心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

一寸の虫にも五分の魂―固有の法則について―

2010年08月10日 | 哲学
 7月14日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、6名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第四話「一寸の虫にも五分の魂―固有の法則について―」です。



雑感
 自由の功罪につきまして
 自由というのは、歴史的にみますと、特に西洋では人類が自然、共同体、専制政治、伝統、文化などから自らが自由になるために勝ち取ってきたものだと思いますが、今ここに来て自由の功罪がはっきり見えるようになってきました。

 まず、功のほうですが、科学が発達したおかげで、地震など一部を除いて自然からの驚異に生命を脅かされずに、自由に生きられるようになりましたし、共同体からの束縛も自由の名のもとに解放されてきました。
 そして、なによりも自由がもたらしたのが、自由な発想やアイデアで世の中が進化したということです。
 
 われわれが、物資的に恩恵を受けているのはこの自由のおかげだと思います。したがって、世の中を進化・発展させようと思えば自由を制限しないほうがいいと思います。


 次に、自由の罪のほうですが、個人の自由を進展させますと、概して秩序が乱れてしまします。
 世界をみましても各国の思惑が揃わず、人類全体が危機であることも知りつつ、温暖化だけでなく、生物種絶滅、食糧、水、資源など地球規模での問題は、解決しそうにはありません。
 国も自由になるために地球環境より経済優先が自由主義、民主主義の世の中ではあたりまえに、まかり通っています。
 国内を見ましても、組織、共同体、家族などは、個人の自由があまりにも尊重(強調)され、よい意味での自由(人のために尽くす自由、公共のために奉仕する自由)ではなく、完全に個人の欲望(物質的利害)、すなわちわがままかってが、さも当たり前のようにまかり通る時代になってきました。
 教育も、進歩主義、非管理主義というイデオロギーのもと、基礎学力や公共の福祉に貢献することはほとんど、教えられずに社会人になっていきます。自分が幸せに生きる権利があり、自分は、だれからも束縛されない自由の身であると考えているようです。

 それもいいのですが、他人のことや全体(公共)のことはあまり教えられていないので、秩序が保たれるわけがありません。
 歴史的に見ても、農耕や牧畜を行うようになって人間は一箇所に定住できるようになり、そこから社会生まれ、社会が成熟(貧富の差ができる)し、人口も増えてくるとそこには必然的に、社会の秩序を維持するために宗教というものが生まれてきました。
 社会においては、秩序維持(価値観の共有化)ということが、非常に大切な概念なのですが、これが、自由によって破壊されたといっても過言ではありません。
 しかし、われわれ人間は、頭脳と意識と精神をもっていますので、自由と秩序を同時に成り立たせることも不可能ではありません。
 

 これからの世の中は、最大自由と最大秩序を目指すというのも、一つのビジョンとして掲げることができます。
 



 
 本日の学び
 本話の要約
 
 外界に存在する物質は、種々さまざまの姿形をとって存在している。これを客観的実在という。
 これらの客観的実在はいずれもそれぞれ固有の法則にしたがって運動している。
 客観的実在の固有の法則とその実際の運動、すなわち現実の運動との関係は、世界を深く認識する上できわめて大切なことである。
 
 固有の存在様式をもっているのは、石や鳥などの自然物だけではない。社会を構成するもろもろの単位、町や市、学校からクラブや政党などのいろいろな組織にいたるまで、すべて固有の存在様式をもっている。
 

 
 
 たとえば、サークルの活動が予期したようにのびていかないとき、そのサークルの固有の動き方をあらかじめあきらかにしようとはしないで、自分たちの思うようにむりに動かそうとする場合がないではない。
 この場合、たとえ意識しないとしても、そのサークルが固有の法則をもつ客観的実在であることを忘れて、主観によってサークルの存在様式、すなわちサークルのあり方を定めることができると錯覚しているのである。サークル運動ばかりではない。
 一国の経済もまたそうである。
 社会の固有の動き方からはずれた指令は何の効果ももたらさない。
 「物質が現実にとっている状態は、その固有の法則だけではなく、そのうえに、さらにいくつかの条件が付加されてはじめて定まる」
 

 赤ちゃんの成長過程でみてみると、赤ちゃんは最初母乳を必要とした状態にあり、ついで普通の食事を必要とする状態に成長していく。
 これは赤ちゃんの内部的な状態の変化である。母乳がいかにあたえられているか、またどの程度の時期に普通食が与えられるようになったかは、赤ちゃんに対する外的条件である。
 
