心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

自然と人間

2010年02月07日 | 哲学
 1月13日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、9名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第二十一話 自然と人間」です。


雑感
 「変化」と「あるがまま」について
 人間はどうして変化しなければならないのでしょうか?

まず、人間は意識をもっていますから変化することも、させることもできます。そのような特質をもっていますので、
①人は今より少しでも良くなろうと努力する、
②じっとしていられない、
③好奇心旺盛で新しいことにどんどんチャレンジしていく、
④新たな刺激を求めないと人間は幸福を感じ取れなくなるなど。


 一方、人間はどうしてあるがままでなければならないのでしょうか?人間は、どんどん良くなろうと努力するのですが行き過ぎたり、情報があまりにも多く心や体がついていかなくなったり、時には他人を傷つけてしまうこともあります。ですから、
①大欲をおさえ、自分自身を守る、
②優劣を気にすると心が不安定なる、
③少欲知足でいまのままで幸せを感じられるようにするなど。
 
 このように、世の中には相反することをうまくコントロールすることが必要ですね。
 
 なぜ、仕事や勉強にがんばらないといけないのかと考えている人、人生ってなにと疑問をもつ人、少し考えてみましょう。







本日の学び
 著述より
「自然は多様でありながら統一した存在である、人間は自然の史的過程の頂点に位置している。このことから人間の役割、史的自然の発達にたいする人間の役割がみちびきだされてくるのである。


 日常身の回りに見出されるものが全て原子・分子のあつまりであることを現在では多くの人が知っている。原子は約1億分の1センチメートルくらいの大きさをもっているから、多くの物は原子が莫大な数集まっていると考えられる。

 原子は、100種類ほど発見されているにすぎないが、物の種類は膨大な数にのぼっている。現在知られている化合物は1000万個をこえ、毎週200個以上の新しい化合物が合成されている。

 生体物質であるタンパク質は、20種類のアミノ酸がつらなったものである。アミノ酸の分子自身は数十個の原子からできている。これらのアミノ酸が約60個つらなると、大宇宙の陽子や中性子の総数に匹敵するほどの異なる種類のタンパク質をつくることができる。


 パチンコの玉の運動法則と原子の運動法則とはまったくことなったものである。前者はニュートンの運動法則、あるいは古典的法則と呼ばれるものであり、後者は、量子力学と呼ばれるものである。

 原子・分子やパチンコの玉がそれぞれ異なる性質を持っているとしても、両者はけっして互いに無関係なのではない。
原子の集まりが分子をつくり、分子の集まりがパチンコの玉をつくる。
すなわち、原子という質を持つ物質が量的に変化(増加)することによって分子という質が生成する。さらに分子が量的に変化(個数の増加)することにより、古典的法則にしたがうという、たとえばパチンコの玉といったような新しい質が生成する。







 パチンコの玉などのように古典的運動法則にしたがう物質を巨視的物質と呼ぶことにしよう。

その巨視的物質がさらに量が増大したとき、天体は新しい質が生成される。
このとき天体はみずから原子エネルギーを放出する。太陽や多くの星がその例である。
すなわち、天体の内部で発生する熱の約半分が大きな天体では外部に放出されないで蓄積されていき、ついには原子が分解して原子核と原子核の間の衝突(核反応)が生じ、これとともに新しい原子核、すなわち新しい元素が生成する。このとき、天体は自ら核反応をおこない、元素を生成し、絶え間なくエネルギーを放出して
変化していく。これが天体に特有な新しい質である。この天体は、やがて最後の段階に達して爆発、凝縮化の過程を経て、宇宙にまた新しく天体の生成過程がはじまる。





 この大きな方向とは反対に、ちいさな方向においても自然の研究はおしすすめられている。
原子の中心には1兆分の1センチメートルの大きさの原子核があり、そのまわりを電子が運動している。
原子核は、中性子、陽子すなわち核子と中間子からできている。かつては原子核が物質の究極的な単位を考えられていたことがあったが、やがて電子や核子、中間子などの粒子が自然を構成するより基礎的な粒子とみなされてきた。
これらの粒子を一括して素粒子と呼んでいる。



 さて、素粒子はけっして自然を構成する最終的な単位ではない。
最終単位とする見方はいままで回をかさねて述べてきた弁証法的唯物論にそった見方ではない。
なぜならば、この見地では、1個の素粒子もまた物質のひとつの運動形態であって、素粒子としての運動は素粒子の内部矛盾にもとづいて生じているはずである。

