心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

水と氷 ―質的変化と量的変化―

2011年04月30日 | 哲学

4月13日(水)哲学学習会を会社で実施しました。
 参加人数は、12名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で第十三話「水と氷 ―質的変化と量的変化―」です。

 東北地方太平洋沖大地震につきまして、被害にあわれた皆様に心からお見舞い申し上げるとともに、犠牲になられた方々と、そのご遺族の皆様に対し、深くお悔やみを申し上げます。


雑感
東日本大震災について思うこと2(津波について)


 前回は、地震についてでしたが、今回は津波について書いてみたいと思います。
 津波は、海域でのプレートによる地震や海底での地すべり、海底火山の活動などの原因によって引き起こされる高波のことです。

 たとえば、地震によって、海底が数キロにわたって盛り上がったとします。
 すると、その海域の海水もいったん盛り上がり、その後、重力によって落下する。また、地震によって海底が数キロにわたって沈降すると、その上にのっている海水もいったん沈み、やがて、その反動で盛り上がってきます。

 いずれにせよ海水は上下に震動し、その震動が巨大な波となって四方八方へ広がっていきます。



 そうして生まれた巨大波は、海底から海面までがそっくりそのまま動く性質があります。
 そのため、莫大なエネルギーをもち、なかなか衰えません。

 進むスピードは、海の深さによって決まり、太平洋の平均深度4000メートルでは、時速713キロとジェット機並みの速さになります。また、水深200メートルぐらいの大陸棚では、時速195キロくらいになりますが、それでも新幹線並みの速さです。

 海岸を襲う津波の高さは、発生水域の水深が深い(今回の地震の深さは約24キロメートル)ほど高くなります。さらに、沿岸に達すると、外洋の深さの分のエネルギーが浅い海に集中するので、津波は高い水の壁となります。

 今回の場合のように入り組んだ海岸線を有する三陸リアス式海岸(約600キロメートル)では、さらに細い入り江や湾にエネルギーが集中して内陸部に向かうにつれて高くなったようです。

 沿岸部手前では、高さ7~8メートルの津波が、内陸部にいきますと40メートル近くまで遡上します。
 このように、津波は、とても恐ろしいものです。

 1995年の阪神淡路の大震災のときは、地震と火事で多くの方が亡くなられました。

 今回は、地震そのものも凄まじいものでしたが、それにもまして被害が拡大し、人の住む町や村を数分にして破壊してしまった水の恐ろしさを痛感しました。
 
 人間にとって、なくてはならない火と水ですが、違う意味ではわれわれ人間の命を大量に短時間に奪うもの、身近にあるものが日常を襲い、一瞬にして非日常にしてしまうものだと感じました。

 人間は、原子力発電所もそうですが、自然からいろいろな恩恵を受けていますが、所詮、その力は、知れており自然の力を思い知らされたというのが本音です。




本日の学び
本話より抜粋 「水と氷 ―質的変化と量的変化―」


 
 水が氷となり、氷が水となる変化、すなわち氷と水との相互転化には、物質の量的変化と質的変化という二つの変化の相互の関係が具体的にしめされている。この関係は、事物の変化発展を理解するうえできわめて重要なものである。

 なぜならば、事物の変化はつねに量的変化あるいは質的変化であって、したがって両者の間の関係は事物の変化の基本的な性質を意味するからである。



水と氷の移行

 水と氷は互いに質的に異なる状態の物質であって、水が凍って氷になり、また氷が解けて水になるのは、物質の質的変化である。

 客観的事実の運動には質的変化をともなっていることが多い。

 種子が、発芽し、生長し、実を結ぶ。ここには、数多くの質的変化がくり返される。

 宇宙塵が大規模に集まって星が誕生するときにも、物質の質的変化が生じている。木を燃やすと、あとに灰が残って、炭酸ガスその他の気体を生じる。これらはすべて物質の質的変化である。

 このように、質的変化は絶えずくり返されている物質の変化である。したがって、質的変化の特徴を正しく理解することを欠いては、物質の運動全体を認識することなどとうていできないであろう。



氷に熱を加える
 
 一キログラムの水の温度を一度上げるには一キロカロリーの熱が必要である。氷の場合は0.五キロカロリーでよい。

 はじめ、摂氏零下一〇度の氷であるならば、氷が吸収する熱量が0.五キロカロリーになると、氷の温度は一度あがって摂氏零下九度となる。

 さらに、熱を加えると、氷はその温度を上昇させていくが、氷以外のものに変わるわけではない。しかし、まったく変化がないわけではない。温度の上昇にともない、氷の分子はしだいに活発に運動するようになる。