 外的条件は赤ちゃんの成長度合いに強い影響をあたえることは確かであるが、しかしその影響は赤ちゃんの成長の遅い早いを左右するのにとどまっている。
 赤ちゃんがどのように成長していくか、すなわち最初母乳を必要としている状態から、成長してやがて普通食を必要とするようになるということは、赤ちゃんに特有な性質である。赤ちゃん自身の成長の法則である。

 もし、赤ちゃんが母乳を必要とする状態になったときに十分な母乳があり、普通食を必要とする状態になったとき普通食が準備されていれば、赤ちゃんはすこやかに成長していく。
 この赤ちゃんの成長過程もまた、次のことを私たちに教えてくれる。
 すなわち、事物や現象は、その事物や現象を貫く法則と外的な条件によってその具体的なあり方、現実の形がきまってくるのであると。
 







 
 唯物論的世界観では、物質がそれぞれ固有の法則にしたがって運動しているという見方をとっている。その固有の法則は、豊富な事物・現象をひろくつらぬいている。
 この意味で、世界は本質につらぬかれた現象の世界であるといってよいのであって、事物・現象の具体的な姿がすべて固有の法則だけできまるという運命の機械的決定論(宿命論)の立場に立っているのではない。
 世界の事物・現象のひろい相互関連が外的条件としてはたらいて、本質につらぬかれた豊富な具体的な現実の世界が展開されているのである。
 

 と著者は言っています。

 ここから学ぶべきことは、たいへん多いと思います。
 経営におきかえて考えましても、会社という客観的存在があり、それは固有の法則のもとに動いているということです。
 例えば、会社で活動するときに考えられる固有の法則とは、社会に役立つ商品やサービスを提供すること、利益を出すこと、その中で働く人たちの成熟度や成長度にあわせて組織づくりをすること、その地域の伝統や文化を重んじて地域活動をすることなどです。
 そのほとんどは、内部要因に起因するものです。
 そこに外部要因、新しい商品やサービスを取り入れたり、その会社のステージにあった人材を登用したりしないと、企業経営はうまくいかないということです。
 
 このことは、個人に置き換えても同じことだと思います。
 人間という客観的実在は、内部に固有の法則を有しており、外的要因を適切に取り入れていくと、人生は意外と簡単なのかもしれません。

 
 でも、おかしなことに人は、自分の考えていることとは正反対の行動をしてしまうこともありますので、世の中はおもしろいですね。


観念論と唯物論

2010年08月03日 | 哲学
6月16日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、7名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第三話「観念論と唯物論」です。

雑感
 最近、ある方の講演を聞く機会がありました。
 そのなかで、日本の人口問題について、語っておられました。
 
 日本の人口は、今が約一億二千万人、二〇五〇年には、九千万人と少子高齢化が進むなか、高齢化は医療の発達などによって寿命が伸びていくのでありがたい面もみられます。
 では、なぜ少子化が日本で進むのでしょうか。ということに対してその方は、「結婚しない」ことをあげられ、その理由として家族の価値観が否定された、すなわち、日本人は家族単位の集合体ではなく、一人ひとりの個人の集合体であることを指摘されました。
 引用されたのが、憲法や民法で、憲法の「第三章国民の権利及び義務」の第十条から第四十条までで権利という文字が16回、自由という文字が9回、責任という文字が3回、義務という文字が3回ということで、個人の権利と自由が強調された結果だということです。
 
 民法改正論議でもみられますように、嫡子と非嫡子の関係、夫婦別姓、事実婚・法律婚など家族を大事にするよりも個人の自由を尊重した結果、人口が減少している原因となっていると言われていました。
 

 
 私も、人口についてではなかったのですが、以前に秩序の乱れの原因として、思想、良心、信教、集会、結社、言論、出版、居住、移転、職業選択などの自由が認められていますが、そこには「公共の福祉」を言う文字が4回出てきて、「公共の福祉(みんなの幸せ)に反しない限り、自由ですよ」というのがほとんどの国民に浸透といいますか、あまり意識されていないのではないかと指摘しました。

 確かに、この憲法の精神が個人の自由や権利を重視するのは、歴史的背景からは十分に理解できますが、現代はそれが行き過ぎて弊害のほうが出始めているということです。
 地球環境問題を考える上でも、その視点なしでは根本的な施策はでてきません。
 
