都になった
 *孝謙天皇と道鏡の一組のカップルが、日本の歴史を大きく変えた
 ☆義理の母(藤原薬子)と不義蜜通をおこなった平城天皇
 *平城天皇は、桓武天皇の息子
 ☆「傾国の美女」薬子への愛に端を発した政変
 *藤原薬子の兄・藤原仲成が政治を妨げた
 ☆平城天皇は上皇になり奈良へ戻る
 *平城天皇、上皇になった後も、政治介入を行おうとした
 *京都の平安京・嵯峨天皇、奈良の平城京・平城上皇が対立する
 *平城上皇は負け、出家し、薬子は自害、兄の伸成は殺害された






 
「藤原薬子の乱」「平城天皇」「嵯峨天皇」
(ネットより画像引用)

女性天皇は姿を消し、日本の都は京都になった
 ☆孝謙天皇の騒動以降、貴族たち、女性を位につけるのが心配になった
 *江戸時代に入るまで、女帝は日本の歴史上から姿を消す
 ☆奈良から京都への遷都が行われたことも
 *道鏡事件が一端を担っていると言われている
 ☆奈良は非常に仏教界の影響が強い場所
 *道鏡が影響力を持てた背景、彼を支える仏教界の力が存在した
 ☆道鏡によって痛い目を見た朝廷
 *仏教界の影響力やしがらみを断ち切る対策を取った
 *奈良から京都へと都を移した
 ☆孝謙天皇と道鏡の一組のカップルが、日本の歴史を大きく変えた

義理の母(藤原薬子)と不義蜜通をおこなった平城天皇
 ☆桓武天皇が平城京から平安京へと遷都、その後起きた「藤原薬子の乱」
 ☆桓武天皇の息子である平城天皇
 *彼は父桓武天皇と非常に仲が悪かった
 *平城天皇は、皇太子時代一人の若い女性を見初め妻とする
 *母親(藤原薬子)も娘と一緒に宮中へとついてきた
 ☆薬子には夫のほかに、4人の子どもがいた
 *皇太子は、薬子と関係を持ち、 一気に夢中になる
 *桓武天皇は激怒し、「早く眼を覚ませ―」と叱り飛ばす
 *父としては息子が義理の母と不純な関係に陥ることは
 *何としても避けたかった
 ☆桓武天皇自身も、自分の父・光仁天皇の妻
 *桓武天皇も井上内親王との密通関係にあった
 ☆桓武天皇は、藤原氏からすると、天皇家の血が濃すぎない分
 *他の親王より、扱いやすかったので天皇になった

「傾国の美女」薬子への愛に端を発した政変
 ☆桓武天皇が崩御すると、皇太子がが平城天皇として即位する
 *平城天皇は義母である藤原薬子を呼び寄せて、ますます寵愛した
 *藤原薬子の兄・藤原仲成の存在が政治を妨げた
 *仲成が政治に非常に強い発言権を持つようになる
 ☆藤原家には、南家と北家、式家と京家という四つの家があった
 *薬子たちは藤原式家の一族
 ☆仲成と薬子の父藤原種継が、奈良から長岡京ヘと移転を提案した
 *奈良から都を移すことに反対した勢力に種継は暗殺された
 ☆平城天皇は、自分は上皇となり、弟に位を譲る
 *弟は、日本史上で非常に優秀な天皇として知られている嵯峨天皇
 
平城天皇は上皇になり、奈良へ戻る
 ☆上皇になった後も、政治介入を行おうとした
 *京都の平安京嵯峨天皇、奈良の平城京平城上皇が対立する
 ☆嵯峨天皇、坂上田村麻呂を起用し平城天皇たちと戦う
 *平城上皇は負け、出家し、薬子は自害、兄の伸成は殺害された
 ☆日本に「傾国の美女」と言われる存在しない
 *数少ない事例として挙げられるのが薬子
 *権力者が一人の熟女の魅力におぼれたがゆえに
 *ひとつの乱が生まれてしまった象徴的な事例
                       (敬称略)
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戦乱時の黒幕1「平将門」「道鏡」

