心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

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真理とは何か

2011年01月31日 | 哲学
 1月12日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第十話「真理とは何か」です。



雑感
 日本という国
 昨年は、中谷 巌氏の「日本の復元力」から、日本人のルーツを学びました。

 そこでは、西洋のいき過ぎた個人の自由、すなわち、神や共同体、自然の呪縛から逃れるところからでてくる近代合理主義、その結果、個人の欲望をますます認め、全面的に正当化してきたところから生まれてきた民主主義、市場原理主義、競争市場主義。
 そして、いまや、それがそれぞれの国家の統制が及ばないグローバル資本主義が世界を覆っているという事実。
 そのいけいけどんどんが、本当に人びとに幸せをもたらしているのだろうか、という疑問が、閉塞感となって日本の国に蔓延しています。
 
 そんな世界を違った考え方で見たり、考えたりするときに日本人のアイデンティティ、すなわち、佐伯啓思氏の仏教的な無常観、武士道的な義務感、儒教的な『分』の思想、神道的な清明心など、個人の欲望を抑え、自然や他人と調和や尊敬を大事にする考え方を持った日本人のルーツのなかに、これからの世界のあり方のヒントがあるというものでした。


 確かに、理想は世界中が仲良くして、有限な物資を分かち合い、精神的には支えあい、愛し合い、世界中が平和で人びとが幸せになるというものでしょう。


 それはそれとして、今日の世界を見ますと、アメリカもヨーロッパもサブプライムローンの後処理に莫大なお金とエネルギーをつぎ込み、かたや中国を筆頭にアジアの成長、活力には、眼を見張るものがあります。

 わが日本はどうでしょうか?あまりにも内向き、嵐が過ぎるまでじっとしている、国民は、国が何とかしてくれる、国は経済界が自主的に何とかしてくれる、経済界は、世界、とりわけアジアの急激な発展からの仕事が舞い込んでくると他人まかせ、これで日本の将来はあるのでしょうか。

 日本と世界とはあまりにも温度差がありすぎて、何もしないでじっとしていると数年後には浦島太郎になってしまう可能性がでてきます。

 今のトレンドは、積極的に根本から世界を進化、発展させていくことです。

 いろいろな支障や先ほどの日本人のルーツにとらわれることなく、理想を目指して、個人の欲望をむき出しにするのではなく、日本全体、世界全体のために積極的に経済活動をはじめとする行動を起こさなければなりません。

 海外で貢献しようとする人はそれでよいですし、国内で貢献しようとする人もそれでよいと思います。とにかく、積極的に、内向きにならないで、行動することが、今は一番望まれています。

 今年は、昨年と同じような考え方(様子をみる)や、動き方(消極的)をすると、3年後には取り返しのつかない状態になっているかもしれません。





本日の学び
本話より抜粋
 真理とは、もともと私たちが得た認識が真であるときの認識の内容のことであった。

 私たちの立場、すなわち唯物論の立場にたてば、真であるとは認識の内容が客観的世界と一致することである。
 そうは言うものの、私たちの外界にたいする認識の可能性、その真偽の検証方法など、真理を巡って多くの問題が存在する。

 さて、私たちが外界を認識するときには、第九話でものべたように、それぞれの脳のなかに、外界を観念という形で構成しているが、よく考えてみると、このままでは観念的に構成された結果が、外界の客観的事実のとおりになっているかどうかはわからない。
 
 意識の内容は、外界に対応したものであるとはいいながらも、ほんとうに正しく反映構成しているかどうかわからない。
 また、もし意識の内容の正しさを検証する方法を見いだすことができなければ、意識が外界に対応していると称してもそれはいわば独り合点であって、このままでは結局、意識の内容を外界から切りはなしてあつかっていることに等しいであろう。

 唯物論の立場では、地球の公転運動の発見のように、思考の到達した結論が、外界と合致したというような考え方に反対する。

 唯物論での立場では、客観的事実を認め、認識の内容はこれに対応したものであるという考え方をとっているので、経験的事実から出発して思考によって獲得された結論が、客観的実在の存在様式と合致するかどうかが大切な問題になってくる。

