心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

情報について

2010年09月23日 | 哲学
 9月15日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第六話「情報について」です。


雑感
 西洋と東洋のはざまで
 

 現代日本社会は、西洋と東洋そして日本固有のものや精神が入り混じっています。
 経済では、1980年代の後半に一人当たりのGDPで一位になり、そして金余りを背景に資産バブルを引き起こしました。
 そしてその回復に国内の問題とともに、世界の動きに大きな影響を受け、右往左往しているうちに、中国やインドなど(BRICS)の新興国が俄然元気になってきました。そのおかげで日本も本質的な問題を内包したまま2003年ころより、外需により景気が回復してきました。そしてそこでアメリカで起こったのが、サブプライムローン問題でした。
 2008年9月15日、リーマンショックが全世界を席巻し、一挙に様相が変わりました。そのあと、世界はお金をジャブジャブにして破綻を回避し、日本は、比較的被害が少なかったとほとんど無策で円高や株安に対して流されるままにここまできました。

 今の日本は、「デフレ」と「自分さえよけりゃ病」で、閉塞感に覆われています。しかし、そのこと(閉塞感ではなく現状)を認識していない人もいます。





 西洋では、「個人の自由(欲望)」が優先され、すべてにおいて自由ということで、秩序の著しい崩壊を起こし、2極化(お金よりも学ぶ力)を加速させています。経済においては、資本主義という形で現れています。
 
 もう一つ、共産主義というのがあり、平等を重んじるあまり、「全体」が優先され、ちょっとでも秩序を乱すものは、押さえ込む。
 これでは、よい意味でも悪い意味でも世界の発展はありません。
 この考え方は、いまだに存在しますが、主流ではなくなりましたし、資本主義よりに修正が加えられました。

 資本主義と共産主義は本来、生産手段と分配方法の違いなのですが、現実問題としてその目的を達成しようとするならば、その奥に潜む考え方ややり方や現実がどうなったかを知っておく必要があるでしょう。
 
 東洋は東洋で、個人の欲望を抑えることこそ人間の生きる道だと教えた釈迦の思想は、西洋の近代合理主義とは、正反対の考え方です。
 今の地球環境問題に表されているように、欲望に流されていたら絶対に人間は幸福になれない、という考えです。 
 
 こんな中でわれわれは、どのように活路を見いだしていけばよいのでしょうか。
一つのアイデアとして「共同体内自由主義」というのが頭に浮かびました。

 自由というのは、人間が生きる上においてたいへん重要です。よい意味での自由(社会に益になる)は、どんどん伸ばせるようにし、悪い意味での自由(社会の秩序を乱す自分勝手な自由)は、共同体内である程度、監視しあい、けん制しあうようにすればよいという考えです。
 
 こんな考えよりも自然と無理やり意識を働かせないでも丸く収まっていく世の中がやってくるかも知れませんね。



本日の学び
本話より抜粋

 情報とはなんであろうか。この何となくわかったようなわからないようなものを、唯物論の立場で理解することができるものであろうか。



 情報の意味
 私たちは、いろいろな情報を受けとったとき、これは意味ある情報だな、いやこれはあまり意味のない情報だなどとそのつど判断する。
 そして意味のあるものこそ情報というべきもので、無意味なものは情報というに値しないと考える。
 情報の意味は、情報自身にもともとあるのではなく、これを受けとった人がつくり出すものである。
 そしていうまでもないことであるが、意味や価値の生成もまた人の意識の高度の働きの結果である。





 野球試合の中継
 一年のうち多くの日には野球試合のテレビ中継がある。
 テレビのチャンネルを合わせたとたんに試合の映像が眼にはいるが、私たちはこれを少しも不思議に思わない。

 しかしながら考えてみるとこれは不思議なことである。野球の現場と家庭をつないでいるのは電波である。
それ以外のものではない。屋上のアンテナは電波をつかまえる。このときアンテナには弱い電流が流れてテレビの受信機にはいる。
 さいごには音という空気の振動と画面の映像からの光が私たちにとどく。この事実全体を逆の角度から眺めてみてはどうか。
 つまり、電波、アンテナ受信機を伝わっていくものはいろいろであっても、そのなかを変わりなく伝わっているものがあるはずで、それこそが野球の情報ではないかと。
 情報の特徴は、どの道すじをとって伝わっても、道すじのどの段階においても変わりなく伝えられていく点にあると考えてよさそうである。