2024年01月26日 | 歴史
🌸平将門(平安時代)ー新しい天皇になろうとした

『要旨』
 ☆将門、身内を殺し家を焼き払う等の争いで関東地方を支配した
 ☆将門、壮絶な最後ののち怨霊になる





 戦乱時の黒幕「平将門」
「日本史の黒幕」記事より画像引用

将門、身内を殺し家を焼き払う等の争いで関東地方を支配した
 ☆将門、罪人の首を見せしめに晒し者にする獄門刑
 *日本で最初にこの刑に処された人物は、武将の平将門
 ☆将門は、朝廷に反乱を起こし「新皇」名乗って独立王国を築こうとした
 *国家反逆罪を犯した極悪人として死んでいった
 ☆京の都で藤原氏が栄華を極めていた平安時代
 *将門は、茨城県南部で生まれた
 *将門は、親族同士の土地争いで戦いの渦に巻き込まれていく
 *争いの果てに、自分の伯父を殺害し、その館を焼き払う
 *彼は京の都から派遣されてきた役人である国司と対立
 *常陸国の役所を焼き払って国を奪ってしまった
 *勢いづいた彼を止められる者はいなかった
 *将門は常陸、下野、上野、武蔵といった周辺の国々を制圧た
 ☆広大な関東地方一帯を支配下に収めた将門
 *彼の名前が京の都にまで知れ渡るのに時間はかからなかった.

将門壮絶な最後ののち怨霊になる
 ☆関東の覇者となった将門
 *京の帝に対抗し、新しい帝である「新皇」の座に就いたことを宣言した
 *将門は、平安時代の最初の帝である桓武天皇の末裔だった
 ☆将門は、朝敵と見なされた
 *朝廷は将門を倒すべく、藤原秀郷、平貞盛を関東に送り込む
 *将門軍との間で壮絶な戦いが繰り広げられた
 *将門は弓矢で眉間を射抜かれ馬上で絶命した
 ☆将門の首は京の都に運ばれて、大罪人として晒し首になった
 *この首が、夜な夜な笑い声を上げたり
 *切り離された胴体を求めて大声で叫んだりして
 *目を見開いて故郷関東平野をめざして飛んでいったというのだ
 ☆東京都千代田区にある将門の首塚
 *将門の首が飛んできて、力尽きて落ちた場所と言われている
 *首塚を移転しようとすると、必ず作業中に事故が起きた
 *その為、現在もも移転されることはなく首塚は存在している

🌸女性天皇を利用した道鏡(奈良時代)

『要旨』
 ☆道鏡、正体不明の謎の憎
 *孝謙天皇は道鏡を師と慕うようになり、常に自分のかたわらに置いた
 ☆道鏡、藤原仲麻呂を殺して朝廷に入り込み権力を握る
 ☆道鏡、ニセの神託を使って天皇になろうとする
 ☆天皇家の血筋ではない道鏡は、排除しろの神託を清麻呂は持ち帰る



 戦乱時の黒幕「道鏡」
「日本史の黒幕」記事より画像引用

道鏡、正体不明の謎の憎
 ☆奈良時代に突如として現れた怪僧、道鏡
 *彼は朝廷を牛耳るほどの強大な権力を手に入れる
 *みずから皇位に就こうと画策したほどの野心家だった
 *彼は宮廷内で仏事を行い、皇族など高貴な人々を治療していた
 *彼は、病気を癒す祈祷ばかりか、医術や業の知識、密教に精通していた
 *こうした能力が道鏡を時代の表舞台に押し上げる
 ☆重い病の孝謙上皇を秘術を使って治したことから始まった
 *孝謙天皇は道鏡を師と慕うようになり、常に自分のかたわらに置いた

