9月15日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第六話「情報について」です。
雑感
西洋と東洋のはざまで
現代日本社会は、西洋と東洋そして日本固有のものや精神が入り混じっています。
経済では、1980年代の後半に一人当たりのGDPで一位になり、そして金余りを背景に資産バブルを引き起こしました。
そしてその回復に国内の問題とともに、世界の動きに大きな影響を受け、右往左往しているうちに、中国やインドなど(BRICS)の新興国が俄然元気になってきました。そのおかげで日本も本質的な問題を内包したまま2003年ころより、外需により景気が回復してきました。そしてそこでアメリカで起こったのが、サブプライムローン問題でした。
2008年9月15日、リーマンショックが全世界を席巻し、一挙に様相が変わりました。そのあと、世界はお金をジャブジャブにして破綻を回避し、日本は、比較的被害が少なかったとほとんど無策で円高や株安に対して流されるままにここまできました。
今の日本は、「デフレ」と「自分さえよけりゃ病」で、閉塞感に覆われています。しかし、そのこと(閉塞感ではなく現状)を認識していない人もいます。
西洋では、「個人の自由(欲望)」が優先され、すべてにおいて自由ということで、秩序の著しい崩壊を起こし、2極化(お金よりも学ぶ力)を加速させています。経済においては、資本主義という形で現れています。
もう一つ、共産主義というのがあり、平等を重んじるあまり、「全体」が優先され、ちょっとでも秩序を乱すものは、押さえ込む。
これでは、よい意味でも悪い意味でも世界の発展はありません。
この考え方は、いまだに存在しますが、主流ではなくなりましたし、資本主義よりに修正が加えられました。
資本主義と共産主義は本来、生産手段と分配方法の違いなのですが、現実問題としてその目的を達成しようとするならば、その奥に潜む考え方ややり方や現実がどうなったかを知っておく必要があるでしょう。
東洋は東洋で、個人の欲望を抑えることこそ人間の生きる道だと教えた釈迦の思想は、西洋の近代合理主義とは、正反対の考え方です。
今の地球環境問題に表されているように、欲望に流されていたら絶対に人間は幸福になれない、という考えです。
こんな中でわれわれは、どのように活路を見いだしていけばよいのでしょうか。
一つのアイデアとして「共同体内自由主義」というのが頭に浮かびました。
自由というのは、人間が生きる上においてたいへん重要です。よい意味での自由(社会に益になる)は、どんどん伸ばせるようにし、悪い意味での自由(社会の秩序を乱す自分勝手な自由)は、共同体内である程度、監視しあい、けん制しあうようにすればよいという考えです。
こんな考えよりも自然と無理やり意識を働かせないでも丸く収まっていく世の中がやってくるかも知れませんね。
本日の学び
本話より抜粋
情報とはなんであろうか。この何となくわかったようなわからないようなものを、唯物論の立場で理解することができるものであろうか。
情報の意味
私たちは、いろいろな情報を受けとったとき、これは意味ある情報だな、いやこれはあまり意味のない情報だなどとそのつど判断する。
そして意味のあるものこそ情報というべきもので、無意味なものは情報というに値しないと考える。
情報の意味は、情報自身にもともとあるのではなく、これを受けとった人がつくり出すものである。
そしていうまでもないことであるが、意味や価値の生成もまた人の意識の高度の働きの結果である。
野球試合の中継
一年のうち多くの日には野球試合のテレビ中継がある。
テレビのチャンネルを合わせたとたんに試合の映像が眼にはいるが、私たちはこれを少しも不思議に思わない。
しかしながら考えてみるとこれは不思議なことである。野球の現場と家庭をつないでいるのは電波である。
それ以外のものではない。屋上のアンテナは電波をつかまえる。このときアンテナには弱い電流が流れてテレビの受信機にはいる。
さいごには音という空気の振動と画面の映像からの光が私たちにとどく。この事実全体を逆の角度から眺めてみてはどうか。
つまり、電波、アンテナ受信機を伝わっていくものはいろいろであっても、そのなかを変わりなく伝わっているものがあるはずで、それこそが野球の情報ではないかと。