 
 要約しますと、個人の自由と権利の意識から義務と責任、そして個人から公共(みんな)のことを重視すると家族の絆が強くなり、子ども中心の、すなわち自分が楽しむことより子どもを育てるのが当たり前の社会となり、人口も増え、共同体を大事にするということで公共心も養われ、秩序だった若い社会が実現し、われわれ庶民に活気が満ち溢れ、暮らしやすい社会になるということです。









本日の学び
 本話の要約
 世界観には二つあり、一つは観念論で、もう一つは唯物論である。これらはそれぞれどのような世界観であるかが、第三話の目的です。
 
 私たちの精神と外界をふくんだ世界全体にたいする見方を世界観という。
 世界観とは、自然、社会および人間の精神活動など全体に対する見解である。
 
 世界観に関して、最も重要な問題は、物質と精神との関係にかんする問題、存在と意識との関係に関する問題であることがわかる。
 そして、この問題に対する態度によって、いいかえれば外界すなわち物質から独立した精神の存在を認めるかどうかを巡って、哲学は二つの陣営に分裂してきた。
 
 正しい世界観とは、自然、社会、認識という世界全体に関するさまざまな問題に対して、納得のいく説明をあたえるものでなければならない。



 精神の誕生について
 さて私は母親の胎内に宿りはじめ、やがてこの世にうぶ声をあげた。
 そのとき、私は物を見ることも音を聞くこともできなかった。私の精神はまだ生まれていなかった。

 「そんなことはない。赤ちゃんは最初から精神を持っているのだ」と考える人もあるかもしれない。それなら話をもう一〇ケ月さかのぼってもよい。
 そのときまでさかのぼれば、私はまだこの世に、ほんのかけらも存在していなかったから、私の精神もまたこの世に存在していない。
 私が体内で成長し、やがてこの世に生まれて成長するにつれていつしか私の体には精神が宿りはじめたのである。
 





 この私の成長を私の両親はじっと見守っていてくれた。私のからだが日一日と大きくなり、やがて物を見分け、話すことばを聞き分けるようになって、しだいに私のなかに精神が形づくられていった。
 
 このように、精神の発生と発達は、一人ひとりの人間の成長をとおして見ることができるが、ここでもう少し視野をひろげて考えてみよう。
 
 この地球は、宇宙が誕生してから約四五億年くらい経過している。
 いまから三五億年前には、すでにラン藻の類が存在していた。長い時間が経過して、生物はしだいに進化し、高等動物があらわれ、ついに人類の出現となった。
 この進化の過程のなかでしだいに精神がこの地上に生まれてきたのである。当初、荒涼とした自然があって、やがて精神のもつ生物があらわれてきた。これが事実である。当初はあなたや私を構成することになる原子や分子である。
 
 この事実は、つぎのことを示している。すなわち精神が自然の本源ではなく、自然の方が本源的であって、精神は自然のなかから生まれてくるものである。
 この意味で精神は物質の産物であるといわなければならない。精神は物質とたいへん異なるものである。
 この異質な精神が自然の発展のある段階で生成したのである。






と本話にはあります。
 精神について日頃あまり考えることは少ないですが、精神が物質から生まれてきたという解釈です。
 確かにこのような説明を受けるとそう考えるのが妥当だと思いますが、一三七億年前に宇宙が誕生して以来、宇宙は変化しつづけていますが、これの原因はなんでしょうか?
 精神的な作用の存在は考えられないでしょうか?
 素粒子から宇宙が誕生したとするとやはり物質がさきなのでしょうか?
 しかし、素粒子の存在はある範囲でしか特定できない、すなわち、素粒子がまるで意識を有しているかのような存在と見ることもできるのではないでしょうか。
 そうすると、宇宙誕生と同時に物質と精神が同時に存在していたということも言えるのではないでしょうか。
 このときの精神はたいへん未発達ではありますが、物質の変化とともにそれにあわせて精神も著しく発展して太陽の動きや地球の動きを制御できるようになったのではないでしょうか。そして宇宙意思や精神を生物である私たちが引き継いだのではないでしょうか。
 そう考えると唯物論か観念論かという議論も無駄なものかもしれません。
 もともとが同質のものであるという考え方もでてきて不思議ではない気がします。最近では、人間の精神が物質に直接作用することや、念じれば、物質や社会がかわるということもよく目にしますが、このように考えると矛盾がなくなるように思います。
 
 ただこの世の中は、たいへん面白くて、ある考えを思い浮かべるとその瞬間に正反対の考えがどこかで発生しているのが真実のような気がします。
 物質にも正物質と反物質があるように。
 
 この考え方は、あくまで私のあまり根拠のない推論であり、空想でありますので、皆様方に解釈はゆだねます。