青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

がんばれ磐越東線

2011年03月27日 10時16分02秒 | 雑感、雑記
いわき駅にて、Finepix S100FSで撮影

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 福島第一原発の損傷により、広範囲に被害が出ています。
 実は、いろいろあって一昨年いわきまで行って一人で一泊しているんですが、
 二日目、いわきと郡山を結ぶ磐越東線に乗ったんですね。
 風景がなかなかで、田んぼを突っ切ったり、道なき道をのようなところを、
 ディーゼルカーが勢いよく駆け抜けていくんです。
 一往復しただけなのに、頭に焼き付くとは思いませんでした。

 しかし、それも地震と原発でお預け。
 本数こそ少ないものの地元の足として活躍していた(※車内は混んでいたんですよ)だけに、
 いわきから郡山に抜ける、バイパスにもなりますし、
 出来るなら復活してほしいです。


 陰ながら復活を祈っています。

自分を褒めたほうがよいもうひとつの理由。

2011年03月26日 23時03分43秒 | 青裸々日記。
寒緋桜(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 自己啓発書などを読むと、「自分を褒めるとやり甲斐も出来るし、成長も早い」などと書かれています。
 たしかにそれは、一理ある。
 自分の成長や進み具合がわかればこそ、
 前も見えやすいからです。


 しかし私は、「自分を褒める効用」はもうひとつあると思うんですね。
 それは「他人様に迷惑をかけないため」です。

 往々にして、意気がる人、自分のことをひけらかす人がいるものです。
 自慢したり、あからさまに人を見下したり、
 あるいは自分の世界観や価値観が絶対だと思ったり。
 その度合いが酷いだけ、立ち居振る舞いも鼻に付いてしまうというものです。
 もちろん、多少冗談めかして言っているならまだしも、
 一緒にいて気分が良くなるハズがありません。

 想像しただけで具体例を挙げたくなる位にご立腹の方も、少なからずいらっしゃるでしょう。
 しかし、そんな利己的な人に、何かを言って聞かせようとするのが間違え。
 諭したところで、反発されるのは目に見えています。
 そこで、いくら鼻に付くとは言えど、「人の振り見て我が振り直せ」、
 自分が同じ穴の貉に成り下がってしまわないようにするのが大切です。
 そして、そのために外せないのが「自分を褒める」ということです。


 感情って、一時的に抑えられても、
 いつかは吐き出すしかないんですね。
 たとえば、イライラしていても、その場はなんとか取り繕わなければならないような場面がありますよね。
 必要があればこそ、一応は我慢も出来たりはする。
 しかし、その場面が収まり、自由にして良くなったら、
 さて、その時にこらえた感情を爆発させない人って、一体どれくらいいるでしょうか!?
 …つまり、「誰しもそれなりに、我慢した感情はどこかしらで爆発させている」ものなんですね。

 そこで、です。

 自分をやたら大きく見せようと必死になる人、
 「褒め言葉や愛情とかいったもの」をしきりに求めてくる人、
 こんな人ほど、どこかで自分を褒めたり出来なかった分を、
 自分を許してくれそうな人に甘えて転嫁して、構ってもらおうとしている
のではないか!?という説明が付くと思うんです。


 でもこれって、幼児となんにも変わりませんよね。

 「ママー、お花畑の絵が書けたよー!!」
 「あら綺麗ね、よくがんばって書いたねー、いい子いい子」

 「いや俺なんかさ、普通じゃこなせないことを毎日やってんだよ。俺以外に出来っかよ!!」
 「あら、一生懸命なんですね。尊敬します。素敵な方ですね」

 この両者、どこが違うんでしょうか!?



 大の大人がみっともないことをするのは、
 恥ずかしいばかりか、ハッキリ言って公害です。

 自分の面倒は自分で見る。
 他人にお守り(おもり)をさせない。

 もちろん人間、完璧じゃないと言えど、
 「愛嬌」で済まされる範囲に収めたいものです。

静岡…、また行きたいな

2011年03月26日 18時49分59秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 初めて静岡にお墓参りに行ったのが、去年のこの時期。
 なんだか地震もあったし、ちょっと様子が気になります。
 まあ、海沿いを行くことになるので怖いっちゃあ怖いんですが。


 4月くらい、落ち着いたら行けたらよいな…

やってよかったです

2011年03月26日 07時14分08秒 | 雑感、雑記
モクレン(東京都台東区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 昨日の夜、実は偏頭痛が酷かったんですよ。
 でも、どうしても書きたい話があって、
 一度は断念を考えたものの、やり抜いてよかったです。

 一生懸命に読んでくださる皆さんのことを思うと、
 なんだか申し訳なくって。

 きちんとアイスノンをして寝たので、もう大丈夫です。
 またしっかり書いていきます。

「すいません」で敵ができる!?