⛳道鏡、実力者を殺して朝廷に入り込む
 ☆道鏡は孝謙上皇に取り立てられて重職に就く
 *道鏡は、上皇のお墨付きを得たことで野心に火がついた
 *道鏡は夫も子供もいない独り身の上皇にさらに取り入って
 *出世の階段を駆け上がっていった
 ☆当時の朝廷で実権を握っていた藤原仲麻呂
 *道鏡の”排除”を狙い、仲麻呂は武力蜂起した
 *宮中から多くの味方を得ていた道鏡の敵ではなかった
 *仲麻呂は上皇側に敗れ去り、家族ともども斬首された
 ☆邪魔者を葬り去った道鏡
 *大政大臣禅師、法皇と相次いで大役に任命された
 *政務いつさいを取り仕切ることになった
 ☆絶大な権力を手に入れた道鏡、各地に国分寺の建立を進める等
 *仏教重視の政策を進め貴族の反発を招く

道鏡、ニセの神託を使って天皇になろうとする
 ☆九州の宇佐八幡宮から、称徳天皇の後継者として
 *道鏡を帝位に就かせる旨の神託の知らせが朝廷に入った
 ☆称徳天皇が道鏡の操り人形のようになっていたことを考えると
 *道鏡側の人間が結託し、この神託のお膳立てをしたのは間違いない
 *道鏡の弟弓削浄人が、当時の九州地方のトップの座に就いていた
 *弟を昇進させたのは道鏡本人だった
 ☆宇佐八幡宮に派遣された和気清麻呂よりに阻止される
 *天皇家の血筋ではない道鏡は、排除しろの神託を清麻呂は持ち帰る
 ☆失意の称徳天皇が病に倒れて崩御する
 *後ろ盾を失った道鏡は途端に力を失う
 *道教の政治生命を絶たれてしまった

 *都を追われた道鏡は、栃木県下野葉師寺で晩年を過ごす
 ☆称徳天皇には近い血筋の後継者がいなかった
 *天武天皇の直系の皇位継承は、途絶た
 *天智天皇の孫である光仁天皇が即位した
                       (敬称略)
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「孝謙天皇と道鏡」「宇佐八幡宮」「宇佐八幡宮ご神託」

2024年01月25日 | 歴史
🌸 天皇家の「愛」と「憎しみ」3

「要旨」
 ☆孝謙天皇と道鏡のロマンスが女帝を廃した
 *孝謙天皇は道鏡にメロメロになり寵愛した
 ☆「道鏡事件」に深くかかわった宇佐八幡のご神託
 *宇佐八幡宮「道鏡を天皇にせよ」というご神託を出す
 *空気を呼んだ宇佐八幡宮はご神託 を出し直した
 ☆八幡様は、高天原系と呼ばれるような伊勢神宮系の神様ではない
 *当時の宇佐八幡宮の神主集団は、機を見るに敏な人々だった
 *聖武天皇の大仏作りに加わったのも宇佐八幡宮でした
 ☆道鏡の皇位纂奪騒動で、宇佐八幡は皇位の行方に関わる動きをした
 *皇室にとり2番目に重要視する神社である
 ☆孝謙天皇は道鏡にほれ込んだ理由
 ①道鏡は非常に男性器が大きかった 
➁道鏡が僧侶であった





「孝謙天皇と道鏡」「宇佐八幡宮」「宇佐八幡宮ご神託」

孝謙天皇と道鏡のロマンスが女帝を廃した
 ☆孝謙天皇の即位によって、日本の歴史は大きく変わる
 *彼女以降、江戸時代まで、女性天皇がいなくなってしまった
 *原因は、孝謙天皇が、女性として一人の男性を愛してしまったから
 *「日本のラスプーチン」法相宗の僧侶・道鏡
 ☆孝謙天皇は道鏡にメロメロになり寵愛した
 *孝謙天皇が強い庇護を与えたことで
 *道鏡は政治に口出しするようになり、朝廷は大混乱に陥る
 ☆彼は政治への介人のみないず
 *皇位の簒奪、自分が天皇になることを望み始めた
 ☆孝謙天皇のサポート役、藤原仲麻呂
 *道鏡を排斥しようと乱を起こすが、逆に殺されるという憂き目に遭う
 *藤原仲麻呂に代わって、道鏡が大きな権力を振るまう

