梅の花(東京都武蔵野市)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
誰しも、自分を理解してほしいと思っているものです。
理解してもらうことで得られるものが多いからです。
たとえば、
・親密感
・意思のやり取りのしやすさ
・居心地の良さ
・価値観の共有
・孤独感の解消
…と、「理解してもらうこと」がどれほど魅力的かを思えばこそ、
なにかと人に求めたくなる気持ちが出るのも、無理のない話です。
しかし、です。
「人に自分を理解してもらいたい」というのは自然な気持ちにしても、
それが行き過ぎると、逆に理解し合うのが難しくなってしまうのです。
人間の心は単純でもあり、複雑でもあります。
概して「元気や余裕がなかったり、挫折や喪失をした時」ほど、
心は複雑になってしまうのです。
慣用句に「(心が)千々に乱れる」というものがありますよね。
だいたい単純であれば、立ち直るのに時間がかかったりもしないわけです。
さて、そんな時につい口に出てしまうのが、
「誰も理解してくれない」
「自分のことを1から10までわかってほしい」
という言葉です。
しかし、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。
そんな複雑な状態を一瞬で理解できるのは、神様かせいぜいエスパーぐらい。
相手が神様だったら、「お願いします、私の全てを理解してください」と言っても、
無理な話ではないかもしれません。
しかし、相手は人間なのです。
いかに親しく心が通い合っていても、
相手に乗り移って自分を見ることは出来ません。
言い換えれば、相手なりの目で、こちらを見るだけしか出来ないのです。
そんな相手に、目に見えないハズの「「気持ちや心」をわかってください」だとか言うこと自体、
どこか無謀さをはらんでいると知るべきです。
ましてや、その「心」がグチャグチャとしていたり、繊細な気分になっている時に、
一瞬で全てを理解してもらうなど、狂気の沙汰なのではないでしょうか!?
人間は理解し合うことでいろいろなものを築いていく生き物に違いはありませんが、
自分のことですら全て理解できているかも怪しいのに、
100%、他人を理解するのは不可能なのです。
逆に言えば、「相手を理解できる部分」が少しでもあるというなら、
他人を理解できることの素晴らしさを再認識し、
すすんでその部分を大切にすることが肝要なのです。
「どうせ全てを理解できない、してくれない」。
それはそうとして、自分はどういう考え方をするかです。
まずは「「理解できない」という理解」が必要な人、
皆さんの周りや、皆さん自身の中にはいらっしゃらないでしょうか!?