7月14日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、6名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第四話「一寸の虫にも五分の魂―固有の法則について―」です。
雑感
自由の功罪につきまして
自由というのは、歴史的にみますと、特に西洋では人類が自然、共同体、専制政治、伝統、文化などから自らが自由になるために勝ち取ってきたものだと思いますが、今ここに来て自由の功罪がはっきり見えるようになってきました。
まず、功のほうですが、科学が発達したおかげで、地震など一部を除いて自然からの驚異に生命を脅かされずに、自由に生きられるようになりましたし、共同体からの束縛も自由の名のもとに解放されてきました。
そして、なによりも自由がもたらしたのが、自由な発想やアイデアで世の中が進化したということです。
われわれが、物資的に恩恵を受けているのはこの自由のおかげだと思います。したがって、世の中を進化・発展させようと思えば自由を制限しないほうがいいと思います。
次に、自由の罪のほうですが、個人の自由を進展させますと、概して秩序が乱れてしまします。
世界をみましても各国の思惑が揃わず、人類全体が危機であることも知りつつ、温暖化だけでなく、生物種絶滅、食糧、水、資源など地球規模での問題は、解決しそうにはありません。
国も自由になるために地球環境より経済優先が自由主義、民主主義の世の中ではあたりまえに、まかり通っています。
国内を見ましても、組織、共同体、家族などは、個人の自由があまりにも尊重(強調)され、よい意味での自由(人のために尽くす自由、公共のために奉仕する自由)ではなく、完全に個人の欲望(物質的利害)、すなわちわがままかってが、さも当たり前のようにまかり通る時代になってきました。
教育も、進歩主義、非管理主義というイデオロギーのもと、基礎学力や公共の福祉に貢献することはほとんど、教えられずに社会人になっていきます。自分が幸せに生きる権利があり、自分は、だれからも束縛されない自由の身であると考えているようです。
それもいいのですが、他人のことや全体(公共)のことはあまり教えられていないので、秩序が保たれるわけがありません。
歴史的に見ても、農耕や牧畜を行うようになって人間は一箇所に定住できるようになり、そこから社会生まれ、社会が成熟(貧富の差ができる)し、人口も増えてくるとそこには必然的に、社会の秩序を維持するために宗教というものが生まれてきました。
社会においては、秩序維持(価値観の共有化)ということが、非常に大切な概念なのですが、これが、自由によって破壊されたといっても過言ではありません。
しかし、われわれ人間は、頭脳と意識と精神をもっていますので、自由と秩序を同時に成り立たせることも不可能ではありません。
これからの世の中は、最大自由と最大秩序を目指すというのも、一つのビジョンとして掲げることができます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/93/2d0456c697e7b92fbf3f3d2d8ac33b0a.png)
本日の学び
本話の要約
外界に存在する物質は、種々さまざまの姿形をとって存在している。これを客観的実在という。
これらの客観的実在はいずれもそれぞれ固有の法則にしたがって運動している。
客観的実在の固有の法則とその実際の運動、すなわち現実の運動との関係は、世界を深く認識する上できわめて大切なことである。
固有の存在様式をもっているのは、石や鳥などの自然物だけではない。社会を構成するもろもろの単位、町や市、学校からクラブや政党などのいろいろな組織にいたるまで、すべて固有の存在様式をもっている。
たとえば、サークルの活動が予期したようにのびていかないとき、そのサークルの固有の動き方をあらかじめあきらかにしようとはしないで、自分たちの思うようにむりに動かそうとする場合がないではない。
この場合、たとえ意識しないとしても、そのサークルが固有の法則をもつ客観的実在であることを忘れて、主観によってサークルの存在様式、すなわちサークルのあり方を定めることができると錯覚しているのである。サークル運動ばかりではない。
一国の経済もまたそうである。
社会の固有の動き方からはずれた指令は何の効果ももたらさない。
「物質が現実にとっている状態は、その固有の法則だけではなく、そのうえに、さらにいくつかの条件が付加されてはじめて定まる」
赤ちゃんの成長過程でみてみると、赤ちゃんは最初母乳を必要とした状態にあり、ついで普通の食事を必要とする状態に成長していく。
これは赤ちゃんの内部的な状態の変化である。母乳がいかにあたえられているか、またどの程度の時期に普通食が与えられるようになったかは、赤ちゃんに対する外的条件である。
外的条件は赤ちゃんの成長度合いに強い影響をあたえることは確かであるが、しかしその影響は赤ちゃんの成長の遅い早いを左右するのにとどまっている。