2011年03月25日 22時40分59秒 | 青裸々日記。
寒緋桜(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 AC(公共広告機構)のCMで、
 「あいさつは大切です」という「ポポポポーン」で有名なものがあります。
 「なにを当たり前な!」と聞き流してしまいそうですが、
 実はあいさつの一つである「すいません」という言葉、ちょっと気をつけて使ったほうがよいんです。


 たとえば、誰かにちょっとした約束を破られてしまったとします。
 そこで、相手が謝りに来た。
 さて、最後の締めのあいさつは「すいません」か「ありがとう」になるわけですが、
 どちらを使うかで印象がどのように変わるかに着目してみましょう。

 「ご負担をおかけして、すいませんでした」
 「フォローをしていただいて、ありがとうございます」

 違いがおわかりになりますか!?
 「すいません」は「言う側の瑕疵」に焦点を当てた、いわば自分を下に置く言い方です。
 一方、「ありがとう」は「相手がわざわざ自分に力を貸してくれた」という、相手を上に置く言い方になるわけです。

 どちらも「上下関係」は変わりませんが、
 一つだけ大切な点があります。
 それは、「すいません」というのは、貸しを意識させやすい表現になるということ。
 考えてもみて下さい。
 「すいません」を100回言われるのと「ありがとう」を100回言われるのでは、
 実際にどうであるかはともかく、前者のほうが「迷惑をかけられている感じ」がするものです。
 「ありがとう」でもよい場面なのに「すいません」を選んでしまうと、
 意識が「貸し借り」にいきやすいのです。
 「貸し借り」を意識するようなら、関係も険悪になりがち。
 つまり、「すいません」は必要以上に言わないほうが、
 自分を安売りしたり、トラブルに巻き込まれる可能性も低くなる
わけです。


 もちろん、明らかに迷惑をかけること、落ち度が認められること、悪いことをしてしまったら、
 「すいません」とか「ごめんなさい」の一択。
 私が言いたいのは、「「ありがとう」ばかり言う図々しく傲慢な人間になりましょう」ということではないのです。


 ありがたみを感じればこそ、ありがとうを言う。
 申し訳なさを感じればこそ、すいませんと言う。
 しかし、両者は紙一重なのです。
 先にお話ししたように、「すいません」しか言えない場面があるとは言えど、
 どちらもある場合、選ぶのは自分次第なのです。

 どうせなら、幸せになれそうな方を選んでみませんか!?

7,8割の生活

2011年03月25日 19時58分00秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 3次災害とも言える話が広まっています。
 物資や電力、流通の欠損や混乱により、
 仕事が減ったり、お給料も削られたり…という声を耳にします。
 私も御多分にもれず、です。

 まあ、昔は日雇いで食費を月額2万円に収めたことがあるのでそれなりに自信はあるのですが、
 やはり意気がらず、淡々と目の前にあるものに感謝することが大切な気がします。

 案外、こういう考えでいたほうが、
 心は豊かになるのかもしれません。

アスパラと八百屋さん

2011年03月25日 14時41分02秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 私はたまに、アスパラを茹でたものに塩を振って、
 マヨネーズを付けて食べたくなります。
 …で、昨日もそれをやっりたかったので八百屋さんに行ったら、
 「どこどこ産とかあるけど、危ねぇものは一切売らないからo(^-^)o!!」と、
 威勢のよい掛け声で、野菜を売っていたんですね。

 慎重になる気持ちもわかるんですが、
 風評に惑わされて「アレはダメ、コレはダメ」と言っていると、結局取り越し苦労だってするだろうに…と思います。
 無理して危ないものを食べる必要はありませんが、
 産地に過敏に反応するのもおかしいし、
 大体、これまでだって自然界に普通にある放射性物質なんて、ごく微量なら摂取しているんですよね。


 過剰摂取も過剰反応も、どちらもあまり良いものとは言えません。
 こういう時に、情報リテラシー(与えられた情報のうち、取捨選択ができるという考え)が問われるんです。

ぬーぼー…!?

