5月19日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第二話「時間について」です。
雑感
なぜ、今、私たちは学ばないといけないのでしょうか?
前にも申しましたように、戦後の日本は、経済的にも社会的にも国際的にも非常にうまくいっていました。
「うまくいっている」ということは、秩序だっていたということです。
経済的には、極東の小さな国が敗戦後たった30年から40年ぐらいで、GDPで世界第2位なりました。
これは、すごいことです。そのおかげで、所得は伸び、車や家電製品、住宅などを手に入れることができ、物質的には本当に豊かになりました。
そして、特筆すべきは、1億層中流といわれるぐらい全員が豊かになったことです。これは、今の中国を見ればわかりますね。全員が同時に豊かにはなっていません。アメリカを見てもそうですね。全員が豊かになっているとはとても言いがたいですね。
それと幸福感をもたらす家庭、職業、教育、この三つのどれをとってもうまくいっていました。
家庭では、夫はサラリーマン、妻は主婦という形が定着し、そして核家族化が進行し、年寄りからの制約にとらわれずに家族が仲良く暮らすことができました。また、主婦にとっては毎日の時間の多くを使わなければいけない、掃除や洗濯、料理といったことが、家電製品の普及により著しく軽減されました。家電製品といえば、エアコンなども普及し、日本の夏を克服して一年中快適に過ごせるようになりました。
さらに、車も普及することによって、家族でいろんなところへ出かけられるようになりました。レジャーということが当たり前になってきました。レジャーといえば、海外旅行なども、豊かさとともに一気に増えました。
職業では、人口が増え、経済が成長していましたので、誰でも簡単に職を見つけることができ、常に人手不足が社会問題になっていたくらいです。昭和30年代には、中学生や高校生は、金の卵と呼ばれ、地方都市から集団就職しなければならないほど、都市圏では、人手不足でした。
それと、日本の労働の特徴である、年功序列、終身雇用、企業内組合、企業内福利など企業のしくみと、国の年金制度により、労働者は一生、安心して暮らしていけるようになっていました。
さて、教育ですが、社会全体がアメリカに追いつけ、追いこせで、もともと真面目で、勤勉な国民が、儒教思想を背景に、自分というものを極力抑えながら、会社で必死に働きました。
そのハングリーさと教育の均一性に特徴があり、高品質なものを、生産性を向上させながら大量生産することにおいては、世界一でした。
小学校での均質な知識、中学校を卒業すれば工場の工員として給料は少ないが一生コツコツやっていける。高校を卒業すれば、ブルーカラー(工場で働く)で中堅までいけて十分な生活が送れる。大学を出れば、現場できつい、きたない、きけんなどではなく、頭を使う仕事、すなわちホワイトカラーになれるということで、余暇を楽しみながら高い給料を得られるような教育システムができあがった。
ですから、よい大学へ子供を入れて、大企業に就職し、一生が安心して暮らせるように、教育ママという言葉が出現し、世界でも教育熱心な国でした。
ところが、今は、そうではないですね。一流の大学を卒業したからといって、必ずしも自分の希望するところに就職できるわけでもありませんし、一流企業といわれているところでも安定していません。
そして教育といっても世界のグローバル企業で通用するには、能力だけではなく、考え方まで変えてしまわなければなりません。欧米型の企業では、日本で言っている人間性、すなわち、なさけややさしさ、思いやりなどは、ビジネスの世界では通用しないでしょう。
実際にあった話なのですが、京大や東大を卒業して2008年4月にリーマンブラザーズに就職して、その半年後に、自動的に野村證券の社員となり、その後は退職というのもレアケースではありません。
という具合に、今は、今までの常識が通用しなくなってしまいました。それでは、どのようにしたらいいでしょうか?