赤ちゃんがどのように成長していくか、すなわち最初母乳を必要としている状態から、成長してやがて普通食を必要とするようになるということは、赤ちゃんに特有な性質である。赤ちゃん自身の成長の法則である。
もし、赤ちゃんが母乳を必要とする状態になったときに十分な母乳があり、普通食を必要とする状態になったとき普通食が準備されていれば、赤ちゃんはすこやかに成長していく。
この赤ちゃんの成長過程もまた、次のことを私たちに教えてくれる。
すなわち、事物や現象は、その事物や現象を貫く法則と外的な条件によってその具体的なあり方、現実の形がきまってくるのであると。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/b6/6181b8666a6fcef24e07c1dd5a02c72d.png)
唯物論的世界観では、物質がそれぞれ固有の法則にしたがって運動しているという見方をとっている。その固有の法則は、豊富な事物・現象をひろくつらぬいている。
この意味で、世界は本質につらぬかれた現象の世界であるといってよいのであって、事物・現象の具体的な姿がすべて固有の法則だけできまるという運命の機械的決定論(宿命論)の立場に立っているのではない。
世界の事物・現象のひろい相互関連が外的条件としてはたらいて、本質につらぬかれた豊富な具体的な現実の世界が展開されているのである。
と著者は言っています。
ここから学ぶべきことは、たいへん多いと思います。
経営におきかえて考えましても、会社という客観的存在があり、それは固有の法則のもとに動いているということです。
例えば、会社で活動するときに考えられる固有の法則とは、社会に役立つ商品やサービスを提供すること、利益を出すこと、その中で働く人たちの成熟度や成長度にあわせて組織づくりをすること、その地域の伝統や文化を重んじて地域活動をすることなどです。
そのほとんどは、内部要因に起因するものです。
そこに外部要因、新しい商品やサービスを取り入れたり、その会社のステージにあった人材を登用したりしないと、企業経営はうまくいかないということです。
このことは、個人に置き換えても同じことだと思います。
人間という客観的実在は、内部に固有の法則を有しており、外的要因を適切に取り入れていくと、人生は意外と簡単なのかもしれません。
でも、おかしなことに人は、自分の考えていることとは正反対の行動をしてしまうこともありますので、世の中はおもしろいですね。
雑感
自由の功罪につきまして
自由というのは、歴史的にみますと、特に西洋では人類が自然、共同体、専制政治、伝統、文化などから自らが自由になるために勝ち取ってきたものだと思いますが、今ここに来て自由の功罪がはっきり見えるようになってきました。
まず、功のほうですが、科学が発達したおかげで、地震など一部を除いて自然からの驚異に生命を脅かされずに、自由に生きられるようになりましたし、共同体からの束縛も自由の名のもとに解放されてきました。
そして、なによりも自由がもたらしたのが、自由な発想やアイデアで世の中が進化したということです。
われわれが、物資的に恩恵を受けているのはこの自由のおかげだと思います。したがって、世の中を進化・発展させようと思えば自由を制限しないほうがいいと思います。
次に、自由の罪のほうですが、個人の自由を進展させますと、概して秩序が乱れてしまします。
世界をみましても各国の思惑が揃わず、人類全体が危機であることも知りつつ、温暖化だけでなく、生物種絶滅、食糧、水、資源など地球規模での問題は、解決しそうにはありません。
国も自由になるために地球環境より経済優先が自由主義、民主主義の世の中ではあたりまえに、まかり通っています。
国内を見ましても、組織、共同体、家族などは、個人の自由があまりにも尊重(強調)され、よい意味での自由(人のために尽くす自由、公共のために奉仕する自由)ではなく、完全に個人の欲望(物質的利害)、すなわちわがままかってが、さも当たり前のようにまかり通る時代になってきました。
教育も、進歩主義、非管理主義というイデオロギーのもと、基礎学力や公共の福祉に貢献することはほとんど、教えられずに社会人になっていきます。自分が幸せに生きる権利があり、自分は、だれからも束縛されない自由の身であると考えているようです。
それもいいのですが、他人のことや全体(公共)のことはあまり教えられていないので、秩序が保たれるわけがありません。
歴史的に見ても、農耕や牧畜を行うようになって人間は一箇所に定住できるようになり、そこから社会生まれ、社会が成熟(貧富の差ができる)し、人口も増えてくるとそこには必然的に、社会の秩序を維持するために宗教というものが生まれてきました。
社会においては、秩序維持(価値観の共有化)ということが、非常に大切な概念なのですが、これが、自由によって破壊されたといっても過言ではありません。
