心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

質的変化と量的変化

2009年05月28日 | 哲学
 5月13日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、11名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十三話 水と氷 -質的変化と量的変化-」です。

 われわれは、社会をよくしよう、質を高めましょうということを理念に掲げて企業活動をしています。その時に、哲学的思考を訓練しておくということが、たいへん役に立ちます。今回の勉強会のテーマ、量質転化は、一般的ですが、奥が深く、実践的です。

以下、本の内容を紹介します。


「事物の変化はつねに量的変化あるいは質的変化であって、したがって両者の関係は事物の基本的な性格を意味する。

水と氷の間の移行



 水は液体であって、その形が自由自在に変化する。氷はかたく、その形はあまり変化しない。低い温度の氷は非常にかたい。固体としての氷と液体としての水とは、その性質が大変ちがう。水が水であるためには液体でなければならないし、氷が氷であるためには固体でなければならない。したがって、水と氷は互いに質的に異なる状態の物質であって、水が凍って氷になり、また氷がとけて水になるのは、物質の質的変化である。

 客観的実在の運動には質的変化をともなっていることが多い。
 種子が、発芽し、成長し、実を結ぶ。ここには、数多くの質的変化がくり返される。
 宇宙塵(じん)が大規模に集まって星が誕生するときにも、物質の質的変化が生じている。木を燃やすと、あとに灰が残って、炭酸ガスその他の気体を生じる。


氷に熱を加える



 氷に熱を加えるとやがてとけて水となる。ここでは摂氏零下一〇度の氷を取り上げてみよう。摂氏零下一〇度の氷を一キログラム用意して、これに熱を加える。一キログラムの水の温度を一度あげるには一キロカロリーの熱が必要であるが、氷の場合は〇・五キロカロリーでよい。氷全体にゆきわたるように熱を加えていく。氷が吸収する熱量が〇・五キロカロリーになると、氷の温度は一度上がって摂氏零下九度となる。 
 この間、氷はその温度を上昇させていくが、氷以外のものに変わるわけではない。この場合、氷はたえず熱を吸収していくため、氷自身のエネルギーが増加する。したがって、この氷の運動は、内部エネルギーの量的増大にもかかわらず氷としての質が保たれている状態変化であると考えてよい。


氷が水になるのは質的な変化である



 さて、ここでさらに氷に熱を加えると、温度は零度のままであるが、氷は次第にとけていく。氷をとかすには相当量の熱が必要である。摂氏零度の氷を一グラムとかすには八〇カロリーもの熱が必要である。摂氏零度の氷を一キログラムとかすには80キロカロリーの熱が必要となる。

* 熱はエネルギーであるといういい方することがあるが、厳密に言えばこれは正しくない。熱というなにかある実態が存在するわけではない。物質には温度の高い状態と低い状態とがあって、高い状態のほうが低い状態よりもエネルギーを多く有している。一般に熱を吸収すれば物質の内部エネルギーは、物質が静止状態にあるときに有するエネルギーであって、内部エネルギーという。

         

 このように、氷の内部のエネルギーが量的に増加して摂氏零度に達したとき、氷は質的変化をおこして水となる。しかも氷から水への変化は、直接的であって、水と氷の中間の物質をとおって進行するのではない。したがって、この質的変化は突然生じるものであり、その変化は飛躍的である。
 この一連の変化を一口にいえば、内部エネルギーの量的変化、氷から水への質的変化、さらにまた内部エネルギーの量的変化という過程である。
 この意味で、氷から水への質的変化は、内部エネルギーの量の増加の必然的な結果である。




量の変化と質の変化



 事物は、質の面と量の面との二つの面をもっている。氷は氷に特有な性質をもっているとともに、質量、体積、温度などの一定の量で存在している。実際の氷は必ず何グラムかの氷であり、またその温度は時と場合によって異なったとしても、つねにある温度をもっている。内部の圧力はいくら、内部のエネルギーはいかほどと、それぞれ一定量の物理量を有している。
 このように考えていけば、量とは、事物の一面であって、事物の質に目をつむったときに浮かびあがってくる「もの」であると考えてよいであろう。いうまでもないことであるが、実際の事物では、量はいつもある大きさの量として存在する。
 質の変化と量の変化とは、事物の変化のなかで互いに密接な関係にあるはずである。そしてあらゆる事物に質と量とがともなっている以上、質と量との間の関係は、事物の変化の基本的な法則であると考えられよう。


量的変化はつぎの質的変化を準備する
 量的変化は質の限界の前にたちどまってその進行をやめることをしないで、逆に質を生成している事物の内的関係を変え新しい質を生成して、その量的変化をさらに進行させる。
 このようにして、質的変化をおこしたあとでは、新しい質があらわれ、新しい質にともなうもろもろの量がふたたび変化していく。たとえば氷が水になって、その温度が上昇していく。また、水になると粘性が生じ、水の温度の上昇とともに、その粘性も変化していく。