今までは、国まかせ、親まかせ、会社まかせ、他人まかせで自分の身を他にゆだねていたらよかったのですが、今は、自分自身が学ばないと生きていけないということです。
次回以降に、なにを学んだらよいのか、どのようにして学んだらよいのか、どのような人生をおくればよいのかなどを考えていきましょう。
本日の学び
本話の要約
時間の本性を探ることが、第二話の目的です。時間というのは、目に見えませんから心の働きというべきなのか、それとも科学的、合法則的に存在が証明できるものなのか。著者は、唯物論の立場に立っているので、当然、合法則的なものであることを証明します。
時間というものの本質は、全物質の運動の統一性にある。ということです。
時間は、時計で測ります。デジタル時計には、薄い水晶板(クォーツ)が入っていて、きわめて速く規則正しく振動しています。昔の柱時計であれば振り子が規則正しく往復運動をおこなっています。
そこで、水晶板の振動や振子の運動の規則正しさはなにによって保障されているのでしょうか。そして次に、その原理を応用した時計でたとえば、日食を予測できて、そのとおりに日食になったとすれば、水晶板や振子の運動が、天体の運動と対応しているということができます。
地球は太陽の周りを回り、生物は成長し進化し、私たちは物を考える。
これら個々の現象はそれぞれに合法則的です。そのうえに自然をはじめ世界の現象は互いに、密接に関係している。その結果として物質の運動の統一性があらわれる。ということです。
そこでもう一つ。時間の概念というものは、合法則的であって絶対的なものとして受け取ってしまいがちですが、そうではないのです。
物質相互間の運動の早さ(相対運動の速さ)によって決まることがわかっています。
そうです、アインシュタインの相対性理論です。
物質相互間の速さが光の速さに近くなると、その時間の進み方が両方の物質で同じでなくなり、相手方の時間の進行がおそくなる。ということは、物質の運動の対応性という全物質の運動の仕方にあるのであって、この意味で時間もまた認識の対象であることがいっそうあきらかになってきた。
ということで、認識の対象ということは、存在が客観的であり、実在的であるということです。
今回の学びは、時間という概念が全物質の運動の統一性にあるということです。この考え方に私は、大変感銘を受けました。
私は、人間が生活する上においては、時間の概念を用いたほうが、生きていくためには大変有効なので、時間を計る時計を作って生きることをより確かにしたのだと思っていました。
つまり、人間が、自分たちが生きるために勝手に作ったもので、宇宙のすべてのもの、天体、原子、無機質、植物、動物、人間の運動にすべて共通している概念が時間ということを知り、大変驚いたということです。
このような発見は、誰が考えても普遍的であり、本質的です。
私たちが暮らしている宇宙や自然というのは、奥の深いところで秩序だっているということですね。
人間には、精神の能動性と意識の先行性という二つの特徴があり、それらが自由に活動するので、それが自由に活動すればするほど秩序維持が難しくなってしまします。
これが、人間の進化だともいえると思います。ということは、進化した人間が形成する社会ではどのようにして秩序維持をしていけばよいのでしょうか。
その一つは、やはり「理念」だと思います。理念の定義はいろいろありますが、「もっとも自然で、誰もが納得し共有できるもの」というのもその一つです。さきほどの時間の概念に異論を唱える人は少ないと思います。
そのほかには、人間の理性です。「個」と「全体」の関係をしっかりと把握するということです。個人は、「良心」において自由であり、自分の心すべてにおいて自由ではありません。また、全体の調和を考えるところに自由が存在するということです。この理性を磨くためには、学びを深めなければなりません。考え続けなくてはなりません。
そしてそれら(学びと考えること)が確立されていくときに、他も尊重するということから真の民主主義が成り立つのだと思います。
現代経済社会に現れているような自由主義、新自由主義、競争至上主義は、ある一面だけの自由を誇張しています。
これらは、個人の自由の最大化を前提としていますので、「欲望肥大主義」ともいえるでしょう。
これらの考え方のもとでは、地球環境の問題や、戦争・紛争などは、解決しようがありません。現時点では当たり前のようになっていますが、国益主義も、そろそろ考えないといけない時期になってきています。
話が、時間の客観性・合法則性から、秩序に飛びましたが、時間の概念がいかによい社会にしていくかを考えるきっかけとなりました。
雑感
なぜ、今、私たちは学ばないといけないのでしょうか?
