人生の謎学

―― あるいは、瞑想と世界

三合の理

2008-11-13 00:52:58 | 四柱推命
■すべての生き物、万象には栄枯盛衰があり、その原理を包括する概念を陰陽五行では「生れた――生きた――死んだ」の三語によって概観し、生・旺・墓として表現する。この原理のなかには当然、輪廻が秘められている。
 生・旺・墓の三態を具備しなければ、万物は生々流転、輪廻転生を行い得ない。これが三合の理である。ものごとはすべて、始まりがなければ壮んにならず、壮んになることのうちに終りが兆し、終りなくしては何事も始まらないのである。三合の理は、季節の推移のなかに認めることができるが、さらにひとつの季節を超えて、三つの季節にわたっても考えられている。

 また、四柱推命では十二地支の十二運である長生、帝旺、墓が合体すると、強力に団結し、帝旺の星の五行に変化する、としている。これを地支三合という。この場合重要なのは、帝旺の星を交えていることが必須であり、さらにはどれか一神が月支に連なっていなければならないという原則があるものの、地支三合していなくとも、大運や年運に長生あるいは墓の星を望めば地支半会となる。地支三合はおもに、婚期、人との協調、融和、共同などの実現として、当人の運勢に顕在すると解釈されている。

 日本の陰陽道において、三合はそれ自体、厄歳としても考えられた。孝謙朝、村上朝、後冷泉朝などの改元に、三合厄歳を理由とするものが多々ある。

《貞観十五年二月二十三日、陰陽寮が今年天行まさに慎むべく、三合の歳に当たるゆえ、年穀不作の恐れを予告し、ために宮中や諸国の寺において転読祈祷が行なわれた。ついで貞観十七年十一月十五日また来年三合の歳に当たるとの陰陽寮奏言があり、大般若経読誦を天下に令した。三合の厄は孝謙朝にとなえられて以来のもので、かかる周期災厄説が以後陰陽道家進出の手段として種々の論説へと発展したことは後章にのべるであろう。翌貞観十八年四月十日夜子刻、大極殿より火を失し小安殿・蒼竜・白虎両楼・延休堂および北門・北東西三面廊百余間にわたり延焼し、数日にして漸く鎮火する事件が起り、陰陽寮奏言の三合厄歳は適中する形となったのである。》(村山修一『日本陰陽道史総説』)

《村上朝は、天暦の即位改元以外では、三合厄および水旱・疾疫によって天徳、皇居の火災および辛酉革命によって応和、甲子革令によって康保と改元されている。『日本紀略』天暦十一年(九五七)十月二十七日条には水旱災によって改元とあるが、同書同年六月三日には今年三合年に当り水旱・疾疫の災絶えないから、十四社の験所において仁王経読誦があった旨を記し、三合年が改元の理由となったことは明らかである。》(同上)

《これに対して寛弘七年閏二月九日には、明年三合厄に当り、御慎あるべしと神祇官・陰陽寮から上奏したに拘らず、諸社奉幣だけで改元はされず見送っており、全く摂関家の御都合主義に左右された事情が察せられる。寛弘六年正月三十日、中宮彰子・第二皇子敦成親王・左大臣道長・陰陽師法師源念らを呪詛する厭物が発見され、佐伯公行の妻高階光子および民部大輔源方理と妻源氏ならびにその父為文、僧円能が処罰された。いずれ円能なるものも陰陽師法師で同輩の源念との軋轢によるものではあるまいか。呪詛には女性の嫉妬がからみ易く、その意味から当時の後宮における陰陽師の暗躍は看過できないであろう。》(同上)

《康平改元は火災のため、天喜改元は天変怪異となっているが、事実上は疫病熾烈、治暦改元は旱魃と三合厄を理由とされた。永承三年五月二日、大宰府が進上した新羅暦は長暦三年(一〇三九)輸入の暦と同じであったろうが、わが国のものと大差なく、ただ十二月の大小がちがっていたのみであった。同年十一月には閏を置くか否かで算博士賀茂通平と宿曜師證昭や増命、算博士為長らの間で論争が行なわれ、十一月を閏とする大宋暦が提出されたが、朝儀は道平の説を採用した。後三条天皇は即位の歳の末、皇居二条第を焼かれ、翌延久元年(一〇六九)は梁年に相当し、内裏新造を忌むと延期せられ、漸く新造殿舎に入ることができたのは同三年八月二十八日のことで、翌四年末には早や譲位せられたのであった。》(同上)


