10月7日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十八話 生物の進化」です。
雑感
突然ですが、近代社会(フランス革命以降)とは何でしょうか?いろいろな見方、考え方がありますが、「ヒトはモノを支配できてもヒトを支配できない」、「ヒトは誰にも支配されない」という自由・平等を一般市民が獲得したということでしょう。
このことは、ことのほか大きなことです。人類の進化・発展過程で自由を獲得したことは一見すばらしいことのようにみえますが、現代の世相を見てもわかりますとおり、自由と競争を前提とする資本主義との合流、科学技術の発達、それによる産業の発達で、この二〇〇年間余りで、企業も巨大金融機関に代表される自らも含めて誰にも制御できない化け物にまで発展しました。
そして一般市民も額に汗してものづくりをするのではなく、なるべく楽をして自分一人だけがよくなればよいというように、さも当然のように株や先物のような金融商品すなわちバクチに精を出しています。
そして、人々の心は調和とか、助け合いという心をどこかに忘れ去っているように見うけられます。そして、誰もが、われ先の欲のわなにはまってしまって心豊かな生活を送っている人は、少ないようです。
そうです。
われわれは、自由を手に入れた代償として、秩序の欠落した混沌とした世の中に暮らさなくてはいけなくなりました。
地球のキャパは変わりません。技術が発達すればするほど、ますますこの傾向は強くなり、人類共通の地球環境問題なども各国の対処の仕方を見ていましても、その方向性に納得いくものではありません。
しかしながら、このような現代に生きる一人の人間として学びを深め、自分から、自分の周りから少しでも改善していくのがわれわれの使命だと思います。
現代に生きる地球上の人すべて、とりわけエネルギー消費の高い、われわれ文明国の人たちの使命であるといえます。
本日の学び
今回は、生物の進化過程におきまして偶然性と必然性について学びました。生物の進化とは、それぞれの種が過去から現在にわたって不変なものでなく、たえず変化してきたことをいいます。
進化すること自身が生命の特徴であります。
地球自身も絶え間ない変化発展のなかにあります。
マグマの活動や数千万年の周期で規則正しくくり返されている造山運動などです。
その結果として、地上のあちこちに古い岩石と新しい岩石とが残されています。カナダやスウェーデンなどではきわめて古い岩石が見出されています。 ここで学んだのが、岩石や地球の年齢を測定する方法です。
どの岩石にもウラニウム238という放射性元素がわずかではありますが含まれています。一グラムのウラニウム238は、一年間にその七六億分の一グラムだけ崩壊して、鉛206になります。そこで、岩石中にありますウラニウム238に対する鉛206の割合を調べてみますと、何年前にこの岩石がつくられたかを知ることができます。カナダなどで見出された、ある古い岩石は三五億年前のものであると推定されたのです。 また、この方法で隕石を調べてみると地球の誕生は四六億年くらい前のことになります。
さて地球が誕生したころのしばらくの間の大気には、酸素がふくまれていなかったと考えられています。
実際二〇億年前の岩石には、雨風の作用を強くうけたあとがあるにもかかわらず、酸素の作用をうけたあとが残っていません。
このころの大気は、水蒸気を別にすれば、水素、炭酸ガス、一酸化炭素の他に、窒素、硫化水素、塩化水素をふくんだものでした。
これらが太陽の紫外線や雷による放電の作用をうけて化学反応をおこし、その結果、アミノ酸や糖などの複雑な有機化合物(炭素の化合物)が生じていきました。
無生物的につくられました有機化合物は、当時あまり大きくない海などでしだいに濃縮され、ここで多くの反応をくり返し、たんぱく質などを生成して、さらに高度なものに発展していきました。
こうして、ついに生命活動を営むものが出現したと考えられています。
ちなみに、一〇億年前の岩石には酸素の作用をうけたあとがあって、鉄が赤く酸化しています。
この一〇億年間の間に、遊離酸素が海水および大気中にしだいに蓄積されていきました。ここで主役を演じたのが藻類でした。藻類はその葉緑素のなかで吸収した太陽光線のエネルギーを用いて炭酸ガスと水から糖をつくり、この際、酸素を放出します。これを光合成といいます。