 この氷の分子の運動の活発さの程度が、氷の温度として外にあらわれる。




氷が水になるのは質的な変化である

(第26図)

 さて、ここでさらに氷に熱を加えると、温度は零度のままであるが、氷はしだいにとけていく。
 氷をとかすには相当量の熱が必要である。摂氏零度の氷を一キログラムとかすには八〇キロカロリーの熱が必要となる。

 (熱はエネルギーであるといういい方をすることがあるが、厳密にいえばこれは正しくない。熱というなにかがある実体が存在するわけではない。

 物質には温度の高い状態と低い状態とがあって、高い状態のほうが低い状態よりもエネルギーを多く有している。一般に熱を吸収すれば物質の内部のエネルギーが増加する。

物質の内部のエネルギーは、物質が静止状態にあるときに有するエネルギーであって、内部エネルギーという。)

 このように、氷の内部のエネルギーが量的に増加して摂氏零度に達したとき、氷は質的変化をおこして水となる。しかも氷から水への変化は、直接的であって、水と氷の中間の物質をとおって進行するのではない。

 したがって、この質的変化は突然生じるものであり、その変化は飛躍的である。氷が水に質的変化をしたあと、水は熱の吸収に応じてその内部エネルギーを増加させるが、この増加は水としての質を保って進行する。

 この意味で、氷から水への質的変化は、内部エネルギーの量の増加の必然的な結果である。



量の変化と質の変化
 
 すべての事象の実際についてみてみればすぐわかるように、事物は、質の面と量の面と二つの面をもっている。氷は氷に特有な性質を持っていると共に、質量、体積、温度などの一定の量で存在している。



 実際の氷はかならず何グラムかの氷であり、またその温度はときと場合によって異なったとしても、つねにある温度をもっている。
 内部の圧力はいくら、内部エネルギーはいかほどと、それぞれ一定量の物理量を有している。

 量とは、事物の一面であって、事物の質に目をつむったとき浮かびあがってくる「もの」であると考えておいてよいであろう。いうまでもないことであるが、実際の事物では、量はいつもある大きさの量として存在する。

 このように、質と量とはかならずあいともなっている。



量的変化はつぎの質的変化を準備する 

 氷から水になるときのように、量的変化は質の限界のまえにたちどまってその進行をやめることをしないで、逆に質を生成している事物の内的関係を変え新しい質を生成して、その量的変化をさらに進行させる。

 質的変化をおこしたあとでは、新しい質があらわれ、新しい質にともなうもろもろの量が再び変化していく。

 たとえば、氷が水になって、その温度が上昇していく。また水になると粘性が生じ、水の温度の上昇とともに、その粘性もまた変化していく。






基本法則がありふれていること

 量質転化の法則は、たしかに一見ありふれたものである。

 さて、ありふれたものということは、日常私たちの経験する事物の変化のなかにことさら注意をしなくても広く普遍的に見いだされるという意味である。

 基本的であるためには、すべての事物の変化のなかにつねに見いだされるものでなければならない。私たちが事物の変化を正しく認識したときにつねに見出されるものでなければならない。



日常生活のなかで哲学的認識を得ている

 なにびとといえども、それなりに事物の変化を認識しているからこそ、日常生活を送ることができる。

 したがって、日常生活のよく知られた事物・現象をとりあげたとき、事物の変化の基本法則のあらわれがしごくありふれたものにみえるのは当然のことであり、また一面それは、多くの人びとが日常生活をとおして、哲学的認識を得ていることをものがたっている。

 しかしながら、世界に対する私たちの認識は、今日の段階で終わったのではない。私たちの知らないことはまだまだ無限に横たわっている。

 進路の前に横たわる障壁はたいてい無限の高さに見え、この障壁がなくなるという事態・事物の質的変化などはありえないように思いこんでしまう。

 このときわたしたちは、量的変化が、どのように内的関係を変化させ、事物を質的に変えてしまうものなのか思いもおよばないことがおおい。

 ありふれた実際の現象のなかに基本法則を見出し、これを明確にとらえて未知のものの認識の指針とする。これが、私たちの哲学なのである。



事物の質的変化を無視する考え方

 