2011年03月24日 18時58分33秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 あるお店の駄菓子コーナーに行ったら、
 練り飴やらきびだんごやら、すももやらが売っていたんですね。
 そこで見つけたのがこの水飴。

 なんかによく似てんなあ…と思ったら、
 あれです、「ぬーぼー」です。
 黄色くておっとりした、今で言う癒し系とか揺るキャラみたいなキャラクターが書いてあるお菓子、
 大人の皆さんはご存知の方もいらっしゃるかな、と。


 まあ、本物は結構違うんですが、
 いろんな意味、微妙に懐かしさを感じた駄菓子のコーナーでした。

「自分を許すのは難しい」の本当の理由。

2011年03月24日 07時48分20秒 | 青裸々日記。
大寒桜(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 「自分のことを許せない」
 「自分に厳しく、人に優しくありたい」
 こんな気持ちでいる人に「至らない自分を許しましょう」と言っても、
 なかなか簡単に受け入れられるものではありません。
 しかし私は、「自分を許しましょう」と、あえてお話ししていたいのです。


 人間がすることがいつも必ず絶対に完全無欠なら、
 なんにも言うことはありません。
 しかし、学校のテストですら、どんな優等生でも必ず満点を取るわけではない。
 私達の日常生活では、学校のテストより難しいものがたくさんあります。
 しかも、正誤のハッキリとしないもの、
 短期的に見るか長期的に見るかで正誤が変わってくるもの、
 さらに言えば正解が複数あるけど、どれも一長一短なもの、
 こういった「どうしても完璧にこなすのが難しいもの」は、
 細々と見ていけば星の数ほどあります
 人間の呼吸ですら、「酸素を吸って二酸化炭素を吐く」と言われていますが、
 現実には「窒素の中にあるわずかな酸素を吸って、上手く取り込めなかった酸素を吐き出している」のです。


 さて、そんな「完璧にはこなせない時間」が24時間×365日続くのですから、
 「自分を許さじ!」という態度でいちいち抵抗していては、身が持ちません
 そもそも人間のすることに「完璧」がないのなら、
 「自分をたくさん責めてもなお、完璧に自分のことを責められているわけではない」と、どこかで気づく必要があります。


 そもそも自分を許すためには、自分が悪いことをしたとか、自分は完璧ではないと知らなければ出来ることではありません
 自分が過失を犯していないと思っていれば、
 自分を許す必要性だって、理解するのは難しいこと。
 「自分を許す」というのは、自分に甘くするとか向上心を捨てるということでは、決してありません。

 ただでさえ完璧にこなせないことが、次から次と続いていく毎日です。
 もちろん、拭いきれない罪悪感だって、
 時と場合によってはあるでしょう。
 責任を負う必要がある場面だって、誰しもある。
 そういったことに対処を求められるなら、「どうしても許せないもの」以外に関しては、
 よい意味で自分に対して無関心でいたほうが、かえって過失の処理をしやすいのです。


 自分の過失に気づけるというのは、大切な資質です。
 そしてまた、その資質が花開くのは「自分を許す大切さ」をおぼろげにでも理解した時だと思うのですが、
 いかがでしょうか!?

傷口に塩は禁物ですよ

2011年03月23日 22時29分31秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 私がよく見ている心理学のサイトでは、
 「災害直後の映像は、ほとぼりがさめるまで見ないほうがよい」と呼びかけています。
 負の記憶が頭にこびりついて、トラウマになりやすいんですって。


 映像を見ないことが、目をそらすことになるわけではありません。
 心を休めることが、向き合うことになることもあるのですから。

「共鳴」という心理。

2011年03月23日 11時51分13秒 | 青裸々日記。
大寒桜(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 機嫌の悪い人と接していて、機嫌のよくなる人はいません。
 機嫌のよい人と接していたほうが、機嫌がよくなる可能性は高い。
 さて、その理由はなんでしょうか!?

 1.相手のオーラに影響されるから
 2.相手の中から悪魔が出てきて、乗り移ったから
 3.こちらの心を刺激するから

 …すいませんね(笑)
 答えは3番目です。
 こちらの感情を刺激するから、これだけです。


 映画で悲しい場面や、あまりにも感動的な場面になると、
 ハンカチで涙を拭う人がたくさん出てきますよね。
 これは心理学で「共鳴」と呼んでいるもので、
 簡単に説明すると、「相手の気持ちを直輸入してしまう」ことなんです。
 言い換えれば、「感情を表現したり、撒き散らす」というのは、
 「あなたもそう思いませんか!?」と言って回る働きもしてしまうことになるのです。

 どんな感情だってそうです。
 不機嫌な人は不機嫌を、
 暗い人は暗さを、
 笑顔の人は笑顔を、
 前向きな人は前向きな姿勢を、
 ひたむきな人はひたむきさを、
 意識しようがしまいが、それぞれ周りにいる人に伝染させているわけです。


 さて、これで注意したい点が2つできました。

 1つは、意識して、他人の感情をシャットダウンすること。
 相手の機嫌が悪かったりふさぎ込んでいても、
 その原因までは知る術もありませんし、
 原因を知っているつもりでも、勝手な思い込みをして取り越し苦労…なんていうことになったら、
 時間や元気を無駄にしてしまうのですから、笑うに笑えません。
 たとえば、相手の機嫌が悪い理由は「左足の小指の先にトゲが刺さっただけ」なのに、
 あれこれと案じた挙げ句、いちいち腫れ物に触るような態度でいたら、
 結果は目に見えていますよね。
 それに、共感せずとも、こちらから元気な態度を見せることで、かえって相手が元気になってくれる場合があるのです。