さて多くの動物は、体内のブドウ糖などを酸素を用いて低温で燃焼させ、このエネルギーによって生命活動を展開しています。
生命活動にエネルギーが必要であるのはいうまでもないことでして、酸素のない時代の生物とて事情は変わりません。
この場合、生物は、遊離した酸素を用いないで、有機化合物の分子を用いて有機化合物の分子を酸化し、エネルギーを得ていました。
このような無酸素的な分解反応を発酵といいます。
発酵によってエネルギーを得ています細菌のうち現在生存しているものとしましては、土壌細菌であるクロストリディウム、ガス壊疽(えそ)菌、破傷風菌、食中毒を起こすボトリヌス菌などがあげられます。これらの菌は、遊離酸素のもとでは生存することが困難かまたは不可能です。多くの場合、大気圧の数百分の一の酸素ですでに大きな害をうけます。このような生物を嫌気性生物と呼んでいます。
さて、海中、大気中の酸素濃度が高まるにつれて、エネルギーを得るうえで酸素を利用する生物、すなわち好気性の生物があらわれはじめました。好気性生物は、嫌気性生物のひきつづいた発展として出現しました。これはきわめて重要な生物の発展でした。
まず、酸素による呼吸は、発酵にくらべて一九倍もエネルギーを多量に放出することができます。このことによりまして、生物はいちだんと活動的になることが可能になります。やがて海の中には植物に依存して生活する動物がきわめて多種類にわたって繁栄するようになりました。地上には酸素にみちた大気が用意されていました。
次に起こったのが生物の上陸でした。植物はすでに一〇億年前から上陸していたようですが、四億年前ころになって、まずシダの類が繁りはじめ、つぎに、これらを食物とする昆虫や多足類があらわれました。
ついで、これら昆虫をえさとするクモの類が活動を始め、さらにいずれをもえさとするカエルなどの両生類が上陸しました。上陸した生物は、いっそう活動的となってついに哺乳類があらわれ、人類の誕生となったのです。
このような進化の過程はあらかじめ決められていたのでしょうか?
そうではなくて一つひとつの段階が次の段階を可能にしたにすぎないにもかかわらず、全体として進化がもたらされたのです。生物の進化の過程は、この世界に必然性とともに偶然性が存在することを認め、その両者の絡み合いを前提として、はじめて理解しうるものです。
そのような目で生物の進化を考えて見ることにしましょう。
生物の個体の特徴は何世代も通じて変わらず伝えられており、これを遺伝と呼ぶことはよく知られています。個体の細胞にはDNAというきわめて長い分子があります。
この分子は情報のにない手すなわち一種の情報系でして人の場合では六〇億個の塩基系列が、対になったものです。
DNAの塩基の列は、タンパク質を合成するための情報系です。合成されたタンパク質はいろいろな細胞内の器官をつくり、やがて細胞は分裂して増殖します。増殖した細胞は個体を形成します。
このDNAが変化すれば、個体の特徴もまた変化し、いわゆる突然変異と呼ばれる現象が生じます。DNAは安定したものです。安定したものであるからこそ、子は親に似ており、イヌからはイヌの子が、ネコからはネコの子が生まれる。しかし、DNAはまったく不変なものではありません。まったく不変であれば、大昔から生物の種類はまったく変わらなかったでしょう。したがって生物の進化などはありえなかったはずです。
遺伝子には複製ごとに複製ミスがあって、突然変異が生ずるため、同じ種に属する個体であってもそのDNAは必ずしも同一でなく、幅があります。また遺伝子のなかには、DNAのなかのあちこちに移っていって、DNAの一部に入り込むものもあります。
このようなことに結果としてもとのDNAとは幾分異なるDNAが生じます。
このDNAの変化を変異といいます。
大切なことは、このような変異があっても、個体としての生存能力、すなわちどれだけ個体として生存してその子孫を残すかという能力にはほとんど違いがないということです。
この変異自身は直接には進化をひきおこしません。
このことを変異は進化に対して中立であるといいます。
進化の道筋として以下のような経過を推定することができます。
まず、DNAの複写のあやまりなどによって、偶然に表現形(遺伝に直接あずかる塩基対は数パーセントで、その情報が個体の形質として表現されていきますのでこれを表現形という)に変異が起こります。
この変異の表現形には生存競争の上で能力差はあまり大きくはありません。