前にも申しましたように、戦後の日本は、経済的にも社会的にも国際的にも非常にうまくいっていました。
「うまくいっている」ということは、秩序だっていたということです。
経済的には、極東の小さな国が敗戦後たった30年から40年ぐらいで、GDPで世界第2位なりました。
これは、すごいことです。そのおかげで、所得は伸び、車や家電製品、住宅などを手に入れることができ、物質的には本当に豊かになりました。
そして、特筆すべきは、1億層中流といわれるぐらい全員が豊かになったことです。これは、今の中国を見ればわかりますね。全員が同時に豊かにはなっていません。アメリカを見てもそうですね。全員が豊かになっているとはとても言いがたいですね。
それと幸福感をもたらす家庭、職業、教育、この三つのどれをとってもうまくいっていました。
家庭では、夫はサラリーマン、妻は主婦という形が定着し、そして核家族化が進行し、年寄りからの制約にとらわれずに家族が仲良く暮らすことができました。また、主婦にとっては毎日の時間の多くを使わなければいけない、掃除や洗濯、料理といったことが、家電製品の普及により著しく軽減されました。家電製品といえば、エアコンなども普及し、日本の夏を克服して一年中快適に過ごせるようになりました。
さらに、車も普及することによって、家族でいろんなところへ出かけられるようになりました。レジャーということが当たり前になってきました。レジャーといえば、海外旅行なども、豊かさとともに一気に増えました。
職業では、人口が増え、経済が成長していましたので、誰でも簡単に職を見つけることができ、常に人手不足が社会問題になっていたくらいです。昭和30年代には、中学生や高校生は、金の卵と呼ばれ、地方都市から集団就職しなければならないほど、都市圏では、人手不足でした。
それと、日本の労働の特徴である、年功序列、終身雇用、企業内組合、企業内福利など企業のしくみと、国の年金制度により、労働者は一生、安心して暮らしていけるようになっていました。
さて、教育ですが、社会全体がアメリカに追いつけ、追いこせで、もともと真面目で、勤勉な国民が、儒教思想を背景に、自分というものを極力抑えながら、会社で必死に働きました。
そのハングリーさと教育の均一性に特徴があり、高品質なものを、生産性を向上させながら大量生産することにおいては、世界一でした。
小学校での均質な知識、中学校を卒業すれば工場の工員として給料は少ないが一生コツコツやっていける。高校を卒業すれば、ブルーカラー(工場で働く)で中堅までいけて十分な生活が送れる。大学を出れば、現場できつい、きたない、きけんなどではなく、頭を使う仕事、すなわちホワイトカラーになれるということで、余暇を楽しみながら高い給料を得られるような教育システムができあがった。
ですから、よい大学へ子供を入れて、大企業に就職し、一生が安心して暮らせるように、教育ママという言葉が出現し、世界でも教育熱心な国でした。
ところが、今は、そうではないですね。一流の大学を卒業したからといって、必ずしも自分の希望するところに就職できるわけでもありませんし、一流企業といわれているところでも安定していません。
そして教育といっても世界のグローバル企業で通用するには、能力だけではなく、考え方まで変えてしまわなければなりません。欧米型の企業では、日本で言っている人間性、すなわち、なさけややさしさ、思いやりなどは、ビジネスの世界では通用しないでしょう。
実際にあった話なのですが、京大や東大を卒業して2008年4月にリーマンブラザーズに就職して、その半年後に、自動的に野村證券の社員となり、その後は退職というのもレアケースではありません。
という具合に、今は、今までの常識が通用しなくなってしまいました。それでは、どのようにしたらいいでしょうか?