 媒体と情報
 
 さきほどの電波や電流にしても、また空気の震動にしてもこれらは野球試合の映像や音声を表現しているものである。
 電気や空気のように、情報をあらわしているものを媒体といい、媒体上のなんらかの変化によって情報をあらわすことを情報の表現という。




 コンピュータの話では磁気テープを部分的に磁石にして、情報を記憶させることをのべたが、これは媒体の物質の物理的変化を用いて情報を表現しているのである。
 このほか、社会の組織が情報を表現することも多い。この場合には組織が媒体になっている。
 さていま定義した用語を用いると、情報の特徴は、その内容がこれを表現する媒体によらないものということができる。
 媒体によらないため、これを表現するのに、ごく少量の物質ですむこともあれば、これを扱うのに必要なエネルギーもわずかですますこともできる。実際、コンピュータのなかの集積回路はきわめて小さい。
 このことを強調して、よく情報は物質とエネルギーが零でも存在するという人がいる。しかしながら、いまのべてきたことからもわかるように、情報はけっして物質とは独立に存在するものではない。それは物質の運動の一つの断面である。


  いまや情報の内容とは何かについて答えることができる。
 それはたがいに区別されていることである。
 物体の集合があるとき、物質のいろいろな性質をひとまとめにして考えたとき、あるいはいくつかの現象を考えたとき、これらはいずれもたがいに区別されたものである。
 わたしたちが情報と呼んでいるものは、この区別自身をいろいろな形で表現したものである。
 したがって、情報とは表現された区別であるということができる。
 情報はまことにとらえにくく、客観的実在のなかにおさまりにくいように思えるが、このように考えていくと、それは客観的実在の存在様式の一つであるということができる。

以上、筆者は語っています。


 ここから学べることは、情報の意味は、情報自身にあるのではなく、これを受け取った人がつくり出すものであるということから、私自身が話していることも、相手が私の話しに意味を見いだしたときに情報となるのであって、発信したからといって、全員が聞いているとは限らないということです。

 受け手側に優先権があるのであれば、聞いてもらいやすいように(相手に意味を持たせるように)お膳立てをしておかなければならないということです。
 それと、世の中の有益な情報を自分にとって意味あるものとすることができる人は、自己向上が早いということです。なんでもかんでも学ぶのではなく、よい情報を学ぶことがわれわれの人間の質を決定づけるということにもなります。

 
 次に、野球放送の例にもありましたが、遠くでのできごとが、電波という目に見えない波を媒体として、いろいろな場所にいるわれわれの目の前で音と映像で見聞きできるということは、考えてみれば不思議なことです。
 電波と空気の振動と光の運動には統一性があり、世界中どこにいても同じ映像や音を聞くことができるということです。
 このことから、世界は共通の秩序で動いているということがわかります。
 したがって、人体も自然の一部として動いており、けっして独立しては存在し得ないものだということです。

 意識などの精神活動も、自然の節理のなかに組み込まれたある運動法則のもとに行われているというのが自然的な考え方であることが伺えます。
 
 したがって、あまりに自然の法則から逸脱した考えや行動は、どこかで支障をきたすような気がします。われわれも自然に敬意を払い、自然を研究することで自然にそった生き方をするならば、永遠に種として存続できるかもしれません。

 
 そして最後に、「情報とは表現された区別」であるといのは、人の名前と一緒で、名前がその人の内容を表しているのではなく、他人と違うということを示しているのだということです。
 ですから、その情報から何を得るのかは、その人の自由であるわけですから、この世に情報が現実として氾濫しているということは、氾濫から更に情報がさまざまに受け取られるということですから、世の中はますます、複雑化、多様化していくということです。
 ITの進展によってますますそのことが加速化していっているのが現代ではないでしょうか。

