人生晴れたり曇ったり

「辛酸を嘗めた私の闘病日記」2年半の闘病生活の峠を越え、その後の元気な日常を画像を加えながら不定期ですが書いています。

闘病日記 (8) 手術から退院へ

2021年10月21日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

ようこそ

月も変わって10月1日 入院生活も11日目を迎えようとしていた。窓越し景色を見渡すと、すっかり秋の秋の気配に変わっていったように見えた。そういえば、ほとんどエアコンも使っていない。それだけ過ごしやすい季節になったと言うことか。

何時ものように6時30分。看護師さんの見回りで目を覚まし、カーテンを開けてもらって検温開始。少し血圧は低いが問題はなさそうだ「伊藤さん、今日は手術の日です12時30分からの予定となっていますので、9時以降は飲み物も禁止してください。それにしても手術の前日にも関わらず、よく寝られますね」と嫌味を言われる始末。これも過去に大手術を何度も経験した賜物か過去のガンの手術と違い、今回は怪我のようなもの。命に係わる手術では無い。激痛には参ったが、怖さは全くなかった。やはりガンは怖かった。コロナ患者の皆さんも大変でしょうが、確率からしてガンは、即 死をイメージする。年間約36万人がガンでなくなっているデーターが、厚生労働省からも発表されている、最強最悪の病だ。そんな事もあって、「大丈夫です。麻酔は最強の友達です」と答えた。

勿論、今朝の朝食は無く、お茶を9時までのみ、手術に備えた。私は、ストーマを付けているので手術中に排尿しても本当は大丈夫なのだが、これも規則。素直に従って手術を待った。11時30分には妻から連絡があり、「1Fの総合待つ相室に居る」との事。特に不安は無いが、これで安心だ。

「あぁー やっとこの激痛から解放される」と思うと、手術の怖さなど忘れてしまい、術後の日常を想像しワクワクしていた。とにかく早く時間が来ないかと、時計を見る頻度も増していった。

13時過ぎ、看護師さんが二人やってきて、この手術着に着替えてください。と手術着とおむつを手渡され準備完了。「それでは手術室に行きましょうか」とベットの乗せられたまま手術室へと移動した。ガンの手術時とは違い、余裕もある。手術室までのローカの様子や手術室の内部も落ち着いて見渡すことが出来た。手術室と言っても何部屋もあり、「私は、どの部屋かなぁー」などを想像しながら、なされるままに向かった。

いよいよ入室完了。所定の場所へベッドを移動してもらい、手術が始まろうとしていた。主治医のワイルド先生の顔もよく見える「先生、今日はよろしくお願いします。期待していますので」前回のブロック注射のミスの思いも込めて、あえて「期待しています。「」と付け加えた。ワイルド先生も苦笑いで答えた。

これまでのガンでの麻酔は、何時も注射であったが、今回は初めて酸素吸入器のようなものを口と鼻を覆うようにかぶせての麻酔のようだ。これなら注射より痛みも無く、ありがたい

「さぁーいよいよか」と。その瞬間に事件は起きた。何という事かこんな大事な瞬間に少しだけ意識も薄らぎかけていた私だが、見逃すことは無かった。「先生、ストーマから尿が漏れています」「えぇー 本当だ。直ぐに泌尿器科のストーマ外来の看護師を呼んで。交換します」と、ここまでは聞くことが出来たが、その後は麻酔の効果もあり、私の意識も無くなってしまった為に、ストーマの交換の事は知る由もない。

おそらくは、その後ストーマの交換をして、手術が行われたと思われる。流石にワイルド先生、何かが起きるワッハハ時間は分からないが、手術も無事に終わり、手術室で既に麻酔も切れかかり、ワイルド先生から切除した軟骨の現物を「みてみますか」「ハイ、お願いします」血にまみれた白い軟骨を見せてもらった。生々しいものだが、思っていたより小さくてビックリしたのを思い出す。「こんなに小さい骨で、あれだけの激痛ですか」ワイルド先生は「大きい方ですよ。これが神経に刺さって刺激していたのです」と。この時点では、痛みが無くなったかは分からなかったが、ホットした瞬間だった。

