心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

「恥の文化」はどこへいったのだろう?

2012年04月28日 | 研修
「恥の文化」はどこへいったのだろう?

新入社員と接していて感じることは、「恥じること」に対してほとんど無感覚だということです。

新入社員が、「恥」に対して無感覚というよりも、自分も含めた現代社会全体が無感覚になってきたということでしょうか。

「恥じること」とは、人前で普遍性や客観性に欠けていることをしてしまったときに、自ら恥じて、次は恥をかくまいとして克己心を奮い立たせて人間的向上をはかることと解釈したとします。

・ 試験で悪い点を取ったとき
・ 仕事がきっちりできなかったとき
・ 約束を守れなかったとき
・ 言われたことができなかったとき
・ 就職できなかったとき
・ 自分の目標を達成できなかったとき

今の社会では、失業率が高く働き場がないということが、大きな問題になっています。

しかし、現代社会は、働かなくても食べていける、生きていける世の中になってきています。働き場がないというよりも、働くための理由やモチベーションが希薄になっていることも問題だということもできます。

なぜなら、親が成人したわが子を食べさせるぐらいならそんなに負担にならないし、今まで自分の子どもに好きなようにさせてきたのだから、子どもが努力して就職ができなかったのなら、食事や洗濯ぐらいならそんなに手間がかからないので面倒を見てやろうというのが、背景にあるからだともいえます。

そのような風潮が、就職しないこと、就職してからでも、すぐにやめてしまうことに対して、歯止めが効かない社会状況になっているのではないでしょうか?

この状況は、確実に社会を劣化させていくでしょうし、当の本人たちが幸せを感じられない存在になっているように思います。

われわれの時代は、学校を出てから仕事をしないと、実際に家族が生活できない状況にありましたし、遊んで家にいてゴロゴロしていると近所の人たちや親戚から白い目で見られるし、家人にとっては、家名をけがす「恥」を一番嫌っていたといってもよいでしょう。

地域に根づいて暮らす、ムラ社会の、際立った特徴ともいえるでしょう。

みんな貧乏のときは、身体を使って一生懸命働くというのが常識となっていて、生きていく上でいちばんしてはならないことが、人から後ろ指を指される「恥」をかくことでした。

貧乏だけではありません、儒教思想も大いに「恥」の文化を後押ししていたと思います。

「恥」をかかないために、一生懸命勉強したり、仕事をしていたということもできるでしょう。

すなわち、それが正しかったどうかは別として、何としてでも仕事を一生懸命にして、社会に役立ち、自分の家族を立派に育て上げるという強いモチベーションがあったことは、確かです。

という意味では、いまの時代の若い人は、社会が豊かになったのと、自由の名の下に仕事で努力するということが少なくなってきているので、損だなという気がします。働くということや自立するモチベーションが少ないように思えるのは私だけでしょうか?
このような状態になりますと、人生を生きていく上であまり幸せを感じなくなるので楽なようで、酷な時代であるとも言えるのではないでしょうか?

かたや、グローバル資本主義の申し子のようなお金のために猛烈に勉強したり、仕事をする人がいることも事実です。

そしてお金のためではなく、自分を磨くため、社会に役立つために一生懸命仕事をする人がいることも確かです。

私は、しあわせを感じやすい社会を目指したいと思います。