しかし、われわれ人間は、頭脳と意識と精神をもっていますので、自由と秩序を同時に成り立たせることも不可能ではありません。
これからの世の中は、最大自由と最大秩序を目指すというのも、一つのビジョンとして掲げることができます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/93/2d0456c697e7b92fbf3f3d2d8ac33b0a.png)
本日の学び
本話の要約
外界に存在する物質は、種々さまざまの姿形をとって存在している。これを客観的実在という。
これらの客観的実在はいずれもそれぞれ固有の法則にしたがって運動している。
客観的実在の固有の法則とその実際の運動、すなわち現実の運動との関係は、世界を深く認識する上できわめて大切なことである。
固有の存在様式をもっているのは、石や鳥などの自然物だけではない。社会を構成するもろもろの単位、町や市、学校からクラブや政党などのいろいろな組織にいたるまで、すべて固有の存在様式をもっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/83/b90292327c6626eebe5debcde0697bcf.png)
たとえば、サークルの活動が予期したようにのびていかないとき、そのサークルの固有の動き方をあらかじめあきらかにしようとはしないで、自分たちの思うようにむりに動かそうとする場合がないではない。
この場合、たとえ意識しないとしても、そのサークルが固有の法則をもつ客観的実在であることを忘れて、主観によってサークルの存在様式、すなわちサークルのあり方を定めることができると錯覚しているのである。サークル運動ばかりではない。
一国の経済もまたそうである。
社会の固有の動き方からはずれた指令は何の効果ももたらさない。
「物質が現実にとっている状態は、その固有の法則だけではなく、そのうえに、さらにいくつかの条件が付加されてはじめて定まる」
赤ちゃんの成長過程でみてみると、赤ちゃんは最初母乳を必要とした状態にあり、ついで普通の食事を必要とする状態に成長していく。
これは赤ちゃんの内部的な状態の変化である。母乳がいかにあたえられているか、またどの程度の時期に普通食が与えられるようになったかは、赤ちゃんに対する外的条件である。
外的条件は赤ちゃんの成長度合いに強い影響をあたえることは確かであるが、しかしその影響は赤ちゃんの成長の遅い早いを左右するのにとどまっている。
赤ちゃんがどのように成長していくか、すなわち最初母乳を必要としている状態から、成長してやがて普通食を必要とするようになるということは、赤ちゃんに特有な性質である。赤ちゃん自身の成長の法則である。
もし、赤ちゃんが母乳を必要とする状態になったときに十分な母乳があり、普通食を必要とする状態になったとき普通食が準備されていれば、赤ちゃんはすこやかに成長していく。
この赤ちゃんの成長過程もまた、次のことを私たちに教えてくれる。
すなわち、事物や現象は、その事物や現象を貫く法則と外的な条件によってその具体的なあり方、現実の形がきまってくるのであると。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/b6/6181b8666a6fcef24e07c1dd5a02c72d.png)
唯物論的世界観では、物質がそれぞれ固有の法則にしたがって運動しているという見方をとっている。その固有の法則は、豊富な事物・現象をひろくつらぬいている。
この意味で、世界は本質につらぬかれた現象の世界であるといってよいのであって、事物・現象の具体的な姿がすべて固有の法則だけできまるという運命の機械的決定論(宿命論)の立場に立っているのではない。
世界の事物・現象のひろい相互関連が外的条件としてはたらいて、本質につらぬかれた豊富な具体的な現実の世界が展開されているのである。
と著者は言っています。
ここから学ぶべきことは、たいへん多いと思います。
経営におきかえて考えましても、会社という客観的存在があり、それは固有の法則のもとに動いているということです。
例えば、会社で活動するときに考えられる固有の法則とは、社会に役立つ商品やサービスを提供すること、利益を出すこと、その中で働く人たちの成熟度や成長度にあわせて組織づくりをすること、その地域の伝統や文化を重んじて地域活動をすることなどです。
そのほとんどは、内部要因に起因するものです。
そこに外部要因、新しい商品やサービスを取り入れたり、その会社のステージにあった人材を登用したりしないと、企業経営はうまくいかないということです。
このことは、個人に置き換えても同じことだと思います。
人間という客観的実在は、内部に固有の法則を有しており、外的要因を適切に取り入れていくと、人生は意外と簡単なのかもしれません。
でも、おかしなことに人は、自分の考えていることとは正反対の行動をしてしまうこともありますので、世の中はおもしろいですね。