 このように客観的実在と合致する観念のことを真理という。


 したがって真理とは、外界に間違いなく対応している意識の内容、すなわち観念である。真理とはその意味がきわめて明白な概念である。それは私たち自身の頭脳のなかに厳然としてあるものであって、はるか遠い山のかなたにかすんで存在するものではない。

 われわれは、この世に生まれてからこのかた、数多くの経験を重ね、知識を習得し、思考をくり返してきた。

 その結果、われわれの頭のなかには、自然と社会、意識現象にかんするさまざまな認識内容が、どっさり積まれている。そして、このどっさり積まれている観念全体から、あれこれと予測して、その予測にもとづいた実践が展開されていく。
 
 そして、私たちは、実践によって、私たちの認識内容が外界をただしく反映したものであるかどうかを検証することができる。
 いいかえれば真理であるか否かは実践によって検証することができる。
 実践による真理の検証、これこそが意識と物質(すなわち客観的存在)との関係をあたえるもう一つの面なのである。

 さて、このようにして真理はその正しさを検証されたとき、真理は客観的実在に合致している。
 
 真理はかならずだれかの頭脳のなかに存在するものであって、その意味で主観的なもののように見えるが、客観的実在を正しく反映した真理は、けっして主観的なものではなく、客観的なものである。

 このような客観的実在を正しく反映している真理のことを客観的真理という。
 あるいはこれを唯物論的真理と呼んでもよい。

 外界は、かならずしもただしく意識に反映されるわけではないが、その意識の内容は、実践を通じて検証され、ある部分は、ただしいことがわかり、ある部分は、修正される。

 このようなダイナミックな関係にたえずおかれているもの、これが意識と外界の物質との関係である。
 
 このダイナミックな関係は、外界を変革する存在としての人間の生命活動の端的なあらわれである精神の能動性、とくに意識の先行性にもとづいている。

 さきにのべたところにしたがえば、自然の発展の頂点において生み出された人間の今日における役割は、とほうもなく長い時間をへて、たえず発展してきた物質的自然の今後の発展のテコとしてはたらくところにある。

 この人間の役割、すなわち今日における物質的自然の発展を保証するという役割が、実践をとおした意識と客観的実在とのダイナミックな関係をとおして果たされていくのである。

 こうして、私たちの頭のなかに、外界をただしく反映、構成したものがつみ重ねられていく。

 外界にただしく反映、構成したもの、外界をただしく認識した意識の内容、すなわち真理が形成されていく。
 さて私たちは、日頃から数多くの経験をつみ重ね、これらの経験についてたえずよく考えることによって、ものごとに関する認識をしだいに発展させている。

 いいかえれば、私たちの頭脳のなかに存在する真理はしだいに増大していく。
 このように真理はたえず変化している。
 いうまでもないが、私たちは、どのような場合でも、対象を完全に認識しつくすことはできない。

 さらに、客観的事実自身もまた変化発展しているのが普通である。
 したがって、私たちが獲得する真理は、つねに部分的な限界のある真理である。

 このことを真理の相対性、またこのときの真理を相対的真理という。

 真理がつねに相対的であるからといって、その内容がけっしていい加減なものではないということである。

 私たちが得るものは部分的な真理であって、この意味で相対的ではあるが、その部分に関しては客観的で正しい真理である。

 このことを真理の絶対性という。

 真理は部分的という意味では相対的で、その部分に関する限り客観的で正しいという意味で絶対的である。(例:ニュートン力学と相対性理論)

 相対的真理がつみ重ねられるにつれて、相対的真理はその内容が豊かになって、しだいに完全なものに近づいていく。
 
 客観的実在のさまざまな面はかぎりなく多く、また、たがいに無限にからみあっている。

 したがって、相対的真理が、完全な真理にたっすることはない。
 人間は外界を認識しつくすことはないが、どこまでも認識をすすめていくことができる。






 実践による検証をとおして、私たちはどこまでも対象を一歩一歩深く認識していくことができることをのべた。

 いわばこれは私たちの認識の無限の可能性に関することである。

 このような無限の可能性は、世界のすべての物質がたがいに密接な関連のもとにあるという事実にその根拠をもっている。この認識の無限性が、私たちの事物の認識の上でたいへん重要な役割をもっている。
 