 地支三合は端的にいって協調、共同、融和を司る根基運命のはずである。このこと自体を否定する論理が陰陽五行に内在しているはずがない。そしてこの三支の結合は、日干の弱い命式にあっては幸運をもたらし、ときとして凶命式と判定しうる命式の場合でもこれを吉運の命に一転させる。他方で、日干強剛の人はさらにこれが旺強となり、十二運の強力な団結は諸事逆効果となってしまうのも否めない。
 ――私自身も、地支三合した人の運勢を何度か調べてみたことがある。ひとくくりに地支三合といっても、その様態はさまざまで、人生の数奇な展開には僥倖も恩恵も在するが、彼らには結局、予期せぬ災難に遭遇するとか、完治しない深刻な病を得るとかという共通点があるように、私は感じてきた。しかし、それが認識の到達点だとすると、陰陽五行自体がひどくうすっぺらで貧弱なものに思われてくる。そこで私は、高尾義政氏が三合会局をもって「異次元融合の形態」であるとした定義を、可能なかぎり拡大解釈したい誘惑にかられるのである。高尾氏のいう異次元融合とは、天上界と地上界の合体のことである。

 高尾氏による以下の説明は、きわめて平明であるが、非常に深いことを語っている。

《支合法の原理を一言の下に表現するならば、人間の現実生活における精神の完全美を追求した形であるといえます。
精神と現実の一致、霊魂と肉体の完全融合、そこに真の人間を求めた想念の中には、如何に精神が現実をコントロールし、かつ現実の状態が精神を高めて行くかというところに、人間の価値を見出そうとしたとも言えるのであります。
この言葉の裏側にあるものは、精神を高めようとして、精神を学ぶ行為をいくら積み重ねてみても、人間はそれが不可能に出来ていると言っているわけです。

それは現実界においても同じことで、現実的な視野を広げ、より高い現実性をつくり出そうとしても、現実界のみから学べるものではないわけです。
高い現実性は高い精神によって支えられてこそ可能なのであり、高い精神は理屈ぬきの現実的行為の中にこそ存在し、かつ、そこから学びとったものによって精神界の高まりをみることが出来るのだと考えているのであります。
雄大な運命思想によってつくり上げられた構想を、技術的に表わそうとしたところに「位相学」そのものの真意があり、価値があるわけですが、支合法が意味しているものこそ現実と精神の一致に他ならないのであります。
三合会局が天と地における異次元の融合であったのに対し、支合法は精神と現実の一致度合を計る方法であったわけです。
その意味においては、異次元融合に対する「同次元融合」の形なのであります。

このような発想の異なりを実際の運命判定に活用しようとすれば、「三合会局」および「三合半会」を宿命に所有する人間の特色は、社会を見る目、人生における想念が先天的に広く、大きい器を所有しているといえるわけです。
それに対し「支合」を所有するものは、何事につけても精神と行動がかけ離れることのない人間性を先天的に所有しているといえるわけです。
もっと具体的に言えば、内面と外面の一致なのですから、人付き合いにたとえれば、嫌いな人間と我慢して付き合うというような行為が出来ない人である、といっても正解なのであります。
好きであれば付き合う、嫌いならば絶交する、ということになり、よくいえば正直な人であるといえます。

ところが同じ「合」の形をもつ三合会局や半会は、異なった世界との融合であるために、どんなに嫌な人物とでも精神面を現わさず、行為としていつまでも交流して行けるわけです。
ただし相手から離れない限りであります。
そのために善人であれ悪人であれ、付き合えるのが三合会局および半会の人であり、自分にとってのみの善人と付き合えるのが支合の所有者なのであります。

このような原理原則をふまえれば、人間の運命をとらえて行く上で実に楽なのです。
当然人付き合いにおいて、交流の範囲は三合会局および半会所有者が広く、支合が狭くなります。
しかし、その内容においては密なる方が支合であり、粗なる方が会局および半会なのです。
そのために会局と半会は集団、組織を作る者、支合は常に個人の人間性を求める者として使用上の区分けをしていくのであります。このような想念のあり方は自分にきびしい反面、他人にもきびしさを求めるものが支合であり、自分はともあれ、他人に甘いのは三合会局と半会ということになるのです。
なぜならば精神面が一致しなくとも交流可能だからであります。》(高尾義政『原典算命学大系』第六巻)


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