情報の特徴は、どの道すじをとって伝わっても、道すじのどの段階においても変わりなく伝えられていく点にあると考えてよさそうである。
媒体と情報
さきほどの電波や電流にしても、また空気の震動にしてもこれらは野球試合の映像や音声を表現しているものである。
電気や空気のように、情報をあらわしているものを媒体といい、媒体上のなんらかの変化によって情報をあらわすことを情報の表現という。
コンピュータの話では磁気テープを部分的に磁石にして、情報を記憶させることをのべたが、これは媒体の物質の物理的変化を用いて情報を表現しているのである。
このほか、社会の組織が情報を表現することも多い。この場合には組織が媒体になっている。
さていま定義した用語を用いると、情報の特徴は、その内容がこれを表現する媒体によらないものということができる。
媒体によらないため、これを表現するのに、ごく少量の物質ですむこともあれば、これを扱うのに必要なエネルギーもわずかですますこともできる。実際、コンピュータのなかの集積回路はきわめて小さい。
このことを強調して、よく情報は物質とエネルギーが零でも存在するという人がいる。しかしながら、いまのべてきたことからもわかるように、情報はけっして物質とは独立に存在するものではない。それは物質の運動の一つの断面である。
いまや情報の内容とは何かについて答えることができる。
それはたがいに区別されていることである。
物体の集合があるとき、物質のいろいろな性質をひとまとめにして考えたとき、あるいはいくつかの現象を考えたとき、これらはいずれもたがいに区別されたものである。
わたしたちが情報と呼んでいるものは、この区別自身をいろいろな形で表現したものである。
したがって、情報とは表現された区別であるということができる。
情報はまことにとらえにくく、客観的実在のなかにおさまりにくいように思えるが、このように考えていくと、それは客観的実在の存在様式の一つであるということができる。
以上、筆者は語っています。
ここから学べることは、情報の意味は、情報自身にあるのではなく、これを受け取った人がつくり出すものであるということから、私自身が話していることも、相手が私の話しに意味を見いだしたときに情報となるのであって、発信したからといって、全員が聞いているとは限らないということです。
受け手側に優先権があるのであれば、聞いてもらいやすいように(相手に意味を持たせるように)お膳立てをしておかなければならないということです。
それと、世の中の有益な情報を自分にとって意味あるものとすることができる人は、自己向上が早いということです。なんでもかんでも学ぶのではなく、よい情報を学ぶことがわれわれの人間の質を決定づけるということにもなります。
次に、野球放送の例にもありましたが、遠くでのできごとが、電波という目に見えない波を媒体として、いろいろな場所にいるわれわれの目の前で音と映像で見聞きできるということは、考えてみれば不思議なことです。
電波と空気の振動と光の運動には統一性があり、世界中どこにいても同じ映像や音を聞くことができるということです。
このことから、世界は共通の秩序で動いているということがわかります。
したがって、人体も自然の一部として動いており、けっして独立しては存在し得ないものだということです。
意識などの精神活動も、自然の節理のなかに組み込まれたある運動法則のもとに行われているというのが自然的な考え方であることが伺えます。
したがって、あまりに自然の法則から逸脱した考えや行動は、どこかで支障をきたすような気がします。われわれも自然に敬意を払い、自然を研究することで自然にそった生き方をするならば、永遠に種として存続できるかもしれません。
そして最後に、「情報とは表現された区別」であるといのは、人の名前と一緒で、名前がその人の内容を表しているのではなく、他人と違うということを示しているのだということです。
ですから、その情報から何を得るのかは、その人の自由であるわけですから、この世に情報が現実として氾濫しているということは、氾濫から更に情報がさまざまに受け取られるということですから、世の中はますます、複雑化、多様化していくということです。
ITの進展によってますますそのことが加速化していっているのが現代ではないでしょうか。