 アイディアを生み出すとき、強い課題意識は、問題としている対象をかならず認識できるはずだと確信しているときにあらわれるのであって、この深い確信は、結局のところ認識の無限の可能性にたいする理解にもとづいていることが多い。
 
 可能であることが一度示されると、オリンピックの世界新記録に達する記録がぞくぞくと生まれてくる。

 可能であることを見出したとき、わたしたちははるかに容易におこなうことができる。


 本日学んだことは、われわれ人間は、まず、意識と外界の物質とのダイナミックな関係を知り、そしてそのダイナミックな関係は、外界を変革する存在としての人間の生命活動の端的なあらわれである精神の能動性、とくに意識の先行性にもとづいていることを学びました。

 そして自然の頂点に立つ人間の役割は、世界の物質的発展を保障するということです。

 したがって、われわれは、何もしないでじっとしているというのは、人間的でなく、常に、自然や社会などの外界を自分自身の意識をとおして、社会をよくするためにダイナミックに予測したり、検証したりすることが、本質的な人間の生命活動(精神の能動性、意識の先行性)であるということを学びました。
 
 われわれには、この社会や自然を発展させていくことが、自然全体から考えると、私たち一人ひとりの役目であることが認識できました。
 
 そして、認識については、世界のすべての物質が密接な関連のもとにあるという根拠をもとに無限の可能性があることを知りました。
 
 ということは、強く思えば、必ず思いは達成され、それで世界は進化発展していくのだということも学びました。
 
 これこそが、自然における人間の本質的な役割だということです。





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観念と意識のはたらき

2011年01月08日 | 哲学
 12月15日(水)哲学学習会を会社で実施しました。

 参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第九話「観念と意識のはたらき」です。



雑感

 鬼に金棒

 先日、ネッツトヨタ南国の相談役、横田英毅さまのお話を聞くことができました。
 お話の中からたくさん学ぶことができました。
 
 横田さまのお話は、机上論ではなく、実際経営をされる中ででてきたことでありますし、また2008年のリーマンショックでも業績を伸ばしつづけてこられたという実績があります。
 
 この車の売れない時節に業績を伸ばすということは、何か人の心をとらえる本質的なものがない限りできるものではありません。
 
 ということで、私がなにを学んだかと申しますと、「経営とは、何かを変え続けること」、「対処ではなく解決」、「人間性尊重とは、考える、発言する、行動する、反省する、笑う、役に立つ、感動する、目的をもつ、目標をもつなど、人間にしかできないことをちゃんとするということ」、「他人に必要とされることが人間性尊重」、「鬼に金棒」、「顧客満足と顧客感動の違い」です。
 
 
 「対処ではなく解決」では問題が生じたときに、表面上つくろってやりすごすのではなく、真の原因を探り出し、根源からそのもとを断つようにすること、人間が、人間たる証を実現しながら生きていくこと、「鬼(人間性)に金棒(仕事力)」では、人間性を成長させることを重視していることです。

 「顧客満足と顧客感動の違い」では顧客満足は、お客様と約束したことを100%すること。
 顧客感動は、お金やモノではなく、工夫をして心に訴えかけるものということです。




 
 このように、経営とは、短期の利益を追求したりノウハウやテクニックにたよって急場しのぎをするのではなく、常に本質的な対処をすることが、人のやりがいを高め、それが、結果として業績につながるということです。
 これらのことを身をもって実践していきたいと思いました。



本日の学び
本話より抜粋
 観念とは脳のなかの物質的変化が示す客観的内容である。
 このいみはどういうことであろうか。
 また意識は現実に先行する。
 その理由は意識のなかに客観的実在の固有の法則がとらえられていることによる。

 本日学んだことは、現象、観念、意識、精神の関係です。

 人は、どのようにして外界に向かってはたらきかけ、変革しようとするのでしょうか。
 
 未来を予測するなどの人間の独自の特徴は、どのような過程で実行されるのでしょうか。
 
 まず、言葉の意味を確認しておきましょう。

 
 現象(外界)とは、観察されうるあらゆる事実であり、現実に起こっていること。

 
 観念とは、脳のなかの物質的変化が示す客観的内容にとどまらず、全体としてあるなにものかを意味しているのであって、このなにものかを観念と呼んでいる。
 
 このなにものかのなかみは、あるいは客観的世界に対応したもののこともあれば、思考によって得られたものであることもある。
 
 この脳のなかの物質的変化(原子・分子の状態の変化)が外界のなにかをあらわす脳のなかの記号(言語)に対応している。
 人間の発展のなかで脳の物質的変化全体が、外界の存在物や概念などと対応するようになったこと自身が重要なことである。