まとめ (すべての事物の変化にあてはまる)
一、すべての事物は、一定の質と量とが統一されたものであり、量のない質、質のない量は存在しない。
二、事物の変化は、その事物のある特定の質にともなう量の変化からはじまる。このときの量の変化からはじまる。このときの量の変化は、事物の質を前提とし、そのうえで進行するが、その量的変化が一定のところまで進むと、事物は質的変化を余儀なくされ、こうして新しく生じた質のもとですでに存在する量はもちろんのこと、質的変化にともなう新しく生じた量の量的変化が進行する。このように、事物の量的変化は質的変化をひきおこし、質的変化は量的変化をひきおこす。
三、量的変化はゆるやかに、または一歩一歩と進む変化であり、つぎの質的変化を準備する。質的変化は急速に進む根本的な変化、すなわち飛躍であり、それは革命的である。この変化は、量的変化の蓄積なしには生じないが、両者はまったく異なる変化であって、一方を他方でおきかえることは許されない。


基本法則がありふれていること
 量質転化の法則は、たしかに一見ありふれたものである。さて、ありふれたものということは、日常私たちの経験する事物の変化のなかに普遍的に見出されるという意味である。
 事物の基本法則はありふれているのがほんとうである。
 基本的であるためには、すべての事物の変化のなかにつねに見出されるものでなければならない。


日常生活のなかで哲学的認識を得ている
 なにびとといえども、それなりに事物の変化を認識しているからこそ、日常生活を送ることができる。多くの人びとが日常生活をとおして、哲学的認識を得ていることをものがたっている。
 私たちがよく経験することであるが、まだ十分には認識していない事物を理解し、そこから実践の指針を得ようとしたとき、私たちはあれこれととまどい、迷いに迷うことが多い。進路の前に横たわる障壁はたいてい無限の高さにみえ、この障壁がなくなるという事態・事物の質的変化などはありえないように思いこんでしまう。このとき私たちは、量的変化が質的変化をもたらすことを忘れてしまっている。いかなる量的変化が、どのように内的関係を変化させ、事物を質的に変えてしまうものか思いもおよばないことが多い。


事物の質的変化を無視する考え方
生物の生きているという性質も、個々の分子や原子の物理的変化、化学反応のたんなる集まりであって、それ以外のものではないという見方である。
個々の原子の運動は原子の運動方程式という数字上の式であらわすことができる。したがって、結局、すべての事物・現象の変化を質的変化ではなく量的変化として理解し、その量的変化を数式であたえることができれば、それで生物、すなわち生きているということをすっかり認識したことになるという立場になる。
 しかしながら、事物・現象の変化発展の量的変化の側面、とくに質の変化に関連する量的変化をくわしく研究するということと、質を質として認識するということとは別のことである。生きているという質を、物理的変化・化学反応の莫大な量に還元してしまうわけにはいかない。


事物の量的変化を無視する考え方
 量的変化の蓄積が質的変化をもたらすことを見ないで、ただ質的変化のみを認めるとすれば、事物の変化は、なんの準備もなく、つねに突然変異で生じるものであるという見方になってしまう。この意味で質的変化は合法則的変化でなくなってしまう。このような世界観にもとづく実践では、事物の変化発展法則に沿った道筋がまったく無視されてしまう。その結果、残るのはただ事物、社会の変化をもとめる情念のみとなる。客観的実在の持つ法則性の認識のかわりに主観的な情念が事物を変えようとする。
 
 量質転化の法則は、事物、社会を変化させ発展させるときの認識の基本としても大切なものである。」

ここから学べることは、物質であろうが、人であろうが、社会であろうが、その変化・発展には、法則性があり、ゆるやかで絶え間のない量的変化を与え続けることで、質的変化が急激に起こり、飛躍して質が変わっていくということです。
 たとえば、英語が嫌いでも、毎日、少しずつ努力を重ねれば、あるとき一挙に、いままでわからなかったものが、全てがつながり急に何でもわかるようになった経験が私にもあります。世界史にしてもしかりです。世界の4大文明から始まって、地中海沿岸、中国史、インド史、アジア、ヨーロッパ、中央アジア、アメリカ、アフリカ、南アメリカ、北欧、そして日本史など、個別にみているだけでは、世界はつながりませんが、あるとき世界の歴史がたて、よこにつながると一挙に理解できるようになります。まさに、質的変化が起こっているのですね。
 仕事もしかりです。「石の上にも3年」といいますが、まさに、最初は、なかなか覚えられない、興味がわかない、納得できるところまでいかない、人から評価されないということがありますが、量質転化の法則を知っている人は、地道に努力し続ければいずれ、質的変化が起こり、世の役に立ち、自分も向上していくことがわかっているので、努力し続けられます。でも、このような基本的な法則を知らないと、少しつらいとか、しんどいとか、遊びの誘惑に駆られて、努力したって所詮、無理なんだ、報われないと考えてしまい、あきらめてしまいます。
 私は、いろいろな人生があっていいと思いますが、本来人間は、精神の能動性、意識の先行性をもっていますので、その本質にしたがって生きることが重要だと思います。
 そして人間の場合は、社会性ということは意識しなくてはなりません。社会性を無視すれば、一人ひとりの基本的人権も破壊されてしまいます。一人ひとりが集団の中の自分というものを意識しなければならないと思っています。現代社会の問題は、ここにつきると考えています。
 このようにして、問題意識から、各個人の生き方が決まり、進化・発展の火種となり、軸ができ継続性のあるものとなり、次の世代につなげていくことができます。
 ただし、問題意識が理念的でなければ、その場限りになり、継続性は保障されません。
 ということで、この哲学学習会は、今の大人を通じて、今の子どもたちに、世界(宇宙)のおける普遍性を伝えていくことこそが、われわれの使命だと感じています。
 本日も、学びの多い勉強会でした。

