心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

時間について

2010年05月23日 | 哲学
 5月19日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第二話「時間について」です。

雑感
 なぜ、今、私たちは学ばないといけないのでしょうか?

 前にも申しましたように、戦後の日本は、経済的にも社会的にも国際的にも非常にうまくいっていました。
 「うまくいっている」ということは、秩序だっていたということです。
 経済的には、極東の小さな国が敗戦後たった30年から40年ぐらいで、GDPで世界第2位なりました。
 これは、すごいことです。そのおかげで、所得は伸び、車や家電製品、住宅などを手に入れることができ、物質的には本当に豊かになりました。
 そして、特筆すべきは、1億層中流といわれるぐらい全員が豊かになったことです。これは、今の中国を見ればわかりますね。全員が同時に豊かにはなっていません。アメリカを見てもそうですね。全員が豊かになっているとはとても言いがたいですね。


 それと幸福感をもたらす家庭、職業、教育、この三つのどれをとってもうまくいっていました。
 家庭では、夫はサラリーマン、妻は主婦という形が定着し、そして核家族化が進行し、年寄りからの制約にとらわれずに家族が仲良く暮らすことができました。また、主婦にとっては毎日の時間の多くを使わなければいけない、掃除や洗濯、料理といったことが、家電製品の普及により著しく軽減されました。家電製品といえば、エアコンなども普及し、日本の夏を克服して一年中快適に過ごせるようになりました。
 さらに、車も普及することによって、家族でいろんなところへ出かけられるようになりました。レジャーということが当たり前になってきました。レジャーといえば、海外旅行なども、豊かさとともに一気に増えました。
 
 職業では、人口が増え、経済が成長していましたので、誰でも簡単に職を見つけることができ、常に人手不足が社会問題になっていたくらいです。昭和30年代には、中学生や高校生は、金の卵と呼ばれ、地方都市から集団就職しなければならないほど、都市圏では、人手不足でした。
 それと、日本の労働の特徴である、年功序列、終身雇用、企業内組合、企業内福利など企業のしくみと、国の年金制度により、労働者は一生、安心して暮らしていけるようになっていました。

 さて、教育ですが、社会全体がアメリカに追いつけ、追いこせで、もともと真面目で、勤勉な国民が、儒教思想を背景に、自分というものを極力抑えながら、会社で必死に働きました。
 そのハングリーさと教育の均一性に特徴があり、高品質なものを、生産性を向上させながら大量生産することにおいては、世界一でした。
 小学校での均質な知識、中学校を卒業すれば工場の工員として給料は少ないが一生コツコツやっていける。高校を卒業すれば、ブルーカラー(工場で働く)で中堅までいけて十分な生活が送れる。大学を出れば、現場できつい、きたない、きけんなどではなく、頭を使う仕事、すなわちホワイトカラーになれるということで、余暇を楽しみながら高い給料を得られるような教育システムができあがった。
 ですから、よい大学へ子供を入れて、大企業に就職し、一生が安心して暮らせるように、教育ママという言葉が出現し、世界でも教育熱心な国でした。

 ところが、今は、そうではないですね。一流の大学を卒業したからといって、必ずしも自分の希望するところに就職できるわけでもありませんし、一流企業といわれているところでも安定していません。
 そして教育といっても世界のグローバル企業で通用するには、能力だけではなく、考え方まで変えてしまわなければなりません。欧米型の企業では、日本で言っている人間性、すなわち、なさけややさしさ、思いやりなどは、ビジネスの世界では通用しないでしょう。
 実際にあった話なのですが、京大や東大を卒業して2008年4月にリーマンブラザーズに就職して、その半年後に、自動的に野村證券の社員となり、その後は退職というのもレアケースではありません。



 という具合に、今は、今までの常識が通用しなくなってしまいました。それでは、どのようにしたらいいでしょうか?
 今までは、国まかせ、親まかせ、会社まかせ、他人まかせで自分の身を他にゆだねていたらよかったのですが、今は、自分自身が学ばないと生きていけないということです。
 次回以降に、なにを学んだらよいのか、どのようにして学んだらよいのか、どのような人生をおくればよいのかなどを考えていきましょう。