「道鏡事件」に深くかかわった宇佐八幡のご神託
 ☆一度は天皇の位から降りたはずの孝謙天皇
 *道鏡をバツクアップするために再び皇位を手に入れようとした
 *皇位についていた淳仁天皇を武力で排斥し、流罪にした後
 *自分が称徳天皇としてもう一度天皇の座に返り咲く
 ☆恋人を太政大臣禅師という高い地位につけて
 *「道鏡を天皇にしよう」と主張した
 ☆宇佐八幡宮は道鏡におもねったのか
 *「道鏡を天皇にせよ」というご神託を出す

 *朝廷は騒然とし、宇佐八幡の真意確認で、使者・和気清麻呂が派遣
 ☆空気を呼んだ宇佐八幡宮はご神託 を出し直した
 *皇室に生まれてもいない人間が皇位につくなどあり得ないという
 *最初とはまったく違う神託を出した
 ☆和気清麻呂がこの神託を持って朝廷へと報告する
 *怒り狂った称徳天皇は、彼を処罰する
 *和気清麻呂は、財産など全てを剥奪され、島流しにされた
 ☆称徳天皇が亡くなると道鏡も失脚し、和気清麻呂は都に戻された

興味ある宇佐八幡宮の立ち位置
 ☆八幡様は、高天原系と呼ばれるような伊勢神宮系の神様ではない
 *宇佐地方(大分)の土着神
 ☆皇室を管轄しているのは伊勢神宮
 *天皇家に関する神のお告げが述べられるなら伊勢神宮であるべき
 ☆当時の宇佐八幡宮の神主集団は、機を見るに敏な人々だった
 *聖武天皇が東大寺の虐舎那仏を作る際
 *最初に賛同の意を示して、「私たちも協力しましょう」と
 *大仏作りに加わったのも宇佐八幡宮でした
 *宇佐八幡官は時代の風をうまく読み、天皇の意に賛同した
 ☆東大寺ができると、そのご褒美として、宇佐八幡は鎮守八幡
 *東大寺を鎮守する社を構えている 
 ☆道鏡の皇位纂奪騒動で、宇佐八幡は皇位の行方に関わる動きをした
 *その結果、平城京から平安京への遷都が行われたとき
 *都を守る大事な場所・裏鬼門に置かれたのが石清水八幡
 *石清水八幡は朝廷からも非常に重んじられ
 *朝廷が年中行事で各神社に使者を派遣する際
 *二番目に重んじられる神社となった(三番目は賀茂神社)
 ☆高天原系の神様ではないが
 *土着神である八幡様が非常に高い地位に置かれたのは
 *日本の歴史に重要な役目を担ったご褒美

孝謙天皇は道鏡にほれ込んだ理由
 ①道鏡は非常に男性器が大きかった
 *性器の長さが膝まであった、巨根伝説も残っている
 ➁道鏡が僧侶であった
 *政治に携わる権力者は、占い等を信頼する傾向があります
 *宗教の力を借り、神通力と称して
 *人前で不思議な現象を起こす人々はごくたまに現れます
 ☆鎌倉時代を見ても、天皇が非常に信頼していた僧侶には
 *雨を降らせたり、雨を止めたりする力を持った人が多かった
 ☆彼らの力が本物かどうかはかなり怪しいですが
 *その力を見せつけられると
 *何かとプレツシヤーの多い決断を迫られる権力者は
 *盲目的に信じ、その人の存在抜きには出来なくなった
                       (敬称略)
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「持統天皇と長子相続」「孝謙天皇」「斎王」