このことからも、われわれ人間としての考え方、生き方が見えてきます。
雑感
西洋と東洋のはざまで
現代日本社会は、西洋と東洋そして日本固有のものや精神が入り混じっています。
経済では、1980年代の後半に一人当たりのGDPで一位になり、そして金余りを背景に資産バブルを引き起こしました。
そしてその回復に国内の問題とともに、世界の動きに大きな影響を受け、右往左往しているうちに、中国やインドなど(BRICS)の新興国が俄然元気になってきました。そのおかげで日本も本質的な問題を内包したまま2003年ころより、外需により景気が回復してきました。そしてそこでアメリカで起こったのが、サブプライムローン問題でした。
2008年9月15日、リーマンショックが全世界を席巻し、一挙に様相が変わりました。そのあと、世界はお金をジャブジャブにして破綻を回避し、日本は、比較的被害が少なかったとほとんど無策で円高や株安に対して流されるままにここまできました。
今の日本は、「デフレ」と「自分さえよけりゃ病」で、閉塞感に覆われています。しかし、そのこと(閉塞感ではなく現状)を認識していない人もいます。
西洋では、「個人の自由(欲望)」が優先され、すべてにおいて自由ということで、秩序の著しい崩壊を起こし、2極化(お金よりも学ぶ力)を加速させています。経済においては、資本主義という形で現れています。
もう一つ、共産主義というのがあり、平等を重んじるあまり、「全体」が優先され、ちょっとでも秩序を乱すものは、押さえ込む。
これでは、よい意味でも悪い意味でも世界の発展はありません。
この考え方は、いまだに存在しますが、主流ではなくなりましたし、資本主義よりに修正が加えられました。
資本主義と共産主義は本来、生産手段と分配方法の違いなのですが、現実問題としてその目的を達成しようとするならば、その奥に潜む考え方ややり方や現実がどうなったかを知っておく必要があるでしょう。
東洋は東洋で、個人の欲望を抑えることこそ人間の生きる道だと教えた釈迦の思想は、西洋の近代合理主義とは、正反対の考え方です。
今の地球環境問題に表されているように、欲望に流されていたら絶対に人間は幸福になれない、という考えです。
こんな中でわれわれは、どのように活路を見いだしていけばよいのでしょうか。
一つのアイデアとして「共同体内自由主義」というのが頭に浮かびました。
自由というのは、人間が生きる上においてたいへん重要です。よい意味での自由(社会に益になる)は、どんどん伸ばせるようにし、悪い意味での自由(社会の秩序を乱す自分勝手な自由)は、共同体内である程度、監視しあい、けん制しあうようにすればよいという考えです。
こんな考えよりも自然と無理やり意識を働かせないでも丸く収まっていく世の中がやってくるかも知れませんね。
本日の学び
本話より抜粋
情報とはなんであろうか。この何となくわかったようなわからないようなものを、唯物論の立場で理解することができるものであろうか。
情報の意味
私たちは、いろいろな情報を受けとったとき、これは意味ある情報だな、いやこれはあまり意味のない情報だなどとそのつど判断する。
そして意味のあるものこそ情報というべきもので、無意味なものは情報というに値しないと考える。
情報の意味は、情報自身にもともとあるのではなく、これを受けとった人がつくり出すものである。
そしていうまでもないことであるが、意味や価値の生成もまた人の意識の高度の働きの結果である。
野球試合の中継
一年のうち多くの日には野球試合のテレビ中継がある。
テレビのチャンネルを合わせたとたんに試合の映像が眼にはいるが、私たちはこれを少しも不思議に思わない。
しかしながら考えてみるとこれは不思議なことである。野球の現場と家庭をつないでいるのは電波である。
それ以外のものではない。屋上のアンテナは電波をつかまえる。このときアンテナには弱い電流が流れてテレビの受信機にはいる。
さいごには音という空気の振動と画面の映像からの光が私たちにとどく。この事実全体を逆の角度から眺めてみてはどうか。
つまり、電波、アンテナ受信機を伝わっていくものはいろいろであっても、そのなかを変わりなく伝わっているものがあるはずで、それこそが野球の情報ではないかと。