病室に戻り、時計を見ると丁度3時間の手術であった事を確認した。早速に妻にも連絡を入れると、既に看護師さんから手術の終わった説明を受けていたらしく、大変喜んでくれた。「お父さん、また、あんたの好きな仕事を頑張れるなぁ」と。「そっちかえ」と苦笑い。

夕食も届いた。「ヤレヤレ終わった。」確かにこれまでの痛みは感じない。以前の日常と変わらないような気がした。ただ、手術の傷はやはり痛む。背中側の腰を切っているので仰向けで寝る事は難しい。ましてや、背中の切り傷より、血抜き用と痛み止めの管が二本繋がれているようだ。これも過去に何度も経験済み。大した事では無い。食事制限も当然解除され自由だ。流石にワイルド先生「やる時には、やるな」感謝、感謝である。

術後とあって、看護師さんの見回り回数も増え「大丈夫ですかお変わりないですか」と。この日より、血圧測定に加え、酸素濃度の検査も日々行われるようになった。「大丈夫、大丈夫ありがとう」と返した。

慣れているいるとは言え、今日は少し疲れた。痛みも無くなったので、久しぶりに「もう寝よう」時計を見ると21時前。「おやすみなさい」念願が叶った一日の終了。心配してくれた皆さん「ありがとう」

そして、手術の翌日10月2日、入院12日目。久しぶりに気持ちよく眠る事が出来、爽やかな朝を迎えた。昨日までの激痛が嘘のようだ。ワイルド先生「ありがとうありがとう」期待通りだ。

朝の看護師さんの見回りが始まり、何時ものように血圧測定と酸素濃度の測定を終えて「大丈夫です。異常なし」「もうすぐしたら先生が見えます」との事。数分後には、ワイルド先生が往診に来てくれた。「先生、ありがとうございました。お願いがあります。背中の管を取り外せませんか」「うぅー寝るのに不便ですね。取り外しますか」とあっさり了解してくれ、看護師さんを呼んで、「それでは管を抜きます。ついでに一か所抜糸もしておきます。少し痛いですが我慢してください」「えぇー もう抜糸ですか」「まだ一日も経っていないのに「」と少し驚いたが、「分かりました」と答えた。ワイルド先生の真骨頂だ。「傷口はガーゼを当てて、お覆って処置しておきますので、大丈夫です」との事。これで、繋がれているものは何もなく、自由に動くことが出来る。痛みも無い。

歩行器を使っての歩行訓練のリハビリも始まった。「あれ、何時もと何かが違う。なんだろう」何と右足に力が入らない。特には膝と足首だ。相当に筋力が落ちているのかも知れない。右足を引きずる様にして、歩行訓練を続ける。

リハビリの時間が終わってからも独自で、精力的にリハビリ運動を継続した。もう、テレビ君と友達になっている時間は無い。テレビ君とは決別した。歩行訓練や屈伸運動、など思いつく運動に明け暮れた。と言っても今日が初めてだが

看護師さんからも「一生懸命ですね」と労われ、調子に乗って元気な姿を見せた。そんな一日も日が暮れた。そういえば、この病院の裏には、大きな介護施設があり、うちの会社が昼食と夕食を配達しているはずだ。明日は手でも振ってみようと、その配達時間を見計らって、待つことにした。

「さぁて、今日も疲れた」検査も終了した21時「おやすみなさい」

10月3日、術後3日目、入院から13日が経とうとしていた。今日もリハビリしか仕事は無い。久しぶりに院内のリハビリ施設でリハビリを行う事になった。もう、移動にも歩行器は必要がなくなったので、自力で歩いて施設に向かった。多くの人がリハビリに励んでいる。 私も負けじと指導された工程をこなしていく。

午後にはワイルド先生の問診を受けた。「伊藤さんは、非常に順調に回復していますね。体感が強いですね」とお褒めの言葉。「先生、何時になったら退院できますか」と尋ねると「退院しますか」との事。

15時、今日は会社の配達車両を見ようと、外の道路の通行車両に気をつけていた。その時、我が社の配達車両が何時もの時間通りに、何事もなかったかのように通過していった。帰りも見届けようと目を見張った。同じように通り過ぎて行ったが、私の身振り手振りには気が付いていないようだ。早速に病室から運転手の携帯に電話を掛けたが、既に通り過ぎてからの事で、後の祭り。私の病室は6階で、窓は危険防止のために全開しないようになっているので、気が付かなかったのだろう。しかし、無事でなにより。「お疲れ様「」