2024年01月24日 | 歴史
🌸 天皇家の「愛」と「憎しみ」2

『要旨』
 ☆「単婚小家族」は現代の時代の「核家族」と同じ
 *単婚小家族の家族形態、貧しい時代それをとるしかない形態である
 ☆持統天皇が、天皇家の家族制度を大きく変えた
 *単婚小家族のような「ヨコの継承」を実施している天皇の継承
 *現在のように「タテの継承」が行われるようにした
 ☆純潔を重んじられていた、女性皇族たち
 *彼女は奈良の大仏を建てたことで知られる聖武天皇の娘
 *即位した孝謙天皇が不幸だったのは、結婚が許されなかったこと
 ☆「斎王」とは、天皇家の娘内親王が、伊勢神宮の神様の嫁になること
 *斎王が神の住まう場所斎官にいる間、男性とは交わってはいけない









「持統天皇と長子相続」「孝謙天皇」「斎王」
(ネットより画像引用)

⛳「単婚小家族」は現代の時代の「核家族」と同じ
 ☆トッド理論、単婚小家族が最初に生まれ、その後何百年かの時を経て
 *家族形態である直系家族が生まれるとしている
 ☆東アジアなら中国の周辺にある朝鮮や日本、ベトナムなどの国
 *最も古い家族形態である単婚小家族が生まれている
 ☆ギリシャ、ローマ、イギリス、フランス、ドイツという周辺国に
 *単婚小家族が発生する
 ☆その後、中国やギリシャ、ローマといった文明の中心地域に
 *共同体家族が生まれる
 *単婚小家族は、現代の「核家族」と同じような形態
 ☆最も古い単婚小家族の家族形態が、現代によみがえっている理由
 *貧しい場合は、単婚小家族という家族形態をとるしかないからだ

 *現代の日本は、人々が単婚小家族を選ばざるを得ないほどに
 *貧しい世の中になっているのかもしれない

持統天皇の自己愛が変えた日本の天皇家
 ☆天皇家の系図を分析すると
 *二十六代の継体天皇以降から今上天皇に至るまで
 *ほぼ確実に血がうながっている
 *27代の安閑天皇、28代の宣化天皇、28代の欽明天皇
 *天皇の座を兄弟間で受け継いでいる
 *即ち、単婚小家族のような「ヨコの継承」を実施している
 ☆現在のように「タテの継承」が行われるようになるのが
 (父から息子へ、息子から孫へ受け継がれる直系家族)
 *持統天皇以降の女性天皇たちが登場した時代
 ☆持統天皇
 *父である天智天皇や夫の天武天皇がめざした
 *中国のような律令国家を作ろうと尽力した
 *持統天皇は中国に倣って、長子相続を規範とした
 *国造りの必要性を感じたのかもしれない
 *「父の血統を受け継ぐ、自分の血統を天皇家に残したい」気持があった
 ☆持統天皇以降、長子に皇位を譲るための
 *「中継ぎ」として、生まれた女帝天皇は少なくない
 ☆持統天皇が、天皇家の家族制度を大きく変えた

純潔を重んじられていた、女性皇族たち
 ☆奈良時代は非常に女性天皇が多く誕生した時代
 *持統天皇以降、奈良時代には4人の女帝が誕生している
 ☆女帝の中でも、特に異色なのが孝謙天皇
 *孝謙天皇がほかの女帝と大きく違ったのは
 *女性でありながら「皇太子」であったこと
 *女帝が生まれるのは、中継ぎという意味合いが強く
 *女性の系統で皇位が継承されることはありませんでした
 ☆唯一の例外が、孝謙天皇
 *彼女は奈良の大仏を建てたことで知られる聖武天皇の娘
 *聖武天皇には男子がないが、聖武天皇が仏教に帰依するために
 *天皇の座を退いた
 *跡を継ぐのは彼女しかいなく、阿親王は孝議天皇として即位した
 ☆即位した孝謙天皇が不幸だったのは、結婚が許されなかった
 *歴代の天皇家の女性を見ても、生涯独身が大半
 *孝謙天皇も皇位こそ継いだものの、生涯独身だった