 事物の質的変化を無視する、または認めない考え方や、質的変化の蓄積にもとづいて生じるのではないとする立場が、根強く蔓延していることに注意しよう。

 生物は生きているという質をもった存在であって、この点で他の無生物ときわめて大きな質的なちがいを有している。

 そこで次のような妙な見方が生まれる。それは、生物の生きているという質も、個々の分子や原子の物理的変化、化学反応の単なる集まりであって、それ以外のものではないという見方である。

 この見方によれば、生物体内では、生物に特有な順序で、個々の物理的変化、化学反応が規則ただしく、つぎつぎとひきつづいているが、それは一つの反応が次の反応をひきおこすということの集積であって、生物全体が、個々の物理的変化、化学反応の膨大な量のたんなる集合であることにかわりがないということになる。

 生きているという質を、物理的変化、化学反応の莫大な量に還元してしまうわけにはいかない。

 このように質を量に還元する考え方にもとづいて社会現象をとらえようとすると、社会の質的変化、すなわち革命という社会の質的変化を認めない結果となる。

 社会のあれこれの連続的変化には注目しても、社会の質的変化としての革命の特徴がなんであり、またこの質的変化をもたらす量的変化がなんであるかを見ないことになってしまう。



事物の量的変化を無視する考え方 

 質的変化は量的変化にともなって飛躍的におこることをのべたが、この場合注意すべきことがある。
 それは、変化が飛躍的であったとしても、それは合法則的変化であるということである。

 この移行は、摂氏零度の氷が熱を吸収して必然的にとけるように、量的変化にともなって必然的におこることを指摘したが、この必然性こそ飛躍が合法則的であることを示している。

 したがって、量的変化の蓄積が質的変化をもたらすことを見ないで、ただ質的変化のみを認めるとすれば、事物の変化は、なんの準備もなく、つねに突然変異で生じるものであるという見方になってしまう。

 この見方によれば、質的変化は、これをひきおこすうえで何の準備も前提条件もなくて生じることになるのであって、この意味で質的変化は合法則的ではなくなってしまう。

 このような世界観にもとづく実践では、事物の変化発展の法則に沿った道筋がまったく無視されてしまう。その結果、残るのはただ事物、社会の変化を求める情念のみとなる。 
 客観的実在のもつ法則性の認識のかわりに主観的な情念が事物を変えようとする。

 こうして主体的唯物論という一派があらわれ、十分な準備を経ないでいきなり社会の質的変化をもたらそうとする極左冒険主義や一揆主義を生んだり、道理にはずれた行動を生む結果となる。

 このような極端なかたちではないとしても、東ヨーロッパ諸国や旧ソ連地域では、経済活動の増大という量的変化の前に、ただちに飛躍した経済生活をもとめようとする傾向があらわれているようにみえる。

 この傾向は、量的変化を経ないで質的変化を求めようとする姿ということができるかもしれない。

 量質転化の法則は、事物、社会を変化させ発展させるときの認識としても大切なものである。

というように、筆者は言っています。




 事物がどのように変化していくのかについて、深い見識を与えてくれています。

 このことは、われわれの身近にもみられることで、仕事でもそうですし、子どものころの勉強でもそうですが、この法則に従い、私自身もたいへん苦手だった英語を克服することができました。

 正しい訓練をしつづけると内部エネルギーが上昇して、ある日突然、簡単に仕事ができたり、勉強ができるようになります。

 ですから、昔から石のうえにも3年といいますが、確かに道理にかなっているとおもいます。

 自分のことについても、社会的なことについても、会社やその他の組織についても、目標を定め、努力をかさねていけばどこかで急に質的変化が起こり、手がとどかないと思っていたことができてしまうということを知ることができました。
 
 やはりここでいちばん学ぶべきことは、途中であきらめないで高い目標に向かって地道に努力を続けること(量の変化を与える)で、手がとどかないと思っていたことが実現し(質的変化がおこる)さらにうえを目指していくということです。




弁証法とは

2011年04月24日 | 哲学
3月16日(水)哲学学習会を会社で実施しました。
 参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で第十ニ話「弁証法とは」です。

 

 東北地方太平洋沖大地震につきまして、被害にあわれた皆様に心からお見舞い申し上げるとともに、犠牲になられた方々と、そのご遺族の皆様に対し、深くお悔やみを申し上げます。


雑感
東日本大震災について思うこと①(地震について)

 まず、知っておかなくてはならないことは、弁証法で学びましたように、物質や社会は生きいきとダイナミックに運動しながら変化・発展をしているのだということを念頭におかなければならないということです。

 わたしたちが、何も気にせずに暮らしている地球の大地は、じっとしていて安定していると思っています。ほんとうにそうでしょうか?