事実1970年以降、素粒子の研究が一段と進んできた。その結果、自然を構成する素粒子はクォークとレプトンという二つの族であることがわかってきた。陽子や中性子をつくっているのがクォークであり、電子やニュートリノはレプトンに属する。
さらにこれら素粒子と素粒子間の相互作用を統一的にとらえることがしだいにできるようになってきた。






 中性子・陽子は互いによく似た粒子であってまとめて核子と総称する。
核子の間には強い力がはたらいている。これを核力という。さてこの核力は他の電気的な力とくらべるとたいへん強い。たしかにそのとおりであるが、別の意味では核力はけっして強いとはいえない。
その理由は簡単で、もしこの核力がかりにもう少し弱いと仮定すれば、原子核は一つにまとまっていることができず、個々の核子に分かれてばらばらになってしまう。

つまり核力は原子核を形成できるぎりぎりの大きさになっている。
もしこの自然のなかで原子核が構成されなければ、当然のことであるが原子や分子もつくられることがなく、この多彩な自然はけっして実現されなかったであろう。この核力の大きさは、核子の内部構造や核力の原因となっている中間子の性質からきまるものである。

一方これら核子や中間子の性質はもっと深いいっそう基礎的な自然の法則から定まるものであって、けっして原子核を結合させることができるようにこのことを目的としてこれらの性質が決まっているのではない。
現在の核子や中間子の性質はいっそう深い自然法則の結果であって、結果として生じた現実の核子と中間子が原子核を構成することができるのは、いわば一種の偶然のことであるとういうことができよう。


 ここで強調したいことは、素粒子以下から天体にいたる物質の系列がただなんとなく、かつなんの障害にもあわずつくられていったのではないということである。

適当な素粒子が適当な大きさの相互作用をおよぼしあっていたのでは、日々目のあたりに見る自然はとうてい形成されることがなかったであろう。この経過は、偶然性と必然性がたがいに媒介しあって展開されていった生物の進化を思わせる。





 さて、素粒子から銀河にいたる自然の質の系列は、自然の弁証法的構造を良く示している。しかしながら、自然にはこのほかに重要な質が存在する。
それは生物である。
今まで述べてきた自然のなかのどの質とも異なるものである。
生物は無生物に比べてきわめて高い運動性、すなわち多様な反応性に富んでいる。

しかも、その反応性が個体から固体へと継承されている。
この意味で高度の反応性はまことに安定である。さてこの生物は、素粒子からはじまる質の系列、すなわち自然の類層的構造にたいしてどのような位置を占めているのであろうか。
生物は高度に発展した物質系ではあるが、原子の集合であることも確かである。
なぜならば、生物は原子の中心にある原子核を破壊し原子核の反応を利用するような体制はとってはいない。
放射線を放出する原子核の性質、すなわち放射能を積極的に利用する生物は見出されていない。
したがって生物は原子という質の上に発展した原子の集合としての物資系であるとみなすべきであろう。



 ところで生物は、巨視的物質とは異なる質、生きているという質をもつものである。このため、生物を自然の類層的構造の中に位置づけようとすれば、原子の集合という意味で原子・分子の質から出発するとともに、巨視的物質と異なる位置におかなければならない。そこで生物を原子・分子から派生した別の系列である二次系列として位置づけることができよう。
これに対して、素粒子から宇宙にいたる系列を主系列と呼ぶことにする。

 

 次に人間などの知性体が二次系列とは異なる系列として示されている。
ここでいう知性体とは、人のように高い知的活動をおこなう存在全体を意味している。
全宇宙には、地球上の人類と等しい、あるいはそれ以上の知的活動を行っているものが存在していると考え、それらと地球の人類を総称してよんだものである。
著者は、高い知的活動が生きていることと生きていないこととのちがいほど大きいことではないかと考えている。高い知的活動が、外界からの情報を意味づけて認識体系を形成させ、目的をもつことを可能にし、かつ人の活動の結果が極めて広い範囲に及ぶことを可能にすることにもとづいている。

いまひとつは、人がまだ高い知的活動をおこなっていない間の人口数が、野生哺乳動物と大差なかったということである。
その数にたいして現在の人口数は一万倍から一○万倍の大きさである。この数が人の高い知的活動の所産であることには異論をはさむ余地がない。

また、先に哺乳動物のエネルギー転換の割合が、太陽のそれの一○万倍であることを注意していた。さきにあげた数字とこの数字の思いがけない一致は、知性体が新しい系列を生成しているという見地の、一つの証になっているだろう。




