心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

「日本の復元力」のおさらい

2011年10月17日 | 哲学
昨年からの学びで、中谷 巌氏の「日本の復元力」のおさらいをしておきましょう。

 この本は、世の中をよくするために行動したいと思っている人に対して、我々日本人のルーツは何なのか、世界の中でどのような位置にあるのかを明快に示していますので、自分を見直す意味でも大変役に立ちますので私見もまじえまして、復習していきたいと思います。


まえがき  歴史的閉塞感
 人口減少、政治、政府の債務、年金、就職、失業、低学力、低教養、せつな的、自己中心主義、歪んだ自由などがその要因である。


 世界の余ったお金は、どこに行くのでしょうか?少しでも多く儲かるところ、世界中どこでも何でもとどまるところを知らず、移動し続ける。
 そこには、根本的なことや長期的にものごとを考える習慣は存在しない。目の前の利益をどう確保するか、目の前の危機をせつな的に回避するのかという価値観が大勢を占めている。

その結果
「デフレ」、「自分さえよければ」、「誰も止められない、金融をはじめとする大企業」
など、人間の幸せとは反対の方向へ合法のもと世界は進んでいる。

 巨大企業が、自由の名のもとに世界を征服するのではないだろうか。巨大企業が、裏で戦争を仕掛けているような気がする。

 日本は、縄文以来、1万2000年の長きにわたって、一度も異民族に征服されなかった。ただし、日本民族のルーツが単一かというとそうではないが。


序章 「根なし草」になった?日本人
原因
1.「薩長史観」 江戸時代は暗黒の時代としてそれまでの文化を否定した
2.第2次世界大戦後の「自虐史観」
 戦前の軍国主義は道徳的に邪悪な思想と喧伝(世間に言いはやし伝えること)した

 「日本辺境論」 日本は世界の中心ではない、何が世界標準か見定め、すなおにそこから学んでしく国民である

 すぐれた「日本化能力」 漢字、産業(自動車、家電、半導体など)




第1章 日本はなぜ“成功”したのか
 日本がなぜ世界有数の経済大国になれたのか
答1.庶民中心、中間層中心の社会だったからです。すなわち、階級、階層、エリート社会ではなかったから。
答2.幕末期における日本の識字率は世界でも最高クラス 国語力は重要
答3.国全体が一体化していたから。考え方(価値観)が似ていたから

「支配者階級における被支配者階級の搾取」が日本ではおこらなかった

「信頼関係」の基づく、安心・安全社会が築かれていた
大陸では、「信頼」という徳が育ちにくい風土があった

・ 年がら年中、同じ仲間と過ごすしかない空間では、自分の利益だけを追求していく生き方をする人は歓迎されない
・ 反省力が高い (663年白村江の戦い)
・ 漢字を日本語化した能力 (韓国はできなかった)
・ 多神教 あらゆるものを畏敬し、感謝できる精神を有していた→調和を保つことができる
・ 主客合一 自分と宇宙は一体の考え方
・自他合一 全体のおかげで自分が存在している

 
第2章 日本はなぜ“失敗”したのか
1. 権威と権力を明治天皇に集中させたから
2. 神道の国教化 → 仏教を排撃
3. 日本の組織に合う「中空構造」に明治以降ならなかった
組織の中心に強力な権力者を据えた → 調整型リーダーではなく絶対型リーダー 
絶えずコンセンサスをとりながら組織運営をしなかった
→「積極的な承認」「報・連・相」もされなかった
4.マッカーサーによって骨抜きにされた
(1)謀略放送 → 日本人は戦争を仕掛けた如何に悪い民族か  
(2)3教科停止命令 「歴史」「修身」「地理」
5. なんでもアメリカのものをそのまま取り入れた
(1)4半期決算制度
(2)内部監査システム → 人間不信
(3)時価会計基準
6.自分自身を語れない
  自分が何者であるかを断ち切られた


第3章 グローバル資本主義に翻弄される日本
 日本は、歴史を重ねて、庶民中心の一体感あふれる安定的な社会を築き上げてきた

 市場原理主義は、個人の自由と欲望の実現を最大限に保証してくれるイデオロギー

 近代合理主義 神、共同体、自然の呪縛から逃れることによって自由を獲得した個人が、自己の欲望を最大化するために、近代西洋が達したイデオロギー(個人の欲望を認める強烈な思想)

 それと反対の考え方が、釈迦の思想
 個人の欲望を抑えることこそ人間の生きる道

 (リーマンショックは何を意味しているのか?)

 市場原理主義、近代合理主義の問題点
1. 地球環境問題
2. 生物種絶滅
3. 世界各地での紛争や争い
4. 歴史・伝統・文化だけでなく子孫をも切り捨てる(一体感の破壊)

 民主主義:個人の欲望を集計してそれを政策実行に移すシステム
 格差拡大:一部の大金持ちと多数のワーキングプア
 人間味というのは、神、歴史、伝統、文化、家族、共同体などの絆やしがらみから生じる
 20年間、日本化プログラムが機能していない


第4章 西洋的価値観の何が問題なのか
1. 西洋による非西洋の征服
  1492年、コロンブスのアメリカ大陸発見から1853年のペリーの浦賀来航まで

2. なぜ西洋が発展したのか
ヘブライズム(キリスト教)=秩序(同じ価値観) 調和力
ヘレニズム(ギリシャ・ローマ)=知(高度な学問)仕事力
  ヘブライズムとヘレニズムの融合によって西洋は発展した

3. スチュワードシップ
  キリスト教においては、人間が自然を管理運営するのは神によって委託された仕事である。

4. デカルトの「方法序説」の中の「自然機械論」
  自然は恐れるに足りない。自然は機械と同じである。機械には人間との相互の意思疎通などあり得ないし精神的な意味での交流もない。人間が働きかけても彼らは何も返答しない。あるいは、それらがわれわれに何か働きかけてくれることもない。その限りで、完全にわれわれが「主」であり、自然は「客」である・・・。
 デカルトは主客合一どころか、人間と自然を完全に分離して、人間は自然を機械とみなして、道具としてそれを利用すればよい、と断言したのである。
 デカルトの先輩格に当たるフランシス・ベーコンも「自然は物質にすぎないのだから、人間の都合のいいように料理してよいし、征服すべき対象だ」と言っている。これがフランシス・ベーコンの「自然征服論」である。


5. 近代合理主義がもたらしたもの
  地球上のあらゆる自然資源を活用することで人間の生活水準を大幅に引き上げた
 西洋:自然は敵、畏怖心をなくしてしまった
 非西洋:自然崇拝
 西洋が非西洋を工業力で屈服させた

6. 自然を人間の生活を向上させるために利用し、搾取するのが「進歩」とする西洋的価値観
                   ↓
       人間の利己心の強烈さ(強欲)こそ、問題の核心
                   ↓
        その結果、「心の空白」に悩み始めた現代人
 いま、自然から、コミュニティから、組織から、家族から感じる「疎外感」

日本人の特徴 京都大学 佐伯啓思氏
 (1)仏教的な無常観
 (2)武士道的な義務感
 (3)儒教的な「分」の思想
 (4)神道的な清明心
 いずれも個人的な幸福を追求に背馳する境地をよしとする

 西洋の企業観→株主、経営者のために利益の最大化
 日本の企業観→社会に役に立てることを最大の目標
        従業員、取引先、顧客、地域、株主がバランスよく潤うようにする

 日本人は日常の生活の中で人様から後指をさされない、関係者からみて「素晴らしい」と感じる経営を実践

 仕事自体に心の充実を覚え、富を独占しすぎず、周囲の人たちと仲良く生活している人
 → その存在自体が、社会貢献

 アメリカでは、抽象論やロジックしか通じない
 なぜなら、アメリカが移民で成り立っている国だから

 ロジック + イロジック
 不条理の世界を同時に包含しないことには、本当の力は出てこない
 →今までは科学で「不確実性」を排除してきた


第5章 日本は世界に対して何ができるのか
20世紀はどんな時代だっただろうか

 20世紀前半(1914年~1945年)の31年間はまさに破壊と恐怖、そして狂気が世界を覆っていた。全部で5,000万人を超える人が死んだ。
 20世紀前半は人類にとって史上最大の危機であった。

 EUが成立した理由

  もう戦争はごめんだ。ヨーロッパは一つにならなければならない。
ヨーロッパ統合を最初に提唱したのはオーストリアの政治家、クーデンホーフ=カレルギー伯爵であるが、その著『人間に敵対する全体主義国家』の中でフランス革命のスローガン「自由・平等・博愛」を取り上げ、この3つのうち、一番大事なのは博愛であると主張している。自由こそが人間にとって最も価値のあるものと考えていたカレルギーは、自由を担保とするものとして私有財産制度を擁護する一方、資本主義が深刻な社会的不平等をつくり、その結果として共産主義を生み出し、さらに資本主義と共産主義の双方に対抗するものとして全体主義を生み出したことを憂いていた。自由は尊い。しかし、自由ばかりを追求すると放縦に堕し、歪んだ不平等社会になってしまう。平等も尊い。だが、平等ばかり追い求めると、自由のない共産主義、全体主義になってしまう。どちらに転んでも人間の尊厳を損なう。だからこそ、自由と平等の均衡を図ることが必要で、それを実現するのが博愛の精神なのだ、というのが彼の主張であった。

 そして経済面では、大恐慌(1929年)以前では、レッセ・フェール(自由放任主義)、「夜警国家思想」で、政府は市場に対してよけいな口出しをするな、自由なマーケットにまかせればいいとする
                   ↓
 そうすると、貧富の差がどんどん広がり、挙句の果てバブルが崩壊して大恐慌となった

 それを補うためにケインズがでてきた。国家は社会の安定のために積極的に関与しなければいけない。失業者が増えたら公共投資で雇用をつくり出し、所得の再配分を行って貧困をなくさなければならない。(1930~1970年代)

 1945年から1970年代半ばの30年間、自由主義世界はそれ以前とは打って変って「黄金の時代」を享受する。国家がコントロールした。

 筆者は、国家が関与するようになったからこそ豊かになったとしか考えられない、と言っている

 1980年頃から、サッチャー、レーガン、中曽根→新自由主義を採用

 →アメリカの相対的な衰退、1973年頃の石油ショック
  主要な製造業で、日本・ドイツが勝る
             ↓
  ケインズはだめ、規制を撤廃。「自由なマーケットにする」
             ↓
           新自由主義

  国家主権を超えたグローバル資本の力
             ↓
  正直、美徳、まじめさなどは、軽視、無視されていった
             ↓
  1991年のソ連の崩壊(社会主義の崩壊)→社会主義国が自由主義市場に参入してきた
             ↓
  そして「デフレ」になり、「自分さえよければ」という考え方が世界中で当たり前となり、金融を中心にますます競争が激化していった
             ↓
 その結果、サブプライムローンのようなペテン師まがいの錬金術が、金融工学という名の下に正当化され、2008.9.15 リーマンショックを契機に世界中が被害を蒙り、混乱した
 先進国では、市民の生活まで大きく影響した
             ↓
 その後処理として、ドルやユーロをどんどん供給して、実質破綻している金融機関を助け、秩序を維持しようとした(目の前の危機を回避して、時間を稼ぎその間に経済を立て直そうという目論見であったがそう簡単にはいかなかった)
             ↓
2009年 アメリカ、日本で 民主党政権の誕生←新自由主義の偏重を正すため
 国家の役割や公平性・平等性をより重視する民主党政権の誕生
             ↓
 公平・平等・秩序を重視すると社会が不活性化し、活力がそぎ取られ、経済・産業重視ではないため、働かなくても国が社会保障をするということから、働かない市民または働きたくても仕事のない状況がより深刻化してくる
 
 日本のような先進国の単純労働者は、賃金が著しく低い途上国の労働者との激しい賃金競争に巻き込まれ、急速な所得水準の低下を感受せざるを得なくなった。

 グローバル化の中では、ファンドマネージャーの所得は、天文学的、片方で労働者の賃金はどんどん下がり続けている←これがグローバル化で起こっていること

 またこのような状況では、国家単位では対応できない

 「グローバル企業」が求めているものと、一般国民(市民・生活者)が求めているものがあまりにも違う


 この世界的危機を乗り越えるためには、人間が事故の欲望を抑制することを知り、利他的な存在に生まれ変わるしかない

 日本はどうする

 まず、世界はどうなっているかのかを知る←知らないと動けない
 そして、自分たちは、「もともと何者であったか」を知る←ルーツを探る
             ↓
 そこで排他的になるのではなく、自分を知ることによって相手と融和していく
 調和・自然を大事にする
             ↓
 「学ぶこと」そして「教育しかない」

終章 若い人たちへの提言 ~日本は変えられる


 日本人は、日本人を取り戻そう
 バランス感覚が優れ、広く意見を認め、他人を尊重し、やるときには、一丸となってことを押し進める
 権力者が、権力を振りかざさない
 バンパーの裏まで磨く「裏勝り」 ← 日本人の美意識 

 部分最適ではなく、全体最適をとる
 短期的なコスト削減よりも長期的な信頼感の獲得

 日本人のよさは、粘り強くものと精神を磨き上げる
             ↓
 それが、日本の文化であり文明
また、それが日本のものの品質である

 

東日本大震災について思うこと3(経済について)

2011年08月27日 | 哲学

 今回の地震と津波で東北地方特に沿岸部は、壊滅的な打撃を受けました。

 そこに暮らす住民、そしてその人たちの家や車なども流されましたが、道路、水道・下水、電気、ガス、などインフラに関するもののほかに学校、病院、役場、消防、交番、港湾施設、商業施設、牧畜、農業、倉庫、企業、船、トラック、鉄道、線路、橋、文化財、景観などありとあらゆるものが流されて瓦礫の山と化してしまいました。

 今残っているものは、人から受け継がれた伝統や文化、そしてものの考え方など、人間の精神の働きによるものだけです。
 でも、その精神も身内の死や行方不明によって大きく傷ついていることと思います。



 

 経済活動も停止状態になり、自力では対処できずに、政府や行政の支援や民間からの義援金、義援物資の提供などが行われています。

 それでも、何十年、何百年とかけてきた街づくりや企業づくりが、簡単に数ヶ月で回復できるわけがありません。
 今まで慣れ親しんできた被害にあった場所をどうするのか?地震や津波がまたいつ来るかわかりません。



 2004年のマグニチュード9以上のスマトラ沖地震でも数ヶ月先にはマグニチュード8.6の大きな余震がやってきています。

 それらのことも盛り込んだうえで、歴史的にみてもこのような災害がおきても、大丈夫なような街づくりを叡智を集めてしなければなりません。

 前回でも述べましたが、特に日本は地震や津波がいつ起きてもおかしくないような動的な環境にあります。
 それを踏まえて人びとの安全・安心を考えなくてはいけない時が来ています。

 そう考えますと、大正12年に起きた関東大震災での教訓は東京の街づくりにきちんと反映されているのでしょうか?





