心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

生命について

2009年09月23日 | 哲学
9月16日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、9名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十七話 生命について」です。


所感
 前回、現代では、普遍性や客観性を執拗に追及するよりも、「心」や「社会」の問題は、他の人との関係性を重視する時代と申しました。
 
今回は、関係性について考えて見ましょう。私たちは、いろいろな社会とかかわりをもっています。それぞれの社会のとのかかわり方を明確にしておかないと、支障が出てきます。私たちが、かかわっている社会は、家族、友人、会社、社会などです。

まず、家族から見ていきましょう。家族関係の特性は「情愛」です。これは、生まれてから自己の基礎を決定づけるといってもいい関係です。
次に、友人関係の特性は、「親和」です。友人関係は、家族以外の人と人のつながりや協調性や助け合いの心や、心の機微を学ぶところです。社会では、他の人の迷惑にならないように、公共心を向上させ、自らの生活を安定させることがその特徴といえましょう。
会社との関係は、雇用関係でその特性は、「役割分担」であり、「利害」が絡みます。社会との関係の特性は「生活の安定」でしょう。
ということは、会社では、仕事に励んで利益を出さなければいけませんし、家庭では、利害をもち出しません。人間としての基礎を愛情と共に学んでいくところです。
したがいまして、家族の関係を会社に持ち込んではいけませんし、会社との関係を友人の関係に持ち込んではいけません。
それぞれの社会に応じた言動が、社会の秩序を円滑にしますね。

 




本日の学び
 今回の学びは、無機的な物質と比較して、生物の運動には弁証法的な特徴があざやかにあらわれています。いままでのべてきた弁証法にもとづいて生命の弁証法を探ってみましょう。

 生命の特徴として、開放系であると同時に閉鎖系であるということです。それはどういうことかと申しますと、どの生命個体も、つねに外界から必要な物質を取り入れ、外界へ放出するという物質の流れのなかにあって、はじめてその生命をたもつことができます。 そして個体は開放系であるとともに生体膜を境界としてもつ外界から区切られた閉じた存在でもあります。もっとも、境界の生体膜はただの膜でなく、外界に対するセンサーの機能にくわえて、ある物質は通し、ある物質は通さないという選択性をもっています。このような能動的な境界をもつ閉鎖系というのが個体の特徴です。
 ですから生体も開放系と閉鎖系の内部矛盾をその活動の基本にしているということです。




 次に、生命運動をささえる異化と同化ということがあります。どういうことかと申しますと、生物は環境との間に、物質を交換、すなわち外界からの物質の吸収と外界への物質の排出をおこなうとともに、一方、生体内ではタンパク質をアミノ酸に分解し、またアミノ酸からタンパク質を合成するなど、物質のさまざまな変化が進行しています。この物質代謝は、二種の化学反応に分かれています。一つは、アミノ酸からタンパク質を合成するように、簡単な物質から複雑な物質をつくる化学反応です。これを同化といいます。もう一つは、同化と反対の化学反応であって、タンパク質をアミノ酸に分解するように、複雑な物質を簡単な物質に変えることで、これを異化といいます。
 異化と同化は、ひとつの固体の中に並行して進行する対置した二つの化学反応であるといえます。それと、異化と同化は、互いに排斥しあっている関係ではないので、生物を特徴づける内部矛盾を構成しているとはいえません。





 次に、形態と機能について考えて見ましょう。生命個体の運動の特徴は外界に対する反応にありました。この反応性が生きることを特徴づけています。個体の機能はその個体の形態をはなれて存在することはなく、一方、機能をともなわない形態も存在しません。こうして形態と機能は、固体をして固体たらしめる不可分な二つの面です。したがって形態と生理(機能)を生物個体の内部矛盾と考えられます。
 さらに、形態と生理(機能)の関係は、形式と内容の関係に発展していきます。この関係で重要なことは、この両者が、死んだ静的な関係にあるのではなく、互いに生きいきとした相互関係をつくっていることです。内容は形式をこえて進展して形式を変えようとします。一方、形式は、第一には、内容の存在を可能にするのですが、内容が変化していく場合には、いままでの形式がそのままであるためその内容の進展のさまたげとなります。やがて形式は、しだいにときには急激に変更されて内容の一層の進展をうながします。こうして、両者は、互いに事物の運動をささえて統一しながら、否定しあうことによって、事物の運動をひきおこしていきます。