 
 このことからも、われわれ人間としての考え方、生き方が見えてきます。

地震計とコンピュータ

2010年09月21日 | 哲学
8月18日(水)哲学学習会を会社で実施しました。
 参加人数は、11名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第五話「地震計とコンピュータ」です。


雑感
 自由の功罪につきまして
 自由というのは、歴史的にみますと、特に西洋では人類が自然、共同体、専制政治、過去、伝統、文化などから自らが自由になるために勝ち取ってきたものだと思いますが、今ここに来て自由の功罪がはっきり見えるようになってきました。

 まず、功のほうですが、宗教などの観念に束縛されず、事実を観察しましょうということで科学が発達したおかげで、地震など一部を除いて自然の驚異から逃れることができたり、いろいろな機械を発明してわれわれの生活が便利になったり、医療が発達することによって病苦から逃れられたり、寿命が伸びたり、化学が発達したおかげで食糧を大量に確保できるようになりました。
 これは、人びとが自由にアイデアを出し、自由にものづくりをし、自由にものを売り買いできるようになったおかげが大きいと思います。

 
 しかし、罪のほうも明らかに存在すると思います。自由は、自由でもこちらのほうは自分勝手な自由がいき過ぎると思います。社会という枠組みの中では、ルールが重要な役割を果たします。
 例えば、赤信号で止まる、というルールがあってもこれを無視すれば現代では、交通事故で多くの犠牲者を出すことになるでしょう。

 経済の世界でいえば、お金儲けをして贅沢に、誰からも束縛されずに自由気ままに暮らしたいということで、武器や麻薬やお金でお金を儲けようとみんながしようとするとどんな世の中になってしまうでしょうか。
 武器や麻薬だけでなく、お金儲けのために普通にわれわれが必要とする物品供給を寡占してしまうような企業が死に物狂いで競争していたらどうなるのでしょうか。これは、確実に一部の大金持ちと大半の貧乏な人に分かれていくでしょう。

 このような世の中になりますと普通の人が普通に生活していくこと自体を難しくしていっているのが現代です。
 
 それがあまりにも行きすぎた例が、2008年のサブプライムローン問題でしょう。
そのことに、嫌気をさした市民たちが行動を起こした結果が、米国の民主党のオバマ大統領の誕生であり、同じく日本も2009年9月に誕生した民主党政権です。
 
 ヨーロッパでも労働党の政権が多く存在しているのは、行きすぎた資本主義をけん制しようとする動きであると思います。ただこの動きは、個人レベルで考えると個人の自由と本来つながっているのですが、ここを市民レベルで改めようとする動きはあまり見当たりません。






本日の学び
本話の要約
 意識・精神の起源をいくだんにもはるかにたどっていけば、生物以前の無機質のもつ相互関連性にゆきつく。
 相互に関連し合う二つの事物の一方には、他方の事物の運動の影響があらわれている。
 いわば無機物質が他の無機物質の状態を映し出している。これを無機物質の反応性という。
 無機物質の反映性を地球の公転、地震計とコンピュータの例から取り出してみよう。

 
 地震は、地殻の運動の一側面である。これに対して、地震計の波形はグラフ用紙の上に描かれたもので、用紙の上に適当におかれたインクの微粒子の集合体のあり方であって、この意味では集合体自身の存在様式の一側面であるとみることができよう。

 このように、両者は、いずれもそれぞれ互いにまったく異なる物質の側面である。地殻の震動そのものとインクで描かれた波形自身とは、物質としてもまた物質の運動状態としても直接の共通点はなんらもたないと考えるべきである。

 しかしながら、いままでのべてきたように、地震計上のグラフを見ればわかるように、両者は互いにけっして無関係ではない。
 実際、グラフ用紙上の波形は地殻の震動の変化に応じてきまってくる。ということは、波形は、地殻の震動を反映しているということができよう。

 




 さてここで、コンピュータを用いて一つの装置を組み立ててみよう。
 この装置は、寒暖計と時計とコンピュータを結んだもので、一時間ごとに気温が磁気テープ上に記録されるようになっているとする。
 気温は地上の気象状態をあらわすものであって、いわば地球の状態に関するものである。
 これにたいして磁気テープは、地球という物質とまったく異なる物質であって、その上の記録は磁気的状態であって、物理的には関係のない物質的状態である。