本日の学び
 本話の要約

 時間の本性を探ることが、第二話の目的です。時間というのは、目に見えませんから心の働きというべきなのか、それとも科学的、合法則的に存在が証明できるものなのか。著者は、唯物論の立場に立っているので、当然、合法則的なものであることを証明します。
 
 時間というものの本質は、全物質の運動の統一性にある。ということです。
 時間は、時計で測ります。デジタル時計には、薄い水晶板(クォーツ)が入っていて、きわめて速く規則正しく振動しています。昔の柱時計であれば振り子が規則正しく往復運動をおこなっています。
 そこで、水晶板の振動や振子の運動の規則正しさはなにによって保障されているのでしょうか。そして次に、その原理を応用した時計でたとえば、日食を予測できて、そのとおりに日食になったとすれば、水晶板や振子の運動が、天体の運動と対応しているということができます。



 地球は太陽の周りを回り、生物は成長し進化し、私たちは物を考える。
 これら個々の現象はそれぞれに合法則的です。そのうえに自然をはじめ世界の現象は互いに、密接に関係している。その結果として物質の運動の統一性があらわれる。ということです。

 そこでもう一つ。時間の概念というものは、合法則的であって絶対的なものとして受け取ってしまいがちですが、そうではないのです。
 物質相互間の運動の早さ(相対運動の速さ)によって決まることがわかっています。
 そうです、アインシュタインの相対性理論です。
 物質相互間の速さが光の速さに近くなると、その時間の進み方が両方の物質で同じでなくなり、相手方の時間の進行がおそくなる。ということは、物質の運動の対応性という全物質の運動の仕方にあるのであって、この意味で時間もまた認識の対象であることがいっそうあきらかになってきた。
 ということで、認識の対象ということは、存在が客観的であり、実在的であるということです。



 
 今回の学びは、時間という概念が全物質の運動の統一性にあるということです。この考え方に私は、大変感銘を受けました。
 私は、人間が生活する上においては、時間の概念を用いたほうが、生きていくためには大変有効なので、時間を計る時計を作って生きることをより確かにしたのだと思っていました。
 つまり、人間が、自分たちが生きるために勝手に作ったもので、宇宙のすべてのもの、天体、原子、無機質、植物、動物、人間の運動にすべて共通している概念が時間ということを知り、大変驚いたということです。

 このような発見は、誰が考えても普遍的であり、本質的です。
 私たちが暮らしている宇宙や自然というのは、奥の深いところで秩序だっているということですね。
 人間には、精神の能動性と意識の先行性という二つの特徴があり、それらが自由に活動するので、それが自由に活動すればするほど秩序維持が難しくなってしまします。
 これが、人間の進化だともいえると思います。ということは、進化した人間が形成する社会ではどのようにして秩序維持をしていけばよいのでしょうか。


 その一つは、やはり「理念」だと思います。理念の定義はいろいろありますが、「もっとも自然で、誰もが納得し共有できるもの」というのもその一つです。さきほどの時間の概念に異論を唱える人は少ないと思います。

 そのほかには、人間の理性です。「個」と「全体」の関係をしっかりと把握するということです。個人は、「良心」において自由であり、自分の心すべてにおいて自由ではありません。また、全体の調和を考えるところに自由が存在するということです。この理性を磨くためには、学びを深めなければなりません。考え続けなくてはなりません。
 そしてそれら(学びと考えること)が確立されていくときに、他も尊重するということから真の民主主義が成り立つのだと思います。
 現代経済社会に現れているような自由主義、新自由主義、競争至上主義は、ある一面だけの自由を誇張しています。
 これらは、個人の自由の最大化を前提としていますので、「欲望肥大主義」ともいえるでしょう。
 これらの考え方のもとでは、地球環境の問題や、戦争・紛争などは、解決しようがありません。現時点では当たり前のようになっていますが、国益主義も、そろそろ考えないといけない時期になってきています。




 話が、時間の客観性・合法則性から、秩序に飛びましたが、時間の概念がいかによい社会にしていくかを考えるきっかけとなりました。

アイディアの誕生

2010年05月09日 | 哲学
 4月14日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、新入社員も含めて11名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第一話「アイディアの誕生」です。