 被災地の経済は、壊滅的になり援助がなければ動きません。
 経済活動を供給する側から見てみますと、まず、お酒などを作っている地場産業などは、その技術やノウハウを持っている人でしかできません。

 漁業や農業、牧畜もそうでしょう。代々、その仕事に携わっていた人に、生活ができないからといって違う仕事ができるほど単純ではありません。

 また、事業にはお金が要ります。
 今までの借金に加えて、また新たに借金して事業を始められるほど儲かっている商売はあまりありません。

 われわれのように会社を経営していますと、借金の返済がいかに重荷になるかがわかります。
 利益を出すだけでは足りません。月々の返済分までキャッシュとして稼いでこないといけません。
 
 たとえば、月の利益が200万円で月の返済が300万円としますと、利益は200万でますが、お金は100万円足りません。おまけに利益がでれば税金を納めなければなりません。そうしますと、経営は完全に行き詰まります。



 

 このあたりを思い切って国のほうでリスクを取り除くことが一番の策だと思います。
 現在の制度の中では、永久に援助し続けることはできませんから、自立をうながすことが大切です。
 企業が存続すること自体が、そこに働く人たちの給料その他の援助ができ、地域活動もできるようになるので、社会貢献そのものになります。
 今は、あらゆる援助を政府や民間、諸外国を問わずすることが急務だと思います。



 今回感じましたのは、日本のものづくりは、世界に影響を及ぼすということです。
 産業の近代化及び効率の追求で飛躍的に延びてきましたが、そのひとつの方式が分業ということでした。
 皮肉にも、この分業という現代当たり前になっている生産方式が、国内外を問わず影響を与えました。

 日本のものづくりで特徴的なのは、一つひとつの部品、部材、素材の品質が非常に高くて、他の国ではまねのできないものをもっていることです。


 日本の自動車メーカーもアメリカの自動車メーカーも、日本製のこの工場でしか作っていない部材や部品を使用していたため、それが供給されなくなると完成品自体の生産がストップするという事態が起きました。

 東北地方で生産されていた、部材、部品、素材、もちろん完成品も含めて国内外に大きな影響を及ぼしました。





 ジャスト・イン・タイムのような在庫を持たない生産方式、効率化を極限まで追求した分業生産など近代経営手法は、インフラ整備が万全であるという前提のもとに成り立っていることを改めて感じました。


 われわれの住宅業界でも、部材が一部遅れたり、できなかったりしたために代替品に変更したり、ある部材は値が高騰したりしました。おかげさまで、なんとかお客様には、お引き渡しができているという状態です。

 他の業界でも販売活動が円滑にいかなかったり、コストが上がり利益を圧迫したり支障が出ていると思いますが、われわれは、さきほど申しましたように企業は存在して商品や製品やサービスを提供するだけで社会貢献といいますか、社会自体がそれで成り立っています。

 

 このような時期に必要なことは、元気を出して、明るく、積極的に行動するマインドがとても重要になってきます。




哲学からの学びにつきましては、「自然の哲学 上・下」とも一通り、網羅いたしましたので、唯物論や弁証法を学ばれる方は、過去のブログを参考にしてください。



水と氷 ―質的変化と量的変化―

2011年04月30日 | 哲学

4月13日(水)哲学学習会を会社で実施しました。
 参加人数は、12名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で第十三話「水と氷 ―質的変化と量的変化―」です。

 東北地方太平洋沖大地震につきまして、被害にあわれた皆様に心からお見舞い申し上げるとともに、犠牲になられた方々と、そのご遺族の皆様に対し、深くお悔やみを申し上げます。


雑感
東日本大震災について思うこと2(津波について)


 前回は、地震についてでしたが、今回は津波について書いてみたいと思います。
 津波は、海域でのプレートによる地震や海底での地すべり、海底火山の活動などの原因によって引き起こされる高波のことです。

 たとえば、地震によって、海底が数キロにわたって盛り上がったとします。
 すると、その海域の海水もいったん盛り上がり、その後、重力によって落下する。また、地震によって海底が数キロにわたって沈降すると、その上にのっている海水もいったん沈み、やがて、その反動で盛り上がってきます。

 いずれにせよ海水は上下に震動し、その震動が巨大な波となって四方八方へ広がっていきます。



 そうして生まれた巨大波は、海底から海面までがそっくりそのまま動く性質があります。
 そのため、莫大なエネルギーをもち、なかなか衰えません。

 進むスピードは、海の深さによって決まり、太平洋の平均深度4000メートルでは、時速713キロとジェット機並みの速さになります。また、水深200メートルぐらいの大陸棚では、時速195キロくらいになりますが、それでも新幹線並みの速さです。

 海岸を襲う津波の高さは、発生水域の水深が深い(今回の地震の深さは約24キロメートル)ほど高くなります。さらに、沿岸に達すると、外洋の深さの分のエネルギーが浅い海に集中するので、津波は高い水の壁となります。

 今回の場合のように入り組んだ海岸線を有する三陸リアス式海岸(約600キロメートル)では、さらに細い入り江や湾にエネルギーが集中して内陸部に向かうにつれて高くなったようです。

 沿岸部手前では、高さ7~8メートルの津波が、内陸部にいきますと40メートル近くまで遡上します。
 このように、津波は、とても恐ろしいものです。

 1995年の阪神淡路の大震災のときは、地震と火事で多くの方が亡くなられました。

 今回は、地震そのものも凄まじいものでしたが、それにもまして被害が拡大し、人の住む町や村を数分にして破壊してしまった水の恐ろしさを痛感しました。
 
 人間にとって、なくてはならない火と水ですが、違う意味ではわれわれ人間の命を大量に短時間に奪うもの、身近にあるものが日常を襲い、一瞬にして非日常にしてしまうものだと感じました。

 人間は、原子力発電所もそうですが、自然からいろいろな恩恵を受けていますが、所詮、その力は、知れており自然の力を思い知らされたというのが本音です。




本日の学び
本話より抜粋 「水と氷 ―質的変化と量的変化―」


 
 水が氷となり、氷が水となる変化、すなわち氷と水との相互転化には、物質の量的変化と質的変化という二つの変化の相互の関係が具体的にしめされている。この関係は、事物の変化発展を理解するうえできわめて重要なものである。

 なぜならば、事物の変化はつねに量的変化あるいは質的変化であって、したがって両者の間の関係は事物の変化の基本的な性質を意味するからである。



水と氷の移行

 水と氷は互いに質的に異なる状態の物質であって、水が凍って氷になり、また氷が解けて水になるのは、物質の質的変化である。

 客観的事実の運動には質的変化をともなっていることが多い。

 種子が、発芽し、生長し、実を結ぶ。ここには、数多くの質的変化がくり返される。

 宇宙塵が大規模に集まって星が誕生するときにも、物質の質的変化が生じている。木を燃やすと、あとに灰が残って、炭酸ガスその他の気体を生じる。これらはすべて物質の質的変化である。

 このように、質的変化は絶えずくり返されている物質の変化である。したがって、質的変化の特徴を正しく理解することを欠いては、物質の運動全体を認識することなどとうていできないであろう。



氷に熱を加える
 
 一キログラムの水の温度を一度上げるには一キロカロリーの熱が必要である。氷の場合は0.五キロカロリーでよい。

 はじめ、摂氏零下一〇度の氷であるならば、氷が吸収する熱量が0.五キロカロリーになると、氷の温度は一度あがって摂氏零下九度となる。

 さらに、熱を加えると、氷はその温度を上昇させていくが、氷以外のものに変わるわけではない。しかし、まったく変化がないわけではない。温度の上昇にともない、氷の分子はしだいに活発に運動するようになる。

 この氷の分子の運動の活発さの程度が、氷の温度として外にあらわれる。




氷が水になるのは質的な変化である

(第26図)

 さて、ここでさらに氷に熱を加えると、温度は零度のままであるが、氷はしだいにとけていく。
 氷をとかすには相当量の熱が必要である。摂氏零度の氷を一キログラムとかすには八〇キロカロリーの熱が必要となる。

 (熱はエネルギーであるといういい方をすることがあるが、厳密にいえばこれは正しくない。熱というなにかがある実体が存在するわけではない。

 物質には温度の高い状態と低い状態とがあって、高い状態のほうが低い状態よりもエネルギーを多く有している。一般に熱を吸収すれば物質の内部のエネルギーが増加する。

物質の内部のエネルギーは、物質が静止状態にあるときに有するエネルギーであって、内部エネルギーという。)

 このように、氷の内部のエネルギーが量的に増加して摂氏零度に達したとき、氷は質的変化をおこして水となる。しかも氷から水への変化は、直接的であって、水と氷の中間の物質をとおって進行するのではない。

 したがって、この質的変化は突然生じるものであり、その変化は飛躍的である。氷が水に質的変化をしたあと、水は熱の吸収に応じてその内部エネルギーを増加させるが、この増加は水としての質を保って進行する。

 この意味で、氷から水への質的変化は、内部エネルギーの量の増加の必然的な結果である。



量の変化と質の変化
 
 すべての事象の実際についてみてみればすぐわかるように、事物は、質の面と量の面と二つの面をもっている。氷は氷に特有な性質を持っていると共に、質量、体積、温度などの一定の量で存在している。



 実際の氷はかならず何グラムかの氷であり、またその温度はときと場合によって異なったとしても、つねにある温度をもっている。
 内部の圧力はいくら、内部エネルギーはいかほどと、それぞれ一定量の物理量を有している。

 量とは、事物の一面であって、事物の質に目をつむったとき浮かびあがってくる「もの」であると考えておいてよいであろう。いうまでもないことであるが、実際の事物では、量はいつもある大きさの量として存在する。

 このように、質と量とはかならずあいともなっている。



量的変化はつぎの質的変化を準備する 

 氷から水になるときのように、量的変化は質の限界のまえにたちどまってその進行をやめることをしないで、逆に質を生成している事物の内的関係を変え新しい質を生成して、その量的変化をさらに進行させる。

 質的変化をおこしたあとでは、新しい質があらわれ、新しい質にともなうもろもろの量が再び変化していく。

 たとえば、氷が水になって、その温度が上昇していく。また水になると粘性が生じ、水の温度の上昇とともに、その粘性もまた変化していく。






基本法則がありふれていること

 量質転化の法則は、たしかに一見ありふれたものである。

 さて、ありふれたものということは、日常私たちの経験する事物の変化のなかにことさら注意をしなくても広く普遍的に見いだされるという意味である。

 基本的であるためには、すべての事物の変化のなかにつねに見いだされるものでなければならない。私たちが事物の変化を正しく認識したときにつねに見出されるものでなければならない。



日常生活のなかで哲学的認識を得ている

 なにびとといえども、それなりに事物の変化を認識しているからこそ、日常生活を送ることができる。

 したがって、日常生活のよく知られた事物・現象をとりあげたとき、事物の変化の基本法則のあらわれがしごくありふれたものにみえるのは当然のことであり、また一面それは、多くの人びとが日常生活をとおして、哲学的認識を得ていることをものがたっている。

 しかしながら、世界に対する私たちの認識は、今日の段階で終わったのではない。私たちの知らないことはまだまだ無限に横たわっている。

 進路の前に横たわる障壁はたいてい無限の高さに見え、この障壁がなくなるという事態・事物の質的変化などはありえないように思いこんでしまう。

 このときわたしたちは、量的変化が、どのように内的関係を変化させ、事物を質的に変えてしまうものなのか思いもおよばないことがおおい。

 ありふれた実際の現象のなかに基本法則を見出し、これを明確にとらえて未知のものの認識の指針とする。これが、私たちの哲学なのである。



事物の質的変化を無視する考え方

 

 事物の質的変化を無視する、または認めない考え方や、質的変化の蓄積にもとづいて生じるのではないとする立場が、根強く蔓延していることに注意しよう。

 生物は生きているという質をもった存在であって、この点で他の無生物ときわめて大きな質的なちがいを有している。

 そこで次のような妙な見方が生まれる。それは、生物の生きているという質も、個々の分子や原子の物理的変化、化学反応の単なる集まりであって、それ以外のものではないという見方である。

 この見方によれば、生物体内では、生物に特有な順序で、個々の物理的変化、化学反応が規則ただしく、つぎつぎとひきつづいているが、それは一つの反応が次の反応をひきおこすということの集積であって、生物全体が、個々の物理的変化、化学反応の膨大な量のたんなる集合であることにかわりがないということになる。

 生きているという質を、物理的変化、化学反応の莫大な量に還元してしまうわけにはいかない。

 このように質を量に還元する考え方にもとづいて社会現象をとらえようとすると、社会の質的変化、すなわち革命という社会の質的変化を認めない結果となる。

 社会のあれこれの連続的変化には注目しても、社会の質的変化としての革命の特徴がなんであり、またこの質的変化をもたらす量的変化がなんであるかを見ないことになってしまう。



事物の量的変化を無視する考え方 

 質的変化は量的変化にともなって飛躍的におこることをのべたが、この場合注意すべきことがある。
 それは、変化が飛躍的であったとしても、それは合法則的変化であるということである。

 この移行は、摂氏零度の氷が熱を吸収して必然的にとけるように、量的変化にともなって必然的におこることを指摘したが、この必然性こそ飛躍が合法則的であることを示している。

 したがって、量的変化の蓄積が質的変化をもたらすことを見ないで、ただ質的変化のみを認めるとすれば、事物の変化は、なんの準備もなく、つねに突然変異で生じるものであるという見方になってしまう。

 この見方によれば、質的変化は、これをひきおこすうえで何の準備も前提条件もなくて生じることになるのであって、この意味で質的変化は合法則的ではなくなってしまう。

 このような世界観にもとづく実践では、事物の変化発展の法則に沿った道筋がまったく無視されてしまう。その結果、残るのはただ事物、社会の変化を求める情念のみとなる。 
 客観的実在のもつ法則性の認識のかわりに主観的な情念が事物を変えようとする。

 こうして主体的唯物論という一派があらわれ、十分な準備を経ないでいきなり社会の質的変化をもたらそうとする極左冒険主義や一揆主義を生んだり、道理にはずれた行動を生む結果となる。

 このような極端なかたちではないとしても、東ヨーロッパ諸国や旧ソ連地域では、経済活動の増大という量的変化の前に、ただちに飛躍した経済生活をもとめようとする傾向があらわれているようにみえる。

 この傾向は、量的変化を経ないで質的変化を求めようとする姿ということができるかもしれない。

 量質転化の法則は、事物、社会を変化させ発展させるときの認識としても大切なものである。

というように、筆者は言っています。




 事物がどのように変化していくのかについて、深い見識を与えてくれています。

 このことは、われわれの身近にもみられることで、仕事でもそうですし、子どものころの勉強でもそうですが、この法則に従い、私自身もたいへん苦手だった英語を克服することができました。

 正しい訓練をしつづけると内部エネルギーが上昇して、ある日突然、簡単に仕事ができたり、勉強ができるようになります。

 ですから、昔から石のうえにも3年といいますが、確かに道理にかなっているとおもいます。

 自分のことについても、社会的なことについても、会社やその他の組織についても、目標を定め、努力をかさねていけばどこかで急に質的変化が起こり、手がとどかないと思っていたことができてしまうということを知ることができました。
 
 やはりここでいちばん学ぶべきことは、途中であきらめないで高い目標に向かって地道に努力を続けること(量の変化を与える)で、手がとどかないと思っていたことが実現し(質的変化がおこる)さらにうえを目指していくということです。




弁証法とは

2011年04月24日 | 哲学
3月16日(水)哲学学習会を会社で実施しました。
 参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で第十ニ話「弁証法とは」です。

 

 東北地方太平洋沖大地震につきまして、被害にあわれた皆様に心からお見舞い申し上げるとともに、犠牲になられた方々と、そのご遺族の皆様に対し、深くお悔やみを申し上げます。


雑感
東日本大震災について思うこと①(地震について)

 まず、知っておかなくてはならないことは、弁証法で学びましたように、物質や社会は生きいきとダイナミックに運動しながら変化・発展をしているのだということを念頭におかなければならないということです。

 わたしたちが、何も気にせずに暮らしている地球の大地は、じっとしていて安定していると思っています。ほんとうにそうでしょうか?