当時の女性皇族は結婚しなかった理由
 ☆男女の交わりで、女性の神聖性が減される感覚が根強かった
 *男性は、女性と交わりで、「純潔を穢された」とは言われない
 *多くの場合、男女の交わりは、女性が男性を受け入れる形をとる
 ☆「斎王」とは、天皇家の娘内親王が、伊勢神宮の神様の嫁になること
 *斎王が神の住まう場所斎官にいる間、男性とは交わってはいけない
 *斎王は純潔を守っていたといっても、表向きだけであったようです
 ☆平安時代の物語『伊勢物語』に
 *在原業平が斎王と関係を持つ話が記されている
 *元斎王が自分の実の兄後深草上皇と関係を持つシーンも描かれている
 ☆皇族と同様、高位の僧侶も表立って伴侶を取らなかった
 *女性の代わりにお稚児さんを相手に男色に走る人がいた
 ☆僧侶の周辺を調べていくと「真弟子」という言葉が出てくる
 *息子と言う意味だ
 *神聖な存在であっても、異性と行為に及んだのでは
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
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「額田王・天智・天武天皇の三角関係」「持統天皇の執念」

2024年01月23日 | 歴史
🌸 天皇家の「愛」と「憎しみ」(1)

「要旨」
 ☆額田王を巡っての、天智天皇と天武天皇の「三角関係」
 ☆日本では「長子相続」という文化が根付いている
 *それは、天智・天武・持統天皇の三人の天皇たちの存在
 *特に持統天皇の影響が大きい(草壁皇子⇒珂瑠皇子
 ☆「父と自分の血筋を残す」執念から生まれた持統天皇
 ☆トッド氏が語る「家族形態の変遷」
 *「単婚小家族」⇒「直系家族」⇒「共同体家族」






「額田王・天智・天武天皇の三角関係」「持統天皇の執念」
(ネットより画像引用)

額田王を巡っての、天智天皇と天武天皇の「三角関係」
 ☆額田王が夫とは違う男(大海人皇子)に
 *「あなたのことが忘れられません」と関係性する様な歌を詠んだ
 ☆額田王も、かっての恋人大海人皇子
 *「私もあなたのことが大好きです」と返歌する  
 *これらはすべて天智天皇の前で行われた
 ☆日本では「長子相続」という文化が根付いていた
 *古代日本国家に長子相続という基盤を根付かせたのは
 *天智天皇、天武天皇、持統天皇という三人の天皇たちの存在
 ☆天智天皇(中大兄皇子)、天武天皇(大海人皇子)
 *持統天皇は、天智天皇の娘で、天武天皇の妻だった

天智天皇と天武天皇は兄弟
 ☆額田正の女流歌人を奪い合ったエピソードが有名
 *額田王、弟の大海人皇子とお付き合いし娘も生まれた
 *その後、兄の天智天皇が彼女を奪い去る
 *妃へと取り立てられ、微妙な三角関係へと陥った
 ☆持統天皇
 *夫の天武天皇よりも、天智天皇を尊敬し愛していた
 *自分の家の血を継投したく、自分の甥(大津皇子)を殺した
 *大津皇子も多数の人と近親婚をしている
 ☆その頃の、権力者が近親と結婚するメリット
 *自分たち一族の財産が外に流出することを防ぐため
 *奈良時代の天皇家は莫大な財産を持っていた
 ☆江戸時代になると天皇家に財産がないので
 *近親婚をしても、意味はなくなっていた
 ☆日本でも、直系血族同士は結婚できない
 *禁を破った人として有名なのが、作家の島崎藤村
 *彼は、自分の身の回りの世話をしてくれた19歳の姪に手を出す
 *結果、子どもを作る

「父と自分の血筋を残す」執念から生まれた持統天皇
 ☆持統天皇は、甥っ子殺しその息子を皇子にした(草壁皇子)
 *草壁皇子は早逝し、皇位につくことはできなかった
 ☆鵬野(持統天皇)皇女は考えた
 *「息子がダメなら、孫に跡を継がせよう」と
 *鵬野皇女の孫・珂瑠皇子はまだ小さい
 *鵬野皇女は、草壁皇子の息子が大人になって天皇になる間
 *自分が”中継ぎ″として時間稼ぎをしようと考えた
 ☆生まれたのが、持統天皇という女性の天皇
 ☆持統天皇が即位して以降
 *兄弟間で受け継がれることも多かった皇位
 *親から子へという長子相続のスタイルヘと変わった