 …というわけで2つ目は、どうせ感情が撒き散らされるものならば、積極的によい感情を発信すること。
 痩せ我慢をしたり、あるいは自分の暗い気持ちを隠すことはありません。
 しかし、「感情を表現すること」が即座に他人に気持ちをうつしたり輸出したり、反映させてしまうということになるのだとわかれば、
 「感情の出し所」を選ぶようになります。
 影ではどんなな根暗であってもよいのです。
 そのかわり、必要以上に負の感情を出さないこと、
 これだけで、他人も自分も幸せになるのです。


 ところで、冒頭で「オーラ」とか「悪魔」とか書きましたが、
 真偽はともかく、本当はそんな捉え方でも構いません。
 要は、悪い感情はシャットダウンできると知っていれば、
 感情の表現も変わってくるのですから。


 ご機嫌でいたいものです。

男らしくない…!?

2011年03月23日 11時12分50秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 恥ずかしながら、自分のブログを読み直してみることがあります。
 誤字を「補修」するため、痛々し過ぎる投稿を違和感なく直すため、
 そして、自分を回顧するためです。
 自分で言うのもなんですが、忘れた頃に数ヶ月前のブログを見ていると、
 情けなさもあれば、「よくそんなこと思い付いたなあー!」と、自分に感心してしまうこともあります。


 ただ、全体を通してあまり男らしくない…
 もちろん男くさいような感じってハッキリ言って嫌いなのですが、
 一歩間違えたら、弱々しいだけじゃないですか(笑)

 どうなんでしょうね。
 別に何を演じているわけでもないので、素のままで書いていればそれでめでたしめでたしなんですが、
 うーん、日々書いていく中で文章の性格も変わるので、
 気長にやっていきますヾ(*^▽^*)o

MY箸

2011年03月22日 19時50分43秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 物資が不足気味…というコトで、
 1年位ぶりに、MY箸を持ち歩くようになりました。
 相変わらずステンレス製のを使ってます。

 小さなものでも、役に立つならそれに越したことはありませんよね。

ひとつ。

2011年03月22日 17時18分57秒 | 青裸々日記。
大寒桜(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 不安が増える原因のひとつに、「多くを求める」ということがあると思います。

 お気に入りの服は一着だけあれば幸せなのに、
 次から次と買い続けて、結局満足できなかったり。
 一口だけ飲んで味わって「おいしい」と言っていたものを、
 無理矢理がぶ飲みしてむせてしまったり。
 必要以上に飲み物を買い込んで、
 かえって置き場所に困ったり、消化し切れなかったり。


 次から次と求めると、結局切りがありません。
 限度がないから、満足もない
 そんな考え方で、一体いつになったら幸せになれるというのでしょうか!?

 与えられたものに不満をこぼすのは簡単です。
 欠点や足りない点を見るのは、人間の得意技のひとつ。
 成長や進化を考えれば、不満を口にしたくなることもあると思います。

 しかし、どこで満足するか、あるいは一度満足したらそれでおしまいなのか、
 決めるのは自分次第です。
 いったんは満足して、それからまた改善点を考えるような思考があってもよいハズです。
 発展にせよ進化にせよ、しっかりと基盤を作って、それから築いていくのが人間の常です。
 たったひとつでも、手にしているものがあれば、
 まずそれを大切にすることから始めましょう。
 手にしているものがあるのに、やれ質がどうとか、足りない点が多いとか、文句ばかり付けるから、
 いつまでたっても満足できないばかりか、逆に求めることに力を使い過ぎて、無駄に身を削り、滅ぼすことになるのです。


 必要なだけあればいい。
 ひとつさえあれば幸せ。

 こういった目の前にあるものを肯定的に見る習慣こそが、
 与えられたものを最大限に活かし、生産的にものを考えることに繋がるのです。


 質だの保険だのといったものを見る堅実さがあればこそ、
 自分に足りないものを手に入れる考えになりがちです。
 しかし繰り返しになりますが、それにはキリがないことを知りましょう。

 仏教には、「少欲知足」という考え方があります。
 欲が少なければ、満足に至るのも早い。
 だからこそ、「もっと!」という気持ちをほどほどにすればこそ、
 あとは勝手に満足が得られる、という考え方を言ったものです。
 仏教のみならず、これは人間に言える普遍の事実ではないでしょうか!?

ポイント募金で東日本大震災復興支援!