 以上が、本日の学びでしたが、日本における政権交代が歴史的といわれる所以が理解できるような気がします。政治の指導者が変わるということは、政治の形式が変わることであり、その内容もおのずと変わり、内容が変わっていけば、形式も変わっていきます。
 私たち自身も、国のあり方や生活のあり方について、形式と内容の原理を知り、自らが変化してよくしていかなければならないことを学びました。

物質の関連性と自己運動

2009年09月23日 | 哲学
8月5日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。
教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十六話 物質の関連性と自己運動」です。


 前回少し、ポストモダンの話をしましたが、現代の哲学では、「確実なものは何も存在しない」(虚無的)という懐疑論や相対主義が主流を占めていますが、こんな考え方もあります。
 それは、現象学の考え方で、「自分の中に、自分の感情の海の中に、絶対的そうだと思えることと、この先はもう何とも確信をもてないことと、そしてその中間地帯との、三つの領域の境界線がはっきりある」という考え方で、すべてがすべて不確実だということではなくて、自分の心の底において確信のもてることもあり、その中間もあるという幅の広い考え方です。


 そして「心」や「社会」の問題は、「科学」の問題とは質が異なっていて、私たちの心のうちに「了解と納得の問題」、「ああ、こうだったのか」という自己了解の問題だということです。



そして「心」や「社会」の問題は、「科学」の問題とは質が異なっていて、私たちの心のうちに「了解と納得の問題」、「ああ、こうだったのか」という自己了解の問題だということです。

 今の社会で生きていくためには、事実で表わすことができることと、事実で表せないことを区別する必要があります。後者については、他の人との関係性や相互理解・承認を重視することになります。

ただし、ひとつの事象を判断するのに自己了解、大多数の人の納得性をもってよしとしますが、そこには、ある程度高い見識(時流と成熟度に関する見解は特に重要)と、深いものの見方がないと、秩序はバラバラに崩壊しています。

 このような、柔軟な考え方をすることが、自由で複雑で多様化、流動化している社会での生き方ではないでしょうか?




今回の学びは、事物はその本来のあり方として互いに関連しあっています。この関連が事物の内部矛盾に作用して事物の変化発展の現実を与えています。こうして事物の内部矛盾は、事物の運動のみなもととなりますが、あらためてこの内部矛盾とは何かを問うてみようということです。


 事物の内部矛盾が変化発展を与えているといいましても、実際には、他の事物との関連があり、これらの事物がお互いの相互作用と無限に絡み合って存在している。
その結果、どんなものでもとどまることなく、すべてが運動し、変化し、生成し、消滅するということですね。
 たとえば、素粒子(陽子・中性子・π中間子などクォークと呼ばれているものや電子もそうでかなりの種類がある)の間には四種類の力(強い相互作用、電気力、万有引力などがあってそれぞれが固有の性質を有していて力の及ぶ範囲や、プラスとマイナスで打ち消したりとか、力の及ぶ範囲は広いが力が弱い)があるが、()内のように、素粒子間の基本的な相互作用にさえそれぞれ特徴があって、この特徴が生かされ、ミクロの世界、原子の世界、宇宙空間に多彩な現象が展開されているというのが事実でしょう。
 
 素粒子だけでなく、物質の質に応じて特有な相互作用があります。陽子と中間子などの相互の間では強い相互作用がはたらきましたが、原子と原子との間にはもはや短距離の範囲しか作用しない強い相互作用ははたらかず、そのかわり電気的な力にもとづく力がはたらいています。天体のようなマクロな巨大な物質の間には万有引力が作用しています。
 このように、この世界の物質全体の運動が一見無秩序に存在しているように見えますが、そうではなくて互いに一定の対応関係にあります。時間の存在は、この世界、自然と社会を含んだこの世界全体が、いかに相互に関連しあっているかの端的なあらわれです。