日も明けて、10月4日 術後4日目、入院から14日目の朝を迎えた。相変わらず痛みは無い。ただし、手術の木津跡の痛みは相応に感じるが、我慢出来る許容範囲の事。相変わらず元気に過ごしている。リハビリも精力的にこなしているが、どうしても右足に力が入らず、右足をかばうようにしか歩けない。

主治医のワイルド先生の問診が始まった。元気に見せようと少し無理をして、3メートルくらい駆け足をして見せた。「先生、こんな感じで日常も気を付ければ大丈夫です」と虚勢を張って見せた。すると「伊藤さん、元気そうなので明日5日の午前中に退院しましょう」と事。いかにもワイルド先生の言いそうな事だ。

あごひげを生やした気さくな見るからにワイルドな主治医であったが、親しみやすく話しやすい。聞くと京都大学医学部の出身で、生まれ育ちは香川県の高松だと聞いた。私も何度か仕事や旅行で訪れていた場所で、特には多度津には学生時代の合宿でよく訪ねた場所である。カトキチの本社もある。どんどんと話が弾み、兄のクルーザーでの話、小豆島の話、など花が咲いた。私は三流の大学だが、徳島や高松にも知り合いは多く、長話になってしまった。良い思い出になるだろう。

妻や子供たちにも連絡を入れた。皆そろって「大丈夫」とあきれられた。「大丈夫OK ありがとう」と答えた。少し見栄を張ったような気もしたが、大事な仕事も抱えていたので、「早く出社しなくては「」との思いもあった。会社も重要な時を過ごしていたからだ。

いざ退院となると少し寂しい気もするが、皆さんに親切にしていただいて感謝している。あの恐怖の激痛から19日が経過しようとしていた。今となっては、何なのだったかと思うような日々であった。

夜も更けてきた。明日の退院の準備も済ませて、検診も終了した。21時「おやすみなさい」

10月5日 術後5日 入院15日目の朝を迎えた。昨夜もぐっすに眠れた。いよいよ退院の日だ。何時もより早く目が覚めた。6時前だった。

9時には請求書と次回の受信日の書類を受け取った。迎えの妻も到着し、いよいよ退院だ。ナースステーションに挨拶に伺い、感謝を伝えた。「お世話になりました、一時は要注意患者に認定されましたがお陰様で元気に退院する事になりました。ありがとうございました」と。「伊藤さん、嫌味かと苦笑いされ、お大事に」と笑顔で送り出された。

早速に清算を済ませ、妻の車に乗り込んだ。来たときは激痛で、後部座席を倒して寝転び、ストレッチャーで運び込まれたが、15日目にしてようやく助手席に乗り込む事が出来るまでに回復した。会社は、病院から10分とかからない。早速に会社に直行してもらい、大勢の社員に感謝を伝えた。「皆さん、ありがとう」

入院前の状態を知っている社員はビックリして、「専務、大丈夫ですか」と口おそろえて驚いている。「本当にあの時はビックしました」と。「何事が起きたのか心配しました」との事。「申し訳ない」

普段の日常は、長男が後継者として社長業をしていてくれるので、私は昼行燈の生活を楽しんでいるのだが、この春より同業他社の吸収合併を計画していて、経験の浅い長男より、白髪の本数が勝る私が担当する事にしたために、少し忙しい日々を送っていた。9月1日より10人の新規雇用を行い、社員数も26人となった。事業承継の真っ最中の入院であったために、事を知らない業者や銀行等から、仕事の電話が入院中にも関わらず、何度もかかってきた。しかし、大事には至らずにスムーズに事業を引き継いでくれている。過去の入院も経験し、今回の入院でイレギュラーに仕事でない限り、通常業務であれば私も必要がなくなったと感じた。ありがたいことである。今後も安心して入院する事が出来そうである。

この闘病日記を書く前に「人生色々とありますね」と綴った所だったが、バチが当たったのか、その直後に自分自身が闘病日記を綴る事になろうとは、何とも皮肉な結果となってしまった。