 地球は、時速1,674kmで自転していますし、ましてや太陽の周りをまわる公転速度は、時速107,280kmです。地球を含む太陽系自体も天の川銀河の中を時速約800,000kmの速さで進んでいます。

 ものすごい速度ですね。では、何故、振り落とされないのでしょうか?
 引力があるからですね。





 次に、地球自体も間断なく動いています。地球の核は、マグマオーシャンの中に沈んだ金属鉄です。地球の深部には、現在も誕生当時(約46億年前)のエネルギーが封じ込められています。
 このエネルギーによって外郭の金属物質は導電性の流体の状態を保っています。
 ちょうど火にかけられた鍋のように、ふつふつと煮えたぎるような運動をしています。
 温まった流体金属は上昇し、マントルに振れることで再び冷やされ、今度は下降するという、対流運動を続けています。
 これにより電流が流れ、電磁誘導で磁場が生じます。つまり地球はその内部にダイナモ(発電機)を抱えているのです。

 余談になりますが、このおかげでわれわれ生命体は生きていられるのです。
 この運動によりまして、地球は磁気による天然のバリアをつくりあげました。(約27億5000万年前)地磁気による、磁気圏の誕生です。
 このおかげで、太陽の核融合反応の副産物である放射線から、生命体を守ってくれているのです。




 いずれにせよ、地球自体も地球の内部も激しく運動しているということです。 
 次に、地震ですが、地震が起きるのはプレート(厚さ70~150km)とよばれる巨大な硬い岩盤の動きが主因です。
 地球の表面は10数枚のプレートによっておおわれています。そしてそれぞれは独自の方向に動いています。その速さは、速いもので年に10センチ、遅いもので年に1センチ程度です。
 ちなみに、日本列島付近で地震がよく起きるのは、太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレート、北アメリカプレートという4つのプレートが複雑に押し合いへしあいする場所に日本列島が位置しているからです。



 というように、われわれを取り巻く、宇宙や自然は、われわれ自身を含め、生物も無生物もダイナミックに運動しているということです。

 それと、自然の摂理が実にうまく働いているということです。
 地球に核や導電性の流体や、水や、空気がなければ、また、温度が適温でなければ、人間は生きることはできません。
 ほんとうに微妙なところでわれわれは、生きている、生かされていることを今回の地震で学びました。
 ですから、われわれは、人と人や、国と国とが争ったりすることが、いかに意味のないことであるかを痛感します。そしてわれわれ自身が自然の一部でることを深く認識し、自然や他の生物、人間同士がお互い感謝、尊敬しあう関係を目指さなければなりません。




本日の学び
本話より抜粋 「弁証法とは」


 上巻では、物質こそが世界の第一次的な本源的な存在物であって、意識・精神は人の脳髄のはたらきが生んだものであることをのべてきた。
 
 自然のなかで発生した生物は進化して人間を生み、人間は社会を形成してやがて精神を有するようになる。この発展過程自身、物質の運動がきわめてダイナミックなものであることを端的に示している。

 上巻はこの物質の運動の特徴を弁証法的と呼んでむすびとした。一方、わたしたちの思考自身もまた物質の運動と同じ特徴を有しているのであって、その意味で弁証法的ということができる。

 下巻では、この物質の運動と同じ特徴をさらに立ち入ってのべていくことにする。まずその手はじめとして弁証法という言葉についてのべることにしよう。


ダイナミックな物質の運動の特徴

 自然はその途方もなくながい歴史をとおして、たえまなくダイナミックな変化発展をとげてきた。

 銀河系や銀河団の形成と発展。これをささえる星の誕生と消滅。自然のなかの画期的なできごとである生命の誕生。そのたえざる進化。

人間の誕生と意識の発生。

 社会の形成とその発展―――これら客観的実在のしめすスペクタクル(光景)は、質的に新しいものを絶え間なく生成してきた自然と社会の歴史的過程である。

 それは、世界全体をささえるあらゆる物質の休むことのない変化発展、すなわち運動のあらわれである。

 
 弁証法的という用語の使い方に違和感はあるが、とにかく生きいきとダイナミックに運動している物質の変化発展を弁証法的と呼ぶことにする。

 したがって、弁証法的唯物論とは、本源的な存在である全物質がたえず弁証法的に運動しているとする見方である。

 とくにここでは、意識・精神の積極的な役割をきわめて有用視しているのであるが、その一方で意識が物質の発展のある段階で発生したという見方をとっている。

 このことが弁証法的唯物論の重要な点である。

 また、意識は現実の動きよりも先行することができる。
 
 したがって、自然と社会は意識を発生させることによって自らよりも先行するものを内に蔵することになったのであって、このような立体的な世界の発展をとらえることができるもの、それが弁証法的唯物論である。


唯物論の歴史

 さて、唯物論的な考え方はけっして新しいものではなく、古くから多くの国の人びとによって展開されてきた。この見方はヨーロッパやギリシャでのみ見いだされたものではない。

 インドや中国にも唯物論的な見方があった。唯物的な見方が一つのまとまった思想として体系化されたのは紀元前六世紀ころのギリシャであった。


弁証法の意味は

 弁証法という語の意味をつかむ上でまず知っておくべきことは、これが自然と社会の現象や意識のはたらき全体のそこに横たわる基本原理であるということである。
 
 さて、弁証法はディアレクティークの訳語で、直訳すれば対論的あるいは対理的であって、実際また、問答法等論述ということである。討論とは、多数とともに論ずることである。弁証法的という訳語は、この討論術的という意味をもたせた訳語である。
 
 それでは、この討論術的=弁証法的という表現がこれまでのべた物質の運動を特徴付ける表現としてなぜ適切なのであろうか。

 それは対話や討論の本来の姿からきている。
 本来の討論では、つぎからつぎへと話題がいきいきとしてつながり、物事のいろいろな面を論じていくのであって、そのさまがさきほどのべた基本原理の特徴を思わせるからである。


弁証法的唯物論

 さて、いままで、たびたび私たちの唯物論的認識の特徴をのべてきた。
 この自然と社会の生きいきとした運動をとらえ、意識と客観的実在の関係を正しく把握することにあった。

 物質の運動のみなもとはなにか、またどのようにして物質の運動が発展していくのか、これらの点を具体的に認識してはじめて、私たちは客観的実在の運動を深く認識するとともに、その発展の方向を予測することができる。

 自然と社会の運動および意識について広く研究がすすんでいるが、それをまとめていえば、つぎのようになるであろう。

 すなわち、いっさいの現象の運動・発展のみなもとはその現象の内にある。この意味で運動は本質的に自己運動である。現象のなかには互いに作用しあういろいろなものが存在している。
 
 現象を現象たらしめながら互いに対立しあっているいろいろなものが存在している。
 これらの内的関係が現象の変化発展のみなもとになっている。

 物質の運動を自己運動として認識すること、すなわち物質の運動のみなもとを物質のなかにもとめることは唯物論にとって基本的なことである。

 もし物質の運動の原因が物質にもとづくものでないとすれば、結局、運動の原因として物質以外のものをもってこなければならない。その結果、物質がこの世界の本源であるという唯物論の基本に反することになる。

 現象の変化発展が弁証法的であるということは、現象の中に対立しあうものがあり、この対立物の相互関係にもとづいていることであるが、このことをとにかく指摘しておく。

 ふたたびくり返すことになるが、対立しあう面が互いにからみあって変化発展していく一つの典型が「討論」そのものである。
 したがって、討論術=弁証法的という用語は私たちの唯物論をみごとに特徴づけていると考えてよい。

 これから弁証法と聞いたとき、この表現はくるくる展開していく討論のように、対立物の生きいきとした相互関係としてという意味に直観的に解することにしよう。またこの意味で、私たちの唯物論は対論的、または対理的唯物論という意味合いを含んでいる。


 と筆者はいっています。

 では、
 
 なぜ、われわれは、客観的実在を認識しなければいけないのでしょうか?
 
 なぜ、われわれは、ものごとの本質を知らなければならないのでしょうか?

 唯物論も弁証法も世界を知るための考え方の道すじを示すものだと思います。
 
 ものごとには、混沌としているように見えても合法則的に進化・発展しているように思われます。
 
 やはり人間を含めた自然が、どのように変化してきたのかを知ることが、人類が自然と共生して永続的に種を継続していくためにも必要です。
 
 そして人間には、他の生物にない精神の能動性と意識の先行性をもっていますので、その精神や意識を適切に働かすことによって全体をコントロールすることもできます。
 
 今後も本質からものごとや現象をとらえ、一時の感情や浅はかなイデオロギーに振り回されないように、自立して生きていくことが必要だと思います。


質の生成と物質の運動

2011年03月01日 | 哲学
 2月16日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。
 教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第十一話「質の生成と物質の運動」です。

雑感
 日本の教育(子ども)について

 社会をよくするためには、教育からしなければならないとよく言いますが、どのような教育をすればよいのでしょうか?

 少なくとも偏差値重視の知識教育だけではないことは、何となくみんなが感じています。

 わたしは、こう考えます。

 わたしたちが、一人で暮らすのでなければ、社会を形成する一員として、人類や国、地域で、安全で安心な住みやすい社会に積極的にすることは義務であると考えられています。

 今はほとんど、国民の自由の権利だけが、行使され、義務が果たされていないような気がします。

 しかし、今住んでいる社会をよくしようとしても、その歴史的背景や、宗教や文化の違い、イデオロギーの違いなどを理解しないととても精神論だけでは、この義務は果たせないと思います。

 ですから、子どもには、小さいときから社会のことを教えていかなければならないと思っています。



・民主主義とは何か? 歴史的背景とその長所と短所
・資本主義の本質は何か? 歴史的背景とその長所と短所
・社会主義・共産主義とは何か? 歴史的背景とその長所と短所
・そもそも人間とは何か? 意識と精神の働き 自然の頂点に立つ
・人間と自然との関係 西洋と日本の違い
・自由と秩序
・「学ぶこと」の意味 
・人間が社会で生きるには何を大切にしなければならないか 
・理念がなぜ必要なのか?
・目的をもつ意味は何?
・善悪の判断 価値観
・何のために勉強するのか
・正しいものの見方・考え方
・世界の「正義」について
などなどです。





本日の学び
 本話より抜粋 「質の生成と物質の運動」

 外界の大きな特徴は、たえず質的に新しいものが生成して消滅していることである。このことが、物質の運動の大きな特徴であり、これを正しくとらえることが世界観にとってきわめて大切な基本的なことである。それでは質の生成とはどのようなことをいうのであろうか。

 絵や写真が黒い点の集まりでつくられていることは確かであるが、黒い点をただ単に集めただけでは、絵や写真にはけっしてならない。絵や写真になるためには、黒いインクの各点が都合よく集まっていなければならない。
 
 黒インクの点の相互の位置関係が、一個の黒インクの点に内在するものでなく、二個以上存在してはじめて生成するものである点に注目すれば、絵や写真は黒インクの点が多数集まることによってはじめて生成した新しい質であると考えられよう。

 松本清張氏の名作『点と線』というのがあるが、断片的な事実がやがて一つの事件として構成していく経過が見事に描きだされている。
 事実は事実として存在しながら質的に新しいもの、「事件」を生成する。事件のなかでは個々の断片的事実が互いに密接な関係をもっている。






生物の発生・進化は大規模な質の発生
 たとえば、わたしたちの周りにある物質は、すべて原子や分子でできていて、たえず変化し、分解し、生成している。
 これらは、質の生成であり、一つの質から他の質への移行であり、また質の消滅である。
 物質とはこのような意味ではたえず質的変化を重ねている存在である。

 さて、自然に見られる大規模な質の生成の一つに、生物の発生と進化をあげることができる。
 生きているという存在が、いかに不思議な、独特な質であるかはよく知られているところである。
 それは何種類かの莫大な数の原子、分子が互いにきわめて密接な、生物に特有な関係におかれていて、その結果はじめて生きるという質が生成したのだと考えられている。

 違う立場に立つ考え方もある。
 それは、生物といえども、原子、分子の集合が、物理的および化学的変化をひきおこしているにすぎないのであって、生きるという質も見かけだけにすぎない。
 そこにあるものはたんなる物理的変化、化学的変化の連続以上のなにものでもないという考え方である。
 これを機械的な考え方という。

 たしかに、生物の体内では、無数の物理的化学的変化が進行しているが、これらの無数の要素的な変化が、互いに無関係に進行しているのではない。生物に特有な一定の関係におかれて進行している。
 このような進行の仕方に生物としての特有な質があらわれている。そして、その結果、生きているという新しい物質の存在様式が可能になったのである。
 生物は原子、分子の集合体でありながら、新しい質を獲得した存在である。




自然は質的に発展する

 生物の発生は、自然における大きな事件であった。

 アミノ酸や糖類などの多量の有機化合物(炭素の化合物)が、この地上でつくられていなければ、生物は発生しなかったであろう。
 一方、地上の簡単な有機化合物は太陽からの紫外線の照射や落雷などのいろいろな作用をうけて、複雑な化合物にかわると共に、これらがしだいに濃縮され、さらに複雑な有機化合物であるタンパク質を形成していった。
 このような変化が、くり返されつみ重ねられて、やがて生物が発生したのであろう。

 いうまでもないことであるが、このときの生物もまた原子、分子の集まりである。
 生物を構成している原子、分子は通常の原子、分子であって特別あつらえの原子、分子ではない。
 ただ、その集まり方が独特であるため、原子、分子の集団が集団としての新しい質を獲得したのである。
 意識の発生もまた、生物の発生と同じような意味で、新しい質の生成である。

 自然はきわめて長い時間を経て、しだいに新しい質を獲得していているのであって、いったん獲得された質はその後の自然のありかたにそれぞれ役割を演じて新しい質として位置をしめながら、自然の発展に大きな影響を与えている。

 このような過程は、まさしく自然の歴史的過程である。
 自然は、歴史的に発展してきている。それは新しい質の生成と発展の歴史である。
 そして、現在における最高の発展として、社会をつくり意識をもった存在としての人間が立っているのである。






静かに浮かんでいるように見える銀河だが・・・

 アンドロメダ星雲の外側は渦巻状になっているが、この部分では、たえず星がつくられている。
 銀河の内部には、宇宙塵が漂っているが、宇宙塵は、いわば銀河をみたすガス体である。

 宇宙ガスは、銀河を回っているが、渋滞部分は存在しつづけて、ここでガスが濃くなり、宇宙塵が、しだいに集まって星が生成するようになる。この渋滞部分がゆっくりと銀河のまわりを回りながら、しだいに星をつくっていく。

 一方、銀河の中心では、星の密度が高くなって、何百年かに一度は、爆発を生じている。
 わたしたちの銀河系にも、ここ一〇〇〇万年の間に、三回の爆発が起こった模様で、爆発によって生じたリング状の雲が幾重にも観測されている。

 銀河を構成する一つひとつの星が、いつも同じ状態をしめているのではなく、誕生から消滅へと、あるいは一〇〇万年程度、あるいは何十億年という長さの一生をもつことはよく話題にのぼることであるが、星の集団としての銀河もまたきわめてダイナミックな運動をしているといわねばならない。






生命発生と生物進化の必然性

 現在の生物をつくりあげている物質、すなわちタンパク質をはじめとする多くの生体物質は、きわめて複雑なもので、原始地球上に生じた化合物間の反応で、これらの生体物質自身はつぎつぎとつくられていったように思われる。
 ただ生物体内における生物物質のひじょうに秩序だった、互いに有機的な結びつきと大気中の化学変化によって生じた物質の単なる集合との間には、大きな距離感があって、生物の誕生までにはかなりの時間を要したようである。

 生物の進化のなかで、意識の発生の過程に関連して、たとえば、生物は、外界からの刺激に即応して、この刺激に反応する器官をしだいにつくりあげていくことをのべた。事実はこのとおりであって、これを見れば見るほど、このような器官が、どうしても自然に生ずるにいたったのであろうかと、不思議な気持ちになるのを禁ずることができない。

 無生物から生物への発生の各ステップの変化を物理的変化と化学的変化との組み合わせに還元したということであれば、生命の発生、生物の進化についての認識には、まだ大切なものが残っていることになる。
 それは自然が、あるいは無生物が、生物を創造しないではすまない必然性である。この生命発生の必然性、生物進化の必然性こそ、生命の発生、生物の進化に関して最初からなげかけられている大問題である。





運動は物資の本質であるということ


 さて、この必然性を、他の何らかの一般的原理から導かれた結果として理解しようとするのは、一見もっとものようだが、結局、観念論におちいってしまう危険性がある。
 このような必然性を、他の原理から導くのではなく、物質それ自身を深く認識していく契機としてとらえるべきものである。

 すなわち、このような必然性を物質そのものの本質としてとらえることが重要である。

 物質は生物にあって、はじめて進化発展するのではない。
 生命の発生するはるか以前から、銀河系のダイナミックな姿があった。
 宇宙が静かと見えたのは、見る視野の問題であって、宇宙は星の絶え間ない誕生と消滅、銀河系の回転、中心部の爆発現象などが端的に物語るように、みごとなまでに動的状態である。