情報の特徴は、どの道すじをとって伝わっても、道すじのどの段階においても変わりなく伝えられていく点にあると考えてよさそうである。
媒体と情報
さきほどの電波や電流にしても、また空気の震動にしてもこれらは野球試合の映像や音声を表現しているものである。
電気や空気のように、情報をあらわしているものを媒体といい、媒体上のなんらかの変化によって情報をあらわすことを情報の表現という。
コンピュータの話では磁気テープを部分的に磁石にして、情報を記憶させることをのべたが、これは媒体の物質の物理的変化を用いて情報を表現しているのである。
このほか、社会の組織が情報を表現することも多い。この場合には組織が媒体になっている。
さていま定義した用語を用いると、情報の特徴は、その内容がこれを表現する媒体によらないものということができる。
媒体によらないため、これを表現するのに、ごく少量の物質ですむこともあれば、これを扱うのに必要なエネルギーもわずかですますこともできる。実際、コンピュータのなかの集積回路はきわめて小さい。
このことを強調して、よく情報は物質とエネルギーが零でも存在するという人がいる。しかしながら、いまのべてきたことからもわかるように、情報はけっして物質とは独立に存在するものではない。それは物質の運動の一つの断面である。
いまや情報の内容とは何かについて答えることができる。
それはたがいに区別されていることである。
物体の集合があるとき、物質のいろいろな性質をひとまとめにして考えたとき、あるいはいくつかの現象を考えたとき、これらはいずれもたがいに区別されたものである。
わたしたちが情報と呼んでいるものは、この区別自身をいろいろな形で表現したものである。
したがって、情報とは表現された区別であるということができる。
情報はまことにとらえにくく、客観的実在のなかにおさまりにくいように思えるが、このように考えていくと、それは客観的実在の存在様式の一つであるということができる。
以上、筆者は語っています。
ここから学べることは、情報の意味は、情報自身にあるのではなく、これを受け取った人がつくり出すものであるということから、私自身が話していることも、相手が私の話しに意味を見いだしたときに情報となるのであって、発信したからといって、全員が聞いているとは限らないということです。
受け手側に優先権があるのであれば、聞いてもらいやすいように(相手に意味を持たせるように)お膳立てをしておかなければならないということです。
それと、世の中の有益な情報を自分にとって意味あるものとすることができる人は、自己向上が早いということです。なんでもかんでも学ぶのではなく、よい情報を学ぶことがわれわれの人間の質を決定づけるということにもなります。
次に、野球放送の例にもありましたが、遠くでのできごとが、電波という目に見えない波を媒体として、いろいろな場所にいるわれわれの目の前で音と映像で見聞きできるということは、考えてみれば不思議なことです。
電波と空気の振動と光の運動には統一性があり、世界中どこにいても同じ映像や音を聞くことができるということです。
このことから、世界は共通の秩序で動いているということがわかります。
したがって、人体も自然の一部として動いており、けっして独立しては存在し得ないものだということです。
意識などの精神活動も、自然の節理のなかに組み込まれたある運動法則のもとに行われているというのが自然的な考え方であることが伺えます。
したがって、あまりに自然の法則から逸脱した考えや行動は、どこかで支障をきたすような気がします。われわれも自然に敬意を払い、自然を研究することで自然にそった生き方をするならば、永遠に種として存続できるかもしれません。
そして最後に、「情報とは表現された区別」であるといのは、人の名前と一緒で、名前がその人の内容を表しているのではなく、他人と違うということを示しているのだということです。
ですから、その情報から何を得るのかは、その人の自由であるわけですから、この世に情報が現実として氾濫しているということは、氾濫から更に情報がさまざまに受け取られるということですから、世の中はますます、複雑化、多様化していくということです。
ITの進展によってますますそのことが加速化していっているのが現代ではないでしょうか。
このことからも、われわれ人間としての考え方、生き方が見えてきます。