⛳トッド氏が語る、「家族形態の変遷」
 ①最も古い家族形態「単婚小家族」
 *父と母と子という非常にシンプルなユニット
 *「長男が偉い」「男が偉い」等の概念はない
 *性別や年齢、生まれ順にかかわらず
 *子どもたちには同等の権利が発生し
 *親が亡くなった後は、平等に財産が分けられる
 ➁家族形態が「直系家族」
 *父と母の間に生まれた子どもたちのうち一人が跡取りとなり
 *両親の持つ財産を受け継ぐというもの
 *後継者に選ばれた子どもは、親の家で暮らし
 *ほかの子どもたちは家を出て、別の家族を持つようになる
 ☆儒教の影響が強い中国等では
 *「先に生まれたものが偉い」という思想が根強い
 *後継者として指名され、すべての財産を受け継ぐのは
 *最年長の男性であることが多い
 *世界的にも、長男による「長子相続」が行われる傾向がみられる
 ☆反対にモンゴルの遊牧民などの場合
 *子どもたちが成人すると各人が両親から財産を分けてもらって独立
 *最後に親元に残った末っ子が家を引き継ぐ「末子相続」
 ③家族形態のフェーズ「共同体家族」
 *父や母、後継者の他、すべての子どもたちが親と同じ世帯で暮らす
 *子どもたちが結婚した場合、その配偶者や生まれた子どもたちも
 *同じ世帯で一緒に生活する
 *親が亡くなった場合は、兄弟の間で財産を分配し独立する
 ☆貧しい状態では、単婚小家族が主流になる
 *みんなが豊かになると共同体家族へと移行していく
                       (敬称略)
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源氏物語(光る君へ)

2024年01月18日 | 歴史
🌸愛憎の日本史(はじめに)

 ☆歴史について考えを深める際
 *政治や経済のシステムや権力者たちの偉業などを重視しがち
 *裏では、 一人ひとりの人間が抱いた愛憎の感情が、影響を及ぼしている
 ☆日頃は軽んじられがちな愛や憎しみといった激情
 *実は人を動かし、歴史をも動かす大きな原動力となることもあった
 ☆私は、本郷和人さんの記載した文章好きです

NHK大河ドラマ『光る君へ』
 ☆紫式部、時の為政者である藤原道長の娘
 * 一条天皇の中宮彰子に仕えていた
 ☆紫式部は彰子の元にいた理由
 *彰子に一条天皇の愛情を勝ち取らせるため
 ☆力のある貴族たちの最大の関心事項
 *「自分の娘が天皇の息子を産めるかどうか」
 *娘が天皇の息子の母となれば
 *自分自身は天皇の祖父となって権力を持つことができる
 ☆天皇の子どもを産むためには、数いる妻たちの中から
 *より多く天皇から愛されなければならない
 *愛されるには、逢う回数を増やすことである
 ☆道長は、彰子の周囲に才女たちを置き、文化的なサロンを作り
 *天皇が娘に逢いに行きたくなる環境を整えようと考えた
 ☆一条天皇に嫁いでいた中宮・定子も
 *『枕草子』清少納言などの女性たちを呼び寄せたサロンを作っていた
 ☆華やかな貴族社会の水面下
 *「天皇の寵愛を勝ち取る」という男女の愛憎にまみれた争いがあり
 *その戦いを制した藤原道長が、後の栄華を掴む