 このような銀河系、すなわち銀河系という存在様式をとっている物質にたいして、どうして静的な状態になっていないのかと問うことはできる。この問いは、生物の発生と進化の必然性にたいする場合と同様な問いである。
 そして答えは一つである。
 すなわち運動は物質の本質であって、運動と切り離した物質は存在しないのである、と。

 ここで運動とよんでいるのは、きわめてひろい意味である。
 それはさきにのべた自然の歴史的発展過程に見られるような、質の生成と消滅、変化、発展などいっさいをふくんだものである。そしてそのような意味での運動が、物資の本質であるとすれば、以後の問題は、その物質の運動がいかなる特徴をもっているかをあきらかにしていくこととなるであろう。

 その特徴はきわめて簡単に表現することができる。それは弁証法的である。

と筆者は言っています。


 物質の本質は、運動であること。長い時間をかけて物質(=運動)が、質的変化をとげてきた集大成が現時点であるということです。そこには無生物から生物を創造した必然性があり、その頂点に立つのが人間です。そしてその特徴は、意識の先行性と精神の能動性です。この二つの特徴が意味するものは、これから先の世界は、人間が主体となって自然とともに進化発展していくのだということです。

このように、われわれ人類は、自然から人間を含めた自然の発展をなんらかの必然性により託されたのだと考えることが妥当であろうと思います。

 運動こそ、物質の本質であり、人間の本質であることは、われわれは、生物であることから現実として、莫大なじっとしていられない生命エネルギーを有しており、それをコントロールできる意識や精神までも獲得してしまっているので、しっかりとした生き方(宗教)をもたないと自滅してしまうかもしれません。
 反対に、しっかりとした考え(秩序維持と進化発展)をもってすれば、たいへんすみ良い世界にもなるということです。

われわれは、自分の偏見を正すため、他者を理解するため、世界を知るために、懸命に学び、自然のよりよい進化発展のために、貢献しなければならない存在だということを、特に日本のように社会が成熟している国の国民であるならば、外界に対して責任をもたなければいけないと思います。




真理とは何か

2011年01月31日 | 哲学
 1月12日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第十話「真理とは何か」です。



雑感
 日本という国
 昨年は、中谷 巌氏の「日本の復元力」から、日本人のルーツを学びました。

 そこでは、西洋のいき過ぎた個人の自由、すなわち、神や共同体、自然の呪縛から逃れるところからでてくる近代合理主義、その結果、個人の欲望をますます認め、全面的に正当化してきたところから生まれてきた民主主義、市場原理主義、競争市場主義。
 そして、いまや、それがそれぞれの国家の統制が及ばないグローバル資本主義が世界を覆っているという事実。
 そのいけいけどんどんが、本当に人びとに幸せをもたらしているのだろうか、という疑問が、閉塞感となって日本の国に蔓延しています。
 
 そんな世界を違った考え方で見たり、考えたりするときに日本人のアイデンティティ、すなわち、佐伯啓思氏の仏教的な無常観、武士道的な義務感、儒教的な『分』の思想、神道的な清明心など、個人の欲望を抑え、自然や他人と調和や尊敬を大事にする考え方を持った日本人のルーツのなかに、これからの世界のあり方のヒントがあるというものでした。


 確かに、理想は世界中が仲良くして、有限な物資を分かち合い、精神的には支えあい、愛し合い、世界中が平和で人びとが幸せになるというものでしょう。


 それはそれとして、今日の世界を見ますと、アメリカもヨーロッパもサブプライムローンの後処理に莫大なお金とエネルギーをつぎ込み、かたや中国を筆頭にアジアの成長、活力には、眼を見張るものがあります。

 わが日本はどうでしょうか?あまりにも内向き、嵐が過ぎるまでじっとしている、国民は、国が何とかしてくれる、国は経済界が自主的に何とかしてくれる、経済界は、世界、とりわけアジアの急激な発展からの仕事が舞い込んでくると他人まかせ、これで日本の将来はあるのでしょうか。

 日本と世界とはあまりにも温度差がありすぎて、何もしないでじっとしていると数年後には浦島太郎になってしまう可能性がでてきます。

 今のトレンドは、積極的に根本から世界を進化、発展させていくことです。

 いろいろな支障や先ほどの日本人のルーツにとらわれることなく、理想を目指して、個人の欲望をむき出しにするのではなく、日本全体、世界全体のために積極的に経済活動をはじめとする行動を起こさなければなりません。

 海外で貢献しようとする人はそれでよいですし、国内で貢献しようとする人もそれでよいと思います。とにかく、積極的に、内向きにならないで、行動することが、今は一番望まれています。

 今年は、昨年と同じような考え方(様子をみる)や、動き方(消極的)をすると、3年後には取り返しのつかない状態になっているかもしれません。





本日の学び
本話より抜粋
 真理とは、もともと私たちが得た認識が真であるときの認識の内容のことであった。

 私たちの立場、すなわち唯物論の立場にたてば、真であるとは認識の内容が客観的世界と一致することである。
 そうは言うものの、私たちの外界にたいする認識の可能性、その真偽の検証方法など、真理を巡って多くの問題が存在する。

 さて、私たちが外界を認識するときには、第九話でものべたように、それぞれの脳のなかに、外界を観念という形で構成しているが、よく考えてみると、このままでは観念的に構成された結果が、外界の客観的事実のとおりになっているかどうかはわからない。
 
 意識の内容は、外界に対応したものであるとはいいながらも、ほんとうに正しく反映構成しているかどうかわからない。
 また、もし意識の内容の正しさを検証する方法を見いだすことができなければ、意識が外界に対応していると称してもそれはいわば独り合点であって、このままでは結局、意識の内容を外界から切りはなしてあつかっていることに等しいであろう。

 唯物論の立場では、地球の公転運動の発見のように、思考の到達した結論が、外界と合致したというような考え方に反対する。

 唯物論での立場では、客観的事実を認め、認識の内容はこれに対応したものであるという考え方をとっているので、経験的事実から出発して思考によって獲得された結論が、客観的実在の存在様式と合致するかどうかが大切な問題になってくる。

 このように客観的実在と合致する観念のことを真理という。


 したがって真理とは、外界に間違いなく対応している意識の内容、すなわち観念である。真理とはその意味がきわめて明白な概念である。それは私たち自身の頭脳のなかに厳然としてあるものであって、はるか遠い山のかなたにかすんで存在するものではない。

 われわれは、この世に生まれてからこのかた、数多くの経験を重ね、知識を習得し、思考をくり返してきた。

 その結果、われわれの頭のなかには、自然と社会、意識現象にかんするさまざまな認識内容が、どっさり積まれている。そして、このどっさり積まれている観念全体から、あれこれと予測して、その予測にもとづいた実践が展開されていく。
 
 そして、私たちは、実践によって、私たちの認識内容が外界をただしく反映したものであるかどうかを検証することができる。
 いいかえれば真理であるか否かは実践によって検証することができる。
 実践による真理の検証、これこそが意識と物質(すなわち客観的存在)との関係をあたえるもう一つの面なのである。

 さて、このようにして真理はその正しさを検証されたとき、真理は客観的実在に合致している。
 
 真理はかならずだれかの頭脳のなかに存在するものであって、その意味で主観的なもののように見えるが、客観的実在を正しく反映した真理は、けっして主観的なものではなく、客観的なものである。

 このような客観的実在を正しく反映している真理のことを客観的真理という。
 あるいはこれを唯物論的真理と呼んでもよい。

 外界は、かならずしもただしく意識に反映されるわけではないが、その意識の内容は、実践を通じて検証され、ある部分は、ただしいことがわかり、ある部分は、修正される。

 このようなダイナミックな関係にたえずおかれているもの、これが意識と外界の物質との関係である。
 
 このダイナミックな関係は、外界を変革する存在としての人間の生命活動の端的なあらわれである精神の能動性、とくに意識の先行性にもとづいている。

 さきにのべたところにしたがえば、自然の発展の頂点において生み出された人間の今日における役割は、とほうもなく長い時間をへて、たえず発展してきた物質的自然の今後の発展のテコとしてはたらくところにある。

 この人間の役割、すなわち今日における物質的自然の発展を保証するという役割が、実践をとおした意識と客観的実在とのダイナミックな関係をとおして果たされていくのである。

 こうして、私たちの頭のなかに、外界をただしく反映、構成したものがつみ重ねられていく。

 外界にただしく反映、構成したもの、外界をただしく認識した意識の内容、すなわち真理が形成されていく。
 さて私たちは、日頃から数多くの経験をつみ重ね、これらの経験についてたえずよく考えることによって、ものごとに関する認識をしだいに発展させている。

 いいかえれば、私たちの頭脳のなかに存在する真理はしだいに増大していく。
 このように真理はたえず変化している。
 いうまでもないが、私たちは、どのような場合でも、対象を完全に認識しつくすことはできない。

 さらに、客観的事実自身もまた変化発展しているのが普通である。
 したがって、私たちが獲得する真理は、つねに部分的な限界のある真理である。

 このことを真理の相対性、またこのときの真理を相対的真理という。

 真理がつねに相対的であるからといって、その内容がけっしていい加減なものではないということである。

 私たちが得るものは部分的な真理であって、この意味で相対的ではあるが、その部分に関しては客観的で正しい真理である。

 このことを真理の絶対性という。

 真理は部分的という意味では相対的で、その部分に関する限り客観的で正しいという意味で絶対的である。(例:ニュートン力学と相対性理論)

 相対的真理がつみ重ねられるにつれて、相対的真理はその内容が豊かになって、しだいに完全なものに近づいていく。
 
 客観的実在のさまざまな面はかぎりなく多く、また、たがいに無限にからみあっている。

 したがって、相対的真理が、完全な真理にたっすることはない。
 人間は外界を認識しつくすことはないが、どこまでも認識をすすめていくことができる。






 実践による検証をとおして、私たちはどこまでも対象を一歩一歩深く認識していくことができることをのべた。

 いわばこれは私たちの認識の無限の可能性に関することである。

 このような無限の可能性は、世界のすべての物質がたがいに密接な関連のもとにあるという事実にその根拠をもっている。この認識の無限性が、私たちの事物の認識の上でたいへん重要な役割をもっている。
 
 アイディアを生み出すとき、強い課題意識は、問題としている対象をかならず認識できるはずだと確信しているときにあらわれるのであって、この深い確信は、結局のところ認識の無限の可能性にたいする理解にもとづいていることが多い。
 
 可能であることが一度示されると、オリンピックの世界新記録に達する記録がぞくぞくと生まれてくる。

 可能であることを見出したとき、わたしたちははるかに容易におこなうことができる。


 本日学んだことは、われわれ人間は、まず、意識と外界の物質とのダイナミックな関係を知り、そしてそのダイナミックな関係は、外界を変革する存在としての人間の生命活動の端的なあらわれである精神の能動性、とくに意識の先行性にもとづいていることを学びました。

 そして自然の頂点に立つ人間の役割は、世界の物質的発展を保障するということです。

 したがって、われわれは、何もしないでじっとしているというのは、人間的でなく、常に、自然や社会などの外界を自分自身の意識をとおして、社会をよくするためにダイナミックに予測したり、検証したりすることが、本質的な人間の生命活動(精神の能動性、意識の先行性)であるということを学びました。
 
 われわれには、この社会や自然を発展させていくことが、自然全体から考えると、私たち一人ひとりの役目であることが認識できました。
 
 そして、認識については、世界のすべての物質が密接な関連のもとにあるという根拠をもとに無限の可能性があることを知りました。
 
 ということは、強く思えば、必ず思いは達成され、それで世界は進化発展していくのだということも学びました。
 
 これこそが、自然における人間の本質的な役割だということです。






観念と意識のはたらき

2011年01月08日 | 哲学
 12月15日(水)哲学学習会を会社で実施しました。

 参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第九話「観念と意識のはたらき」です。



雑感

 鬼に金棒

 先日、ネッツトヨタ南国の相談役、横田英毅さまのお話を聞くことができました。
 お話の中からたくさん学ぶことができました。
 
 横田さまのお話は、机上論ではなく、実際経営をされる中ででてきたことでありますし、また2008年のリーマンショックでも業績を伸ばしつづけてこられたという実績があります。
 
 この車の売れない時節に業績を伸ばすということは、何か人の心をとらえる本質的なものがない限りできるものではありません。
 
 ということで、私がなにを学んだかと申しますと、「経営とは、何かを変え続けること」、「対処ではなく解決」、「人間性尊重とは、考える、発言する、行動する、反省する、笑う、役に立つ、感動する、目的をもつ、目標をもつなど、人間にしかできないことをちゃんとするということ」、「他人に必要とされることが人間性尊重」、「鬼に金棒」、「顧客満足と顧客感動の違い」です。
 
 
 「対処ではなく解決」では問題が生じたときに、表面上つくろってやりすごすのではなく、真の原因を探り出し、根源からそのもとを断つようにすること、人間が、人間たる証を実現しながら生きていくこと、「鬼(人間性)に金棒(仕事力)」では、人間性を成長させることを重視していることです。

 「顧客満足と顧客感動の違い」では顧客満足は、お客様と約束したことを100%すること。
 顧客感動は、お金やモノではなく、工夫をして心に訴えかけるものということです。




 
 このように、経営とは、短期の利益を追求したりノウハウやテクニックにたよって急場しのぎをするのではなく、常に本質的な対処をすることが、人のやりがいを高め、それが、結果として業績につながるということです。
 これらのことを身をもって実践していきたいと思いました。



本日の学び
本話より抜粋
 観念とは脳のなかの物質的変化が示す客観的内容である。
 このいみはどういうことであろうか。
 また意識は現実に先行する。
 その理由は意識のなかに客観的実在の固有の法則がとらえられていることによる。

 本日学んだことは、現象、観念、意識、精神の関係です。

 人は、どのようにして外界に向かってはたらきかけ、変革しようとするのでしょうか。
 
 未来を予測するなどの人間の独自の特徴は、どのような過程で実行されるのでしょうか。
 
 まず、言葉の意味を確認しておきましょう。

 
 現象(外界)とは、観察されうるあらゆる事実であり、現実に起こっていること。

 
 観念とは、脳のなかの物質的変化が示す客観的内容にとどまらず、全体としてあるなにものかを意味しているのであって、このなにものかを観念と呼んでいる。
 
 このなにものかのなかみは、あるいは客観的世界に対応したもののこともあれば、思考によって得られたものであることもある。
 
 この脳のなかの物質的変化(原子・分子の状態の変化)が外界のなにかをあらわす脳のなかの記号(言語)に対応している。
 人間の発展のなかで脳の物質的変化全体が、外界の存在物や概念などと対応するようになったこと自身が重要なことである。

 認識について
 私たちが外界を認識するとき、私たちの脳はたんに外界からの情報をうけとり、そのまま認識するのではなく、外界の情報とすでに私たちが脳のなかに持っている情報や考え方などを材料として認識内容を構成しているということである。
 
 ここではすでに獲得している考え方や記憶の内容をかりに認識素材と呼ぶことにする。

 本能もまた長い進化の過程で外界にたいする能動的な反映として獲得されたものである。

 これらの認識素材と外界からの情報を合作するところに認識のはたらきの能動性がある。

 人は観念という形で外界を意識する
 脳のなかの物質的変化が生じてはじめて私たちはイヌを思い浮かべることができる

 観念は意識の内容である

 私たちの観念は、自然や社会の現象のある瞬間瞬間の断面に関する個々別々のものから、さらにすすんでこれらの内容の関連自身もまた観念として意識のなかに形成されていく。

 意識とは、人間は外界に向かってはたらきかけ、これを理解し、これを変革するようになったが、この活動のなかで決定的な役割を果たすのが意識である。

 人の意識のはたらきは外界を反映構成するものだというのが適当であろう。

 人は外界にたいする観念を用いて構成し、客観的実在の固有の法則を理解し、このような理解にもとづいて、外界の可能な変化を認識し、人間にとって必要な方向に変革する方法を見いだしている。