この変異が比較的短期間のうちに偶然事象、すなわち遺伝的浮動によって、個体集団に成長し、たまたま自然的条件の変化で、変異した浮動と淘汰をくり返して、生物は次第に進化してきました。
それでは、偶然性と必然性についてですが、必然性と偶然性は、一つの事物の具体的な変化発展の過程にみられる二つの面、二つの事象あるいは二つの事態であって、互いに不可分に結びついています。
偶然性をともなわないで必然性だけがあらわれることもありません。
その反面、偶然性が偶然性であるのは、その事物の具体的な運動のなかの必然性に入り込んで、これにともなわれているからであって、必然性がなければ偶然性もばらばらになってしまい、事物の過程で働く役割を失ってしまいます。
こうして偶然性と必然性は事物の運動のなかで、他方の存在を前提してはじめてその存在をたもつことができます。
放射性原子核からの放射線の放出はまったく偶然的です。
また、放射性元素が半分の量にまで崩壊する時間は、どの放射性元素をとっても、その量によらず一定です。
これはすなわち、放射性元素の崩壊過程にあらわれた必然性です。
この崩壊の様式をよく調べてみますと、個々の原子のうち、どの原子の原子核が崩壊するかまったくきまっていません。それは偶然です。原子・分子の世界では、偶然性が見かけとしてではなく、それ自身として存在しています。
事物の変化発展の過程が必然性と偶然性の統一であるとすれば、このことは生物の進化にもいえます。生物の進化の歴史を、必然性と偶然性の統一として具体的にみてはじめて、無理なく深く理解することできます。
以上が、本の内容です。さて、ここから私が学んだことは、宇宙が今から一三七億年前に誕生し、太陽系すなわち地球が四六億年前に誕生し、無機質のみであったものから生物が出現してきた過程を知ることにより、宇宙も地球も生物も必然性と偶然性の統一により、進化発展してきたということです。
これからの未来も、同じような過程を経て進化発展していくでしょう。
また、遺伝子やDNAには複写ミスなどで突然変異を起こしますが、種として見るかぎりでは、その時代に適用できてそんなに大きな変化がなく進化していくだろうということも推測できます。
一方で、人類が誕生してからはたったの七〇〇万年ぐらいしかたっておりませんのでここらで質的変化を起こすとも考えられます。
弁証法的に見ますと、人類もまったく別の質のものに変化するという可能性も捨て切れません。
現在、世界は大きな変化に直面していますが、歴史におけるどのサイクルの変化であるかを見極めることはなかなか難しいものです。いろいろな可能性をさぐりながら、前向きに生きていくのがいちばんよさそうです。
雑感
突然ですが、近代社会(フランス革命以降)とは何でしょうか?いろいろな見方、考え方がありますが、「ヒトはモノを支配できてもヒトを支配できない」、「ヒトは誰にも支配されない」という自由・平等を一般市民が獲得したということでしょう。
このことは、ことのほか大きなことです。人類の進化・発展過程で自由を獲得したことは一見すばらしいことのようにみえますが、現代の世相を見てもわかりますとおり、自由と競争を前提とする資本主義との合流、科学技術の発達、それによる産業の発達で、この二〇〇年間余りで、企業も巨大金融機関に代表される自らも含めて誰にも制御できない化け物にまで発展しました。
そして一般市民も額に汗してものづくりをするのではなく、なるべく楽をして自分一人だけがよくなればよいというように、さも当然のように株や先物のような金融商品すなわちバクチに精を出しています。
そして、人々の心は調和とか、助け合いという心をどこかに忘れ去っているように見うけられます。そして、誰もが、われ先の欲のわなにはまってしまって心豊かな生活を送っている人は、少ないようです。
そうです。
われわれは、自由を手に入れた代償として、秩序の欠落した混沌とした世の中に暮らさなくてはいけなくなりました。
地球のキャパは変わりません。技術が発達すればするほど、ますますこの傾向は強くなり、人類共通の地球環境問題なども各国の対処の仕方を見ていましても、その方向性に納得いくものではありません。
しかしながら、このような現代に生きる一人の人間として学びを深め、自分から、自分の周りから少しでも改善していくのがわれわれの使命だと思います。
現代に生きる地球上の人すべて、とりわけエネルギー消費の高い、われわれ文明国の人たちの使命であるといえます。
本日の学び