雑感
 最近は、世の中に少し閉塞感がありますが、これはなにによるものでしょうか。
 前回、前々回でのべましたように「デフレ」や「自分さえよければ」ということも大きな原因ですが、それと関連して、価値観の多様化とインターネットなどによる情報過多、自由な発言などが、あげられます。
 
 確かにいまは、多様性の共生という言葉が使われますが、経済発展とともに、日本でも村社会から、一人ひとりが孤立しても生きられる社会をつくりあげてきました。
 昔は、経済的に貧しかったことや、お上にたいしてものがいえずに団結していないと不利益をこうむったり、他の集団から利益をまもるためにも隣近所や集落全体で助け合わないといけない時代でもありました。
 戦後、経済的に裕福になるにつれ、集団でくらすことの不利益さが徐々に減り、集団での規律や縛りのほうが自由を阻害する要因として感じられ、村社会を飛びだし、お金の稼げる都会へと人は向かいました。
 
 ところがいまはどうでしょうか?最初に言いましたように、今度は、あまりにも秩序規準である、価値観が多様化し、特に善悪の考え方があまりにもちがうため、集団で行動する必要がある、会社、学校などでは、組織運営が非常に難しくなっています。政治の世界も同じです。一人ひとり意見が違い、一人ひとりが自分中心の意見を出し合うとばらばらになってしまい、ものごとがなかなか決まらない、ということになります。各意見を調整していると莫大な時間を消費してしまいます。
 目的を達成するのに使う労力よりも、各人の意見を調整するだけではるかに大きな労力をそこで使い、あげくのはて何も創造しないという状況が生まれています。いまの政治がそのようにみえます。

 昔は、長老とか、知恵者とか実力者とかリーダーシップを発揮するものがいて、そのものが決めたことには、違う意見があろうと、その決定にしたがうという暗黙のルールがありました。
 
 
 というようなわけで、現代は閉塞感というか、ものごとが思うように進まないという状況にあるといえます。







 

 そこで、現代に生きるわれわれに必要なことは、コミュニケーション力といってしまえば簡単ですが、その前提として「ビジョンを描くこと」「場のエネルギーをあげること」「人にわかりやすく話すこと」「常に前向きに考えること」「謙虚に自分を制御すること」「他のものに感謝すること」などが挙げられます。
 
 
 時代は変わりました。私自身も世の中に適合するように変えなければいけません。
 と思う今日この頃です。









本日の学び
 ここでは、思いつきやアイディアなどの精神作用が生まれるのは、突然なので法則性などないように思われますが、これさえも合法則的すなわち理屈に合ったものだということをいおうとしています。


 著書より、引用します。
「発見、創造、新しいことを思いつくこと、これを意義づけることが人のもついちじるしい特徴である。

 新しいことを思いつくことは、人間の精神活動のなかの中心的なはたらきである。

 人間の精神活動は、実にすばらしいものであって、そのはたらきをみたとき、これが神秘
的なほどみごとなものだと感じるのもまことに自然なことである。
 だからといって、人間の精神の本質を、偶然的で神秘的なもの、人間の力のおよばない、なにか別の力で定められたものであるときめてしまうのは飛躍しすぎる話である。

 妙案を思いつくとき
 仕事についてよく知っており、また仕事のうえで新しく工夫をこらすべき点がはっきりしている場合には、精神を集中することによってよい考えを思いつくことが少なくない。ひととおり知識があり、工夫を加えるべき点が明確で、かつ精神を集中する、これらのことが新しい工夫を思いつくための条件である。

 課題意識にかんする一般的知識を持ち、しかも課題意識をもちつづけていたときには、遅かれ早かれ、必ずアイディアを思いつき、工夫をこらし、物事を処理していくことが可能になる。
 [一般知識のもとにおかれた課題意識はかならずアイディアを生成する]――これは人間の思考にたいする一つの認識である。
 でも、いつアイディアがでてくるかわからない。アイディア生成のように合法則的過程が具体的な形で現実に進行するときにはいつも偶然性をともなっている。