還暦の60歳からは、膀胱ガンに始まり、前立腺ガン、悪性胸膜中脾腫と三か所にガンを患い、生体検査、そして、今回は椎間板ヘルニアと合計5回の手術と10数回の抗がん剤治療。其の度に入退院を繰り返してきた。繰り返してきたと書いたが、まだ死んだ訳ではないので、今後も病には苦しめられる事は想像出来る。

何度も書いたが、今回の入院は、ガンとは違い命の不安や死の恐怖は、まったく無かったので、ただ痛い激痛だけ我慢すればとの思いはあった。手術して取り除けば、痛みは取れると確信していたが、ガンの場合はそうはいかない。色々な病や感染症の怖さもあるが、やはりガンの怖さだけは格別だ。とつくづく思った。決してコロナを軽視している訳では無い。ガンの体験者として、定期検診を進めているだけである。「早期発見、早期治療」の勧めである。

今回の病で、ワイルド先生からも過去のカルテを見て「よく生きていますね。と毒舌を言われる始末」勿論、親しさゆえの冗談だが、「なかなかワイルドな手術痕ですね」とも・・・・面白い先生だ。

私も自分の体だが、これだけの頻度になると、流石に持て余してしまう。「さぁー次は何が襲ってくるのか」本当に「参った参った」傷だらけの人生となってしまったが、落ち込んでいる訳では無い。むしろ、これらの病に打ち勝って今がある事の喜びに慕っていると言う訳である。

仕事を済ませて、妻に迎えの要請をした。快く二つ返事で応じてくれた。久しぶりのわが家への帰宅だ。「義母も心配してくれている。元気な姿を見せなければ」そんな思いに馳せながら帰途へ着いた。車中での二人の会話も進む。自宅まで約20分。到着すると想像通り義母が心配そうに迎え入れてくれた。「帰りました」「ご苦労様でした。大変でしたね。大丈夫ですか。」など、案じてくれている様子がよくわかる。義母も90歳。決して若いとは言えないが、自分の事は自分で出来る。新聞も全面読み、テレビも見る。痴呆もなく、年なりではあるが、私よりよほど元気だ。

入院時の話を交えて、会話も進む。すると突然に義母が「これわ僅かですが、何か美味しいものでも」とお見舞金を準備していてくれた。私は素直に受け取り感謝を伝えた。難聴で障害者なので、どこまで理解しているかは分からないが、理解はしているようだ。義母も当然に年金生活だが、同居しているので生活に困る事は無い。

そんな中、隣に住む長男家族がやってきた「じいさん大丈夫」と孫の長女が言うと、同じように三番目のチビの長男も「じいしゃん、だいじしょふ」と駆け寄ってくる。お見舞いのおやつを分けてやると、「ありがとう」と言って、ささくれと帰ってしまった。長男の嫁にも世話になった。運動をしているせいか力も強く、よく抱きかかえてもらった。

家族や兄弟、子供たち家族が目と鼻の先に居る心強さは、何物にも代えがたい私の宝物だ。甥や姪も直ぐ近くに住んでいる。何が起きても大丈夫。ただし、お世話になるばかりですがね・・・・

夜も更けて、久しぶりにわが家の風呂に入り、くつろいだと思いきや妻が「今日は、ストーマの交換をするでぇ」ときた。病院での失敗を案じていてくれたのだ。やはり妻に交換してもらうと安心感が違うし、5年間と言う実績もある。早速お願いをして交換してもらったのだが、前回が手術前の9月30日だった事もあり、少し汚れて外れそうにもなっていた。流石に妻の感は鋭い。これで今晩は安心して休める事になりそうだ。病院の生活に慣れているせいか、21時には眠たくなってきた。こうして家を離れてから約20日間。ようやく平穏な日々が今後も訪れそうだ。

何時もの朝が来た。妻の運転する車に乗り込み、いざ出勤へ「行ってきまーす」

私のブログは、病気の話ばかりで、面白くないと思いますが、そんなタイトルを選んで、体験談を綴っています。懲りずにご愛読いただければ幸いです。

本日を持ちまして、この度の闘病日記は、「お開き、お開き「」とさせていただきます。ありがとうございました。

皆さんもお体をご自愛いただき、穏やかな日々をお過ごしくださいねお大事に

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