 認識について
 私たちが外界を認識するとき、私たちの脳はたんに外界からの情報をうけとり、そのまま認識するのではなく、外界の情報とすでに私たちが脳のなかに持っている情報や考え方などを材料として認識内容を構成しているということである。
 
 ここではすでに獲得している考え方や記憶の内容をかりに認識素材と呼ぶことにする。

 本能もまた長い進化の過程で外界にたいする能動的な反映として獲得されたものである。

 これらの認識素材と外界からの情報を合作するところに認識のはたらきの能動性がある。

 人は観念という形で外界を意識する
 脳のなかの物質的変化が生じてはじめて私たちはイヌを思い浮かべることができる

 観念は意識の内容である

 私たちの観念は、自然や社会の現象のある瞬間瞬間の断面に関する個々別々のものから、さらにすすんでこれらの内容の関連自身もまた観念として意識のなかに形成されていく。

 意識とは、人間は外界に向かってはたらきかけ、これを理解し、これを変革するようになったが、この活動のなかで決定的な役割を果たすのが意識である。

 人の意識のはたらきは外界を反映構成するものだというのが適当であろう。

 人は外界にたいする観念を用いて構成し、客観的実在の固有の法則を理解し、このような理解にもとづいて、外界の可能な変化を認識し、人間にとって必要な方向に変革する方法を見いだしている。

 

 精神について
 人はまずその最初の段階としての猿人は道具を製作しはじめ、社会的協同作業を重ね、言語を発展させてきた。脳の発達はいちじるしく、外界をひろく深く認識することができるようになった。
 
 こうして社会が発展して能動的なはたらきをおこなう意識、とくに科学や芸術などの高次のはたらきを行う意識、すなわち精神がきわめて積極的なはたらきをおこなうようになった。

 生命のない無機質的自然の長い変化、発展のなかから生命が生まれ、生きた存在としての生物のこれまた長期間にわたる生物進化の頂点として、人間に至って社会が生まれ、ついに意識・精神がつくりだされた。

 人間と社会と意識・精神は、とほうもなく長い間の物質的自然の歴史的な発展の所産なのである。

 自然はそのとほうもなく長い歴史をへたあと、新しい段階に突入するにいたった。
 それが能動的な意識の発生であり、意識的変革という自然の新しい発展の仕方の誕生である。

 人間は、自然と社会を意識的に変革していくことができるはじめての存在である。
 そしてそのなかで決定的な役割を果たすのが、意識・精神の能動性である。


と著者はいっています。
 これを私なりにまとめますと次のようになります。





 現象→(認識)→観念→意識→精神、この概念を理解すると人間がどのようにして進化してきたのか、すなわち私たち人間しか、社会や自然を変革していくことができないということがよくわかりますね。

 今の世界を見れば、個人や国家という単位で、全体の利益を考えずに自分たちの都合のよいようにばかり、変革してきているのがよくわかります。
 
 そうしますと、私たちのすべきことが明確になってきます。
 
 世界が平和に、人類全体が共存・共栄でき、一人ひとりが喜びを込めて生きいきと生きていけるように社会や自然を変革していくのが、私たちの役目ではないでしょうか。

 
 それにしましても、認識の奥にある、私たちが獲得してきた考え方や記憶の内容すなわち、認識素材と、意識の奥にある、考えの奥深くにあるイデオロギー、道徳、宗教、国や民族という意識素材が世界の変革に大きな影響を及ぼしていることがわかりました。

 そして世界全体が「よい世の中にしよう」という理念をもたない限り、多様性の共生というものは言葉ばかりで現実には、逆方向に働き、収拾のつかない世界になっていきます。

 世界をよい方向へ導くためには、人間が生まれたときからの正しい教育が必要ですし、われわれ自身がそれを身をもって示すことが重要であることがわかりました。


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