 まず、情報は食べ物のように記憶室にたくわえられる。
次に、断片的な情報・知識が、課題意識のもとに多量に集まってくる。それらの情報や知識が、たがいに結びつきあって、まとまった情報・知識、すなわち観念連合をつくる。あたえられた課題に答えうる観念連合が、多くの観念連合のなかからえらびだされる。
 以上の過程は、全部無意識下でおこなわれるが、このようにして課題に答えたようにみえる観念連合が形成されると、この観念連合は意識の上におし上げられる。こうしてアイディアが形成される。






 哲学の話の最初にアイディアの誕生をとりあげたのは、その誕生過程が神秘的なものではないことを強調するためである。
 いままでのべたことで、まず第一に、アイディアは[一般的知識の前提のもとで課題意識から生まれる]ことがわかった。
 さらに第二として、その生成過程を脳髄のなかのこまかなはたらき方として理解することができた。
 アイディアの誕生のように神秘的にみえるものですら、その本当の姿は合法則的な過程であり、詳細な具体的な多くの課程に裏づけされたものである。

 もしこのような見方が正しいとすれば、この世界の現象のすべてが、アイディアの誕生と同じように合法則的なものであると考えるべきではなかろうか。」




 と著者は述べています。
 まず、ここでの学びは、人間は、問題が生じてそれを解決しようとする場合や、目標や目的を強くもつと、その解決策や目標達成にいたる方法などのアイディアが必ず、生まれてくるということです。
 そこには、偶然性がともない、いつ出てくるかわかりませんが、思いの強さとそれについていろいろと真剣に調べたりすることで、解決策や目標達成が可能になるということです。 私は、自分が経験や学習することから獲得した一般知識だけではなく、生まれたときからの先天的なものやさらに、経験や学習しなくても宇宙や自然のなかに存在するものも含めて、アイディアが生成されると思っています。
 
 だから人は、困難から逃れず、あきらめず、必ず解決策や、新しいアイディアが生まれてくることを信じて、気を張らずに考えつづけるということが一番重要だと思います。
 それといま一つの学びは、いままで自分が経験してこなかったことがらが、目の前に現れてもそれは、突然現れたのではなく、合法則的に、連続性のもとにあらわれてきたものだと考えて、ものごとに対処するというこです。




「自然の哲学」(下)の最終講

2010年05月05日 | 哲学
 3月17日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、6名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「おわりに」「あとがき」と「自然の哲学」(上)「まえがき」「はじめに」です。



雑感
 先月、私の関心のあることとして「デフレ」であることを申しましたが、いまひとつは「自分さえよければ」という思想というか、考え方です。

 日本は、第二次世界大戦後、「自由」思想や「個人主義」「民主主義」の考え方が、アメリカから半ば強制的にもたらされました。
 憲法第19条にも、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」とあります。日本国憲法の第三章は、国民の権利及び義務について書かれています。
 憲法は、国民の自由や権利、個人として尊重されることを保障していますが、第十二条や第十三条にみられますように、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負い、権利についても公共の福祉に反しない限り、尊重されるという条件がついています。自由というのは、憲法上もまったくの無制限ではないのです。


 経済の世界では、1776年、アダム・スミスの著した「富国論」で、私利私欲が公共の善をもたらす、需要と供給については、神の見えざる手がはたらいて、それをうまく調整してくれるという考えのもとに、経済は、科学技術の発達とともに大きく発展し、世界の富も拡大しました。
 ケインズは、この考え方に反対し、「自由放任の終焉」という著書のなかで、政府の役割を強調しました。
 その後1979年、ミルトン・フリードマンが、「選択の自由」で反ケインズとして登場しました。
 そこで世の中を豊かにするためには徹底的に規制を緩和、解除すべきだという考え方が世界の先進国に広がりました。これが、自由主義から新自由主義に至る過程なのですが、ここには、公共の福祉に反しない限りという制約はつきません。みんながすき放題にすることが、経済が発展し世の中がよくなるのだという考え方です。

 たしかにカンフル剤的には、効果があったかもしれませんが、競争、競争で他社よりもより早く商品を開発し、より大きな売上を上げ、そしてその活動で得た利益で他社を買収し、さらに大きく、強くなることを永久に追求するようになりました。