今回は、生物の進化過程におきまして偶然性と必然性について学びました。生物の進化とは、それぞれの種が過去から現在にわたって不変なものでなく、たえず変化してきたことをいいます。
進化すること自身が生命の特徴であります。
地球自身も絶え間ない変化発展のなかにあります。
マグマの活動や数千万年の周期で規則正しくくり返されている造山運動などです。
その結果として、地上のあちこちに古い岩石と新しい岩石とが残されています。カナダやスウェーデンなどではきわめて古い岩石が見出されています。 ここで学んだのが、岩石や地球の年齢を測定する方法です。
どの岩石にもウラニウム238という放射性元素がわずかではありますが含まれています。一グラムのウラニウム238は、一年間にその七六億分の一グラムだけ崩壊して、鉛206になります。そこで、岩石中にありますウラニウム238に対する鉛206の割合を調べてみますと、何年前にこの岩石がつくられたかを知ることができます。カナダなどで見出された、ある古い岩石は三五億年前のものであると推定されたのです。 また、この方法で隕石を調べてみると地球の誕生は四六億年くらい前のことになります。
さて地球が誕生したころのしばらくの間の大気には、酸素がふくまれていなかったと考えられています。
実際二〇億年前の岩石には、雨風の作用を強くうけたあとがあるにもかかわらず、酸素の作用をうけたあとが残っていません。
このころの大気は、水蒸気を別にすれば、水素、炭酸ガス、一酸化炭素の他に、窒素、硫化水素、塩化水素をふくんだものでした。
これらが太陽の紫外線や雷による放電の作用をうけて化学反応をおこし、その結果、アミノ酸や糖などの複雑な有機化合物(炭素の化合物)が生じていきました。
無生物的につくられました有機化合物は、当時あまり大きくない海などでしだいに濃縮され、ここで多くの反応をくり返し、たんぱく質などを生成して、さらに高度なものに発展していきました。
こうして、ついに生命活動を営むものが出現したと考えられています。
ちなみに、一〇億年前の岩石には酸素の作用をうけたあとがあって、鉄が赤く酸化しています。
この一〇億年間の間に、遊離酸素が海水および大気中にしだいに蓄積されていきました。ここで主役を演じたのが藻類でした。藻類はその葉緑素のなかで吸収した太陽光線のエネルギーを用いて炭酸ガスと水から糖をつくり、この際、酸素を放出します。これを光合成といいます。
さて多くの動物は、体内のブドウ糖などを酸素を用いて低温で燃焼させ、このエネルギーによって生命活動を展開しています。
生命活動にエネルギーが必要であるのはいうまでもないことでして、酸素のない時代の生物とて事情は変わりません。
この場合、生物は、遊離した酸素を用いないで、有機化合物の分子を用いて有機化合物の分子を酸化し、エネルギーを得ていました。
このような無酸素的な分解反応を発酵といいます。
発酵によってエネルギーを得ています細菌のうち現在生存しているものとしましては、土壌細菌であるクロストリディウム、ガス壊疽(えそ)菌、破傷風菌、食中毒を起こすボトリヌス菌などがあげられます。これらの菌は、遊離酸素のもとでは生存することが困難かまたは不可能です。多くの場合、大気圧の数百分の一の酸素ですでに大きな害をうけます。このような生物を嫌気性生物と呼んでいます。
さて、海中、大気中の酸素濃度が高まるにつれて、エネルギーを得るうえで酸素を利用する生物、すなわち好気性の生物があらわれはじめました。好気性生物は、嫌気性生物のひきつづいた発展として出現しました。これはきわめて重要な生物の発展でした。
まず、酸素による呼吸は、発酵にくらべて一九倍もエネルギーを多量に放出することができます。このことによりまして、生物はいちだんと活動的になることが可能になります。やがて海の中には植物に依存して生活する動物がきわめて多種類にわたって繁栄するようになりました。地上には酸素にみちた大気が用意されていました。
次に起こったのが生物の上陸でした。植物はすでに一〇億年前から上陸していたようですが、四億年前ころになって、まずシダの類が繁りはじめ、つぎに、これらを食物とする昆虫や多足類があらわれました。
ついで、これら昆虫をえさとするクモの類が活動を始め、さらにいずれをもえさとするカエルなどの両生類が上陸しました。上陸した生物は、いっそう活動的となってついに哺乳類があらわれ、人類の誕生となったのです。
このような進化の過程はあらかじめ決められていたのでしょうか?
