心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

原子の世界の法則

2009年07月21日 | 哲学



 7月15日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、7名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十五話 原子の世界の法則」です。

 現代は、ポスト・モダン(近代後期)であると指摘する社会学者もあります。ひとことで言いますと「再帰性」=「不作為もまた作為なり」、「するも選択、せざるも選択」という等価性のただ中に我々が立たされてしまうのが、この時代です。
(作為=積極的な行為・動作または挙動)
 この背景には、産業革命(1760年ごろ)以来の科学技術の著しい発展や人々の市民権獲得や人権意識の高揚などの歴史的な量的変化に伴い、社会の複雑化、多様化、流動化があります。
 しないことも自分で選択していますから、結局は、することもしないことも再び自分に戻ってきて、自分できめているということで「再帰性」です。
 現代は、すべて個人が自由に判断できます。しかし、自分が自由に決めたことや実行したことは、社会を通じて自分に返ってきます。社会の質を上げたり、社会の秩序を保とうとすることもできますし、自分の好きなように自分だけのことを考えて行動することも可能です。このような、人間と社会が成熟してきた段階でいかに生きていくか、今は正に、このことを学ばなければいけません。
 昔のように、「こうあるべきだ」と、一方的に押しつける社会は希薄になってきましたが、その反面、誰もがこうあるべきといってくれなくなったときには、全て自分の言動については、自分で責任をとらなくてはならず、たいへん高い人格が要求されているといってもよいでしょう。


 今回の学びは、物質を細分し、しだいに微量にしていくと原子に到達します。原子の運動法則は前回の石ころの運動法則とはまったく質的に異なっています。
(原子の大きさは、約一億分の一センチメートル)

 まず、どこが違うかといいますと、石ころはその位置と運動方向および速さを与えることによって運動状態を確定できます。すなわち、人間が投げるなどして、飛んでいる状態の石ころはどの瞬間にあっても、定まった位置にあって、確定した速さを有しています。



 原子の中の電子は、どの瞬間においても、ある範囲の位置に同時に存在し、ある範囲の速さを同時にとっています。
 これはちょっと違うどころではありません。あまりにも異質です。このような物質の状態を量子的状態といい、これに対して、石ころなどの状態を古典的状態といいます。


 位置と速さをグラフで示すとこのようになります。
  
       
第1図)石ころなどでは、どの瞬間にあっても、粒子の位置と速さがきまった値をとっているので、各瞬間ごとにこのグラフ上の一点で示されます。
第2図)たとえば一定の速さでとんでいる石ころは、図のように横に伸びた一本の直線で示されます。
第3図)量子的状態の場合には、図のようにどの瞬間においても、粒子はある範囲の位置に同時にあって、ある範囲の速さを同時にとっています。

 第3図における特に大切な点は、速さと位置のひろがりの面積に下限があるという点です。
 もう一つ注意すべきことがあります。それはひろがりの面積が粒子の質量の増大とともに小さくなることです。その結果、電子のように小さな質量を持つ粒子の場合には、このひろがりはある大きさに達して、このため粒子の運動状態が位置と速さのグラフ上で有限なひろがりをもっていることをつねに考慮しなければなりませんが、石ころのように大きな質量をもった粒子の場合には、このひろがりが極めて小さくなって、第1図のようにただの点にちぢまってしまうとみなすことができます。これが普通見る石ころの運動であって、このように自然のなかでは、量子的状態と古典的状態とがうまくつながっています。




次に、第4図と第5図を参照して量子的状態の弁証法についてみていきましょう。

 

第4図のように、速度がある定まった値をとる状態は、位置がまったく不定です。
第5図のように、位置が定まった値をとる状態は、速度がまったく不定となります。

 これらを見ればわかりますように、位置と速度の物理量は、両方あいともなって粒子の状態をあたえながら、相互に排斥しあっています。すなわち、位置と速度は、量子的状態の矛盾を形成しています。これがまさに弁証法の原因の法則です。

 まとめますと、石ころのような大きな量を持つものが小さくなる(物質の量の減少)にしたがって、物質の量の減少がその運動法則の質的変化をもたらし、原子の世界は質的に別の量子状態になり、量子的法則が支配しているということです。

 今回の学習会で学んだことは、アインシュタインの相対性理論、すなわち、物質の速さが光の速さに近づくと、古典的な物理法則が通用せずに、時間が遅くなるのと同様に、物質の量を限りなく小さくしていくと、これまた、古典的な物理法則が通用せず、位置と速さを一点で捉えることはできず、ある範囲でしか捉えられないということです。


 ものごとが、究極に近づいていくと、それまでの法則が通用しなくなり、その過程で質的変化を生じ、違った法則で運動するということです。そして、普通の状態と極限の状態、及びその状態でそれぞれ、違った運動法則が、自然の中には同居しているということです。
 まさに、多様性、異質性が共生、共存しているのが、われわれの生きている世界なのでしょう。さらに、人間や社会には、そこに意思が加わり、理念を掲げたり、秩序立てたりすることもできますし、またその反対もできます。やはり、一番重要なことは、一人ひとりどのように生きるかを選択することで世界が変わりますので、一人ひとりが真剣に深く、広く学び、よりよい選択をし、行動していかなければいけないことではないでしょうか。


石ころの運動

2009年07月04日 | 哲学

 6月10日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十四話 石ころの運動」です。

 哲学は、ものの見方、考え方を深めたり、高めたりするのには、すばらしいと思います。
昨今、ものを考えなくても、生活できるぐらい豊かになってきましたが、人間は地球上の他の存在よりも、考えることが得意です。やはり、その特質を失っていくと人間から離れていくような気がします。

 今回の学びは、まず、物質はダイナミックに運動しています。その運動全体をよく捉えているものが弁証法です。そして更に弁証法では、物質の運動のみなもとはその物質の内的関係にあるといいます。それでは、ありふれた運動をしての石ころの運動はどのような内的関係にもとづいているのであろうか?そして更に内的関係を内部矛盾として捉えられる場合を考えてみています。

石ころの運動の本質は?