 
次に、矛盾とは?対立物とはなにか?
ですが、先ほどもありましたように、内部矛盾にもとづく自己運動は、けっして他の事物と無関係には進行していません。事物はたえず世界の普遍的な関連のもとにおかれているため、事物の内部矛盾はたえず外部からの作用を受けており、その結果、内部矛盾をみなもととする自己運動、すなわち事物の自己運動もまたたえず外部の作用を受けることになります。

 矛盾・対立物とはどのようなものであるかを十分にあきらかにすることはけっして簡単なことではありません。私たちは、外界と一致した認識、すなわち絶対的な真理性をもつ認識を確実に増やしていくことはできますが、外界をすっかり認識しつくすことはありません。

 矛盾・対立物が、とにかく異なる二つのものでつくられていることは説明するまでもありません。しかし、異なる二つのものをもってくればいつもそれが矛盾・対立物を構成するとはかぎりません。たとえば、北海道の摩周湖と関西の琵琶湖、つまり異なる二つの湖を頭のなかで並べてみても、二つの湖のそれぞれの運動にはまったくといってよいほど互いに影響を与えません。
 この場合、両者の関係は静的なものであり、互いに他を何か他のものにかえよう、すなわち互いに他を否定しようとしているわけではありません。したがいまして、対立物として両者を呼ぶのは適当ではありません。なぜならば、対立という関係は多少なりともお互いの否定をふくんでいるからです。強いて名づければ対置物です。
 そして二つが互いに否定的関係をもつときには、矛盾という名を用いることにしています。
 
 そして事物は、互いに不可分なものが排斥しあいます。前にもありましたように、石ころの慣性(そのままの運動を続けようとする性質)は石ころの運動状態をそのままつづけようとさせるのにたいしまして、地球の引力の作用によって生じる石ころの運動のもう一つの面は、石ころの運動状態を変えようとしています。すなわち、慣性のもたらす結果を否定しようとしています。その逆もいえますので、この二つの面は互いに異なるだけでなく、また不可分の関係にあるだけでなく、互いに相手の傾向を自分の傾向に置き換えようとしています。すなわち、互いに否定し、互いに排斥しようとしています。
 不可分なものが排斥しあう。考えてみると一見妙なことではありますが、このことが実在的な関係をして事物のなかに存在することによって自己運動のみなもとになっています。実際両者は、その存在のためには一方が必要でありながら、それを否定しようとしています。
 したがいまして、矛盾とは、互いに不可分の関係にありながら、排斥しあい、否定しあう二つの面、傾向のことです。


 次に自己運動としての矛盾ですが、その第一は、事物、現象およびその過程における異なった面、傾向、すなわち対立物があること。第二は、この二つが、互いに排斥しあい、否定しあう関係にあるということです。
 この関係は、たえずダイナミックに動く生き生きとしたものです。矛盾のこのような変化に応じて事物などがしだいに変化していきます。やがて矛盾の二つの面の関係が決定的に変化し、事物などが質的変化をおこないます。とともに、矛盾の新しい関係、あるいは新しい矛盾が生じます。こうして、古い事物などは消滅し、新しいものが生成する。このような質的変化は、対立物の統一と闘争の必然的な結果となります。
 弁証法は、このような変化発展、消滅と生成とを合法則的な過程であるととらえます。したがって、弁証法は事物の肯定的な理解のうちにその死滅と新しいものの生成の必然性をとらえるものです。





以上が、本の内容ですが、私たちが変化発展するための原動力となる矛盾について理解が深まり、その本質を学べたような気がします。
したがって、何事も固定した考えをもたず、そして対立し排斥しあうことが、進化発展につながる一つの大きな道だということで、人や、事象と対立することを恐れずに、それを必然的なことだと受け入れ、前向きに解決していくことが、本質であると考えました。