 

 精神について
 人はまずその最初の段階としての猿人は道具を製作しはじめ、社会的協同作業を重ね、言語を発展させてきた。脳の発達はいちじるしく、外界をひろく深く認識することができるようになった。
 
 こうして社会が発展して能動的なはたらきをおこなう意識、とくに科学や芸術などの高次のはたらきを行う意識、すなわち精神がきわめて積極的なはたらきをおこなうようになった。

 生命のない無機質的自然の長い変化、発展のなかから生命が生まれ、生きた存在としての生物のこれまた長期間にわたる生物進化の頂点として、人間に至って社会が生まれ、ついに意識・精神がつくりだされた。

 人間と社会と意識・精神は、とほうもなく長い間の物質的自然の歴史的な発展の所産なのである。

 自然はそのとほうもなく長い歴史をへたあと、新しい段階に突入するにいたった。
 それが能動的な意識の発生であり、意識的変革という自然の新しい発展の仕方の誕生である。

 人間は、自然と社会を意識的に変革していくことができるはじめての存在である。
 そしてそのなかで決定的な役割を果たすのが、意識・精神の能動性である。


と著者はいっています。
 これを私なりにまとめますと次のようになります。





 現象→(認識)→観念→意識→精神、この概念を理解すると人間がどのようにして進化してきたのか、すなわち私たち人間しか、社会や自然を変革していくことができないということがよくわかりますね。

 今の世界を見れば、個人や国家という単位で、全体の利益を考えずに自分たちの都合のよいようにばかり、変革してきているのがよくわかります。
 
 そうしますと、私たちのすべきことが明確になってきます。
 
 世界が平和に、人類全体が共存・共栄でき、一人ひとりが喜びを込めて生きいきと生きていけるように社会や自然を変革していくのが、私たちの役目ではないでしょうか。

 
 それにしましても、認識の奥にある、私たちが獲得してきた考え方や記憶の内容すなわち、認識素材と、意識の奥にある、考えの奥深くにあるイデオロギー、道徳、宗教、国や民族という意識素材が世界の変革に大きな影響を及ぼしていることがわかりました。

 そして世界全体が「よい世の中にしよう」という理念をもたない限り、多様性の共生というものは言葉ばかりで現実には、逆方向に働き、収拾のつかない世界になっていきます。

 世界をよい方向へ導くためには、人間が生まれたときからの正しい教育が必要ですし、われわれ自身がそれを身をもって示すことが重要であることがわかりました。



意識の誕生

2010年12月27日 | 哲学
11月24日(水)哲学学習会を会社で実施しました。
参加人数は、7名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第八話「意識の誕生」です。




雑感
 よい心と悪い心
 
 私たちは、何によって心を動かされているでしょうか。
 動物や植物などを含む自然によって心を動かされることももちろんあります。
 例えば、台風、地震や津波などによって恐怖を感じたり、美しい花を見て心が穏やかになったりすることです。
 しかしよく考えて見ますと、自分の心が一番反応するのは、自分が生きていくことや暮らしをしていく上において直接関係のある人や社会から受ける影響が一番大きいと思います。
 そして私たちは、人から受ける情報によって、自分の心が「よい心」になったり「悪い心」になったりします。

 ここでいう「よい心」とは、感謝、喜び、尊敬、信頼、愉快など前向きの明るい心のことで、表情は穏やかで微笑んで、誰かに何かをしてあげたい、人を幸せにしたい、社会のためになることをやりたい、幸福感で満たされている、愛されていることを実感している、頼りにされている、というような心の動きです。

 次に「悪い心」とは、恨み、悲しみ、疑い、憎しみ、悔しさ、無気力、無関心、不愉快など後ろ向きの暗い心のことで、表情は硬くこわばり、人を寄付けず、他人を批判し、人から必要とされていない、騙されている、嫌がられている、怖い、やる気が起こらない、コンプレックスにさいなまれている、バカだと思われている、というような心の動きです。





 よく考えて見ますと、私たちはいかに周りの人たちから影響を受けて心を動かされているかがわかります。
 それは心を動かされているだけですむものではなく、自分の人生まで支配されてしまします。

 私や私の仲間たちは、世の中をよくしましょうをいう目的をもって生きています。
 とすれば、どうすればよいのでしょうか。釈迦のように一切は無常と修行をして割り切っていくのも一つの方法ですが、われわれ凡人にはなかなか険しい道のりです。



 そこで、自分が気持ちよくなるためには、まず、自分から「よい心」をもっていつも笑顔で明るく親切に振る舞えば、よいのではないでしょうか。
 但し、注意することがあります。それは、まず、自分が社会の役割分担をしっかり果たすということです。社会人であれば、仕事はきっちりすること、主婦であれば家事や育児をしっかりすることです。
 それと、他人を不愉快にさせないようにモラル・マナー・礼儀をよく学んで実践することです。


 このように、自分が笑顔で明るく振る舞えば、相手の心は、それに反応して「快」になり、相手もハッピーになります。その循環を永久にすれば、世の中は、よくなるのではないでしょうか。そんな世の中ももうすぐ来そうですね。





本日の学び
本話より抜粋
 

 すすんだ知恵をはたらかすようにみえるチンパンジーにくらべても、人間の意識は一段とすすんだものである。
 それでは意識のすすんでいるのはどの点で、またこのような意識はいかなる事実にささえられて発達してきたのであろうか。
 大きな予測はとにかく、小規模の予測は、日常生活でたえず行っていることである。
 慣れのためあまり気にとめないが、意識のなかみが世界の現実よりも先行しうるというのは考えてみると不思議なことである。どうしてこのようなことが可能なのであろうか。


 動物の個体の反射活動は、個体が直面している現実の現象局面にかぎられている。
 したがって、意識の先行性は、まったく人間に特有な心のはたらきと考えてよい。

 



 意識の発達は、なにによってもたらされたのであろうか。
 それは、社会生活のなかでたがいに協同したこと、言語を用いるようになったことや道具を製作しこれを使用するようになったことなどである。

 とくに協同作業の発達は人びとの心にヒューマニズムをそだてていった。

 しかしながらこれらの発達成長のみならず生物の進化一般は、けっして個々の人や一頭一匹一本の生物個体の遺伝子が、道具の製作、協同作業、言語の使用によって直接変化していくのではないのである。
 生物の遺伝子は不変ではなくたえず変わっていくものであるが、その変化は個々の生物の生活とは関係なく生ずる。
 このような遺伝子の変化すなわち生活に関係なく生じる遺伝子の変化にもとづいて生物はどうして進化することができるのであろうか。これこそが進化論の中心課題である。

 


 人は現在も進化している生物であるが、とくに最近における進化のテンポは極めて著しい。
 いま人の進化の時間的な間隔をわかりやすくするため、人としての特徴を帯び始めた生物として、かりに人と高等猿類の共通の祖先が生存していた時期を二〇〇〇万年前としてこの時期を午前零時、現在を午後一二時としよう。
 なんとアウストラロピテクス、すなわち文化を持った最初の人類があらわれたのは、ようやく午後八時三十分である。午後十一時三十分に原人と呼ぶ原始的人類が、また、午後十一時五十九分に現生人類がはじめてあらわれ、最後の一分間に旧石器時代から新石器時代となり、現代人の型があらわれたのは午後十一時五十九分五十五秒である。
 
 他の多くの生物では、午後八時三十分から三時間三十分の間には、そうたいして進化することもない。ところが、人間の脳にかんしていえば、午後八時三十分で五〇〇グラムから午後十一時三十分には一〇〇〇グラムとなって、このあと三十分で一四〇〇グラムになっている。
 
 この極めて急速な進化は、他の生物に見られないところであって、道具の製作、社会的協同作業と言語の発生がもたらしたいちじるしい影響である。
 おそらく現在のこの瞬間にも人はきわめてすみやかに進化しているのであろう。人類の進化のテンポが現在に近づくほど大きいことをみれば、現在の瞬間の進化のテンポがもっともはやいのではないかとさえ考えられる。






と著者はいっています。
 
 宇宙が誕生(137億年前)してから気の遠くなるようなときが過ぎています。
 私たちは今の時代であくせくしていますが、私たちがそこそこ認識できるのは、今から1万年前ほどです。
 
 この間に、人類はものすごい進化をしました。
 
 1万年前には、農耕・牧畜がおこなわれ、集団で定住することでコミュニティがうまれてきました。
 
 そして、文字が生まれさらに人間は進化しました。

 しかし、社会が成熟して格差がでてきますと、社会では争いがおこります。
 
 そこで、人々を導くいろいろな宗教がでてきました。
 
 そして17世紀ごろになりますと、唯物論という哲学も後押しし、世界は科学技術を発展させることになります。
 
 そして産業革命が起こり、市民革命が起こり、人びとが自由に生産したり、消費したりすることのできる資本主義と共に、爆発的に社会は進化していきました。
 
 しかし、気がついてみると、進化・発展しすぎてわれわれの土台である地球が環境汚染や資源の争奪により、恵みを受けている自然そのものが破壊されてきたのを認識せざるを得なくなってきました。
 
 著者が言っていますようにこれからますます速度を上げて進化していくものと思われますが、この先どうなるのでしょうか。人間自体もこの環境の変化に合わせて、突然かわるかもしれませんね。
 そんなことを考えながら、未来になるべく負を残さないように一生懸命に生きていこうと思います。


アメーバからチンパンジーまで

2010年10月27日 | 哲学
10月20日(水)哲学学習会を会社で実施しました。
参加人数は、7名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第六話「アメーバからチンパンジーまで」です。


雑感
 人間とは何か
 
 「人間とは何か」ということを知る意味は、個人の自由や欲望を最大化することを認める民主主義や市場原理主義などが成熟化し、世界がグローバル化して国民国家という概念が薄れ、自分が何物であるのかがわからなくなり、目先の利益だけを唯一の価値観とすることによって非常に刹那的になってきた現代、本来、自分は何をしなければならないのか、を問い直さなければ、人間社会は混沌を極め、自然の頂点に立つ人間が自由の名のもとに、「自分勝手」や「自分さえよければ」がまかりとおり、その結果、人類の福祉に共通する地球全体の秩序(生態系)などを破壊し、生物が棲めない自然になる可能性が大いにあるからです。

 
 
 さて、人間とは自然のなかでどういう存在なのでしょうか?
 以前、哲学学習会で学んだように、宇宙が誕生して物質が進化・発展していく過程で、その主系列として





 となり、人間は、自然が進化発展した頂点に立っていることを認識しなければなりません。
 ということは、人間しか、この自然や、地球、社会をよくすることができないということです。
 そういう存在であることを改めて認識すべきです。最近、熊が市街地に出没していますが、熊が社会全体をよくするということは、誰が考えても難しいということに異論はないと思います。

 
 そして、人間の特徴として「意識の先行性」と「精神の能動性」ということがあげられます。
 意識の先行性とは、本日の学びにもありましたように、意識は、物質的世界の現実よりも先行しているということです。未来に向けてこうしようということが考えられますし、実現しているともいえるのです。
 素晴らしい能力ですね。この能力は、他の動物や植物にはみられません。
 

 精神の能動性については、生物が能動的に行動するように、人間は肉体だけではなく、精神も積極的に活動するということです。
 じっとしていられなくて、目の前の現象に対して、経験したことを思い出したり、新たに試行錯誤したりします。赤ちゃんが言葉を積極的に覚えていくこともその一つの現れです。

 



 次に、社会での人間の役割を示したものとして、アリストテレスの「人間は社会的動物」ということがあげられます。
 これは、社会は、個人を保護する機能をもち、個人は社会に寄与(貢献)する形で社会や他人と関係をもつ、というものです。双方が、役割をきちんと果たさないと社会が成り立たないということです。
 いかがでしょうか。現代日本の状態は、そのような相互関係が成立しているでしょうか。

 このように、みてまいりますとわれわれ人間がやるべきこと、やらなければならないことがみえてきますね。
 そうです、「社会をよくすること」です。




本日の学び
本話より
 
 単細胞生物からチンパンジーまでの長年にわたる進化の期間は、人間の意識がうまれる準備の期間でもありました。
 そこには、一段一段と高度に進行していく生物の能動的な反応性の発展が見いだされます。

 生物は、
アメーバ → 海綿 → コイ → イヌ → チンパンジー → 人間
というように進化してきました。
どのような進化かと申しますと、反映の仕方が高度になっていったということです。

 
 まず、アメーバですが、生きるために有機物質を積極的に捜し求めます。
 そして、その存在を感知するやいなやこれを体内にとりこみます。すなわち、アメーバは外からの刺激を体内に反映させるだけでなく、この刺激に応じて、外界にはたらきかけるということです。
 以前でのべました、地震計やコンピュータと違いまして、積極的に反映を求めて、その刺激に反応することが、生命活動に不可欠なものとしておこなわれている点が特徴的です。

 

 つぎに海綿のように海中に静かに座しているものはどうでしょうか。
 海綿体のあちこちには、穴が開いており、内側のえり細胞のそれぞれに長い鞭毛が付いています。
 えり細胞は、この鞭毛をさかんに動かして水の流れを引き起こしています。このため、海綿の外から側壁をとおって水が流れ込み、また、排出口から流れ出ています。
 えり細胞は、水の流れにともなって流れ込んでくる栄養物を摂取します。一見、静かに座している海綿の内部はこのようにダイナミックに活動しています。
 一般に生物は、外界をいっそうよく反映させるため、生物体を分化させ、諸器官を発達させます。これらの分化と諸器官の発達こそ、外界にたいする生物の能動的反映の端的なあらわれです。


 つぎに、手をたたくと、池のコイがえさを求めて集まってくるということは、どういうことでしょうか。
 コイはえさにふれたときいつもこれを摂取します。
 この動作は、コイが生きていくために欠くべからざる本能、すなわち生まれつき備わっている遺伝的動作ですが、コイが、その生存に直接かかわり合う場合、すなわちえさに直接ふれる場合だけでなく、たたいた手がひきおこす振動という、生存には間接的なものにも反応することを示しています。
 このことは、コイが事実を模写しているだけでなく、ひきつづく事象であるととらえて反応しています。いいかえれば、事物現象の連関をも反映していることを意味しています。
 

 つぎにイヌの場合で考えてみましょう。
 イヌの口に肉の一片を入れるとイヌは唾液を分泌します。肉がイヌの舌にふれると、舌の神経を刺激し、この味刺激が神経の中枢に伝わります。ここから逆に唾液の分泌をうながす刺激が伝えられて唾液が分泌されます。
 この神経活動は、イヌの舌に肉がふれるかぎりいつまでも無条件的に行われます。これを無条件反射と呼んでいます。
 さて、イヌの舌に肉をのせるとき、同時にベルをならすとしましょう。
 ベルの音と唾液の分泌は、もともとまったく関係はないはずですが、このようなことを何度かくり返していますと、しまいにベルをならしただけで、イヌは唾液を分泌するようになります。
 つまり、イヌの中ではベルの音と唾液分泌とのあいだに結合が生じたということです。


 人間はもちろんのこと、一般の動物もまた、生まれつき多くの無条件反射をもっています。
 これらの無条件反射が土台となって種々さまざまな条件反射が形成されていきます。実際に形成された条件反射の種類は、動物の個体がどのような環境のもとで生活しているかによって異なってきます。
 そして、この条件反射は、動物の個体がその生活をする環境の条件に応じて、生まれつきもっている反射を好都合なときにひきおこすことを可能にします。



 条件反射の研究はパブロフ以来、多くの学者によって研究されてきました。
 その結果、いろいろなことがわかってきました。たとえば、さきほどのベルによる唾液の分泌の話で、もし、ベルの音の変わりに振動数が毎秒五〇〇回の音(五〇〇サイクルの音)を条件として用い、条件反射が形成されたとしましょう。
 このとき、五〇〇サイクルの音でなければならないでしょうか。
 五〇〇サイクルに近い条件のもとでも間違いなく反射が生じます。