今までは、国まかせ、親まかせ、会社まかせ、他人まかせで自分の身を他にゆだねていたらよかったのですが、今は、自分自身が学ばないと生きていけないということです。
次回以降に、なにを学んだらよいのか、どのようにして学んだらよいのか、どのような人生をおくればよいのかなどを考えていきましょう。
本日の学び
本話の要約
時間の本性を探ることが、第二話の目的です。時間というのは、目に見えませんから心の働きというべきなのか、それとも科学的、合法則的に存在が証明できるものなのか。著者は、唯物論の立場に立っているので、当然、合法則的なものであることを証明します。
時間というものの本質は、全物質の運動の統一性にある。ということです。
時間は、時計で測ります。デジタル時計には、薄い水晶板(クォーツ)が入っていて、きわめて速く規則正しく振動しています。昔の柱時計であれば振り子が規則正しく往復運動をおこなっています。
そこで、水晶板の振動や振子の運動の規則正しさはなにによって保障されているのでしょうか。そして次に、その原理を応用した時計でたとえば、日食を予測できて、そのとおりに日食になったとすれば、水晶板や振子の運動が、天体の運動と対応しているということができます。
地球は太陽の周りを回り、生物は成長し進化し、私たちは物を考える。
これら個々の現象はそれぞれに合法則的です。そのうえに自然をはじめ世界の現象は互いに、密接に関係している。その結果として物質の運動の統一性があらわれる。ということです。
そこでもう一つ。時間の概念というものは、合法則的であって絶対的なものとして受け取ってしまいがちですが、そうではないのです。
物質相互間の運動の早さ(相対運動の速さ)によって決まることがわかっています。
そうです、アインシュタインの相対性理論です。
物質相互間の速さが光の速さに近くなると、その時間の進み方が両方の物質で同じでなくなり、相手方の時間の進行がおそくなる。ということは、物質の運動の対応性という全物質の運動の仕方にあるのであって、この意味で時間もまた認識の対象であることがいっそうあきらかになってきた。
ということで、認識の対象ということは、存在が客観的であり、実在的であるということです。
今回の学びは、時間という概念が全物質の運動の統一性にあるということです。この考え方に私は、大変感銘を受けました。
私は、人間が生活する上においては、時間の概念を用いたほうが、生きていくためには大変有効なので、時間を計る時計を作って生きることをより確かにしたのだと思っていました。
つまり、人間が、自分たちが生きるために勝手に作ったもので、宇宙のすべてのもの、天体、原子、無機質、植物、動物、人間の運動にすべて共通している概念が時間ということを知り、大変驚いたということです。
このような発見は、誰が考えても普遍的であり、本質的です。
私たちが暮らしている宇宙や自然というのは、奥の深いところで秩序だっているということですね。
人間には、精神の能動性と意識の先行性という二つの特徴があり、それらが自由に活動するので、それが自由に活動すればするほど秩序維持が難しくなってしまします。
これが、人間の進化だともいえると思います。ということは、進化した人間が形成する社会ではどのようにして秩序維持をしていけばよいのでしょうか。
その一つは、やはり「理念」だと思います。理念の定義はいろいろありますが、「もっとも自然で、誰もが納得し共有できるもの」というのもその一つです。さきほどの時間の概念に異論を唱える人は少ないと思います。
そのほかには、人間の理性です。「個」と「全体」の関係をしっかりと把握するということです。個人は、「良心」において自由であり、自分の心すべてにおいて自由ではありません。また、全体の調和を考えるところに自由が存在するということです。この理性を磨くためには、学びを深めなければなりません。考え続けなくてはなりません。
そしてそれら(学びと考えること)が確立されていくときに、他も尊重するということから真の民主主義が成り立つのだと思います。
現代経済社会に現れているような自由主義、新自由主義、競争至上主義は、ある一面だけの自由を誇張しています。
これらは、個人の自由の最大化を前提としていますので、「欲望肥大主義」ともいえるでしょう。
これらの考え方のもとでは、地球環境の問題や、戦争・紛争などは、解決しようがありません。現時点では当たり前のようになっていますが、国益主義も、そろそろ考えないといけない時期になってきています。
話が、時間の客観性・合法則性から、秩序に飛びましたが、時間の概念がいかによい社会にしていくかを考えるきっかけとなりました。