 地球は、時速1,674kmで自転していますし、ましてや太陽の周りをまわる公転速度は、時速107,280kmです。地球を含む太陽系自体も天の川銀河の中を時速約800,000kmの速さで進んでいます。

 ものすごい速度ですね。では、何故、振り落とされないのでしょうか?
 引力があるからですね。





 次に、地球自体も間断なく動いています。地球の核は、マグマオーシャンの中に沈んだ金属鉄です。地球の深部には、現在も誕生当時(約46億年前)のエネルギーが封じ込められています。
 このエネルギーによって外郭の金属物質は導電性の流体の状態を保っています。
 ちょうど火にかけられた鍋のように、ふつふつと煮えたぎるような運動をしています。
 温まった流体金属は上昇し、マントルに振れることで再び冷やされ、今度は下降するという、対流運動を続けています。
 これにより電流が流れ、電磁誘導で磁場が生じます。つまり地球はその内部にダイナモ(発電機)を抱えているのです。

 余談になりますが、このおかげでわれわれ生命体は生きていられるのです。
 この運動によりまして、地球は磁気による天然のバリアをつくりあげました。(約27億5000万年前)地磁気による、磁気圏の誕生です。
 このおかげで、太陽の核融合反応の副産物である放射線から、生命体を守ってくれているのです。




 いずれにせよ、地球自体も地球の内部も激しく運動しているということです。 
 次に、地震ですが、地震が起きるのはプレート(厚さ70~150km)とよばれる巨大な硬い岩盤の動きが主因です。
 地球の表面は10数枚のプレートによっておおわれています。そしてそれぞれは独自の方向に動いています。その速さは、速いもので年に10センチ、遅いもので年に1センチ程度です。
 ちなみに、日本列島付近で地震がよく起きるのは、太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレート、北アメリカプレートという4つのプレートが複雑に押し合いへしあいする場所に日本列島が位置しているからです。



 というように、われわれを取り巻く、宇宙や自然は、われわれ自身を含め、生物も無生物もダイナミックに運動しているということです。

 それと、自然の摂理が実にうまく働いているということです。
 地球に核や導電性の流体や、水や、空気がなければ、また、温度が適温でなければ、人間は生きることはできません。
 ほんとうに微妙なところでわれわれは、生きている、生かされていることを今回の地震で学びました。
 ですから、われわれは、人と人や、国と国とが争ったりすることが、いかに意味のないことであるかを痛感します。そしてわれわれ自身が自然の一部でることを深く認識し、自然や他の生物、人間同士がお互い感謝、尊敬しあう関係を目指さなければなりません。




本日の学び
本話より抜粋 「弁証法とは」


 上巻では、物質こそが世界の第一次的な本源的な存在物であって、意識・精神は人の脳髄のはたらきが生んだものであることをのべてきた。
 
 自然のなかで発生した生物は進化して人間を生み、人間は社会を形成してやがて精神を有するようになる。この発展過程自身、物質の運動がきわめてダイナミックなものであることを端的に示している。

 上巻はこの物質の運動の特徴を弁証法的と呼んでむすびとした。一方、わたしたちの思考自身もまた物質の運動と同じ特徴を有しているのであって、その意味で弁証法的ということができる。

 下巻では、この物質の運動と同じ特徴をさらに立ち入ってのべていくことにする。まずその手はじめとして弁証法という言葉についてのべることにしよう。


ダイナミックな物質の運動の特徴

 自然はその途方もなくながい歴史をとおして、たえまなくダイナミックな変化発展をとげてきた。

 銀河系や銀河団の形成と発展。これをささえる星の誕生と消滅。自然のなかの画期的なできごとである生命の誕生。そのたえざる進化。

人間の誕生と意識の発生。

 社会の形成とその発展―――これら客観的実在のしめすスペクタクル(光景)は、質的に新しいものを絶え間なく生成してきた自然と社会の歴史的過程である。

 それは、世界全体をささえるあらゆる物質の休むことのない変化発展、すなわち運動のあらわれである。

 
 弁証法的という用語の使い方に違和感はあるが、とにかく生きいきとダイナミックに運動している物質の変化発展を弁証法的と呼ぶことにする。

 したがって、弁証法的唯物論とは、本源的な存在である全物質がたえず弁証法的に運動しているとする見方である。

 とくにここでは、意識・精神の積極的な役割をきわめて有用視しているのであるが、その一方で意識が物質の発展のある段階で発生したという見方をとっている。

 このことが弁証法的唯物論の重要な点である。

 また、意識は現実の動きよりも先行することができる。
 
 したがって、自然と社会は意識を発生させることによって自らよりも先行するものを内に蔵することになったのであって、このような立体的な世界の発展をとらえることができるもの、それが弁証法的唯物論である。