 
 さて、いまから一○○億年くらい以前にこの宇宙と宇宙に含まれている全物質が生成したのではないかという見方は、現在広く受け入れられているといってよい。

 弁証法的唯物論では、物質が客観的に存在していて、絶えまない運動状態にあるという見方をとっている。同じことであるが、物質は消滅することもなければ新たに生成することもない、ただその運動形態、あるいはその存在様式が絶えず変化しているのだと表現してもよい。一○○億年前に宇宙が爆発的に生成し、物質が生成したという考え方は、前述した物質の運動形態の変化としてとらえていない。


 物質の状態が有限なこなたにあるのか、または無限のかなたにあるのかを見定めるのは、この状態を表現している表示が有限か無限ではない。
それは問題としている状態が現在の私たちの手のとどく状態から到達できるか否かできまることである。例えば絶対零度の状態は到達可能ではない。
したがってこの状態は無限のかなたにある。宇宙のはじまりについては今のところ何もいえない。
それ以前のことについては物理的理論の適用可能性の問題もあり、また、宇宙のはじまりと考えている状態が到達可能か否かという点もまた今後の問題である。



 いまのべたように、一○○億年前の自然では、物質、中性子、陽子(核子)以前の形態、すなわち非核子的形態をとっていたのであって、この形態から一○○億年よりも以前かまたはそのころに物質の核子的形態が生じ、さらに原子核、原子、分子等の主系列が生じたのである。
ここまでのべた推論にそえば、こうして自然は核子を基礎においた循環的な世界ではなくて、物質の運動形態のたえざる変化発展がおりなす非循環的な世界となる。
すなわち弁証法的唯物論の立場に立った世界観とは、自然を歴史的にみる世界観であるということができる。


 自然ははるか以前、一○○億年以上も前に、それまできわめて長くつづいてきた非核子的状態ののちに核子を生成するにいたった。
これは自然の飛躍的な発展であった。やがて、自然には第二の飛躍的発展のときが到来する。それが宇宙的規模における生物の発生である。このような過程を経て、いまや自然にまったく新しい質が生まれるにいたった。これこそが意識を持つ存在としての人間である。このような意味で、自然は史的発展をとげつづけてきたのであって、意識をもった存在としての人間は、その史的発展の頂点に位置しているのである。



 今後の発展を特徴づけるものは、現在の自然の中にすでに生まれていながら、過去の自然の史的過程には存在しなかったものであるはずである。
いいかえれば、現在までの自然の否定、現在の自然の特徴を否定する積極的なものでなければならない。
これこそ、自然成長的に発展してきた過去の自然にたいする意識的存在としての人間のその活動でなければならない。
いいかえれば、自然を意識的に変革していく人間とその活動こそ、今後の自然の変化発展の主要な特徴を耐えるものである。こうして、自然にたいする実践、自然の意識的改革が、自然の歴史的発展の今後を特徴付けるものとなってくる。



 二次系列の最も発展した段階に生まれた人間は、いまや意識的に自然を整えていくことができる。
その結果、自然には予想もされなかった側鎖の形成が可能となるかもしれない。このような自然の発展にあっては物質のもつかぎりない豊かさが目ざましく花開き、展開していくのではないであろうか。」






長くなりましたが、ここまでが引用文です。




 今回の学びから得たことは、たくさんありました。
大きな物質と小さな物質とでは連続しているにもかかわらず、その運動法則が違っていること。
原子核の中には、陽子や中性子という核子と中間子でぎりぎりの力で無駄がなく原子核が保たれていること。元素は太陽のような天体の中で原子核の反応にもとづいて生成されているが、いまかりに陽子や電子の持っている電気量がごくわずかだけ実際の値よりも大きければ、天体のなかで元素を生成することができないこと。
人類は、自然のなかから生まれてきたのであるが、質の違う三次系列であるということ。
ここに自然に対する人間の役割が示されている。すなわち、人間だけが、この社会や自然を変えられるということです。

これらから推測すると自然のなかで人間が更に発展して第四時系列ともよべる側鎖が発生しても不思議ではないように思われます。
さらに100億年前の自然では、物質、中性子、陽子(核子)以前の形態、すなわち非核子形態をとっていたのであって、この形態から100億年よりも以前かまたはそのころに物質の核子的形態が生じ、さらに原子核、原子、分子等の主系列が生じてきたことを知ったのが、大変な驚きでありました。


 今回、学んできましたように、われわれの世界、あるいは自然は長期にわたり想像もつかないぐらい変化を続けていっているのがわかります。
まさに、現代も、どれくらいの規模、あるいはどのくらいの歴史的スパンなのかは、わかりませんが、世界が今までになく大きな変化をしている時と考えてもまったく不思議ではありません。
そう考えますと今までの価値観がごろっと変わるような気がします。新しい社会や自然に期待と不安でワクワク、ゾクゾクしてきます。