ある日の朝礼

2009年05月06日 | 人生
 わが社では、毎日、朝礼をしています。



 その中で、「経営指針書」を読み、理解を深め、会社の考え方の軸を統一していくというコーナーがあります。もちろん、私が担当しています。

本日の指針書の読み合わせ箇所(P102~P103)
「第23期経営指針書」→「Ⅱ 時代認識」→「(4)資本主義(競争主義)の成熟の一部」

「四つ目に、バブル(1989年ごろ)によりそれまで存在していた価値観が崩壊した。例えば、会社では役職が上のほうが偉いし、一杯飲みに行くときでも会社の中で地位の高いものの収入が多く、部下たちにおごっていた。また、役職の上のものは人間的にも尊敬されていた。バブルの時代は、土地や株で莫大な不労所得を得ることで労働の価値観、汗を流して働くより、知恵を絞って働くより、土地を売ったり、賭け事(株や先物)をして楽をして大きなお金を得ることができた。というように人生なるべく楽をして、お金儲けをし、それでぜいたく品を買って身につけたり、レジャーやディスコなどで遊んでいた方がよっぽど楽しい。働くことによって人生を充実させることを忘れさせてしまった時期でもある。
 また、バブルが崩壊し、社会主義も崩壊した後、経済が完全に停滞し、公共投資をするがほとんど役に立たず、デフレの圧力からリストラする企業が増えた。そこで終身雇用と思って真面目に働いていた人が、どんどんリストラの対象となり首を切られる。そうすると、真面目に働いても悪くなっていくという状況は、何をもたらすか。人間の精神を破壊していった。何が善で何が悪か、一生懸命やってもダメならどうすればいいのという絶望感が精神を狂わせる。この短い間に二度も大きな波に出くわしたのがこの時期である。」


本日の解説
 では、こんな時代に経営者は、「どんな経営をしたらよいのか」、社員は「どんな心構えで働いたらよいのか」を考えてみましょう。

「同調思考」と「自調自考」「独立自尊」という二つの観点から考えてみましょう。
 (勝間和代さんの「断る力」を読みながら考えました…大変ためになる本です)

「同調思考」というのは、古くからある日本の集団の特徴で協調性(空気を読む、以心伝心、礼、親和など)を重んじる。

片方で「自調自考」(渋谷教育学園グループの理念)は、自分で調べて自分で考えることで、「独立自尊」(慶応義塾の建学の精神)は、人は人、自分は自分で独立し自分の軸を大事にし、自己確信を続けるということです。
*自己確信:自分で考え、自分で決め、そして自分の軸で評価したときに成功と確信すること(但し、自己確信には客観的な評価基準が必要)



 私たちは、日常の中でこの二つを峻別し、使い分けなくてはなりません。
しかし、現代は、このようなことにあまり関心がないのか、人間が裕福になりすぎて劣化してきて、同調思考も自調自考・独立自尊も両方とも、トーンやテンションが低いような気がします。

 仕事は、自調自考・独立自尊志向で責任をもって成果を出さなければ意味がないと思っています。その結果、社会やお客様そして働く仲間に貢献することだと私は考えています。

 複数人数が集まってひとつのことを成し遂げようとするときも、構成員の一人ひとりが自立して、役割分担をきっちりと果たし、お互いを尊重し合い、高い理念のもとに協力し合うことだと思います。これは、同調思考(相手と迎合する、必要な摩擦を回避する、深く考える手間を省く、お互いの心の慰め)とは、一線を画します。

 他方、同調思考は、組織の潤滑材、仕事以外のリクリエーション、社員の福祉なんかには、この考えが必要です。例えば、レクリエーションでソフトボールをしようか、バレーボールをしようかなどを決定する場合には、あまり深く考えないで気分しだいで、多数決できめたほうがよいと思います。そこであえて文句を言うなどということは、極力避けるべきです。

 しかし仕事では、このきめ方は非常に危険です。複数の人で意思決定する場合は、一人ひとりのスペシャリティ度合いが高く、高い教養と精神を有している場合に限ります。

 別の言い方をすれば、組織の論理と経営の論理は違います。組織は、拡大・発展・成長・良好な関係を望みますが、経営は、社会貢献をして利益を確保することが優先され、組織を縮小・後退・待機・破壊させる場合もあり得ます。
むしろシューペンターのいうように組織も戦略も「創造的破壊」を繰り返し継続しないと経営は成り立たないでしょう。

ヘーゲルのいう、「世の中のすべてのものは自己矛盾で崩壊する」というのも、思い出されます。



最後に「同調思考」と「自調自考・独立自尊」の特徴を比べてみました。