 企業の本来の目的は、いったいなんなのでしょうか?少なくとも日本のように成熟化した社会での企業のあり方は、自主的な社会貢献以外にないと思います。
 ただ、やみくもに、シェアーの拡大を図ったり、規模を大きくすることではけっしてないのです。

 当然働いている人も、未成熟社会(発展途上国)の人たちのようにお金を稼ぐためにだけ働くのではなく、企業の一員として自分の能力を最大限に発揮し、技術や専門知識、コミュニケーションによって、周りの人を豊かにしていくということです。まさに、社会貢献です。
 いまは、その貢献度合いによって企業の業績が左右され、そこで働く人たちの報酬や生活レベルが決まる時代です。

 そのなかで、間違って解釈してはならないのは、自分もよくならないといけないのですが、周りの人もよくならないと自分もよくならないことを認識しなければいけないということです。特に、成熟化した社会では、社会全体の幸せを考えることが、必須の条件だと思います。

 組織はある目的をもって活動しています。会社という組織の中にいる人は、その目的に向って仕事をしています。その中では、自分が好きなようにしてよい場面はほとんどないといっていいでしょう。
 特に、社会をよくするという重要な任務を背負った会社組織においては、まず、会社の方向に向かって一丸となり、その力を結集してお客様に尽くし、社会に奉仕する結果、利益が生み出されます。
 現代日本のように、国内のマーケットの規模が縮小していて、古い業種にいる場合は特にそういえるでしょう。

 「自分さえよければ」という考えを捨てて、働く人も一生懸命、企業も一生懸命仕事をして、公共(みんな)の福祉(幸せや利益)を増進させようではありませんか。

 必ず、自分に返ってきます。

 公共(全体)の幸せが、自分(個)の幸せ。自分(個)の幸せが公共(全体)の幸せ。
 これが世の中の原理だと思います。






本日の学び
 哲学の目的は、やはり世界を正しく認識することです。なぜ、正しく認識しなければならないか?
 それは、人間はその認識にもとづいて行動し、世界を変えていく力があるからです。たとえば、物質が客観的に存在するとか、量的変化の結果、質的変化が生ずることなどです。

 今、私たちが学んでいる唯物論とは違う考え方の一つの型として形而上学があります。
 この考え方では、世界が互いに関連をもちながら生成消滅し発展することをみないで、世界の一面を固定して絶対化してしまいます。
 あるいは物質の運動の原動力が物質の内部にあることをみないで他のなにか絶対的なものによってあらかじめ規定されていると考えます。このような世界観としてまとめあげたものが形而上学です。

 このように世界の認識の仕方にもいろいろあるということです。



 この本のなかでは、世間の定説になっていない著者の自前の考えが披露されています。たとえば、生物の開放系と閉鎖系の矛盾、形態と生理、塁層的構造の二次系列、量子状態の偶然性などです。

 その例としまして、否定の否定の法則はいろいろと見解の多岐な部分があって、その意味でこの本の否定の否定の法則も一つの見解というべきものであります。
 そこでは、二度の否定の間の質的存在が古い質的存在にとって不可能である運動を可能にすること、いいかえればこの意味で否定の否定の過程は、一つの質的存在が、その質のままでは不可能な発展を可能にするという積極的な役割を持っていることを強調しています。

 世界は、常に進化・発展、繁栄していて、それが、いままでの自身の質を否定することによって実現しているということです。


 機械的決定論(宿命論)をのりこえることは、唯物論的弁証法を理解していくうえできわめて重要なことですが、このためには偶然性が客観的に存在することを認識することがキーポイントのように思われると著者は言っています。
 そのために量子的法則をもちだしてきたが、このような方法がよいかどうかは今後の問題であるとも言っています。


 最初は、私も偶然性を客観的に認めますとなんでも説明がつくように思いました。ものごとに連続性がなくてもそこに偶然が介在すると、あたかも連続を証明できてしまいます。
 偶然性は、事実を説明するとき、その因果関係の論理性を補完するオール・マイティのトランプでいうジョーカーのようだと思いました。