唯物論の歴史

 さて、唯物論的な考え方はけっして新しいものではなく、古くから多くの国の人びとによって展開されてきた。この見方はヨーロッパやギリシャでのみ見いだされたものではない。

 インドや中国にも唯物論的な見方があった。唯物的な見方が一つのまとまった思想として体系化されたのは紀元前六世紀ころのギリシャであった。


弁証法の意味は

 弁証法という語の意味をつかむ上でまず知っておくべきことは、これが自然と社会の現象や意識のはたらき全体のそこに横たわる基本原理であるということである。
 
 さて、弁証法はディアレクティークの訳語で、直訳すれば対論的あるいは対理的であって、実際また、問答法等論述ということである。討論とは、多数とともに論ずることである。弁証法的という訳語は、この討論術的という意味をもたせた訳語である。
 
 それでは、この討論術的=弁証法的という表現がこれまでのべた物質の運動を特徴付ける表現としてなぜ適切なのであろうか。

 それは対話や討論の本来の姿からきている。
 本来の討論では、つぎからつぎへと話題がいきいきとしてつながり、物事のいろいろな面を論じていくのであって、そのさまがさきほどのべた基本原理の特徴を思わせるからである。


弁証法的唯物論

 さて、いままで、たびたび私たちの唯物論的認識の特徴をのべてきた。
 この自然と社会の生きいきとした運動をとらえ、意識と客観的実在の関係を正しく把握することにあった。

 物質の運動のみなもとはなにか、またどのようにして物質の運動が発展していくのか、これらの点を具体的に認識してはじめて、私たちは客観的実在の運動を深く認識するとともに、その発展の方向を予測することができる。

 自然と社会の運動および意識について広く研究がすすんでいるが、それをまとめていえば、つぎのようになるであろう。

 すなわち、いっさいの現象の運動・発展のみなもとはその現象の内にある。この意味で運動は本質的に自己運動である。現象のなかには互いに作用しあういろいろなものが存在している。
 
 現象を現象たらしめながら互いに対立しあっているいろいろなものが存在している。
 これらの内的関係が現象の変化発展のみなもとになっている。

 物質の運動を自己運動として認識すること、すなわち物質の運動のみなもとを物質のなかにもとめることは唯物論にとって基本的なことである。

 もし物質の運動の原因が物質にもとづくものでないとすれば、結局、運動の原因として物質以外のものをもってこなければならない。その結果、物質がこの世界の本源であるという唯物論の基本に反することになる。

 現象の変化発展が弁証法的であるということは、現象の中に対立しあうものがあり、この対立物の相互関係にもとづいていることであるが、このことをとにかく指摘しておく。

 ふたたびくり返すことになるが、対立しあう面が互いにからみあって変化発展していく一つの典型が「討論」そのものである。
 したがって、討論術=弁証法的という用語は私たちの唯物論をみごとに特徴づけていると考えてよい。

 これから弁証法と聞いたとき、この表現はくるくる展開していく討論のように、対立物の生きいきとした相互関係としてという意味に直観的に解することにしよう。またこの意味で、私たちの唯物論は対論的、または対理的唯物論という意味合いを含んでいる。


 と筆者はいっています。

 では、
 
 なぜ、われわれは、客観的実在を認識しなければいけないのでしょうか?
 
 なぜ、われわれは、ものごとの本質を知らなければならないのでしょうか?

 唯物論も弁証法も世界を知るための考え方の道すじを示すものだと思います。
 
 ものごとには、混沌としているように見えても合法則的に進化・発展しているように思われます。
 
 やはり人間を含めた自然が、どのように変化してきたのかを知ることが、人類が自然と共生して永続的に種を継続していくためにも必要です。
 
 そして人間には、他の生物にない精神の能動性と意識の先行性をもっていますので、その精神や意識を適切に働かすことによって全体をコントロールすることもできます。
 
 今後も本質からものごとや現象をとらえ、一時の感情や浅はかなイデオロギーに振り回されないように、自立して生きていくことが必要だと思います。