心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

しがぎんビジネスクラブセミナー

2012年02月09日 | 仕事
 本日は、琵琶湖ホテルで行われました滋賀銀行さんのビジネスクラブセミナーに参加してきました。

 頭取は、本日がタイのバンコクの事務所開きということで現地に行っておられるそうです。

 代わりに専務さんがご挨拶されました。
 今年は、課題整理の年。
 キーワードは、共存共栄。
 ブランドイメージは、
 1.ネットワークのしがぎん
 2.アジアビジネスのしがぎん
 3.環境を主軸としたCSRのしがぎん

 だそうです。


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今日の講演は、日本電鍍工業株式会社 代表取締役の伊藤 麻美氏 45歳 女性

 わずか3年で倒産の危機から黒字化へ!
 ~あととり娘の再生奮闘記~


 一人娘のご本人が、23歳のとき、日本電鍍電鍍でんとという主に腕時計の金メッキ加工の会社を創設されたお父様が亡くなられました。

 当時は、社員の人が社長になっており、会社がどうにもならないほど借金があった状態でした。

 株は少々保有していたものの引き継ぐ義務も、引き継ぐ気もなかったのですが、お父さんの名誉回復、社員やその家族の生活を考えると、だんだんやらなければならない使命感に駆られてきました。

 そこから一念発起して、「なせばなる」の精神で会社を立て直され、今では、「日本をよくすることを使命」に現在も奮闘されているというお話でした。

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感想
 このお話を聞く少し前に、幕末の柴五郎(一八五九~一九四五)のことを記した本を読んでおりました。少し紹介してみたいと思います。



 柴の少年期から青年期にかけての人生は、きわめて苛酷なものであり、まさに筆舌に尽くしがたい苦難と辛酸の日々でした。

 柴は安政六年(一八五九年)に生まれたことが、その後の彼の稀有な人生を運命づけることになったのでした。

 幕末の会津藩は松平容保かたもりが藩主を務める一方、その容保は幕府から京都守護職に任命されたため、配下に置いた新撰組などを使って、薩長など討幕派を厳しく取り締まっていました。

ところが、その後、徳川慶喜が大政奉還を行い、薩長を中心とした明治新政府が樹立されることになると、容保が京都守護代職時代に討幕派を強硬に取り締まったことが新政府の激しい怒りを買うことになり、一転して会津藩は「朝敵」の汚名を着せられることになったのです。まさに、これこそが、その後の柴の悲運の始まりとなったのでした。

 徳川幕府の終焉を意味する江戸城の無血開城は、西郷隆盛と勝海舟の努力によって無事実現されることになりましたが、その後も、明治新政府軍は、「朝敵」会津藩を討つべく北へと進軍していく一方、松平容保は会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟を結成して、新政府軍との会津戦争に突入することになりました。

 その結果は、新政府軍の圧勝となったため、会津藩は壊城し、柴の祖母、母、姉妹は全員、会津戦争の際に自刃することになったのでした。そのとき、まだ、十歳の少年であった柴少年にとって、これがどれほどの悲しみと衝撃をもたらすことになったかは察するに余りあります。

 その後壮絶な少年期から青年期を過ごした後、柴は陸軍士官学校を卒業後、陸軍砲兵少尉、大本営陸軍部参謀、北京駐在武官、陸軍第十二師団長などの要職を経て、大正八年(1919年)には、六十歳で陸軍大将まで上り詰めます。

特に、柴が北京駐在武官をいているときに勃発した義和団事件における彼の沈着冷静な行動は特に有名です。その働きのため、柴こそが日英同盟実現の陰の功労者であったと高く評価されるようになっています。
 というお話です。



 ここでの学びは、世の中には自分には想像もできない衝撃的な不幸や悲しみがあり、それを乗り越えたときには、別人の人生かと思えるようなすばらしいことが起こるということと、人生は、不可解で何が起こるかわからないけれども、決してあきらめてはならないということでした。偶然にも伊藤さんのお話に通じるところが多かったのです。

 伊藤さんのお話は、具体的な出来事を時系列に実名や数字を交えてお話いただけたので、たいへんストーリーがイメージしやすく、臨場感がありました。

 特に、6年間努力したことが報われ、たまたま出会われた銀行のえらいさんのお力添えもあって、2006年に借り換えができた、すなわち、負債を解消し、やっと世間並みになったというくだりのところなんかは、ほんとうに泣かせてくれました。

 もう一箇所泣かせてくれたのは、社員48名に、一人ずつ名前を書いて1万円ずつ賞与を渡そうとしたときに、社員のほうから「受け取れない」「会社がよくなるようにお払いにつかった」「仏壇に上げておいた」などのくだりです。



 最後のまとめには、
「全員経営の精神」で悪いことを包み隠さず伝える。社員と語り合う。1点ものにこだわり、来るものを拒まず、仕事を選ばず、腕時計だけでなく、管楽器、医療器具、美容器具、宝飾品などなんでもやる。

国内にこだわる。

「日本をよくすることを使命」とする。
←私はこれに一番共感しました。

そして100年続く企業にする

「あきらめなければ、絶対にできる」⇒日本DENTOスピリット


と言われていました。



 本日は、中小企業経営者の鏡のような人のお話を聞かせて頂き、私自身も一皮も二皮もむけたような気がします。

 伊藤さん、ますます、日本をよくすることのために健闘していただきますことを心よりご祈念申し上げます。私も微力ながら社会をよくするためにがんばりたいと思います。


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