そうではなくて一つひとつの段階が次の段階を可能にしたにすぎないにもかかわらず、全体として進化がもたらされたのです。生物の進化の過程は、この世界に必然性とともに偶然性が存在することを認め、その両者の絡み合いを前提として、はじめて理解しうるものです。
そのような目で生物の進化を考えて見ることにしましょう。
生物の個体の特徴は何世代も通じて変わらず伝えられており、これを遺伝と呼ぶことはよく知られています。個体の細胞にはDNAというきわめて長い分子があります。
この分子は情報のにない手すなわち一種の情報系でして人の場合では六〇億個の塩基系列が、対になったものです。
DNAの塩基の列は、タンパク質を合成するための情報系です。合成されたタンパク質はいろいろな細胞内の器官をつくり、やがて細胞は分裂して増殖します。増殖した細胞は個体を形成します。
このDNAが変化すれば、個体の特徴もまた変化し、いわゆる突然変異と呼ばれる現象が生じます。DNAは安定したものです。安定したものであるからこそ、子は親に似ており、イヌからはイヌの子が、ネコからはネコの子が生まれる。しかし、DNAはまったく不変なものではありません。まったく不変であれば、大昔から生物の種類はまったく変わらなかったでしょう。したがって生物の進化などはありえなかったはずです。
遺伝子には複製ごとに複製ミスがあって、突然変異が生ずるため、同じ種に属する個体であってもそのDNAは必ずしも同一でなく、幅があります。また遺伝子のなかには、DNAのなかのあちこちに移っていって、DNAの一部に入り込むものもあります。
このようなことに結果としてもとのDNAとは幾分異なるDNAが生じます。
このDNAの変化を変異といいます。
大切なことは、このような変異があっても、個体としての生存能力、すなわちどれだけ個体として生存してその子孫を残すかという能力にはほとんど違いがないということです。
この変異自身は直接には進化をひきおこしません。
このことを変異は進化に対して中立であるといいます。
進化の道筋として以下のような経過を推定することができます。
まず、DNAの複写のあやまりなどによって、偶然に表現形(遺伝に直接あずかる塩基対は数パーセントで、その情報が個体の形質として表現されていきますのでこれを表現形という)に変異が起こります。
この変異の表現形には生存競争の上で能力差はあまり大きくはありません。
この変異が比較的短期間のうちに偶然事象、すなわち遺伝的浮動によって、個体集団に成長し、たまたま自然的条件の変化で、変異した浮動と淘汰をくり返して、生物は次第に進化してきました。
それでは、偶然性と必然性についてですが、必然性と偶然性は、一つの事物の具体的な変化発展の過程にみられる二つの面、二つの事象あるいは二つの事態であって、互いに不可分に結びついています。
偶然性をともなわないで必然性だけがあらわれることもありません。
その反面、偶然性が偶然性であるのは、その事物の具体的な運動のなかの必然性に入り込んで、これにともなわれているからであって、必然性がなければ偶然性もばらばらになってしまい、事物の過程で働く役割を失ってしまいます。
こうして偶然性と必然性は事物の運動のなかで、他方の存在を前提してはじめてその存在をたもつことができます。
放射性原子核からの放射線の放出はまったく偶然的です。
また、放射性元素が半分の量にまで崩壊する時間は、どの放射性元素をとっても、その量によらず一定です。
これはすなわち、放射性元素の崩壊過程にあらわれた必然性です。
この崩壊の様式をよく調べてみますと、個々の原子のうち、どの原子の原子核が崩壊するかまったくきまっていません。それは偶然です。原子・分子の世界では、偶然性が見かけとしてではなく、それ自身として存在しています。
事物の変化発展の過程が必然性と偶然性の統一であるとすれば、このことは生物の進化にもいえます。生物の進化の歴史を、必然性と偶然性の統一として具体的にみてはじめて、無理なく深く理解することできます。
以上が、本の内容です。さて、ここから私が学んだことは、宇宙が今から一三七億年前に誕生し、太陽系すなわち地球が四六億年前に誕生し、無機質のみであったものから生物が出現してきた過程を知ることにより、宇宙も地球も生物も必然性と偶然性の統一により、進化発展してきたということです。
これからの未来も、同じような過程を経て進化発展していくでしょう。
また、遺伝子やDNAには複写ミスなどで突然変異を起こしますが、種として見るかぎりでは、その時代に適用できてそんなに大きな変化がなく進化していくだろうということも推測できます。
一方で、人類が誕生してからはたったの七〇〇万年ぐらいしかたっておりませんのでここらで質的変化を起こすとも考えられます。
弁証法的に見ますと、人類もまったく別の質のものに変化するという可能性も捨て切れません。
現在、世界は大きな変化に直面していますが、歴史におけるどのサイクルの変化であるかを見極めることはなかなか難しいものです。いろいろな可能性をさぐりながら、前向きに生きていくのがいちばんよさそうです。