親子間や親族間の愛憎が、歴史に影響を及ぼした事例もある
 ☆鳥羽天皇と崇徳天皇の愛憎もその一例
 *鳥羽天皇の第一皇子として生まれた崇徳天皇
 *父から「自分の子ではないのではないか」との疑惑を抱かれた末
 *幼少期から疎まれ、憎まれて育っていたようです
 *不仲な親子関係がこじれた末、崇徳天皇は実の弟である後白河天皇と
 *皇位継承をめぐって争いが起き、「保元の乱」へと発展した
 ☆この乱をきつかけに、源平を中心とした武士が台頭
 *天皇が主役の時代は終わり、鎌倉時代の武士による新たな時代が誕生

室町時代に終焉をもたらした「応仁の乱」
 ☆発端は当時の管領だった畠山持国が息子に抱いた
 *「この子は本当に自分の子なのか」の疑惑から生まれている
 *後にその疑惑が親族間の憎しみを引き起こし
 ☆日本を巻き込む大騒動へと発展した
🌸源氏物語(光る君へ)とは
 
 ☆紫式部が、11世紀中ごろに書いた文学書
 ☆「千夜一夜」物語的面もあった
 ☆一条天皇を彰子(藤原道長の娘)に惹きつける意味合いも

⛳源氏物語が生まれた平安時代
 ☆平安時代の文学と文化
 *源氏物語は平安時代中期にあたり、貴族文化が栄えた
 *仏教や陰陽道、歌舞伎などの芸術や宗教が隆盛を極め文学も盛んだった
 ☆女流文学としての特異性
 *多くの文学作品は男性によって書かれていましたが
 *源氏物語は女性の視点から描かれ、女流文学として特異でした
 ☆宮廷文化と女性の地位
 *源氏物語は、宮廷の中での出来事や貴族たちの生活を描いている
 *女性の地位や役割も重要なテーマとなっている
 *物語の中で女性たちが様々な複雑な感情や経験を通じて描かれている
 ☆文学の発展と物語の構造
 *源氏物語は物語文学の発展に寄与した作品の一つ
 *織りなされた複雑な心理描写、詩的な表現が特徴です
 *物語は多くの章に分かれ連続小説的な面も強かった
 *各々が特定のエピソードやテーマを扱う

⛳源氏物語の書かれた真実
 ☆長編小説「源氏物語」を書き上げるまでの苦悩と挑戦
 ☆下級貴族出身の式部は結婚3年で夫を失いシングルマザーとなる
 ☆恋さえも政治の道具にされる平安時代
 *男性の後ろ盾を失った女性が生き抜くことの辛さや迷いを
 *登場人物の女性たちに託して物語に描いた
 ☆紫式部が藤原道長に見いだされたことで
 *やがて現実の世界をも変えていく
 ☆光源氏は、一条天皇がモデルだと言われている
 *物語の中で描かれている光源氏は、架空の人物だが
 *藤原道長の娘彰子に、一条天皇の愛情を勝ち取らせるため記載した
 *紫式部は、宮廷の女官として仕え、中宮少子に仕えていた
 ☆『源氏物語』は、当時の宮廷文学や貴族社会の特徴を取り入れ
 *架空の物語として独自の世界を構築している
 ☆物語の中で描かれる人物や出来事
 *現実の歴史的事実に基づいているわけではなく、紫式部の創作

『源氏物語』の最後の10帖「浮舟」物語の結末
 ☆光源氏の死後、子孫たちや周囲の人々の運命が物語的に描かれる
 ☆光源氏の死
 *物語はその後、彼の死後の出来事に焦点を当ている
 ☆子孫たちの行動
 *光源氏の家族や周囲の人々の悲喜こもごもが綴られる
 ☆霊感や神秘的な要素: 『源氏物語』の結末
 *霊的な要素や神秘的な出来事も登場する
 *光源氏や彼の関係者たちの霊が登場する
 *物語全体に神秘的な雰囲気が漂う
 *物語全体のテーマ性や作者の意図が締めくくられる
                    (敬称略)
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⛳出典、『愛憎の日本史』『CATGPT』他記事より





                        (彰子役)



源氏物語(光る君へ)
『愛憎の日本史』記事、ネットより画像引用)
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