 これを条件反射の汎化といいます。
 この汎化がなければ、条件反射で動物の個体が環境に弾力的に対応することができないでしょう。
 環境の条件は、よく似ていることはあっても、完全に同じであることはありません。汎化があって、はじめて条件反射は環境に対処する仕方として有効なのです。
 

 これと反対の現象が分化です。
 たとえば、イヌに二種類の音を聞かせるとします。まず、五〇〇サイクルの音と三〇〇〇サイクルの音を聞かせる。五〇〇サイクルの音の場合は、肉を口のなかに入れるが、三〇〇〇サイクルの場合には、肉を入れないとします。
 三〇〇〇サイクルの場合は、から振りさせるのです。
 こういうことをつづけると、五〇〇サイクルの音に対しては条件反射が形成されて、その音だけで唾液を分泌するようになるが、この条件の汎化が三〇〇〇サイクルでは制止されて、唾液を分泌しなくなります。
 このようになってから、つぎに三〇〇〇サイクルの音の変わりに二〇〇〇サイクルの音を用いて同じことをくり返す。やがて二〇〇〇サイクルの音にたいしては汎化が制止されてきます。
 こうして、最終的には実験の対象となったイヌを、五〇〇サイクルの音に対しては唾液を分泌するにもかかわらず、五五〇サイクルの音に対しては唾液を分泌できないように条件づけることができる。
 これは、条件反射の条件が、きめこまかく分化したのである。
 言うまでもないことであるが、分化は、動物個体が、環境のわずかな変化にも対処することを可能にします。



 条件反射はミミズなどの大脳のない下等な動物にも見られるものですが、大脳を有する動物にあっては、条件反射の形成はいちだんといちじるしくなります。そして、条件反射の分化は、大脳がなければおこりません。

 動物は高等なものに進化するほど大脳を発達させています。
 分化によって精密化された多数の複雑な条件反射をますます容易に形成することができるようになり、その結果、無条件反射のみによる環境への対応の仕方にくらべて、いっそう高度な対応をおこなうことができるようになっていきます。

 人とチンパンジーのちがいは、生物の進化のうえからみると、人とチンパンジーはいままで考えられていた以上にたがいに近い関係にあることが明らかになってきました。
 人が人以外の生物から進化してきたことは誰も疑っていないことですが、このことは人と人以前の動物の間が連続的につながっていることを意味しています。

 
 ちがいの一つは、チンパンジーはその生活のなかで抽象的な記号をもちいることがほとんどないということです。そしてまた、チンパンジーを含め多くの動物は、動物の反射活動が、いつも活動の対象に直接対応する場合にかぎられているということです。思考という活動は、思考の対象物に直面していなくても、記憶にもとづいておこなうことができます。
 これにたいして動物全体の活動をささえる条件反射は、外界から条件としての刺激が来ないかぎり個体に反射をひきおこしません。

 




 人の意識のはたらきはまったく人間に独特の内容をもっています。
 たとえば私たちはスケジュールをたてて、そのスケジュールにしたがって行動することが多いです。このスケジュールは、社会現象の予測(例:午後一時から会議)を前提にしているのが普通です。

 さて、この予測をおこなうこと自身、考えてみるとたいへん興味深いことです。
 予測は、この現実の世界の進行にさきだって、意識が現実の世界の状態をあたえるともいえます。この場合、意識は、物質世界の現実よりも先行していると考えてよいでしょう。
 現実を先行できる。このような人の意識はどのようにして生まれたのでしょうか。





 とういうのが、本文の内容です。
 本日もたくさんの学びを得ることができました。
 まず、「汎化」と「分化」から学んだことですが、生物は、ある程度アバウト(汎化)でなければ環境に適応できませんし、大脳を発達させてかしこくなろうとするならば、分化して、ものごとの細かい差を見分けられるようにしなければなりません。組織運営のことを考えると、やはりバランスということが重要な要素となってきます。アバウトばかりではいけませんし、細かすぎても全員のコンセンサスを得られません。
 したがって、組織運営上、現在の世の中を動かしている細かさ、品質、知識、注意すべきレベルには、達していないといけませんし、それ以上、人や社会が要求していないレベルまでとやかくいったり、時間を費やしてはいけないということです。

 それと、もう一つの学びは、やはり「意識の先行性」ということです。
 この地球上では、人間だけが未来を予測することができる、すなわち、思考によって自分のありたいように未来を現実化できるということです。

 この力をしまっておくのは、もったいないですね。

情報について

2010年09月23日 | 哲学
 9月15日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第六話「情報について」です。


雑感
 西洋と東洋のはざまで
 

 現代日本社会は、西洋と東洋そして日本固有のものや精神が入り混じっています。
 経済では、1980年代の後半に一人当たりのGDPで一位になり、そして金余りを背景に資産バブルを引き起こしました。
 そしてその回復に国内の問題とともに、世界の動きに大きな影響を受け、右往左往しているうちに、中国やインドなど(BRICS)の新興国が俄然元気になってきました。そのおかげで日本も本質的な問題を内包したまま2003年ころより、外需により景気が回復してきました。そしてそこでアメリカで起こったのが、サブプライムローン問題でした。
 2008年9月15日、リーマンショックが全世界を席巻し、一挙に様相が変わりました。そのあと、世界はお金をジャブジャブにして破綻を回避し、日本は、比較的被害が少なかったとほとんど無策で円高や株安に対して流されるままにここまできました。

 今の日本は、「デフレ」と「自分さえよけりゃ病」で、閉塞感に覆われています。しかし、そのこと(閉塞感ではなく現状)を認識していない人もいます。





 西洋では、「個人の自由(欲望)」が優先され、すべてにおいて自由ということで、秩序の著しい崩壊を起こし、2極化(お金よりも学ぶ力)を加速させています。経済においては、資本主義という形で現れています。
 
 もう一つ、共産主義というのがあり、平等を重んじるあまり、「全体」が優先され、ちょっとでも秩序を乱すものは、押さえ込む。
 これでは、よい意味でも悪い意味でも世界の発展はありません。
 この考え方は、いまだに存在しますが、主流ではなくなりましたし、資本主義よりに修正が加えられました。

 資本主義と共産主義は本来、生産手段と分配方法の違いなのですが、現実問題としてその目的を達成しようとするならば、その奥に潜む考え方ややり方や現実がどうなったかを知っておく必要があるでしょう。
 
 東洋は東洋で、個人の欲望を抑えることこそ人間の生きる道だと教えた釈迦の思想は、西洋の近代合理主義とは、正反対の考え方です。
 今の地球環境問題に表されているように、欲望に流されていたら絶対に人間は幸福になれない、という考えです。 
 
 こんな中でわれわれは、どのように活路を見いだしていけばよいのでしょうか。
一つのアイデアとして「共同体内自由主義」というのが頭に浮かびました。

 自由というのは、人間が生きる上においてたいへん重要です。よい意味での自由(社会に益になる)は、どんどん伸ばせるようにし、悪い意味での自由(社会の秩序を乱す自分勝手な自由)は、共同体内である程度、監視しあい、けん制しあうようにすればよいという考えです。
 
 こんな考えよりも自然と無理やり意識を働かせないでも丸く収まっていく世の中がやってくるかも知れませんね。



本日の学び
本話より抜粋

 情報とはなんであろうか。この何となくわかったようなわからないようなものを、唯物論の立場で理解することができるものであろうか。



 情報の意味
 私たちは、いろいろな情報を受けとったとき、これは意味ある情報だな、いやこれはあまり意味のない情報だなどとそのつど判断する。
 そして意味のあるものこそ情報というべきもので、無意味なものは情報というに値しないと考える。
 情報の意味は、情報自身にもともとあるのではなく、これを受けとった人がつくり出すものである。
 そしていうまでもないことであるが、意味や価値の生成もまた人の意識の高度の働きの結果である。





 野球試合の中継
 一年のうち多くの日には野球試合のテレビ中継がある。
 テレビのチャンネルを合わせたとたんに試合の映像が眼にはいるが、私たちはこれを少しも不思議に思わない。

 しかしながら考えてみるとこれは不思議なことである。野球の現場と家庭をつないでいるのは電波である。
それ以外のものではない。屋上のアンテナは電波をつかまえる。このときアンテナには弱い電流が流れてテレビの受信機にはいる。
 さいごには音という空気の振動と画面の映像からの光が私たちにとどく。この事実全体を逆の角度から眺めてみてはどうか。
 つまり、電波、アンテナ受信機を伝わっていくものはいろいろであっても、そのなかを変わりなく伝わっているものがあるはずで、それこそが野球の情報ではないかと。
 情報の特徴は、どの道すじをとって伝わっても、道すじのどの段階においても変わりなく伝えられていく点にあると考えてよさそうである。


 媒体と情報
 
 さきほどの電波や電流にしても、また空気の震動にしてもこれらは野球試合の映像や音声を表現しているものである。
 電気や空気のように、情報をあらわしているものを媒体といい、媒体上のなんらかの変化によって情報をあらわすことを情報の表現という。




 コンピュータの話では磁気テープを部分的に磁石にして、情報を記憶させることをのべたが、これは媒体の物質の物理的変化を用いて情報を表現しているのである。
 このほか、社会の組織が情報を表現することも多い。この場合には組織が媒体になっている。
 さていま定義した用語を用いると、情報の特徴は、その内容がこれを表現する媒体によらないものということができる。
 媒体によらないため、これを表現するのに、ごく少量の物質ですむこともあれば、これを扱うのに必要なエネルギーもわずかですますこともできる。実際、コンピュータのなかの集積回路はきわめて小さい。
 このことを強調して、よく情報は物質とエネルギーが零でも存在するという人がいる。しかしながら、いまのべてきたことからもわかるように、情報はけっして物質とは独立に存在するものではない。それは物質の運動の一つの断面である。


  いまや情報の内容とは何かについて答えることができる。
 それはたがいに区別されていることである。
 物体の集合があるとき、物質のいろいろな性質をひとまとめにして考えたとき、あるいはいくつかの現象を考えたとき、これらはいずれもたがいに区別されたものである。
 わたしたちが情報と呼んでいるものは、この区別自身をいろいろな形で表現したものである。
 したがって、情報とは表現された区別であるということができる。
 情報はまことにとらえにくく、客観的実在のなかにおさまりにくいように思えるが、このように考えていくと、それは客観的実在の存在様式の一つであるということができる。

以上、筆者は語っています。


 ここから学べることは、情報の意味は、情報自身にあるのではなく、これを受け取った人がつくり出すものであるということから、私自身が話していることも、相手が私の話しに意味を見いだしたときに情報となるのであって、発信したからといって、全員が聞いているとは限らないということです。

 受け手側に優先権があるのであれば、聞いてもらいやすいように(相手に意味を持たせるように)お膳立てをしておかなければならないということです。
 それと、世の中の有益な情報を自分にとって意味あるものとすることができる人は、自己向上が早いということです。なんでもかんでも学ぶのではなく、よい情報を学ぶことがわれわれの人間の質を決定づけるということにもなります。

 
 次に、野球放送の例にもありましたが、遠くでのできごとが、電波という目に見えない波を媒体として、いろいろな場所にいるわれわれの目の前で音と映像で見聞きできるということは、考えてみれば不思議なことです。
 電波と空気の振動と光の運動には統一性があり、世界中どこにいても同じ映像や音を聞くことができるということです。
 このことから、世界は共通の秩序で動いているということがわかります。
 したがって、人体も自然の一部として動いており、けっして独立しては存在し得ないものだということです。

 意識などの精神活動も、自然の節理のなかに組み込まれたある運動法則のもとに行われているというのが自然的な考え方であることが伺えます。
 
 したがって、あまりに自然の法則から逸脱した考えや行動は、どこかで支障をきたすような気がします。われわれも自然に敬意を払い、自然を研究することで自然にそった生き方をするならば、永遠に種として存続できるかもしれません。

 
 そして最後に、「情報とは表現された区別」であるといのは、人の名前と一緒で、名前がその人の内容を表しているのではなく、他人と違うということを示しているのだということです。
 ですから、その情報から何を得るのかは、その人の自由であるわけですから、この世に情報が現実として氾濫しているということは、氾濫から更に情報がさまざまに受け取られるということですから、世の中はますます、複雑化、多様化していくということです。
 ITの進展によってますますそのことが加速化していっているのが現代ではないでしょうか。

 
 このことからも、われわれ人間としての考え方、生き方が見えてきます。

地震計とコンピュータ

2010年09月21日 | 哲学
8月18日(水)哲学学習会を会社で実施しました。
 参加人数は、11名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第五話「地震計とコンピュータ」です。


雑感
 自由の功罪につきまして
 自由というのは、歴史的にみますと、特に西洋では人類が自然、共同体、専制政治、過去、伝統、文化などから自らが自由になるために勝ち取ってきたものだと思いますが、今ここに来て自由の功罪がはっきり見えるようになってきました。

 まず、功のほうですが、宗教などの観念に束縛されず、事実を観察しましょうということで科学が発達したおかげで、地震など一部を除いて自然の驚異から逃れることができたり、いろいろな機械を発明してわれわれの生活が便利になったり、医療が発達することによって病苦から逃れられたり、寿命が伸びたり、化学が発達したおかげで食糧を大量に確保できるようになりました。
 これは、人びとが自由にアイデアを出し、自由にものづくりをし、自由にものを売り買いできるようになったおかげが大きいと思います。

 
 しかし、罪のほうも明らかに存在すると思います。自由は、自由でもこちらのほうは自分勝手な自由がいき過ぎると思います。社会という枠組みの中では、ルールが重要な役割を果たします。
 例えば、赤信号で止まる、というルールがあってもこれを無視すれば現代では、交通事故で多くの犠牲者を出すことになるでしょう。

 経済の世界でいえば、お金儲けをして贅沢に、誰からも束縛されずに自由気ままに暮らしたいということで、武器や麻薬やお金でお金を儲けようとみんながしようとするとどんな世の中になってしまうでしょうか。
 武器や麻薬だけでなく、お金儲けのために普通にわれわれが必要とする物品供給を寡占してしまうような企業が死に物狂いで競争していたらどうなるのでしょうか。これは、確実に一部の大金持ちと大半の貧乏な人に分かれていくでしょう。

 このような世の中になりますと普通の人が普通に生活していくこと自体を難しくしていっているのが現代です。
 
 それがあまりにも行きすぎた例が、2008年のサブプライムローン問題でしょう。
そのことに、嫌気をさした市民たちが行動を起こした結果が、米国の民主党のオバマ大統領の誕生であり、同じく日本も2009年9月に誕生した民主党政権です。
 
 ヨーロッパでも労働党の政権が多く存在しているのは、行きすぎた資本主義をけん制しようとする動きであると思います。ただこの動きは、個人レベルで考えると個人の自由と本来つながっているのですが、ここを市民レベルで改めようとする動きはあまり見当たりません。






本日の学び
本話の要約
 意識・精神の起源をいくだんにもはるかにたどっていけば、生物以前の無機質のもつ相互関連性にゆきつく。
 相互に関連し合う二つの事物の一方には、他方の事物の運動の影響があらわれている。
 いわば無機物質が他の無機物質の状態を映し出している。これを無機物質の反応性という。
 無機物質の反映性を地球の公転、地震計とコンピュータの例から取り出してみよう。

 
 地震は、地殻の運動の一側面である。これに対して、地震計の波形はグラフ用紙の上に描かれたもので、用紙の上に適当におかれたインクの微粒子の集合体のあり方であって、この意味では集合体自身の存在様式の一側面であるとみることができよう。

 このように、両者は、いずれもそれぞれ互いにまったく異なる物質の側面である。地殻の震動そのものとインクで描かれた波形自身とは、物質としてもまた物質の運動状態としても直接の共通点はなんらもたないと考えるべきである。

 しかしながら、いままでのべてきたように、地震計上のグラフを見ればわかるように、両者は互いにけっして無関係ではない。
 実際、グラフ用紙上の波形は地殻の震動の変化に応じてきまってくる。ということは、波形は、地殻の震動を反映しているということができよう。