 しかしながら、これに応じて磁気テープ上の磁化状態が変化する。この点は、先にのべた地球の震動と地震計の関係とまったく同じであって、磁気テープ上の磁気的状態は地上の気温を反映している。つまり、気象という状態と磁化という状態とは物理的にみるとほとんど関係がないが、情報的には密接な関係をもっているといえよう。


 「生きている」という存在様式
 
 コンピュータは、その動きのはじめから終わりにいたるまで、あらかじめ指示されたとおりに作動することを述べてきたわけだが、この点は、生物とまったく異なっている。
 生物の個体は、すべてそれ自身独立して存在するものである。

 生物のなかには、植物もあれば動物もある。動物のなかにも珊瑚や海綿のように、一見生きているのかいないのかわからないようなものから人間などの霊長類まで、多種多様なものがふくまれている。
 しかしながら、よく調べてみると、これら動物や植物も、全部細胞という生きている小さな単位の集まりであって、生物の個体のおのおのは、個体をつくる個々の細胞自身も細胞の集まりとしての個体全体としても、活発なあり方、存在様式を示している。
 




 「生きている」という存在様式の特徴を取り出すことはたいへんむずかしいことである。
 生物はたえず外から物質をとり入れ、これを体内で変化させ、多くの必要な物質を合成し、また不要になったものを分解して体外に排出している。
 このはたらきを新陳代謝と呼んでいる。また生物はそのあり方の本来の姿として個体から個体を生む。つまり増殖する。
 そして、このことと不可分のこととして生物の各個体には誕生と死という事実が存在する。


 人間はこの生きている存在としての生物の頂点にある。
 その人間のはたらきの本質的な部分に意識のはたらきがある。意識のはたらき、すなわち、感情、意思、知識などに関する活動をふくむ人間の心のはたらき全体は、まことに人間に特有のものである。
 しかしながら、この特有のはたらきも人間にいたって突然にあらわれたものではない。
 細胞一個の生物から人間にいたる各段階の生物が、その生物全体の進化に応じて、環境に対する反応の仕方、すなわち外界から刺激をうけ、これに反応するその仕方を進化させてきたのである。
 その進化の頂点として人間の意識があらわれてきた。

 

 物質は互いに絶えず相互に作用をおよぼしあっている。
 この反映性はつねに不完全で偶発的である。
 しかしながら、もし適当な装置を組み立てれば、これらの不完全な反映性も有用なものとなる。これが地震計やコンピュータであった。
 
 生物の外界にたいする反応性はこれらの物質の相互作用一般に見られる反映性に、生物という立場で「生きている」ことの一面として能動性が加わり、いちじるしく発展して安定化したものであると考えられる。

と筆者は言っています。







 本日の学びもたくさんありました。
 まず、物質同士では、必ず反映性が存在し、お互いに絶えず相互作用を及ぼしているということです。人間が装置さえつくれば、地殻の変動のようなものでも間接的にその動きを正確に知ることができます。

 そして、そこから生物が発生してくるわけですが、生物同士ももちろん反映性があり、それに加え、もっと積極的な反応性が姿を現してきます。
 そして、意識の働きを持った人間へと進化発展していきます。
 人間の進化発展は、やはり自然に存在するあらゆるものから影響をうけ、だんだんに高度にしかも必然的に行われてきたということです。
 
 人間は確実に自然の一部であり、自然から生かされている存在であり、違う言い方をすれば、今のところ地球という大きな自然(宇宙)は、人間を生かすために存在しているといってもいいかもしれません。
 但し、今の地球環境問題などでいわれているように、急激な変化には、人間といえども全員が対応するのは難しいのではないでしょうか。
 
 いま一つは、物質でも相互の影響をうけるのですから、ましてや高度な意識をもった人間同士が存在していて影響を受けないわけがありません。

 ということは、社会をよくしようとするならば、われわれ自身がよい行いをして、他人に知らず知らずに与えている影響をよくするということが重要ですね。
 自分勝手な行動は、厳に慎まなくてはいけません。
 そしてそのことを広く子どもにまで、しつけていく必要があるのではないでしょうか。