人生晴れたり曇ったり

「辛酸を嘗めた私の闘病日記」2年半の闘病生活の峠を越え、その後の元気な日常を画像を加えながら不定期ですが書いています。

今日は誕生日

2019年07月15日 | 日々闘病日記

ようこそ

1955年 昭和30年7月15日 これが私の生まれた月日だ。本日で満64歳になった。生まれてから60年間は、大怪我は有ったものの大病をすることも無く、もちろん入院や手術の経験も無かった唯一の自慢であった私に、今から4年前の60歳になる数か月前に、最初のガンである膀胱がんの告知を受けた。これが、この先に始まる私の闘病生活のスタートとなる事など思いもよらなかい事であった。

平成27年の60歳時、両親が創業した「株式会社ユラク」の役員を38年間務め、任期満了により退任した。その時は、すでにユラクも世代交代していて、私の兄の長男が後継者として後を継いでいた。会社の流れの背景として新社長の甥に迷惑を掛ける訳にもいかないと自己判断した私なりの辞任の決断であった。

長年に渡り、兄弟3人で仲良く経営に当たれた事は、私にとっては掛け替えのない人生体験であった。このお陰で、結婚して自宅も新築し3人の子供にも恵まれ、三流ではあるが3人ともに、大学進学も果たす事ができた。子供達3人も今では結婚し、それぞれに自宅を建てて孫も誕生し細やかではあるが、穏やかな日々を送っている。これも皆ユラクのお陰と感謝している。

この辞任をきっかけに、私は第二の人生として、ユラクに在籍していた当時に担当していた子会社である「株式会社ほーゆー本店」を買収し、私の長男との二人三脚で新たな人生をスタートさせた。

ところが先にも書いたが、そんな矢先にガンの告知となるのである。意気揚々とスタートした第二の人生に暗雲が立ち込めたのである。人生最大のピンチに追いやられた。

その後、一回目の膀胱がんの手術後には、主治医より前立腺のガンの告知を受ける事になる。ピンチに拍車が掛かかった。後継者である長男は居たが、大学卒業後は大手宅配業者にサラリーマンとして入社していたので、会社経営は素人である。負債も抱えていたので、病気も気になるが会社の事もそれ以上に気になった。

二回目の手術から半年が経過したある日の精密検査の結果、肺にも腫瘍が見つかり、脇腹を手術しての生体検査を行った結果、このガンがアスベストで有名になった「悪性胸膜中皮腫」と診断された。3回目のガンの告知である

調べて見ると、極めて生存率の低いガンであることが判明し、これまでの豊岡病院では、過去に治療実績は無いとの事で、日本一の治療実績を誇る「兵庫医科大学病院」を紹介された。指定された日に妻と二人で兵庫医大を受診した。最初の主治医になるであろう先生から、「手術をしますかしませんか」と尋ねられ、事細かな説明を受けた。手術は大がかりな手術で、右肺を全摘すると言うものであった。成功しても酸素呼吸器の使用や寝たきりになる可能性を示唆された。とんでもない病である。これまでの2回のガン告知と3回の手術で、疲れ果てていた事もあり、帰りの車中で妻と相談し、これが初めて「生きる事」を諦めた瞬間であった。

いずれにしても「抗がん剤治療」を始めましょう。と言う事で、主治医にお願いをして、この治療は地元の豊岡病院で受ける事になった。兵庫医大は兵庫県内とは言え西宮と言う事で、少し距離が有った為である。豊岡病院に指示書のデーターを送ってもらい、早速に「抗がん剤治療」が開始された。3クルーの予定で約3か月間の入退院の繰り返しである。これも初めての経験である。

その後、うつ病にも悩まされ、豊岡病院の精神科を受診する事になるが、生きる事を諦めていた私は比較的早くに立ち直る事が出来た。割り切りが早かったのかも知れない。

いよいよ兵庫医大での診察予定日。主治医から「過去のデーターが少ないので、成果は保証できないが、新しい肺を温存する手術をしてみないか」との相談を受けた。一度は諦めた命だが、術後の生活の質が良ければと、お願いする事にした。10時間を超える大手術であったが、無事に成功して、その後の抗がん剤治療と合わせて約半年間の入退院を繰り返し、その年には無事に62歳の誕生日を迎える事が出来た。

あれから2年が経ち、本日も無事に64回目の誕生日を迎える事が出来た。大勢の医療関係者や家族親族、友人知人、仕事の関係者、地区の関係者などに励まされ、今日も元気に生き延びている。

振り返ってみると、60歳から続く闘病生活で後遺症や身体障害など、苦悩は続くが多くの事を学んだ。

①入院患者のお見舞いは、励ましより寄り添い

②当たり前と言いたくなったら立ち止まる。

③正しい事をいうときは、少し控えめに

なんてね

 

では又ね

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