 




 さてここで、コンピュータを用いて一つの装置を組み立ててみよう。
 この装置は、寒暖計と時計とコンピュータを結んだもので、一時間ごとに気温が磁気テープ上に記録されるようになっているとする。
 気温は地上の気象状態をあらわすものであって、いわば地球の状態に関するものである。
 これにたいして磁気テープは、地球という物質とまったく異なる物質であって、その上の記録は磁気的状態であって、物理的には関係のない物質的状態である。

 しかしながら、これに応じて磁気テープ上の磁化状態が変化する。この点は、先にのべた地球の震動と地震計の関係とまったく同じであって、磁気テープ上の磁気的状態は地上の気温を反映している。つまり、気象という状態と磁化という状態とは物理的にみるとほとんど関係がないが、情報的には密接な関係をもっているといえよう。


 「生きている」という存在様式
 
 コンピュータは、その動きのはじめから終わりにいたるまで、あらかじめ指示されたとおりに作動することを述べてきたわけだが、この点は、生物とまったく異なっている。
 生物の個体は、すべてそれ自身独立して存在するものである。

 生物のなかには、植物もあれば動物もある。動物のなかにも珊瑚や海綿のように、一見生きているのかいないのかわからないようなものから人間などの霊長類まで、多種多様なものがふくまれている。
 しかしながら、よく調べてみると、これら動物や植物も、全部細胞という生きている小さな単位の集まりであって、生物の個体のおのおのは、個体をつくる個々の細胞自身も細胞の集まりとしての個体全体としても、活発なあり方、存在様式を示している。
 




 「生きている」という存在様式の特徴を取り出すことはたいへんむずかしいことである。
 生物はたえず外から物質をとり入れ、これを体内で変化させ、多くの必要な物質を合成し、また不要になったものを分解して体外に排出している。
 このはたらきを新陳代謝と呼んでいる。また生物はそのあり方の本来の姿として個体から個体を生む。つまり増殖する。
 そして、このことと不可分のこととして生物の各個体には誕生と死という事実が存在する。


 人間はこの生きている存在としての生物の頂点にある。
 その人間のはたらきの本質的な部分に意識のはたらきがある。意識のはたらき、すなわち、感情、意思、知識などに関する活動をふくむ人間の心のはたらき全体は、まことに人間に特有のものである。
 しかしながら、この特有のはたらきも人間にいたって突然にあらわれたものではない。
 細胞一個の生物から人間にいたる各段階の生物が、その生物全体の進化に応じて、環境に対する反応の仕方、すなわち外界から刺激をうけ、これに反応するその仕方を進化させてきたのである。
 その進化の頂点として人間の意識があらわれてきた。

 

 物質は互いに絶えず相互に作用をおよぼしあっている。
 この反映性はつねに不完全で偶発的である。
 しかしながら、もし適当な装置を組み立てれば、これらの不完全な反映性も有用なものとなる。これが地震計やコンピュータであった。
 
 生物の外界にたいする反応性はこれらの物質の相互作用一般に見られる反映性に、生物という立場で「生きている」ことの一面として能動性が加わり、いちじるしく発展して安定化したものであると考えられる。

と筆者は言っています。







 本日の学びもたくさんありました。
 まず、物質同士では、必ず反映性が存在し、お互いに絶えず相互作用を及ぼしているということです。人間が装置さえつくれば、地殻の変動のようなものでも間接的にその動きを正確に知ることができます。

 そして、そこから生物が発生してくるわけですが、生物同士ももちろん反映性があり、それに加え、もっと積極的な反応性が姿を現してきます。
 そして、意識の働きを持った人間へと進化発展していきます。
 人間の進化発展は、やはり自然に存在するあらゆるものから影響をうけ、だんだんに高度にしかも必然的に行われてきたということです。
 
 人間は確実に自然の一部であり、自然から生かされている存在であり、違う言い方をすれば、今のところ地球という大きな自然(宇宙)は、人間を生かすために存在しているといってもいいかもしれません。
 但し、今の地球環境問題などでいわれているように、急激な変化には、人間といえども全員が対応するのは難しいのではないでしょうか。
 
 いま一つは、物質でも相互の影響をうけるのですから、ましてや高度な意識をもった人間同士が存在していて影響を受けないわけがありません。

 ということは、社会をよくしようとするならば、われわれ自身がよい行いをして、他人に知らず知らずに与えている影響をよくするということが重要ですね。
 自分勝手な行動は、厳に慎まなくてはいけません。
 そしてそのことを広く子どもにまで、しつけていく必要があるのではないでしょうか。
 

一寸の虫にも五分の魂―固有の法則について―

2010年08月10日 | 哲学
 7月14日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、6名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第四話「一寸の虫にも五分の魂―固有の法則について―」です。



雑感
 自由の功罪につきまして
 自由というのは、歴史的にみますと、特に西洋では人類が自然、共同体、専制政治、伝統、文化などから自らが自由になるために勝ち取ってきたものだと思いますが、今ここに来て自由の功罪がはっきり見えるようになってきました。

 まず、功のほうですが、科学が発達したおかげで、地震など一部を除いて自然からの驚異に生命を脅かされずに、自由に生きられるようになりましたし、共同体からの束縛も自由の名のもとに解放されてきました。
 そして、なによりも自由がもたらしたのが、自由な発想やアイデアで世の中が進化したということです。
 
 われわれが、物資的に恩恵を受けているのはこの自由のおかげだと思います。したがって、世の中を進化・発展させようと思えば自由を制限しないほうがいいと思います。


 次に、自由の罪のほうですが、個人の自由を進展させますと、概して秩序が乱れてしまします。
 世界をみましても各国の思惑が揃わず、人類全体が危機であることも知りつつ、温暖化だけでなく、生物種絶滅、食糧、水、資源など地球規模での問題は、解決しそうにはありません。
 国も自由になるために地球環境より経済優先が自由主義、民主主義の世の中ではあたりまえに、まかり通っています。
 国内を見ましても、組織、共同体、家族などは、個人の自由があまりにも尊重(強調)され、よい意味での自由(人のために尽くす自由、公共のために奉仕する自由)ではなく、完全に個人の欲望(物質的利害)、すなわちわがままかってが、さも当たり前のようにまかり通る時代になってきました。
 教育も、進歩主義、非管理主義というイデオロギーのもと、基礎学力や公共の福祉に貢献することはほとんど、教えられずに社会人になっていきます。自分が幸せに生きる権利があり、自分は、だれからも束縛されない自由の身であると考えているようです。

 それもいいのですが、他人のことや全体(公共)のことはあまり教えられていないので、秩序が保たれるわけがありません。
 歴史的に見ても、農耕や牧畜を行うようになって人間は一箇所に定住できるようになり、そこから社会生まれ、社会が成熟(貧富の差ができる)し、人口も増えてくるとそこには必然的に、社会の秩序を維持するために宗教というものが生まれてきました。
 社会においては、秩序維持(価値観の共有化)ということが、非常に大切な概念なのですが、これが、自由によって破壊されたといっても過言ではありません。
 しかし、われわれ人間は、頭脳と意識と精神をもっていますので、自由と秩序を同時に成り立たせることも不可能ではありません。
 

 これからの世の中は、最大自由と最大秩序を目指すというのも、一つのビジョンとして掲げることができます。
 



 
 本日の学び
 本話の要約
 
 外界に存在する物質は、種々さまざまの姿形をとって存在している。これを客観的実在という。
 これらの客観的実在はいずれもそれぞれ固有の法則にしたがって運動している。
 客観的実在の固有の法則とその実際の運動、すなわち現実の運動との関係は、世界を深く認識する上できわめて大切なことである。
 
 固有の存在様式をもっているのは、石や鳥などの自然物だけではない。社会を構成するもろもろの単位、町や市、学校からクラブや政党などのいろいろな組織にいたるまで、すべて固有の存在様式をもっている。
 

 
 
 たとえば、サークルの活動が予期したようにのびていかないとき、そのサークルの固有の動き方をあらかじめあきらかにしようとはしないで、自分たちの思うようにむりに動かそうとする場合がないではない。
 この場合、たとえ意識しないとしても、そのサークルが固有の法則をもつ客観的実在であることを忘れて、主観によってサークルの存在様式、すなわちサークルのあり方を定めることができると錯覚しているのである。サークル運動ばかりではない。
 一国の経済もまたそうである。
 社会の固有の動き方からはずれた指令は何の効果ももたらさない。
 「物質が現実にとっている状態は、その固有の法則だけではなく、そのうえに、さらにいくつかの条件が付加されてはじめて定まる」
 

 赤ちゃんの成長過程でみてみると、赤ちゃんは最初母乳を必要とした状態にあり、ついで普通の食事を必要とする状態に成長していく。
 これは赤ちゃんの内部的な状態の変化である。母乳がいかにあたえられているか、またどの程度の時期に普通食が与えられるようになったかは、赤ちゃんに対する外的条件である。
 
 外的条件は赤ちゃんの成長度合いに強い影響をあたえることは確かであるが、しかしその影響は赤ちゃんの成長の遅い早いを左右するのにとどまっている。
 赤ちゃんがどのように成長していくか、すなわち最初母乳を必要としている状態から、成長してやがて普通食を必要とするようになるということは、赤ちゃんに特有な性質である。赤ちゃん自身の成長の法則である。

 もし、赤ちゃんが母乳を必要とする状態になったときに十分な母乳があり、普通食を必要とする状態になったとき普通食が準備されていれば、赤ちゃんはすこやかに成長していく。
 この赤ちゃんの成長過程もまた、次のことを私たちに教えてくれる。
 すなわち、事物や現象は、その事物や現象を貫く法則と外的な条件によってその具体的なあり方、現実の形がきまってくるのであると。
 







 
 唯物論的世界観では、物質がそれぞれ固有の法則にしたがって運動しているという見方をとっている。その固有の法則は、豊富な事物・現象をひろくつらぬいている。
 この意味で、世界は本質につらぬかれた現象の世界であるといってよいのであって、事物・現象の具体的な姿がすべて固有の法則だけできまるという運命の機械的決定論(宿命論)の立場に立っているのではない。
 世界の事物・現象のひろい相互関連が外的条件としてはたらいて、本質につらぬかれた豊富な具体的な現実の世界が展開されているのである。
 

 と著者は言っています。

 ここから学ぶべきことは、たいへん多いと思います。
 経営におきかえて考えましても、会社という客観的存在があり、それは固有の法則のもとに動いているということです。
 例えば、会社で活動するときに考えられる固有の法則とは、社会に役立つ商品やサービスを提供すること、利益を出すこと、その中で働く人たちの成熟度や成長度にあわせて組織づくりをすること、その地域の伝統や文化を重んじて地域活動をすることなどです。
 そのほとんどは、内部要因に起因するものです。
 そこに外部要因、新しい商品やサービスを取り入れたり、その会社のステージにあった人材を登用したりしないと、企業経営はうまくいかないということです。
 
 このことは、個人に置き換えても同じことだと思います。
 人間という客観的実在は、内部に固有の法則を有しており、外的要因を適切に取り入れていくと、人生は意外と簡単なのかもしれません。

 
 でも、おかしなことに人は、自分の考えていることとは正反対の行動をしてしまうこともありますので、世の中はおもしろいですね。


観念論と唯物論

2010年08月03日 | 哲学
6月16日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、7名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第三話「観念論と唯物論」です。

雑感
 最近、ある方の講演を聞く機会がありました。
 そのなかで、日本の人口問題について、語っておられました。
 
 日本の人口は、今が約一億二千万人、二〇五〇年には、九千万人と少子高齢化が進むなか、高齢化は医療の発達などによって寿命が伸びていくのでありがたい面もみられます。
 では、なぜ少子化が日本で進むのでしょうか。ということに対してその方は、「結婚しない」ことをあげられ、その理由として家族の価値観が否定された、すなわち、日本人は家族単位の集合体ではなく、一人ひとりの個人の集合体であることを指摘されました。
 引用されたのが、憲法や民法で、憲法の「第三章国民の権利及び義務」の第十条から第四十条までで権利という文字が16回、自由という文字が9回、責任という文字が3回、義務という文字が3回ということで、個人の権利と自由が強調された結果だということです。
 
 民法改正論議でもみられますように、嫡子と非嫡子の関係、夫婦別姓、事実婚・法律婚など家族を大事にするよりも個人の自由を尊重した結果、人口が減少している原因となっていると言われていました。
 

 
 私も、人口についてではなかったのですが、以前に秩序の乱れの原因として、思想、良心、信教、集会、結社、言論、出版、居住、移転、職業選択などの自由が認められていますが、そこには「公共の福祉」を言う文字が4回出てきて、「公共の福祉(みんなの幸せ)に反しない限り、自由ですよ」というのがほとんどの国民に浸透といいますか、あまり意識されていないのではないかと指摘しました。

 確かに、この憲法の精神が個人の自由や権利を重視するのは、歴史的背景からは十分に理解できますが、現代はそれが行き過ぎて弊害のほうが出始めているということです。
 地球環境問題を考える上でも、その視点なしでは根本的な施策はでてきません。
 
 
 要約しますと、個人の自由と権利の意識から義務と責任、そして個人から公共(みんな)のことを重視すると家族の絆が強くなり、子ども中心の、すなわち自分が楽しむことより子どもを育てるのが当たり前の社会となり、人口も増え、共同体を大事にするということで公共心も養われ、秩序だった若い社会が実現し、われわれ庶民に活気が満ち溢れ、暮らしやすい社会になるということです。









本日の学び
 本話の要約
 世界観には二つあり、一つは観念論で、もう一つは唯物論である。これらはそれぞれどのような世界観であるかが、第三話の目的です。
 
 私たちの精神と外界をふくんだ世界全体にたいする見方を世界観という。
 世界観とは、自然、社会および人間の精神活動など全体に対する見解である。
 
 世界観に関して、最も重要な問題は、物質と精神との関係にかんする問題、存在と意識との関係に関する問題であることがわかる。
 そして、この問題に対する態度によって、いいかえれば外界すなわち物質から独立した精神の存在を認めるかどうかを巡って、哲学は二つの陣営に分裂してきた。
 
 正しい世界観とは、自然、社会、認識という世界全体に関するさまざまな問題に対して、納得のいく説明をあたえるものでなければならない。



 精神の誕生について
 さて私は母親の胎内に宿りはじめ、やがてこの世にうぶ声をあげた。
 そのとき、私は物を見ることも音を聞くこともできなかった。私の精神はまだ生まれていなかった。

 「そんなことはない。赤ちゃんは最初から精神を持っているのだ」と考える人もあるかもしれない。それなら話をもう一〇ケ月さかのぼってもよい。
 そのときまでさかのぼれば、私はまだこの世に、ほんのかけらも存在していなかったから、私の精神もまたこの世に存在していない。
 私が体内で成長し、やがてこの世に生まれて成長するにつれていつしか私の体には精神が宿りはじめたのである。
 





 この私の成長を私の両親はじっと見守っていてくれた。私のからだが日一日と大きくなり、やがて物を見分け、話すことばを聞き分けるようになって、しだいに私のなかに精神が形づくられていった。
 
 このように、精神の発生と発達は、一人ひとりの人間の成長をとおして見ることができるが、ここでもう少し視野をひろげて考えてみよう。
 
 この地球は、宇宙が誕生してから約四五億年くらい経過している。
 いまから三五億年前には、すでにラン藻の類が存在していた。長い時間が経過して、生物はしだいに進化し、高等動物があらわれ、ついに人類の出現となった。
 この進化の過程のなかでしだいに精神がこの地上に生まれてきたのである。当初、荒涼とした自然があって、やがて精神のもつ生物があらわれてきた。これが事実である。当初はあなたや私を構成することになる原子や分子である。
 
 この事実は、つぎのことを示している。すなわち精神が自然の本源ではなく、自然の方が本源的であって、精神は自然のなかから生まれてくるものである。
 この意味で精神は物質の産物であるといわなければならない。精神は物質とたいへん異なるものである。
 この異質な精神が自然の発展のある段階で生成したのである。






と本話にはあります。
 精神について日頃あまり考えることは少ないですが、精神が物質から生まれてきたという解釈です。
 確かにこのような説明を受けるとそう考えるのが妥当だと思いますが、一三七億年前に宇宙が誕生して以来、宇宙は変化しつづけていますが、これの原因はなんでしょうか?
 精神的な作用の存在は考えられないでしょうか?
 素粒子から宇宙が誕生したとするとやはり物質がさきなのでしょうか?
 しかし、素粒子の存在はある範囲でしか特定できない、すなわち、素粒子がまるで意識を有しているかのような存在と見ることもできるのではないでしょうか。
 そうすると、宇宙誕生と同時に物質と精神が同時に存在していたということも言えるのではないでしょうか。
 このときの精神はたいへん未発達ではありますが、物質の変化とともにそれにあわせて精神も著しく発展して太陽の動きや地球の動きを制御できるようになったのではないでしょうか。そして宇宙意思や精神を生物である私たちが引き継いだのではないでしょうか。
 そう考えると唯物論か観念論かという議論も無駄なものかもしれません。
 もともとが同質のものであるという考え方もでてきて不思議ではない気がします。最近では、人間の精神が物質に直接作用することや、念じれば、物質や社会がかわるということもよく目にしますが、このように考えると矛盾がなくなるように思います。
 
 ただこの世の中は、たいへん面白くて、ある考えを思い浮かべるとその瞬間に正反対の考えがどこかで発生しているのが真実のような気がします。
 物質にも正物質と反物質があるように。
 
 この考え方は、あくまで私のあまり根拠のない推論であり、空想でありますので、皆様方に解釈はゆだねます。






時間について

2010年05月23日 | 哲学
 5月19日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第二話「時間について」です。

雑感
 なぜ、今、私たちは学ばないといけないのでしょうか?