物質の普遍的な存在様式=運動

 石ころを投げたときには、放物線を描き、地上に落下します。それは、慣性(速さとその運動方向を持続しようとする性格)引力によりこのような軌跡をたどります。

(慣性は、もともと内的条件です)

 もし石ころが水のように流動性に富んだものだとすると、外から力を加えたとき、放物線を描いて石ころは運動するでしょうか? まず、石ころの形をかえてしまうでしょう。

そこで、考えて見ましょう。外から加えられた石ころにたいする作用が石ころの速さを変えるのか、または石ころの形を変えるのかをきめるのは、まったく石ころ自身の性質によるものです。


 石ころに対する地球の引力の作用は、石ころにたいする外からの条件、外的条件としてはたらきます。

 つぎに、石ころ自身の性質、石ころの属性にもとづいて、石ころ自身の運動の条件、すなわちその形を崩すのではなく、全体として落下しようとする傾向あるいはその速さを変えようとする傾向を獲得します。

 すなわち運動に関する石ころ自身の条件、内的条件を獲得します。
 (外的条件が内的条件にかわります)

 さて、以上の結果、石ころの運動には、速さを変えようとする傾向とそれまでの運動を持続しようとする傾向の二つの面があることがわかりました。

 この二つの面は、正反対にある両立し得ない二面ですね。
 この二つの内的な面は同時に存在しながら互いに対立し張り合って現実の石ころの運動を与えているということができます。

 ところで、石ころはつぎの瞬間どの方向へ飛んでいくのでしょうか?

 この新しい方向は、慣性と地球の引力によってひきおこされた石ころのもつ運動の内的条件、すなわち二つの面の間の相互関係の結果定まってきます。

 この意味で、新しい運動方向は対立した二つの面がその対立の解決としてとった結果であるといえます。

 石ころの運動は、対立しあう二つの面の闘争、解決、闘争、解決という過程の絶えざるくり返しです。


矛盾について

石ころの運動のみなもとはなにか

対立し闘争しながら統一している二つの面のことを矛盾と呼びまよう。
そして、物資の運動の内部の矛盾という意味で、内部矛盾といいます。
また、ここで矛盾と読んでいるのは、具体的な運動のなかに存在する対立する二つの面のことであって、その意味で実在的なものです。

さきほどの、対立・闘争、統一という条件をもつ内的関係のことをここでは矛盾と呼びます。


他の石ころの運動もその内部矛盾に基づいて進行しているか検証してみましょう。

静止している石ころもまた運動しています。

石ころとて決して永遠に不変なものではありません。
強い力たとえばハンマーでたたけば石ころは砕けてしまいます。また激しく熱すれば石ころは溶解状態になってしまします。

 さらに、ハンマーでたたかれなくても空気の分子はたえず石ころをたたいています。また、溶けるところまではいきませんが、石ころはたえず外から熱をうけたり、また熱を放出しています。これらの空気の分子の衝突や熱の出入りによって、石ころが石ころとしての質を失わないかぎり、石ころとしての状態を保っています。

 石ころが多量の熱をうけたり、ハンマーでたたかれてくだかれたり、溶けたりするのは、石ころの内部に石ころとしての状態を変えようとする面をもっているためです。また、空気の分子や、わずかな熱をうけただけでは、石ころはくだけたり、溶けたりはぜず、そのままの状態を保ち続けているのは、これも石ころの内部に石ころのままの状態をつづけようとする面があるからです。

 石ころは、この二つの面の相互の関係によって、石ころは石ころとしての状態を保ち、あるいは溶けたり、こわれたりする。


滞在時間ゼロでも存在するということにつきまして

 動くということにはそれ自体につきまとう問題があります。石ころはその通過する道筋の各点、各点に存在しながら運動しているのでしょうか?

 実際、各点、各点に存在したとしても、その存在しつづける時間はゼロです。滞在時間がゼロとは存在しないことです。
 石ころの運動には二面があることがわかります。すなわちひとつの場所に「存在している」という面と、その場所に「存在していない」面という二つの面があります。
 この対立した二面の相互関係が、動きという石ころの状態をもたらします。
 このように、位置の変化という運動自身、石ころの持つ矛盾の結果なのです。

 今まで述べてきましたように、さまざまの内部矛盾が同時に働いて、投げだされた石ころの運動が進行します。

 したがいまして、客観的実在の運動はさまざまの矛盾によってささえられています。多くの矛盾が同時に存在し、これらが複雑多様な運動をもたらします。



 われわれ一人ひとりの人間も、客観的実在であり、さまざまな矛盾によって存在していると思われます。特に人間には、意識と精神がありますのでもっと複雑になります。バランス感覚を磨くことが重要だと思います。個と全体、潜在意識と顕在意識、変革と停滞、悲しみと喜び、苦しみと快楽、やさしさと厳しさ、攻勢と守勢、達成と後悔、経験と勘など無数にあるといっていいと思います。
 ここで重要なことは、すべて矛盾で運動しているということです。すなわち、私自身も対立・闘争と統一の内的関係の結果、運動しているということです。
ですから、外的条件、例えば、「悲しいことがあった」、「つらいことがあった」、「しんどいことがあった」、「うまくいかなかった」などがあったとしても、どのように対処するのかは、これらの外的条件が内的条件になりそれと相対立する内的なものとの間で内的関係が新たに発生して、それが一瞬の休みもなく連続して自分の人生になっていくことかなと思いました。これで人生の生き方が、少し見えてきたような気がします。