 しかし、量子力学における実験において素粒子が、二つのスリットのどちらを通り抜けるかがまったく論理的に説明できないとなりますと、確かにこの世の中は、偶然性も存在することを認めざるを得ません。
 この世界には、ある条件を与えれば、必ずこうなるということばかりではないということがわかります。

 物理の世界においてでさえ、こうですから、人や社会の世界では、こうすれば、必ずこうなるということは、さらにいうことができません。

 哲学というものは、やはりおもしろいですね。また、新たな生き方の発見ができたようです。




 そしてまた、「自然の哲学」(上) にもどってまいりました。
 この種の本は、何度読んでもそのたびに新しい発見や、以前学んだことが深まったり、
何のことかわからなかった言葉や概念が、他の概念と結びつき、こういうことだったのかとわかっていきますので、飽きがきません。

 上巻は、唯物論について書かれています。ここで著書から抜粋します。
 「自然観を論理的に整理した自然の哲学とは弁証法的唯物論である。このような意味で、この哲学は自然の現象に確固とした足場を持っている。
 さらに、この哲学のもとに、人間と社会に対する認識をきずきあげ、進んだ社会を作り上げていくためには、人間に対する深い認識が必要である。
 旧版の最後では、人間に特有な質が精神の自由であることを強調しておいた。人間と社会に関する理論は、人間に特有な質的特徴の認識の上に展開していかなければならない。」
とあります。

 人間と社会の問題は、そもそも「人間とはなんぞや」のところから出発しなければならないと書いてあります。
 とても興味深いですね。その成り立ちや起源がわかると、この成熟し、混沌とした世界で少しでも「どうあるべきか」がわかってくるから不思議です。

 それは、宇宙のように際限なく広くて深く、そして思い巡らせることが楽しくなります。






 再び、著書に戻りまして、次のように著者は言っています。

 「自然と社会にたいする一般的な、基本的な認識は、たんに友人とまともにしゃべるためにだけ必要なのではない。もし私たちがいまの社会よりいちだんとすぐれた社会をつくりあげようと思えば、自然や社会の一般的見方、基本的な認識、すなわち世界観を確かなものにしていく必要がある。
 これはきわめて大切なことである。なぜならば、日常の会話をひとことかわすときにも、私たちはたえず世界観にふみこむことを思いだしてみれば、よりよい社会をつくりあげていくために必要な方向を論ずる場合には、いっそう世界観にふれることが多いと考えられるからである。

 私たちの精神と外界をふくんだ世界全体にたいする見方を世界観という。世界観とは、自然、社会および人間の精神活動など全体にたいする見解である。
 世界観には二つある。一つは観念論で、もう一つは唯物論である。」

 ここでは、いまの社会よりも一段とすぐれた社会をつくりあげるためには、自然や社会および人間の精神に関する活動など全体に対する見解である世界観を確かなものにしていく必要があり、まさにここに哲学する意義を見い出すことができるということを強く認識しました。

 そして世界観には、考えや思いが第一義的なものであるとする観念論と物質の存在を第一義的なものとする唯物論があるとしています。







 私にとって、観念論か唯物論かということよりも、「よい社会づくりをする」というのが、企業の社会的存在意義すなわち役割であり理念(企業の存在目的)だと考えています。

 企業活動をするということは、単にお金を稼ぐという経済活動をするのではなく、社会全体をよくするために、よりよい商品を考えたり、よりよいサービスをお客様に提供することによって実現しようと考えています。

 「よい社会とはどんな社会?」という問いも当然出てきます。
私の考えるところのよい社会とは、平等とか自由とかお金に恵まれているということよりも、ある一定の普遍性のある価値観のもとに、社会の成員、一人ひとりが、毎日を喜びを込めて生きいきとすごしている状態をいいます。
 言いかえますと、このような社会という具体的な目的ではなく、こころの状態です。
 
 ここからすべての発想をしていきます。そうしますと、前回の雑感でのべました「デフレ」や今回の雑感の「自分さえよければ」というのはよい社会づくりに貢献しているとは思われません。

 私の家づくりの原点もここにあります。よい社会づくりを目指して商品と、人々のよい関係性(やさしい、あらそわない)づくりを目指しています。