 前にも申しましたように、戦後の日本は、経済的にも社会的にも国際的にも非常にうまくいっていました。
 「うまくいっている」ということは、秩序だっていたということです。
 経済的には、極東の小さな国が敗戦後たった30年から40年ぐらいで、GDPで世界第2位なりました。
 これは、すごいことです。そのおかげで、所得は伸び、車や家電製品、住宅などを手に入れることができ、物質的には本当に豊かになりました。
 そして、特筆すべきは、1億層中流といわれるぐらい全員が豊かになったことです。これは、今の中国を見ればわかりますね。全員が同時に豊かにはなっていません。アメリカを見てもそうですね。全員が豊かになっているとはとても言いがたいですね。


 それと幸福感をもたらす家庭、職業、教育、この三つのどれをとってもうまくいっていました。
 家庭では、夫はサラリーマン、妻は主婦という形が定着し、そして核家族化が進行し、年寄りからの制約にとらわれずに家族が仲良く暮らすことができました。また、主婦にとっては毎日の時間の多くを使わなければいけない、掃除や洗濯、料理といったことが、家電製品の普及により著しく軽減されました。家電製品といえば、エアコンなども普及し、日本の夏を克服して一年中快適に過ごせるようになりました。
 さらに、車も普及することによって、家族でいろんなところへ出かけられるようになりました。レジャーということが当たり前になってきました。レジャーといえば、海外旅行なども、豊かさとともに一気に増えました。
 
 職業では、人口が増え、経済が成長していましたので、誰でも簡単に職を見つけることができ、常に人手不足が社会問題になっていたくらいです。昭和30年代には、中学生や高校生は、金の卵と呼ばれ、地方都市から集団就職しなければならないほど、都市圏では、人手不足でした。
 それと、日本の労働の特徴である、年功序列、終身雇用、企業内組合、企業内福利など企業のしくみと、国の年金制度により、労働者は一生、安心して暮らしていけるようになっていました。

 さて、教育ですが、社会全体がアメリカに追いつけ、追いこせで、もともと真面目で、勤勉な国民が、儒教思想を背景に、自分というものを極力抑えながら、会社で必死に働きました。
 そのハングリーさと教育の均一性に特徴があり、高品質なものを、生産性を向上させながら大量生産することにおいては、世界一でした。
 小学校での均質な知識、中学校を卒業すれば工場の工員として給料は少ないが一生コツコツやっていける。高校を卒業すれば、ブルーカラー(工場で働く)で中堅までいけて十分な生活が送れる。大学を出れば、現場できつい、きたない、きけんなどではなく、頭を使う仕事、すなわちホワイトカラーになれるということで、余暇を楽しみながら高い給料を得られるような教育システムができあがった。
 ですから、よい大学へ子供を入れて、大企業に就職し、一生が安心して暮らせるように、教育ママという言葉が出現し、世界でも教育熱心な国でした。

 ところが、今は、そうではないですね。一流の大学を卒業したからといって、必ずしも自分の希望するところに就職できるわけでもありませんし、一流企業といわれているところでも安定していません。
 そして教育といっても世界のグローバル企業で通用するには、能力だけではなく、考え方まで変えてしまわなければなりません。欧米型の企業では、日本で言っている人間性、すなわち、なさけややさしさ、思いやりなどは、ビジネスの世界では通用しないでしょう。
 実際にあった話なのですが、京大や東大を卒業して2008年4月にリーマンブラザーズに就職して、その半年後に、自動的に野村證券の社員となり、その後は退職というのもレアケースではありません。



 という具合に、今は、今までの常識が通用しなくなってしまいました。それでは、どのようにしたらいいでしょうか?
 今までは、国まかせ、親まかせ、会社まかせ、他人まかせで自分の身を他にゆだねていたらよかったのですが、今は、自分自身が学ばないと生きていけないということです。
 次回以降に、なにを学んだらよいのか、どのようにして学んだらよいのか、どのような人生をおくればよいのかなどを考えていきましょう。




本日の学び
 本話の要約

 時間の本性を探ることが、第二話の目的です。時間というのは、目に見えませんから心の働きというべきなのか、それとも科学的、合法則的に存在が証明できるものなのか。著者は、唯物論の立場に立っているので、当然、合法則的なものであることを証明します。
 
 時間というものの本質は、全物質の運動の統一性にある。ということです。
 時間は、時計で測ります。デジタル時計には、薄い水晶板(クォーツ)が入っていて、きわめて速く規則正しく振動しています。昔の柱時計であれば振り子が規則正しく往復運動をおこなっています。
 そこで、水晶板の振動や振子の運動の規則正しさはなにによって保障されているのでしょうか。そして次に、その原理を応用した時計でたとえば、日食を予測できて、そのとおりに日食になったとすれば、水晶板や振子の運動が、天体の運動と対応しているということができます。



 地球は太陽の周りを回り、生物は成長し進化し、私たちは物を考える。
 これら個々の現象はそれぞれに合法則的です。そのうえに自然をはじめ世界の現象は互いに、密接に関係している。その結果として物質の運動の統一性があらわれる。ということです。

 そこでもう一つ。時間の概念というものは、合法則的であって絶対的なものとして受け取ってしまいがちですが、そうではないのです。
 物質相互間の運動の早さ(相対運動の速さ)によって決まることがわかっています。
 そうです、アインシュタインの相対性理論です。
 物質相互間の速さが光の速さに近くなると、その時間の進み方が両方の物質で同じでなくなり、相手方の時間の進行がおそくなる。ということは、物質の運動の対応性という全物質の運動の仕方にあるのであって、この意味で時間もまた認識の対象であることがいっそうあきらかになってきた。
 ということで、認識の対象ということは、存在が客観的であり、実在的であるということです。



 
 今回の学びは、時間という概念が全物質の運動の統一性にあるということです。この考え方に私は、大変感銘を受けました。
 私は、人間が生活する上においては、時間の概念を用いたほうが、生きていくためには大変有効なので、時間を計る時計を作って生きることをより確かにしたのだと思っていました。
 つまり、人間が、自分たちが生きるために勝手に作ったもので、宇宙のすべてのもの、天体、原子、無機質、植物、動物、人間の運動にすべて共通している概念が時間ということを知り、大変驚いたということです。

 このような発見は、誰が考えても普遍的であり、本質的です。
 私たちが暮らしている宇宙や自然というのは、奥の深いところで秩序だっているということですね。
 人間には、精神の能動性と意識の先行性という二つの特徴があり、それらが自由に活動するので、それが自由に活動すればするほど秩序維持が難しくなってしまします。
 これが、人間の進化だともいえると思います。ということは、進化した人間が形成する社会ではどのようにして秩序維持をしていけばよいのでしょうか。


 その一つは、やはり「理念」だと思います。理念の定義はいろいろありますが、「もっとも自然で、誰もが納得し共有できるもの」というのもその一つです。さきほどの時間の概念に異論を唱える人は少ないと思います。

 そのほかには、人間の理性です。「個」と「全体」の関係をしっかりと把握するということです。個人は、「良心」において自由であり、自分の心すべてにおいて自由ではありません。また、全体の調和を考えるところに自由が存在するということです。この理性を磨くためには、学びを深めなければなりません。考え続けなくてはなりません。
 そしてそれら(学びと考えること)が確立されていくときに、他も尊重するということから真の民主主義が成り立つのだと思います。
 現代経済社会に現れているような自由主義、新自由主義、競争至上主義は、ある一面だけの自由を誇張しています。
 これらは、個人の自由の最大化を前提としていますので、「欲望肥大主義」ともいえるでしょう。
 これらの考え方のもとでは、地球環境の問題や、戦争・紛争などは、解決しようがありません。現時点では当たり前のようになっていますが、国益主義も、そろそろ考えないといけない時期になってきています。




 話が、時間の客観性・合法則性から、秩序に飛びましたが、時間の概念がいかによい社会にしていくかを考えるきっかけとなりました。

アイディアの誕生

2010年05月09日 | 哲学
 4月14日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、新入社員も含めて11名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第一話「アイディアの誕生」です。

雑感
 最近は、世の中に少し閉塞感がありますが、これはなにによるものでしょうか。
 前回、前々回でのべましたように「デフレ」や「自分さえよければ」ということも大きな原因ですが、それと関連して、価値観の多様化とインターネットなどによる情報過多、自由な発言などが、あげられます。
 
 確かにいまは、多様性の共生という言葉が使われますが、経済発展とともに、日本でも村社会から、一人ひとりが孤立しても生きられる社会をつくりあげてきました。
 昔は、経済的に貧しかったことや、お上にたいしてものがいえずに団結していないと不利益をこうむったり、他の集団から利益をまもるためにも隣近所や集落全体で助け合わないといけない時代でもありました。
 戦後、経済的に裕福になるにつれ、集団でくらすことの不利益さが徐々に減り、集団での規律や縛りのほうが自由を阻害する要因として感じられ、村社会を飛びだし、お金の稼げる都会へと人は向かいました。
 
 ところがいまはどうでしょうか?最初に言いましたように、今度は、あまりにも秩序規準である、価値観が多様化し、特に善悪の考え方があまりにもちがうため、集団で行動する必要がある、会社、学校などでは、組織運営が非常に難しくなっています。政治の世界も同じです。一人ひとり意見が違い、一人ひとりが自分中心の意見を出し合うとばらばらになってしまい、ものごとがなかなか決まらない、ということになります。各意見を調整していると莫大な時間を消費してしまいます。
 目的を達成するのに使う労力よりも、各人の意見を調整するだけではるかに大きな労力をそこで使い、あげくのはて何も創造しないという状況が生まれています。いまの政治がそのようにみえます。

 昔は、長老とか、知恵者とか実力者とかリーダーシップを発揮するものがいて、そのものが決めたことには、違う意見があろうと、その決定にしたがうという暗黙のルールがありました。
 
 
 というようなわけで、現代は閉塞感というか、ものごとが思うように進まないという状況にあるといえます。







 

 そこで、現代に生きるわれわれに必要なことは、コミュニケーション力といってしまえば簡単ですが、その前提として「ビジョンを描くこと」「場のエネルギーをあげること」「人にわかりやすく話すこと」「常に前向きに考えること」「謙虚に自分を制御すること」「他のものに感謝すること」などが挙げられます。
 
 
 時代は変わりました。私自身も世の中に適合するように変えなければいけません。
 と思う今日この頃です。









本日の学び
 ここでは、思いつきやアイディアなどの精神作用が生まれるのは、突然なので法則性などないように思われますが、これさえも合法則的すなわち理屈に合ったものだということをいおうとしています。


 著書より、引用します。
「発見、創造、新しいことを思いつくこと、これを意義づけることが人のもついちじるしい特徴である。

 新しいことを思いつくことは、人間の精神活動のなかの中心的なはたらきである。

 人間の精神活動は、実にすばらしいものであって、そのはたらきをみたとき、これが神秘
的なほどみごとなものだと感じるのもまことに自然なことである。
 だからといって、人間の精神の本質を、偶然的で神秘的なもの、人間の力のおよばない、なにか別の力で定められたものであるときめてしまうのは飛躍しすぎる話である。

 妙案を思いつくとき
 仕事についてよく知っており、また仕事のうえで新しく工夫をこらすべき点がはっきりしている場合には、精神を集中することによってよい考えを思いつくことが少なくない。ひととおり知識があり、工夫を加えるべき点が明確で、かつ精神を集中する、これらのことが新しい工夫を思いつくための条件である。

 課題意識にかんする一般的知識を持ち、しかも課題意識をもちつづけていたときには、遅かれ早かれ、必ずアイディアを思いつき、工夫をこらし、物事を処理していくことが可能になる。
 [一般知識のもとにおかれた課題意識はかならずアイディアを生成する]――これは人間の思考にたいする一つの認識である。
 でも、いつアイディアがでてくるかわからない。アイディア生成のように合法則的過程が具体的な形で現実に進行するときにはいつも偶然性をともなっている。

 まず、情報は食べ物のように記憶室にたくわえられる。
次に、断片的な情報・知識が、課題意識のもとに多量に集まってくる。それらの情報や知識が、たがいに結びつきあって、まとまった情報・知識、すなわち観念連合をつくる。あたえられた課題に答えうる観念連合が、多くの観念連合のなかからえらびだされる。
 以上の過程は、全部無意識下でおこなわれるが、このようにして課題に答えたようにみえる観念連合が形成されると、この観念連合は意識の上におし上げられる。こうしてアイディアが形成される。






 哲学の話の最初にアイディアの誕生をとりあげたのは、その誕生過程が神秘的なものではないことを強調するためである。
 いままでのべたことで、まず第一に、アイディアは[一般的知識の前提のもとで課題意識から生まれる]ことがわかった。
 さらに第二として、その生成過程を脳髄のなかのこまかなはたらき方として理解することができた。
 アイディアの誕生のように神秘的にみえるものですら、その本当の姿は合法則的な過程であり、詳細な具体的な多くの課程に裏づけされたものである。

 もしこのような見方が正しいとすれば、この世界の現象のすべてが、アイディアの誕生と同じように合法則的なものであると考えるべきではなかろうか。」




 と著者は述べています。
 まず、ここでの学びは、人間は、問題が生じてそれを解決しようとする場合や、目標や目的を強くもつと、その解決策や目標達成にいたる方法などのアイディアが必ず、生まれてくるということです。
 そこには、偶然性がともない、いつ出てくるかわかりませんが、思いの強さとそれについていろいろと真剣に調べたりすることで、解決策や目標達成が可能になるということです。 私は、自分が経験や学習することから獲得した一般知識だけではなく、生まれたときからの先天的なものやさらに、経験や学習しなくても宇宙や自然のなかに存在するものも含めて、アイディアが生成されると思っています。
 
 だから人は、困難から逃れず、あきらめず、必ず解決策や、新しいアイディアが生まれてくることを信じて、気を張らずに考えつづけるということが一番重要だと思います。
 それといま一つの学びは、いままで自分が経験してこなかったことがらが、目の前に現れてもそれは、突然現れたのではなく、合法則的に、連続性のもとにあらわれてきたものだと考えて、ものごとに対処するというこです。